水島宏明ブログ

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2013年12月31日 18時57分55秒 | テレビニュース


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(2013年12月31日)



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なぜ日本テレビで“不適切な取材”が次々に続出するのか?

2013年08月08日 09時38分57秒 | テレビニュース
7月19日(金)の日本テレビ『スッキリ!!』は、静岡県での豪雨や広島県の少女の遺体遺棄事件、インドの小学校給食での集団食中毒死事件を伝えた後、CMの後、突然、出演者4人が立ったまま、カメラに向かって立っていた。

番組開始から50分以上経過していた。

司会の加藤浩次が「番組からお詫びと訂正があります」と切り出した後、日本テレビの森圭一アナウンサーが以下のようなコメントをした。

『スッキリ!!』が去年2回にわたって特集したインターネットによる詐欺事件の特集で「被害者として紹介した方のうち2人が実際には被害者ではなかったことが分かりました」という。番組は去年2月29日、女性をターゲットにした新たな出会い系サイトを使った詐欺被害について特集した。その中で「実際にお金を支払ってしまった女性」として顔を隠した女性が「200万円くらいだまされて支払った」と証言した。番組内で千葉県に住む28歳の女性だと紹介されていた。しかし、この女性は詐欺被害の相談を受けている弁護士として特集に登場した奥野剛弁護士の知り合いに過ぎず、被害者ではなかったという。

さらに去年6月1日、芸能人になりすましたサクラサイト詐欺の被害や手口を放送。400万円ほどの被害に遭ったという男性が顔を隠して登場した。この男性も奥野弁護士が日本テレビに紹介したが、被害者ではなく、奥野弁護士が頼んだ人物だったという。

森アナ

「番組では奥野弁護士から被害者として紹介された2人について十分な裏付けを取らずに放送しました」。

加藤浩次

「視聴者のみなさんには実際には被害者ではない2人を被害者として放送したこと、ここにおわびしたいと思います。今後こうしたことのないよう、再発防止に努めてまいりたいと思います。申し訳ありませんでした」。

この言葉と一緒に加藤、森アナ、テリー伊藤、杉野真美アナの出演者4人がカメラの前で一斉に頭を下げ、そのままCMに入った。



日本テレビではこの数年、同じ様な“不適切な取材”が相次いでいる。「被害者」だったり、「内部告発者」や「客」だったり、という違いはあるにせよ、結果的に偽った人間をあたかも本物であるかのように扱った偽りの報道が続いているのだ。



今回のような取材相手の言い分を丸のみに信じて「紹介された」ケースもあれば、取材した人間自身が偽装を主導したケースもある。いずれにせよ“不適切な取材”が後で発覚してしまう現状に、去年まで日本テレビの報道現場で働いてきた一人として心を痛めてきた。

振り返れば、この種のことは毎年のように起きている。

2009年、報道番組『真相報道バンキシャ!』で裏金虚偽証言が発覚した。岐阜県が発注した土木工事に絡み裏金作りが行われているという建設会社役員の証言をスクープとして報じたが、証言がまったくの虚偽であることが後で判明したのだ。内部告発者は自演だった。誤報だったばかりか、結果的にこの放送が県に対する偽計業務妨害という犯罪の手段にもなったとして、放送倫理に関する第三者機関・BPO『放送倫理・番組向上機構』の放送倫理検証委員会は、初めて「勧告」を出し、日本テレビに再発防止策と検証番組の放送を求めた。検証番組は、幹部たちが次々と頭を下げるという事実上の謝罪番組だった。社内では当時の報道局長が更迭され、関係者が出勤停止などの懲戒処分を受け、社長も辞任するというかつてない事態となった。

2011年には夕方のニュース番組『news every. サタデー』で放送されたペットサロンとペット保険の2人の女性客が、実は一般の利用者でなく、ペットビジネスを展開する運営会社の社員だったということが発覚した。取材した記者自身が会社側に頼んだもので、虚偽を知りながら、一般客として放送していた。これも上司が更迭され、BPOの放送倫理検証委員会が問題視した。

そして去年(2012年)4月、やはり夕方のニュース番組『news every.』で放送された原発事故後に不安が広がった「飲み水の安全性」の特集で、「宅配の水」の利用者として紹介された女性が、実は一般の利用客ではなく、宅配水メーカーの経営者の親族(会長の三女で社長の妹)でかつ執行役員の妻であり、大株主でもあったことが判明した。これにもBPOの放送倫理検証委員会が意見書を出した。



去年10月にも『スッキリ!!』や『news every.』などで、日本人研究者の森口尚史氏がiPS細胞から心筋細胞を作り患者の心臓に移植する世界初の臨床応用に成功したとして、同氏の単独インタビューを報道。これもまったくの誤報だった。 

こうした不適切な取材のたびに社長ら首脳が口にするのが、「裏付けが不十分だった。裏付けをきちんとするという基本に忠実にならなくてはいけない」という言葉だ。同じフレーズが何度繰り返されたことだろう。

BPOの放送倫理検証委員会も、日本テレビで同様の不祥事が相次いでいることに神経を尖らせている。川端和治委員長(弁護士)は去年秋、日本テレビを訪問して同局首脳らと意見交換を行った際、「また同じことを繰り返したら、もう後はない」と警告したほどだった。

テレビ報道の現場に長いこと身を置いた経験者としての立場で公平にみると、日本テレビはずさんな報道が日頃から多いというわけではない。むしろ印象は逆だ。報道の際の事実確認や放送の際の言い回しなどの注意深さは在職した当時も今も手堅い方といえる。現在、研究者という立場で各局のテレビ報道を公平に見る限り、むしろ他の民放の方が裏取りしているか心配な報道や飛ばした印象を受ける取材や原稿が目につくことも少なくない。

現在の日本テレビ社長の大久保好男氏は読売新聞出身で、報道の重みや誤報の怖さを肌身で知っている人物だ。2011年の社長就任以来、こうした問題が二度と起きないように号令をかけてきた。経営トップとして責任を果たそうとする姿勢が様々な形で鮮明で、社外の評判も良い。

それでも日本テレビでばかり同じような“不適切取材”が繰り返されるのはなぜか。「裏付けが不十分」な放送がなぜ行われるのか。私は取材した記者やディレクター、デスク、プロデューサー、部長らの「現場での取材勘」というべきものがどんどん劣化していることが背景の一つにあると考えている。森口氏のケースはまさに典型だが、彼の言葉や表情、しぐさなどから、本当のことを言っている人物なのかどうかを疑わなかった記者やデスクらの行動は不思議なほどだ。「この人、ウソついている」というのはテレビを見た子どもでさえ口にした感想だ。読売新聞が大きく書いた後で、それに引きずられたにしても、だ。

現在のテレビ記者は忙しくなりすぎて、取材現場でいろいろな人物と渡り合い、本当のことを言う人物か虚偽癖がある人物か、この問題ではどの団体や専門家を取材すれば間違いないか、どの弁護士が信頼できるか、などの取材経験の蓄積や情報・人物を腑分けする能力が落ちている。福島第一原発以降の記者の動き方を見ても、最近の若手記者は東電などの記者会見での一字一句をパソコン画面に向かって必死にパチパチと打ち続ける作業に終始し、ほとんど会見場と会社の往復しかしないことも珍しくない。事件や問題が起きている現場に足を運び、その渦中の人間と向き合って、それぞれの立場を推し量ったり、痛みを共感したりする機会もどんどん減ってきている。記者が現場に行かなくなっている。俗に言う「足で取材する」という機会が少ないのだ。各局の中でも日本テレビではとりわけ記者やディレクターなどの動かし方や取材の効率化を上から厳しく言われ、「その日に放送するニュース取材のネタでなければ基本的には現場に行かない」(若手記者)というような職場環境だ。記者はそれぞれのテーマについて勉強する時間も少なくなる。取材の勘も育たない。間違えやすい。騙されやすい。

経営トップが再発防止を指示しても、これでもかというほどまた起きてしまうのには、再発防止策に根本的な間違いがあるからだろう。他の組織にも言えることだが、この種の再発防止策はマニュアル主義に陥りがちだ。「ガイドライン」などのマニュアルを整備することに大半のエネルギーが割かれてしまう。また社内に「危機管理委員会」などのチェックポイントを設置し、放送内容を審査する責任ポストを作る、連絡体制を密にするなどという放送に至るプロセスの見直しを伴うのも常だが、ともすれば取材や番組制作の現場にとっては「業務負担の増大」「受け身の仕事」という形になってしまう。

VTRをチェックする過程が増える。すると現場のディレクターからすれば、たとえばこれまで4回のプロデューサーチェックで済んでいたところが「試写」が6回にも7回にもなる。編集前にも見せて、編集後にも見せる。アニュアル主義やチェックの増大は、個々の現場記者やディレクターを「何も知らない子ども」や「歯車の一つ」として扱うことと同様だ。そのことが現場から力を奪っている。

どこかに取材に行った時に、上司に提出する連絡の書類が増える。報告すべき事項や報告相手が増える。そうなると、本来は必要な、取材するテーマや取材する人物に割くべき時間やエネルギーが削られてしまう。

日テレに限らず、多くのマスコミでは何か不祥事があるたびに会社としてこうしたコンプライアンス徹底主義に舵を切り、結果的に現場の人間たちの負担が増えてしまうというジレンマがある。不祥事のたびに報道番組や情報番組のスタッフはホールなどの一堂に集められ、社内で新たに決定された再発防止策について研修会を受けさせられる。重苦しい雰囲気の中、責任者が訓示する。社長はもとより担当取締役、局長らにとって、こうした不祥事は突発的に発生し、その都度「それぞれの進退がかかる責任問題」となっていくから本気度も違う。それより下の管理職にとっては、再発防止でどれだけ目に見える体制を構築するかが、評価・査定にも関わってくる。それゆえ、こうした不祥事が起きるたびに「ここぞとばかりに張り切る管理職」や「それを上手に利用して上昇しようとする管理職」も出てくる。いきおい再発防止策の構築は、社内向けの「内輪向け」パフォーマンスという色彩も帯びていく。

だが根本的な問題は、放送前のチェックのポストを増やしたり、関門を増やしたりする、ということではない。個々の人間たちが取材力=取材する力や報道の倫理を獲得することがむしろ大事ではないか。

サッカーにたとえるなら、今、行われていることは個々の選手が勝手に判断せずに、監督の指示通りに動くように上からマニュアルを押し付けるやり方だ。個々の判断をせずに監督に逐一、伺いを立てて指示を仰げ、と。個々の選手は受け身で決められた細かい手順をこなすことをますます求められる。

だが、本当に組織が強くなっていくには、一人ひとりの選手が「判断力」を養い、「身体能力」を高めていくことのはずだ。実際にはその場しのぎのマニュアル的対応が優先され、個々の力をどう伸ばしていくかは後回しになってしまう。取材現場は毎回似ているが、毎回微妙に違う。まったく同じ現場というのは二度とない。それゆえ、何をどう映像や言葉で切り取ってニュースや番組にするかは、個々の判断力や倫理、問題意識が必要になってくる。個人的な感想では、不祥事のたびに現場取材の記者やディレクターが上司に判断を求めることが多くなり、個々が判断しなくなっていった。その結果、個々の判断力は低下していく、という悪循環に陥っている。

不祥事が続けば続くほど、どちらかというと「管理志向」の経営幹部や管理職が発言力を増す、という構図もある。こうした傾向は現場のやる気のある取材者たちにとっては気が重くなるばかりで仕事のモチベーションが下がっていく。どんどん委縮していく。権力の裏側の理不尽を暴こうという攻めの取材が減っていき、無理はしないでいこうという無難な守りの取材ばかりになる。

こうした時に必要なのが、自分が一体なんのために、テレビの仕事をするのか、という原点だ。たった一人でも自分がかかわった番組やニュースで勇気づけられたという人がいたら、記者やディレクターにとって励みになる。だが、ことあるごとに報告・連絡・相談(ほう・れん・そう)を求められ、自分の感性や問題意識がどの程度反映できているのか分からない工場の流れ作業の一部のような仕事になると、形だけこなせば良いという意識になってしまいがちだ。上からあれはダメ、これはダメと、マニュアル的な手順を押しつけられ、それが増えていくと現場の取材や番組制作が重苦しいものになっていく。生き生きした雰囲気が失われていく。

取材のあり方という面からも考えてみたい。日本テレビでかつて起きた”不適切取材”では、「岐阜県の裏金虚偽証言」では取材対象となった内部告発者は「インターネットの募集サイト」で見つけた人物だった。また「ペットビジネス」は取材相手である企業側に客をやってもらったケース。「飲料水」は取材者が知らなかったとはいえ、企業に客を紹介してもらったケース。今回発覚した「出会い系詐欺」「ネットのサクラサイト」も弁護士に「被害者の紹介」を頼んだケースだった。しかも、その弁護士が取材相手として信頼に足る人物かどうかを他の団体などに確認したとは思えない。

つまり、自分の足で当時者を探そうとせず、関係者にメール1本、電話1本で被害者などを探そうとした「安易な取材」という点で共通している。汗をかいていない取材方法でこうした問題が起きていることにはもっと注目すべきだ。

私自身は現在、「ブラック企業大賞」などの労働問題や生活保護法の改正問題に関する問題告発や相談を受ける社会活動にいくつかかかわっている。そうした活動をする団体にはマスコミから頻繁に電話やメールが寄せられる。その多くが(たとえば、ブラック企業で現在働いている人、生活保護を受けて就職活動をしている人などの)「当事者を紹介してほしい」というものだ。取材経験の豊富なマトモなジャーナリストならば、背景や活動、ヒントなどをこうした団体に取材するものの、当事者そのものは自分の力で探す。新聞や公共放送などの大半の記者、ディレクターはこのタイプだ。こうした団体のイベントにもよく顔を出して勉強している。

しかし、取材経験に乏しいジャーナリスト(取材者)はどうかというと、そうした事前勉強はいっさいせずに、ある日突然、電話してきて「当事者をいついつまでに紹介してほしい」と要請してくる。民放テレビの報道番組、情報番組や一部の週刊誌に多いタイプだ。だが、内部告発をしている人たちや生活保護を受けている人たちは万一、そのプライバシーが漏れると人権侵害になりかねない。そこで「紹介」をするにしても以前から信頼関係が出来ている記者だけにとどめているが、そうした事情を想像もせず、勉強もせずにいきなり電話してくる民放の不勉強な記者やディレクターは後を絶たない。こうした「紹介してもらう取材」はそのものが本来、プロの取材者として恥ずかしいことだという意識がない。これは一体どうしたことか。取材相手は自分で探すものではなく紹介してもらうのが当然だと、上司も習い性になっていて誰も注意しないのだろう。

皮肉なことに”不適切な取材”の発覚でマニュアルが増え、チェックポイントも増え、連絡などをより頻繁にしなければならなくなるとどうなるか。取材者はますます忙しくなり、取材対象である当事者を自分の目と耳と口で探すことが困難になっていく。そんな皮肉な現実がある。取材現場・番組制作現場はどんどん人員削減、費用削減が続いていて、「短い日数で仕事を遂行する」というコストパフォーマンスを求められる。特に日本テレビは記者やディレクター、カメラクルーの数が他の民放よりも少ない、ということを現場の取材者たちが日頃よく話題にしている。いきおい、取材が「紹介してもらう」ものになっていきがちだ。



放送人はみな広い意味でのジャーナリストだ。この仕事を自分が何のためにやっているのか。何を優先すべきなのか。毎回毎回違う現場のニュースでそうした問題を日々議論していくことが「個々の身体能力アップ」につながっていく。

一つひとつのニュースを伝える時に、その目的や役割を自問し議論していくことが「身体能力」をアップさせていく。残念ながら、今のテレビの職場からは、そうした議論を重ねる余裕がどんどん失われつつある。このジレンマをどう克服すればよいのか。

今回また不適切な取材を重ねてしまったことで、BPOの放送倫理検証委員会が動き出し、またしても日本テレビに再発防止策を求めるなどの動きになっていくのだろう。今回は情報番組だから報道番組ではない、とか局内の議論が想像される。だが、視聴者にとっては情報番組でも報道番組でもテレビから「報道」されていることに変わりはない。



同じ過ちが何度も繰り返され、今回もまた起きてしまったことで放送倫理検証委員会の機能の限界も見えてきた。テレビ局内の再発防止も機能しないことも判明した。つまり、今までのやり方は間違っていたのだ。関係者はそのことをきちんと認めて、形だけの改善策に終わらせず、社員やスタッフ一人ひとりがジャーナリスト、という意識を徹底させるところから始めてもらいたい。

角を矯めて牛を殺す。そんな愚行は避けてほしい。マニュアル主義を強めても、チェックポイントのポストを増やしても、同じような不適切な取材はまたいずれ起きる。今、会社としてやるべきことはむしろ逆なのだ。一人ひとりの記者やディレクターを育てること。ジャーナリストの精神を定着させること。それ以外に根本的な解決策などない。

間違った報道で視聴者の信頼を失ったなら、正しい報道で信頼を回復してほしい。形だけの責任取りや再発防止策など要らない。受け身の姿勢の社員を作ってはならない、

仕事の借りは仕事で返せ。

一人ひとりの取材者がジャーナリストとしての自覚を持って、委縮せずに、やるべき仕事、堂々と攻めていく報道の体制を作ることを強く願っている。




『あるある』の教訓生かせない関西テレビの”大甘」”

2013年08月08日 09時31分33秒 | テレビニュース
関西テレビのローカルニュース番組『ニュースアンカー』で行われた「インタビュー映像の偽装」について、放送局のお目付役であるBPO「放送倫理・番組向上機構」の放送倫理検証委員会が8月初め、「委員会決定」を経て「意見」を公表した。「放送倫理に違反する」との判断を示したのだ。

関テレの「映像偽装」は昨年11月30日、「大阪市職員 兼業の実態」という特集内で放送された。市の職員は地方公務員法で兼業が禁止されている。しかし規定に違反し、別の仕事をする人間が大阪市には複数いると証言する情報提供者が現れた。その証言シーンは、音声部分は情報提供者本人の話にボイスチェンジをかけたものだったが、映像部分は実は本人ではなく、関テレの取材クルーの一人である撮影助手が代役として座り、その姿を撮影した。つまり映像部分は完全にニセ者だった。今年3月、新聞各紙の報道によって発覚した。

問題シーンは関テレの社内で撮影された。大阪市を取材する記者が情報提供者にインタビューする段取りだったが、本人はボイスチェンジをかけることを前提に音声収録は了承したものの、映像撮影はかたくなに拒絶。記者は情報提供者が話している間、その本人にはカメラを向けず、別人である撮影助手を代わりに撮影するようカメラマンに指示した。その結果、音声は本物、映像は偽物、という素材ができ上がった。

BPOが関テレ社内で聞き取りをした報告を読むと、記者は入社5年目の市役所担当のキャップ。カメラマンは入社2年目。撮影助手は経験1年にも満たない外部スタッフだった。カメラマンは先輩社員である記者の指示に従いながらも取材の後で違和感を覚えて先輩カメラマンに告白した。デスクに相談するよう助言されたが、けっきょく話せないまま特集は放映された。放送翌日、カメラマンはまた別の先輩カメラマンに告白し、翌々日には報道局の幹部全体に事実が知れ渡る。ところが、報道部、編成部、コンプライアンス推進部などの幹部らが顔をそろえた会議では、事実をありのまま放送して視聴者におわびすべきだという強い意見もあったものの、このケースでは「映像は補助である」「証言した音声そのものは真実だから、わざわざ説明する必要はない」という意見も出された。最終的に報道トップである報道局長が、公表すれば「情報提供者との信頼関係を壊すおそれがある」として、おわび放送をしない=すなわち視聴者に公表しない、という決断を下した。

それから3か月。外部には伏せられていたが、内部では議論となり、新聞社の取材がきっかけで関テレは対外的に発表せざる得なくなった。複数の新聞によって偽装の事実を報じられた3月13日、関西テレビは文書を発表した。インタビュー映像の偽装というウソも「報道された内容に偽りはなく」、「ねつ造ややらせにはあたらない」と強弁した。「不適切な映像表現」ではあった、と間違いを過小評価し自らを正当化する理屈をにじませていた。

私はテレビ業界にいた頃、今回の関テレの記者と同様の「匿名を条件とする取材」を数多く経験してきた。振り返ってみれば、そうした取材が圧倒的に多かった人間だ。社会の中で圧倒的に立場が弱い人間の境遇や、力を持つ者の不正を憎む内部告発者の証言を伝える仕事を進んで選び報道してきたせいだが、多くの場合、証言者が誰かを特定されるときわめて不利な立場に追い込まれかねないデリケートな現場だった。

例を挙げるなら、ネットカフェ難民の生活ぶりを顔が分からないようモザイク処理をして編集し放送した。夫のDVを逃れて生活保護を受けているシングルマザーについて顔が出ないように撮影し音声をボイスチェンジをして放送したこともある。暴力的な病院経営者のせいで精神的に追いつめられて逃げ出した看護職員の証言を本人の姿ではなく壁に映る影を撮影し放送したこともある。そんな取材の繰り返しだった。顔が出ず、誰か分からないようにする撮影や編集は、すべて立場の弱い人たちを守るための手段だった。

むろん、何でもかんでもモザイクをかけることには反対だ。安易なモザイク使用は慎むべきだろう。こうした手法は例学的にこそ許される。テレビ報道の正攻法は、実名報道だ。だから匿名にする場合、当然そこには前提がある。私は、すなわち、モザイクをかける側の人間は、報道をする側の人間は、絶対に嘘をついてはならない。それがこの匿名報道の鉄則だ。

なぜならモザイクをかけ、ボイスチェンジをかければ、別人を内部告発者などに仕立て上げ、虚偽の報道を行うこともその気になればできるからだ。匿名報道を経験の乏しい取材者が多用するならば禁断の実でもある。虚偽の取材をテレビ局のスタッフたる者が絶対に行わないことが視聴者との信頼上の大前提になる。万に一つでも、そうした前例を作ってしまったら、一線を越えてしまったら、テレビ報道は取り返しがつかなくなる。視聴者の信頼を一気に失ってしまう。だからモザイクをかけてボイスチェンジをするような映像の取材や編集の場合、とりわけ慎重に、モザイクをはずした元の映像が真実の映像なのかを確認できるようにしなければならない。少なくとも私自身はそう考えていた。

そうした立場からみれば今回、関テレの報道局が行った対応は身内に甘すぎる。いろいろな立場の人間たちが一種の保身に走ったせいだろう。「大甘」も良いところだ。放送後に虚偽映像を知った報道局長が外部には公表しないという結論を出したこと。新聞報道で事実が明るみに出ても「偽りはない」「ねつ造でもやらせでもない」と強弁した姿勢。会社の責任者たる者が、テレビ報道の本質や重みをまったく理解できていない現実をさらけ出した。

関西テレビといえば『発掘!あるある大辞典』で2007年に起こしたデータ偽装事件がまだ人々の記憶に新しい。納豆によるダイエット特集で、数々のデータや証言がねつ造されていた。その後の調査では、納豆特集の回に限ったことでなく、以前からたびたび、ねつ造が行われていたことが発覚。関西テレビは社長が辞任し、民放連(日本民間放送連盟)を除名されるという民放史上ない大スキャンダルに発展した。

『あるある』を教訓として、関西テレビでは二度と同様の不祥事を起こさないように「番組制作ガイドライン」を整備してきた。さらに社内幹部で組織する「放送倫理会議」や外部の有識者で構成する「オンブズ・カンテレ委員会」を設置。後者は日本のテレビ局では珍しい社内オンブズマン制度だ。しかし、視聴者の信頼を裏切るような不祥事を二度と起こさないように、社内全体に目配りして不祥事の芽を摘むはずの2つの組織は、今回の「偽装映像」事件にあたって、番組で視聴者に事実を公表すべきだという判断を示さなかった。臭いものに蓋をするような報道局長の姿勢を、いわば追認したのだ。つまり『あるある』の教訓は、会社幹部の精神的面でも、あるいは組織としての機能や役割としても、「生かされなかった」のだ。これでは6年前に多くの社員が視聴者の前で流した涙は何だったのかと問われても仕方ない。

さて、放送のお目付役であるBPOの放送倫理検証委員会も関テレ社内での聞き取りを経て、8月2日に「意見」を公表した。問題の本質は、関テレがいう「不適切な映像表現」などではなく、テレビを信じてモザイク映像の放送を容認している視聴者の信頼を裏切る「許されない映像」を放送したことだ、と断じている。私もこの点はまったく同じ見解に立つ。

他方で、BPOの判断も「大甘」と言わざるえない点がある。放送倫理検証委員会の「決定」は、裁判で言えば、判決のような存在だ。しかし、関テレに対して今回出されたのは「意見」であって、具体的な行動を強く求める内容ではない。この点、2011年9月11日に同委員会が東海テレビの『ぴーかんテレビ』問題で出した「委員会決定」が具体的な行動を要請する「提言」だったことに比べると、大きな落差がある。

『ぴーかんテレビ』問題は、テロップ制作者が「ふざけた気持ちで」作ったダミーのテロップがリハーサル中に誤って放送に載ってしまったもので、視聴者プレゼントだった岩手県のブランド米の当選者が「怪しいお米」「汚染されたお米」「セシウムさん」などという不謹慎な名前で放送されたケースだ。岩手県や農業関係者らが問題視し、抗議が殺到したが、放送そのものは故意ではなかった。これに対して関西テレビのインタビュー映像の偽装は記者による「故意」だ。しかも事実の正確さが他の番組以上に問われる報道番組の中での「偽装」なのだ。その罪が『ぴーかんテレビ』に比べて軽いとする判断は承伏できない。

関西テレビの場合、『あるある』以来のガイドライン作りや組織改革がすでに行われているという評価があるのかもしれない。だが、それらはまったく役立たずであることが露わになったのだ。放送局にとって事実上唯一のお目付役であるBPOこそが、厳しい姿勢を示すべきではなかったのか。関テレという組織が、結果的に局長の誤った判断で「外部に知られない限り頬被り」と言わんばかりの対応を示したのと同様に、BPOの委員会も「政治や行政が出てこない限りはこの程度で収める」という一種のさじ加減が働いたのではないのだろうか。

自民党・安倍政権は、参院選直前の通常国会の会期末で重要法案が廃案になった問題を報道したTBS「ニュース23」を「偏向報道」だと批判した。選挙直前に取材拒否、出演拒否という手法で各テレビ局の報道姿勢を牽制した。隙あらばテレビ報道の中身にも介入しようとする姿勢は歴代内閣でもひときわ強いといえる。そんな状況にあるというに、権力にお世話にならずとも、放送業界は外部有識者の力を借りて、自主的に、自律的に、放送倫理を保つことができるとするのがBPOの建前だ。もしもその姿勢が甘いとしたら、権力者がつけ込む隙を与えてしまうではないか。

関テレも大甘。さらにBPOも大甘。緊張感のない、まるで出来レースのように手ぬるい対応を見ていると、はたして日本の放送業界はこのままで大丈夫なのか。その行く末が心配になってくる。

容疑者の実家前で顔出しレポート なぜ?

2012年06月23日 01時00分00秒 | テレビニュース
世の中が大きく動いていたとしても ニュースとして報じられない出来事は テレビの視聴者にとっては 存在していないに等しい。

そんな出来事があった。

今日夕方(6/22)、 首相官邸前で行われた再稼働反対の大規模デモ。 主催者発表は4万人を超え、 警察発表でも1万人を超える人々が集まった。 国家の中枢前での 近年、例のない国民の意思表示だった。

この動きを地上波のニュース番組で伝えた局もあれば 伝えなかった局もある。

伝えなかったのは、日本テレビ。 深夜のニュースZEROでも一切触れなかった。

原発再稼働という重要な問題に関して、一般の人々が集まって反対の意思表示をしたデモ。 相当な数が集まれば、それはもうニュースではないのか。

あえてニュースにしなかった判断は正しかったのか。

原発再稼働にどちらかといえば肯定的な姿勢の他局も報じていたので、 まったく伝えなかった日本テレビの報道には疑問を感じた。

日本テレビといえば、 夕方のニュースevery.は、相当に悪質と思われる映像を流していた。

浦安市のマンションで看護師の女性が殺されて見つかった事件で、 同じマンションの別の部屋に住む男が逮捕されたというニュースの 続報だった。

逮捕された容疑者の大阪府にある実家の真ん前で、 記者が「顔出しレポート」を撮影し、 家にはモザイクも何も入れずにそのまま放映していた。

容疑者の親が住む実家の前で、 レポートするという報道が、 このニュース報道で必要不可欠なものだったのだろうか。

容疑者の実家の前でテレビカメラが構えて記者がレポートする。
そのことを中にいる親族はどう感じるのだろうか。

家の外観をそのまま映し出すことで日本テレビ報道局は いったい何を伝えたかったのだろうか。

どう考えても、実家を画面にさらし出してレポートを撮影し、 モザイクなしで全国放映する行為は、 容疑者の親に対する「みせしめ」以外の何物でもない、と感じる。

少なくとも、顔出しをした記者やその場にいたスタッフには聞いてみたい。

親を「さらしもの」にしてやろうという悪意は本当になかったのか。

親が容疑者の犯罪に荷担しているとでも言うのだろうか?

これは人権侵害そのものではないのか?

どういう意図で記者がその家の前でレポートし、どんな気持ちでカメラマンが撮影し、それを編集マンが編集し、 デスクやプロデューサーらが放映を許可したのか。

日本テレビは現在、ミネラルウォーターの会社に関するニュースで 客ととして登場した人物が実はその会社の経営陣の親族だったという問題が BPOの放送倫理・検証委員会で審議中だ。

今日の報道を見る限り、 報道する側の人権意識がどこまで共有されたものだったのか本当に理解に苦しむ。

震災報道の空白

2012年04月03日 06時01分35秒 | テレビ番組
朝日新聞Journalismから

http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201107060143.html


【放送】「空白地帯」を自覚した震災・原発報道を

 「このあたりは全く報道されていない空白地帯。津波で根こそぎやられた場所は確かに圧倒的な被害状況で、ある意味、画(え)にもなるので僕らもそっちばかり伝えていますが、実はここも被害はけっして少なくない。現状で良いのか悩んでしまいます」

 そんな地元の記者の言葉に、はっとさせられた。宮城県仙台市。巨大津波に街ごとさらわれた沿岸部から内陸にだいぶ入った地点を車で移動中のこと。津波の被害は無いものの強烈な揺れに家が押しつぶされ、屋根が膝(ひざ)ぐらいの高さになっている惨状が続く。

 案内してくれた地元記者が語った割り切れなさ。もし津波の被害があれほどなければ、この地域の惨状もニュース映像として全国で流れただろう。その言葉は時間に制約のあるテレビというメディアで抜け落ちてしまう「空白」を表していた。

 岩手県でも陸前高田市や釜石市、大槌町など、圧倒的なスケールで津波が街を洗い流したような光景を前に思わず息をのむ。いろいろな災害被災地を取材してきた報道人でも目が釘付けになってしまう。いち早くテレビで窮状を訴えた首長がいる地域では、がれきの整理など復旧に向けた動きは比較的早い。

 他方、車で被災地を走っていると、がれきに覆われたまま手つかず状態の小規模な集落が目につく。首長もアピール下手なのか、地元記者に聞くとこうした地域はやはり報道の頻度はごく少ないという。

 結果として、報道されて「被害が有名になった」地域に人々の目が集まる。無名の被災地、圧倒的な被害とは言えない場所には報道人は来ない。ボランティアもだ。そんな「空白地帯」があちこちに存在する。

 東日本大震災の後、被災地への支援を効率よく行うためにボランティア団体などが連携して立ち上げた全国ネットワーク。その事務所に行くと支援者の派遣状況が大きな地図の上に書き込まれていた。「心のケア」の専門家グループがどの地域に入っているかなど一目瞭然で支援の空白地域も分かりやすい。これを元に各地域への支援者派遣がコーディネートされていた。

 それにならって、報道する我々も地域別に「報道された被災地」と「報道されていない被災地」を色分けしてしてみたらどうだろう。報道されない「空白地帯」が広い範囲で浮かび上がってくるに違いない。

 報道されない「空白地帯」。よくよく考えてみると地域だけの話ではない。テーマにおいてもそれは存在するのだ。

●「空気」が生み出したテーマの「空白地帯」

 3・11の後、テレビ報道は何が変わったのか? ニュースやドキュメンタリーを見ればよく分かる。「震災」や「原発」のテーマが圧倒的に多くなった。ニュースで流れる映像は、東北の被災地や福島第一原発ばかり。震災から3カ月経っても変わらない。新聞も大差ないだろう。

 死者・行方不明者が2万人を超えた大地震と大津波。さらに歴史上例を見ない原発4基の同時多発制御不能。冷温停止はほど遠く放射能汚染は広がるばかり。そんな予断を許さない状況下で大きなニュースの続報が流れる。その陰では放送されなかったニュースや特集が数多く積み上がる。記者たちが企画し取材していたものがこぼれ落ち、国民に十分に伝えられない。そんな出来事やテーマは膨大にある。それこそが報道における「空白地帯」だ。

 例を挙げれば、きりがない。民放でもNHKでも、予定されていた特集やドキュメンタリーで多くのテーマが企画途中や取材途中で放棄されていった。

 司法制度改革、年金・医療、無縁社会、沖縄の米軍基地の問題、さらに障害を持った人や難病の患者、心の病を持った人、経済的な困難を抱えて生活する人、低学力で高校を中退する若者、不登校で引きこもる生徒、児童虐待の被害者、外国人労働者、TPPへの参加でますます追い込まれる農家、老人介護で疲れ果てた人、限界集落で暮らす老人、戦争の傷痕に苦しむ人など。とりわけ「少数者」の問題が報道されなくなった。

 報道でもドキュメンタリーは多数決では割り切れない少数者の問題に目を向けて、その代弁者として取材し制作していくことが少なくない。

 私自身で言えば、若年層の雇用問題、ひきこもり、親の生活困窮で学力が低下する「子どもの貧困」を追いかけてきた。それが何万という人々の命を奪った未曾有の大震災や原発事故による放射能汚染といった進行中の「大状況」を前に「それどころじゃない」という空気が広がる。何万人もの命が奪われ、生き残った人も原発事故などによる避難生活など苦難にあえぐ。視聴者の関心がそちらに集中するのもある意味、当然ともいえるのだが割り切れなさは残る。

 なかでも震災・事故で大きく扱いが変わってしまったのが、「税と社会保障」の問題だろう。少子高齢化が加速して進行するなか、国民の負担と社会保障の水準がどうあるべきかは、今後の社会を決定する重要テーマだ。消費税や世代間の富の再分配にもからみ、むしろ震災後こそ避けては通れない。しかし、このテーマの検証はテレビでは極端に少なくなってしまった。

 ある報道系の制作プロダクションのプロデューサーは「今は局に企画を持っていっても震災ものか原発ものじゃないと食えない」と言う。視聴率争いでグルメものが頻繁に出てくる夕方ニュースの特集コーナーでさえ同様だ。何でも被災地に関連づけることが求められる。グルメ情報を入れながら「被災地が喜ぶB級グルメ特集」などというのが企画される。あるいは「ちょっとイイ話」系。被災地を勇気づけるためにがんばる女子高生やタレント密着。震災報道もグッと来る話が求められている。お約束のごとく舞台は東北。キーワードは「つながる」「がんばる」「絆」。どの局も似たり寄ったりのオンパレード。

 他方で、ドキュメンタリーが以前から扱う少数者の問題は、それぞれが個別のイシューではあっても「社会の構造」や「国のあり方」を映し出すテーマでもある。それはまさに震災後にあらわになったこの国のシステムを問い直すもので、震災後も、少数者はますますしわ寄せを受ける少数者であり続ける。そのことをわれわれはどれほど意識しているだろうか。

●原発を「空白」にしたメディアの怠惰・責任

 「もっと前から原発について伝えておくべきだった」。

 福島第一原発の事故を受けて、後悔する報道人は少なくない。私自身、現在、原発事故の検証ドキュメンタリーを制作しているが、過去に鳴らされていた警鐘の数々を知るにつけ、テレビ報道に関わる者として、巨大な地震・津波の備えの脆もろさ、津波で電源喪失に陥った際の原子力発電所の弱点について、なぜこうなる前に伝えられなかったか、と猛省する日々だ。

 事故が発生してから、にわかにクローズアップされた経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会などによる安全審査のあり方。さらに核燃料サイクル、持続可能なエネルギーの確保や温暖化対策など、継続的に取材し報道すべき切り口はたくさんあった。

 原発問題は報道する側にとっては理科系の分かりにくさ、取っつきにくさに加えて、報道の後で要らぬ波紋を招きやすい。推進と反対の二分法で色分けしがちな世間の過敏な反応などの煩わしさを予想してテーマとして避けてきた報道人も少なくないだろう。しかし、そこから踏み出せなかった怠惰は責められよう。事故の背景には、原発の安全性を正面から問うことが少なかったメディア自身の責任が間違いなく存在する。

 今、誰しもが関心を持っているテーマをすばやく伝えることを得手とするテレビメディア。他方で本質的に大事でも、今は多くの関心事とは言えないテーマは不得手。どう扱うのか、という悩みが日頃からつきまとう。放送しても難解で興味を持たれない、見てもらえない。3・11の前まで、そうしたジャンルの筆頭とも言えたのが原発だった。

 数こそ少ないものの、このジャンルにこだわってドキュメンタリーやニュースを制作をする記者たちが主に地方局に存在する。最近では07年の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発が想定の約3倍の揺れで火災事故を起こした背景として、電力会社や国が海底活断層の存在を過小評価していたことを暴いたテレビ新潟のドキュメンタリー「活断層の警告」(08年、取材・竹野和治)。世の中の流れに抗するように同じテーマにこだわる記者による制作だ。彼らの過去の番組を見ると、今の事態を予言するがごとく、原子力行政における「安全神話の過信」や「リスクの過小評価」が映し出されている。

 平たい表現で言えば、世の中の「空気を読まず」様々な問題性を訴えてきた少数の報道人の先見性を証明したのが今回の原発事故だったと言える。事故が起きて原発は国民の最大の関心事になった。原発がメーンテーマに躍り出たことで、皮肉なことに震災・原発以外のテーマを片隅に押しやる構図ができつつある。今は「空気を読まず」震災・原発以外のテーマも地道に取材する報道人を社会は必要としていないだろうか。

 われわれは震災・原発が主要なテーマに躍り出る「3・11以前」に報道機関が十分な役割を果たしてきたのか検証しなければならない。その時どきの報道の流れの中で、マイナーだった原発問題をどれだけ報道してきたのか。

 「3・11以後」も問われているのは報道の質の問題だ。バブルのように大量に生産される震災・原発の報道の中身がはたして考えさせるものかどうか。

 一例を挙げると、原発事故の対応で首相官邸が待ったをかけたことで海水注入が遅れたのではないかという5月下旬から6月初めにかけてニュースの中心を占めたトピック。班目春樹・原子力安全委員長が海水を注入すれば「再臨界の危険性がある」と進言したとか、いやそれは「可能性がゼロではない」という表現だったとか、官邸がぶれまくり、報道も追随してぶれた。言った、言わないの話は人間模様も垣間見えて面白い。けっきょく現場である福島第一原発の所長が独断で海水注入を継続していたことが判明し、一連の騒動は終わった。あの報道の意味はいったい何だったのか。

 移り気なのはマスメディアの宿命ではある。なかでもテレビは動きつつある出来事に目を奪われがちだ。大きな火災現場に行った野次馬が火の行方や消火作業を眺めているうちに、すぐそばで野次馬同士のけんかが始まると今度はそっちに心を奪われるかのごとく。動きは少なくても本質に関わること、構造的な仕組み、長期的な視野の問題提起をどこでするのか。誰かが心にとめておかねばならない。

 原発問題のこれまでの報道に関しては包括的に評価することは筆者の手に余る。ただ一連の震災・原発報道をめぐっても、テレビを含めたメディアの質・レベルがあからさまになったことは否定のしようがない。

●「空白」を自覚して将来の報道に生かす

 テレビをつけると、各局ともにタレントが「絆」や「つながろう」「がんばろう」を叫ぶキャンペーンが目白押しだ。   実は、震災前に私が注目して取材を重ねていたテーマが「絆」だった。社会の貧困化や無縁化が進むなか、一人ひとりが孤立せずに社会に包摂される形で生きられる社会を作ろうとする動きに注目していた。首相の下に「一人ひとりを包摂する社会」特命チームが発足。貧困家庭の子どもやホームレス、母子家庭、引きこもりの青年などへの支援の実例が報告され、活発な議論が行われていた。評判の良くない政権において、おそらく数少ない先駆的なプロジェクトの一つだったといえるだろう。無縁社会で「絆」をどう作っていくのか。寄り添って支援することで人がどう変わるのか。制度のあり方をどう変えれば良いのか。こうした専門家や実践者の真剣な議論は震災後、ほとんど報道されなくなった。代わって頻繁に登場するようになった「絆」の情緒的なキャンペーン。そこに大きな落差を感じる。

 本来、人間同士の絆のあり方を考えることは社会全体のありようを問い直す作業でもある。それは、「3・11後」の社会づくりにも通底するテーマだ。

 今、震災・原発事故の報道という大きな渦に身を置きながら、記者として忘れまじと思うことがある。震災報道の陰で消えていった社会の本質を射るテーマ、見落とされた数々の問題、その「空白」を意識することだ。そうして将来の報道に結びつけなければ、十分な警鐘を鳴らすことができなかった原発問題と同じ轍てつを踏んでしまう。

 未曾有の大震災と原発事故で日本社会は間違いなく大きな曲がり角にさしかかった。非日常とも言える緊急事態が続くが、それは本来平穏であるはずの日常につながっている。非日常の嵐の中で日常へのまなざしを保てるかどうか。緊急事態の報道に追われる記者たちが「空白」を自覚し、心に留め置くことができるかどうか。

 大きなうねりのなかで社会の根っこが変化していく様を記者たちが見届けて焦点化していくためには、そこが分岐点になるに違いない。(「ジャーナリズム」11年7月号掲載)

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水島宏明(みずしま・ひろあき)

日本テレビ解説委員。1957年札幌市生まれ。82年札幌テレビ入社。ロンドン、ベルリン支局長を歴任。2003年、日本テレビ入社。NNNドキュメント・ディレクター。主な番組に「母さんが死んだ」「ネットカフェ難民」。著書に「ネットカフェ難民と貧困ニッポン」など。