欧州文化(オペラ、絵画)をこよなく愛する

欧州文化を中心に最近の旅行記、読書などを日記風に書く。
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『隠されたヨーロッパの血の歴史ミケランジェロとメディチ家の裏側」読後感

2017-07-11 15:52:49 | 日記

図書館で発見した『隠されたヨーロッパの血の歴史ミケランジェロとメディチ家の裏側」というタイトルに惹きつけられて思わず借りた。著者の副島隆彦についてあまり知らないが、我々の時代でいう「反体制」の作家だ。
 要約すれば、ルネサンスは文化の潮流を示す「一芸術史」の話のように思われるが、実際はカトリック的秩序を批判する社会・政治運動であるとのこと。
 15世紀早々、オスマントルコの圧力から逃げ出したギリシャ、ローマの研究者や書籍のフィレンツェへの来訪によって、ギリシャ、ローマの文化が再発見され、その理想的主義的人間観に基づいた社会に帰ろうとする動きであったという。これが新プラトン主義である。従って芸術にそういう思想は反映されているが、単なる芸術運動だけではないという。ディオニソス的に生き生きと楽しく暮らすことの価値を認める考え方だという。メディチ家、特にロレンツォはアカデミアを作り、この新プラトン主義を仲間内で、あるいは人々に広めるためにアカデミアを作り啓蒙していった。この新しい価値観はカトリック教会にとって脅威であって、これを徹底して潰そうとしたローマ法王庁によって1500年頃に完全に抹殺したとのこと。この中に当時のフィレンツエの芸術家は参加している。人間礼賛は行き過ぎれば公序良俗に反するような風俗を増やす。その反動として修道層サヴォナローラの神権政治が4年間続く。この過程でメディチ家は力をそがれて行く。そして最終的には人眼礼賛的な価値観を抹殺したと説く。
 カトリックの最大の発明は3世紀頃の「原罪」、人間は生まれながら罪を背負っている、だから一生を通じて神に奉仕することによって,死にあたって罪から解放され天国に行けるという考えである。罪を背負った人間は常にどこか暗い。これがギリシャ的、ローマ的とはまったく逆だという。この原罪から許しを得るために教会があり、聖職者がいるということでこの考えが教会を経済的、心理的に支える最大のバックボーンになっている。
 キリスト教の博愛主義的な考え方は私も好きだし、大聖堂に入ったときの心の安らぎも感じるのでキリスト教にはかなり好感を持っている。ただ「原罪」だけはどうしても理解できない。

 彼の文章は自分の主張を力説するあまりややアジテーションがかってくる。たとえば「美的評論家達が決して云わないこと、芸術の世界を作品の鑑賞としてしかみない」と云う。こういう断言が気になる。
パウロは最後の晩餐に描かれているようにキリストの使徒だが、教会(制度)を造ったペテロはそうではない、これについてカトリックは何も言わない。またマグダラのマリアはキリストの妻だが、妻がいて子孫がいると教会に矛盾が生じるので、もともと娼婦でキリストによって目覚めたものだという。しかしミケランジェロの描くマグダラのマリアは明らかに下品な女性の目覚めた姿ではなく、元来敬虔な女性像である。その点ドナテッロのマリアの彫像は明らかに出自が娼婦である。私自身はドナテッロのこの像はとても力強いものと思っている。副島はドナテッロが教会に阿っていると批判している。
 著作の最後あたりではニーチェの反キリスト主義について語り、識者も含め多くの人が依然としてカトリックの生命線に触れのを避けていると云う。さらには小泉、竹中路線、詰まり新自由主義についても「新たな奴隷制度」と論じるあたりは共感する部分もあるし、もっと冷徹な言い回しを考えても良いかと思う。全般を通じて陰謀論のきらいがあり、確かにそう言う一面があるにしてもその主張が強すぎてやや鼻じらむ。
 ただルネサンスが芸術復興とだけとらえず広く社会復興の動きの要素もあったことは彼の云うとおりカモ知れない。

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