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同人雑誌というぬくもり

 先週、はからずも同人雑誌を手にした。何10年ぶりだろうか。いまも身近でりっぱな同人雑誌が印刷製本、発行されているのを知り、うれしさとともに恥ずかしながら驚いた。主宰するのは、会社を10余年まえに定年退職された先輩のS氏である。
 ぼくより1歳年上の先輩は、ぼくが35歳で中途入社して配属されたまんが雑誌編集部の副編集長だった。半年後にはこの会社を象徴する雑誌の編集長に栄転されたので、同じ編集部で仕事をした時間は短かったが、その半年余りの間、まんがの編集者として素人同然のぼくを穏やかに、根気よく指導してくれた恩人である。
 
 インターネットが身近になるつい最近まで、自分が書いた小説や詩などを誰かに読んでもらうための手段としての同人雑誌は特別な存在ではなかった。学生時代、ぼくのいた文学部ではさまざまなジャンルの同人雑誌がうんざりするくらい発行されていた。ぼくのクラスにも小説分野ではふたつの同人雑誌があり、そのひとつの主宰者がぼくだった。
 去年、卒業以来のクラス会で、級友たちがこの雑誌に属していたクラスメイトを同人誌名で色分けしていてびっくりした。まさか半世紀の時間を経ても級友たちが記憶してくれていたとは思いもよらなかったからだ。

 会社の同僚から借りて読んだS先輩の同人雑誌には、学生時代のぼくらのような鼻につく青臭さや未完成ゆえの危うさなどまったくなかった。手にした瞬間からゆったりした大人の風格がただよう上品さにたちまち圧倒された。
 先輩が筆名で書かれたエッセイを読んで、あらためて先輩の温厚な人柄を懐かしく思い出していた。10数年間を愛情いっぱいにそそいだ二匹の愛猫を野辺に送ったご夫婦の思いの丈が抑制のきいた筆致で語られている。未見のS夫人のやさしさにも痛いほど共感できた。
 愛情深い飼い主にめぐまれ、幸せな生涯をまっとうした二匹の猫たちの写真もさりげなく添えられていた。何よりも先輩の文章力に驚嘆した。「文は人なり」という言葉そのままの気品のある格調高い文章でもあった。
 
 読み終わってすぐに、近年、書いたものの発表の場としてブログをはじめデジタルのメディアにしか頼ろうとしてこなかった自分を烈しく恥じた。むろん、紙が本流でデジタルは傍流だなどと言いたいのではない。ノスタルジーとしてではなく、いまも立派なメディアとして存在する同人雑誌のぬくもりを忘れていた自分の不覚への慙愧である。
 ぼくもリタイアした暁にはもう一度同人雑誌をやってみたいと痛切に思った。大学時代のかつての同人仲間たちの多くの消息が絶えている。息災だったとしても、彼らなら「いまさら……」という返事が聞こえてきそうだ。 
 
 同人雑誌は同人たちがお金を出し合って自分の書いたものを掲載する冊子を発行する。お金よりも原稿が集まらないというのがどの同人雑誌も共通の悩みだったし、いまも変わらないだろう。そんな面倒をかかえるよりはまず自分ひとりでやってみようと思う。
 もしかしたら、それとは気づかずに見失っていたものを再発見するきっかけになるかもしれない。気づいたところでいまさら手遅れだろうが、気づかずに滅していくよりはましだろうから。


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