無名草紙

名もなく、貧しく、潔く。

ゼロハリバートンと目指すさらなる高み

2017年07月11日 | 過ぎゆく日々

■ あこがれのゼロハリバートン
 ベテランの仕事仲間のひとりが、今月から会社を変わったのを機に、facebookで「ゼロハリ復活」を上の写真つきで高らかに謳いあげた。
 うわぁ、ゼロハリバートンかよ! ぼくが写真でもさえもまぶしくてならないほどのゼロハリに、彼は取締役として転職した会社での新たな取り組みの覚悟を示したのだろう。ゼロハリバートンがふさわしい男を目指すという意味での「復活」なのかもしれない。

 男には焦がれるほどのあこがれの品がひとつやふたつはあっても不思議はない。ぼくにとって、ゼロハリバートンのアタッシュケースは40代のはじめから垂涎の的だった。だが、今日に至るまで持っていない。すでに先が見えている身だけに、これからも買うことはないだろう。
 転職ととともにゼロハリ復活を宣言することができた彼が心底うらやましい。

 逆立ちしても買えないあこがれの一品ならともかく、そこまでは高価でなく、買う気になれば手が届く。しかし、それに見合った仕事をしているのかと自問するとたちまち手が縮んでしまう。そんなやっかいな存在感がゼロハリバートンにはあった。

■ どうしても手が出せない迫力
 めったにない海外出張なら、「はずみで買ってしまった」と自分を納得させることもできる。二度といくことのない外国の美しい街の思い出だという言い訳もなりたつ。
 そう思いついたあとの1995年のアムステルダムとパリで探し、その後、出張する機会に恵まれたアジア圏以外のハンブルク、ベルリン、ニューヨーク、サンフランシスコなどへの出張の度に「買う気」になって飛行機に乗り込んでいた。だが、いつも手ぶらで帰ってきた。

 7年前のニューヨーク出張のときは、「もうこれが最後の海外出張だろうから、今度こそは買ってくるぞ!」とわざわざ宣言して出かけた。それなのに、あのときは、荷物をホテルの部屋へ放り込むやいなや駆けつけた五番街のアップルストアで、日本で発売前のiPadを手に入れて満足してしまい、ゼロハリを探すことさえ失念していた。
 そのあとに移動したサンフランシスコでもゼロハリへの執着が希薄だったのは、ニューヨークで手に入れたiPadにすっかり舞い上がっていたからだろう。そして、予期したとおりこれが最後の海外出張となった。

 昨年の秋、齢70を過ぎてもう少し会社勤めが続けられるとの見通しがたったので、自分へのごほうびにカバンを買った。ダレスバッグやら、TUMIの、スーツの色に合わせたネイビーのSHIPSブランドもある。
 ほかにも肩書や年齢に恥ずかしくないバッグ、ブリーフケースなどを次々に買ってしまった。だが、どうしてもあこがれのゼロハリバートンだけには手が出せなかった。

■ 栄達を望まず 奢侈を求めず
 ほしくて、ほしくて、でも、これまで買いそびれてきた理由はたったひとつだった。ゼロハリを手に提げた自分がゼロハリ負けてしまう姿しか想像できないのである。位負けとでもいったらいいのだろうか。ゼロハリバートンの存在感に撥ねつけられてきたともいえる。
 それはあのアルミの光沢に惑わされただけのただの錯覚に過ぎず、実際、手に持てばどうということはないのかもしれない。しかし、ゼロハリを持つ男のイメージと自分が重ならないままでいる以上、買わなかったのはやっぱり間違っていなかったと思う。

 20代のころ、作家の梅田晴夫氏から、「一流の男」になるためのあれこれをいろいろ教わった。一流のものを身につける喜びもうかがった。だからというわけではないが、多少は無理してもいいものを買ってきた。だが、梅田氏の教えのとおり、一流品を持っているのと自分が一流かどうかはまったく関係ない。
 男として、自分が一流はおろか二流にさえなれなかったという自覚がずっとある。ゼロハリバートンは、あこがれが強かったからなおさらそんな男にはそぐわないのである。

 卑下しているわけではない。身の丈に合った生き方をしてきた自負はある。決して背伸びせず、能力もないのにあるがごとき虚勢を張り、実力を誇張して見せるような真似はしてこなかった。だれかを陥れようと画策したこともない。
 栄達を望まず、奢侈を求めずに生きて現在(いま)がある。ゼロハリバートンが似合う男にはなれなかったが、世間を偽らず、決して謀らず、恩義にはきちんと報いながら生きてきた。だからこそ、サラリーマンとしておだやかに完結できそうなのである。
 このささやかな人生に悔いや不満はない。あるのは幸運への感謝だけだ。

■ できる男には本物だけが持つ風格がある
「ゼロハリ復活」を宣言した友には、悔しいけどゼロハリバートンがよく似合う。彼の来し方をあらためて眺めると、出身校もさることながら、赫々たる職歴のひとつひとつがなんとも輝かしい。能力の高さと抜きん出た実力を如実に物語っている。
 蛇足ながら、できる男には本物だけが持つ風格がある。本当はいいたくないのだが、外見の偉丈夫ぶりもまたゼロハリバートンがふさわしい。

 さらに、多くの若い人たちから慕われ、敬われている事実からも人間としての器量のたしかさは申し分ない。彼が「セロハリ復活」を告げたfacebookに続々と寄せられるコメントの数と内容からもこの人の信頼の高さを認めざるをえない。やっぱり、ゼロハリバートンは彼にふさわしい一品なのである。

 乱世である。彼ら能力の高い人間たちは、混迷をきわめているからこそ、かえっていまその身をおく時代がいとおしいのかもしれない。進んで会社をかわり、混沌の時代にあえて立ち向かっていく。そんな若き友の勇気に心からのエールを送りたい。
 不惑の齢(とし)ならば、まだその先、真のできる男が活躍する余地は無限にある。彼らならば、復活したゼロハリバートンとともにさらなる高みへと駆け上っていくに違いない。

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