Moon Press
月はあっちこっちに出ている。
 



指折り数えて待っていた。
この日が来るのを待っていた。

神様は、まだまだ足りないものがあると言っていた。
神様は、しばらくこの旅を続けるように言っていた。

今の夢は、あっけなく壊されたけど、
その夢は、いつかの夢に繋がっていく。

飛び立つ方向がどこでも、上に向かって飛び立つ。
もっと速く、もっと深く、もっと強く。

3月7日 CR試験落選。

この日は、いつか何かに繋がっていく。
一つをあきらめたら、一つを思い描く。
(「やらなきゃいけないことをやるだけさ。だからうまくいくんだよ。」だよな、タケル?)

次へ。

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もはや誰も見ていない今日この頃、ひっそり再会。いや再開。
再会したい人はいますか?





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大切なのは、目の前のことより、その先への思いだったり志だったりするわけで。

哲学者セネカの言葉。

「運命は志のあるものを導き、志のなきものを引きずっていく。」

引きずられず生きていこう。

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パリへと旅立った私。道中で気がついたことをいくつか。

・パリの車道に車線はない。
・ラデファンスは汐留を思い起こさせる。
・フランス人はボウリングがあんまりうまくない。
・どこでもかしこでも「ムッシュー」と呼ばれるのは何やら気持ちいい。
 いいなぁ、かまやつ。
・ポルトガル人はやっぱりいいやつだ。

何をしに行ったんだ、これは。
でも、たくさん笑って良い旅ができました。
Merci, Jose et Aki !!



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ハンサムと呼ばれたい。

東京は新宿、JR南口から出て正面を見ると、線路の上にかかる橋が
見渡せる。この橋周辺を「サザンテラス」と呼ぶ。ことになっている。
呼んでる人見たことないけど。

そして、都営地下鉄大江戸線新宿駅の構内には、この「サザンテラス」を
プロモートするポスターが掲げられている。
曰く。
「ハンサムな大人の街」

宮藤勘九郎は、『池袋ウエストゲートパーク』の中で、
渡辺謙のことを、きたろうに「ハンサム、お前はハンサムだなぁ」
と呼ばせていた。
かように、「ハンサム」という言葉も、他の死語(というのも死語だが)
と同様、そこはかとなく、恥ずかしさを持った言葉としてのみ流通する
ようになってはいるが、だがしかし。

「ハンサムな大人の街」
でもこれが、
「クールな大人の街」ならばどうか。
全くもってクールではない。
「いけてる大人の街」
断じていけていない。

一周して戻ってくると、意外と「ハンサム」いいのではないか。
「あいつ、クールな奴だよ」と「あいつ、ハンサムな奴だよ」。
いいじゃないか、「ハンサム」。

例えば、植草甚一は、ハンサムな大人ではあったかもしれないが、
クールやら何やらで形容するとどうもすんなりこない。

ハンサム、という言葉が使われなくなったのは、それが形容する
ハンサムな人がいなくなったからなのかもしれない。
呼ばれてみたいものだ。「ハンサムな奴」と。

ハンサム、ハンサムと書くと韓国語のように思えるのは私だけでしょうか。
関係ないけど。


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この世界は「夢と感動」に満たされている。

場所は神田神保町、三省堂書店。
文庫本のコーナーで、母親と、小学校低学年くらいの男の子、女の子がいた。
母親は急いでいるらしく、二人の手を引っ張っている。
だが、男の子は、映画『ローレライ』のPR映像にご執心の様子である。

そこで男の子は母親に向かって言った。
「ねぇ、『ローレライ』って知ってる?夢と感動の話なんだよー」

直後、女の子の方も、対抗心を燃やすかのように言い放った。
「『ホタルの墓』も夢と感動の話なんだよー」

なんてこったい。
『ホタルの墓』を我々は、戦争の酷さ、命の儚さ、
その中に感じることのできる愛、など、戦争というものを取り巻く
普遍的なテーマを取り扱った作品として鑑賞し、まただからこそ、
名作の誉れ高いものとなった、と考えていた。

しかし。
「夢と感動」のストーリーだったのだ、あれは。
って、おいっ。違うだろ。
とは簡単に言える。
だが、もしかしたら、本当に本当に、あのストーリーに夢と感動を
感じる視聴者もいるのかもしれない。
こうなってきたら、『ローレライ』についても、自分の認識は
いよいよ怪しいものである。

そして、ふと思う。
私たちは「夢と感動」にいつの間にこんなに囲まれているのか。
あっちを向いても「感動」、こっちを向いても「感動」である。
1日1感動である。
でも、本当に感動したら、「感動した!」なんて言わない、きっと。
古いけど。



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異文化交流。

今をさかのぼること、6年前。
シカゴの地に立っていた。共に旅した友人は
アメリカの大量な食事に耐えきれず、腹痛を起こして寝込んでいた。
その日、私はタクシーに乗ろうとしていた。
初のシカゴ、よく分からない英語。
私の行く道はタクシードライバーの彼にかかっていた。
そして会話が口火を切った。

運転手「ヘイ、お前はどこから来たんだ?」
私「に、日本です。」
運転手「日本はどこだい?」
私「と、東京です。」
運転手「京都はどうだい?」

なぜだ。なぜ京都に飛ぶ?
私「きょ、京都ですか?」
運転手「そうだ、京都はヒップホップかい?」

わかりまへん。Is Kyoto Hip-Hop?と彼は確かに聞いた。
なんだ?京都はそんな風に思われていたのか?
京都、日本人の心の故郷。あの景観に、失われた日本の美を見る
外国人も数多いだろう。だが。
ヒップホップ。何のことだ?っていうかヒップホップってホントは
何の意味なんだ?っていうか、京都ってどんな街だ?
俺の見てきた京都、俺の知ってる京都は何だったんだ?

そして彼は言った。
運転手「ボブ・ディランは好きか?」

さらばシカゴ。レベルが高すぎた。


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誰なんだ?

卒業旅行や何やらで、若い人がたくさん海外旅行に行く今の時期。
観光、買い物、誰かに会いに行ったり、傷心旅行だったり、
旅に出る理由には色々あるけれど、
日本では決して感じられないものが外国には1つだけある。

それは他人からの視線。
ニューヨークやロンドンなどの大都市でも、ふとした小道、
観光客が行かないような場所に足を踏み入れると、
その場所の人たちから、ある視線を送られる。
それは多分、日本で、思わぬ場所で外国人とすれ違った時に
日本人が彼らに投げかける視線。
"English man in New York"という歌があって、Stingは"I'm legal alien"と歌っている。

それはつまり、「何者でもない」ということ。
大きな会社に勤める人であろうが、フリーターであろうが、
東京の人であろうが、東北の人であろうが、そんなことは何にも関係なくなる。
ただ、その国に「入れてもらっている」何者でもない存在。
そんな時、何者でもなくなった自分は誰なのかを考えざるをえなくなる。

寺山修司は、
「お前は誰なのだ? と問いつめられて答えることば。『私は××です』
この××とは、何ら実体と関わるものではない。これはいわば『私』にとっての
広告コピーのようなもの」
と書いた。

会社員、大学生、フリーター、そんな「広告コピー」を取り払われた時、
自分は誰なのかをしっかりと確認したい気持ちになる。
その答えは人それぞれだけれど、そんな感覚を感じるために旅に出るのも
たまにはいいかもしれない。

そんなわけで、少々旅に出てきます。

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何回再放送するんだ、TBS。

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新しい憲法が生まれるかもしれない。

と言っても、この国の話ではない。
先日、スペインでEU憲法についての賛否を問う、国民投票が行われた。
結果は、過半数が投票棄権、投票者の70%は賛成、という微妙な
ものだったようだが、これは大変なことになっている。
なにしろ、EU全体の大統領や外相も置かれるかもしれないのだ。

どこまで足並みが揃うのか、トルコ問題を含めどこまでEUが東進するのか、
域内の格差はどうなるのか、域内外の間に新たな壁ができるのではないか、
問題は多々ある。
それでも、この、今はまだ実験である試みが実現という言葉に変わった時、
そこには誰も見たことのない新しいモノが現れる。と思う。

字義通りのNation Stateであるこの国で、今論議されている改正憲法は、
どうにも「いつかどこかで見たことのある」姿カタチの国になるための
ものに見えてしょうがないのはなぜだろう。

見たことのないモノと、見たことのあるモノ、面白そうなのはどっちか。




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