60歳からの眼差し(2)

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

老いの才覚

2010年12月17日 | 日記
先日本屋で曽野綾子の「老いの才覚」という新書が目に留まった。 「曽野綾子」、クリスチャンの
女流作家である。略歴に1931年生まれと書いてあるから79歳である。 79歳なら充分に年寄り
である。「老いの才覚」とは何か?彼女の経験知からのものであろうと思う。今後自分が年を重ね
て行く上で何を心がけておかなければいけないのか?、そんなことを思い、読んでみることにした。
以下、本の抜粋である。

老齢になって身につける「老人性」に大きく二つある。一つは利己的になること、もう一つは忍耐が
なくなってくることである。自分を若々しく保ちたいなら、まず利己心を改め忍耐力を養うことである。
若くても、他者への配慮がなくなったら、それが老人である。
最近の年寄りは「老人だから、○○してもらって当たり前」と思っている人が多い。「高齢である」と
いうことは「若年である」ということと同じ一つの状態を示しているだけにすぎない。それは善でも無く、
悪でも無く、資格でも功績でも無い。

老いの基本は「自立」と「自律」である。自立とは、ともかく他人に依存しないで生きること、自分の
才覚で生きることである。そして少なくても生きようと希 (こいねが)うことである。老人といえども
強く生きなくてはならない。歯を食いしばってでも、自分のことは自分でする。それは別にみじめな
ことでははなく、誰にも与えられた人間共通の運命なのである。
愛情というのは、手を出すことよりむしろ見守ること、「してもらう」という立場は意外と当人に幸せを
与えないものである。してもらうことを期待していると、ついつい不満が募ってつい愚痴がでてくる。
老人の愚痴は他人も自分もみじめにするだけで、いいことは一つもない。
どんなに大変だろうと「自分でやる」、自分でやるという自己の誇りほど快いものはない。それから
できるだけ若い世代に負担を掛けさせないようにしようと思うのが当然のスタンスである。そして、
仕方なしに人に何かやってもらう時は、対価を払う心構えが必要である。

老年は一つ一つできないことを諦め、捨てて行く時代なのである。執着や俗念と闘って人間の運命
を静かに受容することは、理性とも勇気とも密接な関係があるはずである。諦めとか、禁欲とかいう
行為は晩年を迎えた人間にとって素晴らしく高度な精神の課題だと私は思うのである。
人間は別離でも、病気でも、死でも一人で耐えるほかないのである。一口でいえば老年の仕事は
孤独に耐えること。そして孤独だけがもたらす時間の中で自分はどういう人間で、どういうふうに生
きて来て、それにどういう意味があったのか?それを発見し死ぬのが人生の目的のような気がする。
孤独は決して人にとって本質的に慰められるものではないのであろう。たしかに友人や家族は心を
かなり賑やかにはしてくれるが、本当の孤独というものは友にも親にも配偶者にも救ってもらえない。

歳をとると、一緒に遊べる友達がだんだん減ってくる。だからちょっと喫茶店へ入って本を読んだり、
一人で映画を見に行ったり、と一人で遊ぶ癖をつけていた方がいい。人生は旅だから、一人旅が
できないのは象徴的な意味で困ったことになる。一人で計画を立て、一人で時刻表をみて切符を
買って、自分で確認しながら実行に移す、そして刻々と変わる景色を楽しみ、出会いを楽しむ。
一人で考え、一人で行動し、一人でも楽しめる、そんなことに慣れてくれば老年も楽しくなる。

その人の生涯が豊かであったかどうかは、その人がどれだけこの世で「会ったか」によって図られる。
人にだけではなく、自然や出来事やもっと抽象的な魂や精神や思想にふれることだと思うのである。
何も見ず、誰にも会わず、何事にも魂を揺さぶられることがなかったら、その人は人間として生きて
いなかったのではないか、という気さえするのである。
だから老年にも「こんなに面白いことがあるのか」と思うような体験をしてほしいし、いくつになっても
「出会い」を求め続けて欲しいと思うのである。 どんなことにも意味を見いだし、人生をおもしがる。
人間というものは、どんな状況も足場にしなくてはならない。孤独なら孤独でそれをスタンドポイント
にして、自分がおもしろいと思うことをやって 行くしかないのである。

時には徳のある老人がいる。「徳性を有する」とはどういうことか、規定することは難しいのであるが、
一つの目安はどんなことにも意味を見出し、どれだけ人生をおもしろがれるかということだろうと思う。
通常、年を重ねた人は、世間の事柄を分析することと、その奥にあるひそかな理由を推測することに
長けてくるのである。だから簡単には怒れなくなる。しかし最近、分別盛りの中年や老年の中にも、
直ぐ怒る人が増えてきたような気がして仕方がない。そういう年寄りはたぶん自分の立場や見方だけ
に絶大な信用をおく幼児性が残っているのだろう。めいめいが自分の生き方と好みをきちんと確立し、
人と同じではないことにたじろがず、自分と違う人を拒否せず、そしてどんな相手にも、どんな生き方
にも、どんな瞬間にも、どんな運命にも、意味を見つける。これはもう芸術家のようなものである。

死は願わしいことではないが必ずやってくる。願わしくないことを超えるには、それから目をそらさして
はいけない。死は確固としたその人の未来だから、死を考えるということは前向きな姿勢なのです。
明日、自分の身になにが起こるか判らない。今日は歩けて、ご飯が食べられたけれど、明日は口
がきけなくなるかもしれない、目が見えなくなるかもれない。明日の保証はないと覚悟する。これが
老年の身だしなみなのである。常に過去にあった、いいこと楽しかったことをよく記憶しておいて、
いつもその実感 とともに生きればいい。これだけ面白い人生を送ったのだから、もういつ死んでも
良いということである。

老年は一日一日弱り、病気がちになるという絶対の運命を背負っている。いわば負け戦みたいなの
である。もうそろそろ死んでも良い年なのだから、自由に穏やかな気分でいよう。人生はどこで どう
なるかわからないから、そういう気持ちはいつも待ったほうがいいと思う。人間はいくつになっても
死の前日までも生き直すことができる。最後の一瞬まで、そのひとが生きて来た意味の答えは出な
いかもしれないのであるから。

一生の間に、ともかく雨露を凌ぐ家に住んで、毎日食べるものがあった、という生活をできたのなら、
そのひとの人生は基本的に「成功だった」と思う。もしその家に風呂やトイレがあり、健康を害する
ほどの暑さや寒さから守られ、毎日乾いた布団に寝られて、ボロでもない衣服を身につけて暮らす
ことができ、毎日美味しい食事をとり、戦乱に巻き込まれず、病気の時には医療をうけられるような
生活 ができたなら、その人の人生は地球レベルでも「かなり幸運」なのである。もしその人が、自分
の好きな勉強をし、社会の一部に組み込まれて働き、愛も知り人生の一部を選ぶことができ、自由に
旅行をし、 好きな読書をし、趣味に生きる面も許され、家族や友達から信頼や尊敬、好意をうけたら、
もうそれだけで、その人の人生は文句なしに「大成功」だったと言えるのではないだろうか。

本を読み終わって感じることがある。

年を取ってくるとくると体も精神も柔軟性がなくなってくるように思う。昔の同僚に会って話すとそれが
よくわかる。「あの管ではだめだ!」「あの鳩山はとんでもない奴だ!」「海老蔵はへたくそなくせに、
自分を過信しすぎている。あんな奴は歌舞伎界から追放すべきだ」「今のテレビはくだらない番組が
多すぎる。どこもかしこも安いお笑いタレントを使って、」「今の連中は携帯やパソコンにたよりすぎる
から漢字も書けない、・・」「中国は・・・」「北朝鮮は・・・」「日本人は・・・」「今の若い奴は・・・」等々、
世の中や相手を批判することで、自分が上に立っているような優越感を得、自分の意見が際立ち
注目を集めると思うのであろう。しかしそれは錯覚で、往々にして思惑とは反対になる場合が多い。
聞いている方は聞き辛いし、それはただマスコミの論調に乗っているだけで、なんら生産的ではなく、
世の中の変化を理解しようとしない、受け入れようともしない年寄りの特徴のように思うのである。

私自身も無自覚に年を重ねていけば、世間に対して不満タラタラの年寄りになって行くのであろう。
今は幸い現役で、社会の変化を肌で感じ、回りに若い人がいるから、そういうことから免れている。
しかしいずれリタイアして、本に書いてあるように「孤独」の世界に生きるようになるだろう。その時の
為の「自立」と「自律」、今から意識しておかねばならないように思っている。


喪中葉書

2010年12月10日 | 日記
今年も11月の終わりから喪中葉書が何枚か送られてきた。母が満百歳の天寿を全ういたしました。
義父が99歳で・・・、長兄が83歳で・・・などに混じって、昔同じ会社で働いたまだ30代の若い女性
からの喪中葉書があった。「今年5月、父○○が永眠しました」とあり、歳などは触れてはいなかった。
彼女は15年程前、私が面接して採用した女性である。履歴書に書かれた自筆の文字は綺麗で、
大きく力強く書かれていた。それが私の採用ポイントであった。2年ほど勤めて「自分にはやりたい
ことがあるから、」そう言って会社を辞めていった。その後年賀状の交換だけは続いていた人である。
彼女が中学生の時に両親は離婚し、母親に育てられたと聞いていた。父親が街金に多額の借金を
作り、返済できずに取り立てが厳しくなる。街金からの家族へのいやがらせなどを避けるため両親は
協議離婚し、父親は家を出て行ったと聞いたことが有った。

喪中葉書の父とは実の父親なのだろか?その後お父さんとはどうなったのだろうか?ただ喪中葉書
をもらったままでほっておくのも気がかりだったので、携帯へお悔やみのメールを送ってみる。
ほどなく彼女から返信メールがある。突然役所から別れた父親の死亡をしらせる手紙があったこと、
急遽、弟と一緒に父が住んでいた札幌に行き、事後の処理が大変だったことなどが書かれてあった。
2、3度メールのやり取りをして、懐かしさも手伝って「会おう」ということになる。そして先週10年ぶりで
逢うことができた。

10年ぶりといえど現役独身OLである、昔とそんなに変わった様子もなく、時の隔たりを感じさせない。
話すうちたちまち昔と同じような喋り口調になり、私が10歳の歳を取ったことを忘れさせてくれる。
私の興味の対象は「人」である。人の心はどのように形成され、その時々でどのように感じ、どのよう
に行動に移していくのか?そんなことを数多く知り、人というものを理解したいと思うのである。
今回、長く別れて暮らしていた父親の「死」を突然知った時、彼女はどんな風に感じたのであろうか?
彼女は今まで父親に対してどんな感情を抱いていたのであろう?私にとって、この出来事はノンフィク
ションドラマのようで興味が尽きないテーマである。彼女には失礼だったと思うのだが、話の大半は
そのことを聞くことに終始したように思う。

父と別れて20年近く経つそうである。その間3度ほど父と逢ったという。一度は高校に通うために
使う駅でばったりと逢って喫茶店で話したそうである。その時は家族の様子を聞かれたようである。
2度目は電車の中で父を見かけた時、この時は自分から声を掛けることは出来なかったという。
そして3度目は彼女が高校を卒業して会社に勤めを始めた時、都心にあった会社から退社する
のを待ち伏せしていたかのように、父から声を掛けられた。立ち話で家庭の様子を聞かれた後突然
「今、お金を持っていないか?」「少し都合を付けてくれないか?」と言われたそうである。あまりの
言葉にびっくりし、「イヤ」と叫んでその場を走り去ってしまったたそうである。父に逢ったのはそれが
最後でそれ以降父には逢っていない。

父は何年かは東京にいたようだが、その後は北海道にいるようだと、うわさで聞いていたそうである。
父方の親戚が北海道にいて、そちらを頼って行ったのではないか?と言うことであったが、しかし母も
兄弟達もあえて探そうとはしなかった。彼女の中では「去る者日々に疎し」で20年も経過してくると、
ほとんど忘れいた存在になっていたようである。それが突然死亡の知らせが弟のところに届いた時、
自分の中で封印されていた父の存在をまざまざと思い出すことになったようである。
(弟に通知がきたのは、父が長男であった為、弟だけは籍を抜かず、そのまま父親の戸籍に入って
いたために調べがついたようである)

知らせを受けた時は死亡してすでに10日が経過していた。彼女と弟は早速札幌に行くことになる。
行ってみると、すでに父は遺骨になっていた。死亡原因は脳梗塞のようで、具合が悪くなり救急車
で病院に運ばれてその日のうちに亡くなったようである。遺骨の引き取り、財産放棄の手続き
(弁護士に事情を話して相談し、放棄した方が良いだろうということで)、住いの撤収、遺品等の
整理で彼女はその後何度も札幌に行くことになったようである。

2度目に行った時父の部屋を整理した。父は札幌の手稲区にあるURの賃貸住宅に住んでいた。
管理人に案内されドアの前に立ったとき「部屋の中が手のつけられないほど乱雑だったらどうしよう」
と、不安な気持ちになったそうである。しかし室内は想像と反対に奇麗に整頓されていたという。
ただ病院に運ばれてから誰も触れていないから、父が出て行ったままで時間が止まっていたように、
冷蔵庫には食品があり、炊飯器にはご飯が残ったままになっていたそうである。そんな状況を見て
いると、「父は半月前まではここで生きていたのだ。なぜ自分は父を探さなかったのだろうか?」と、
後悔にも似た気持ちが立ちあがってきたそうである。部屋を整理するうちに几帳面な父親の生活
ぶりに触れて行くことになる。父はB5のノートに日記を付けていた。その日記帳は20冊近くもあり、
きちっと整理され保管されていた。また折り込みチラシの裏面を使って絵やスケッチが書かれいて、
それを丁寧に紐で閉じて束になっていた。父はすでに年金生活者である。衣類や持ち物は少なく、
いかにも慎ましやかな生活だったと言う。持ちかえる遺品と捨ててもらうものの整理、住いの撤収に
何日か掛かるだろうと覚悟していたが、質素な生活だったので1日足らずで終わったそうである。

後日、持ちかえった遺品を点検して行く時、残された日記を読んだそうである。その日記の冒頭に
「この日記には感情的なことは書かないようにし、日々の出来事を記録していく」旨が書かれていた
そうである。今日は何々をした、今日はこんな出来事があった、今回はこんな本を読んだ。そんな
記述の中に、今日は娘の誕生日である、今日は結婚記念日だった、と書かれているのを読んだ時,
思わず涙がこぼれ、号泣したそうである。「父はあの北海道の地で、あの2DKの部屋の中で一人
さびしく暮らしていたんだ」

彼女は姉と弟の3人兄弟である。家族それぞれにとって父親への思いはそれぞれ違うのであろう。
この日記を読んだのは姉と自分だけで、母も弟も読もうとはしないそうである。20年間音信不通
だった父親の死、それは日々坦々と暮らしていた家族の中に一石を投じ、それぞれの心の中に
波紋を広げ、また時間の経過の中で静かに忘れ去られていくのであろう。
「住んでいた部屋の整理をし、持ち帰った遺骨は父の両親が眠る八千代のお墓に納骨しました。
これが最初で最後の親孝行なのかもしれませんね」、そう私に語ってくれる彼女はすでにこのことを
しっかり受け止めているのかもしれないと思った。
家族の死亡を知らせる一枚の喪中葉書、そこにはその家族の様々なドラマが隠れているのである。


リニューアルオープン

2010年12月03日 | 日記
11月25日(木)の新聞にスーパーの西友小手指店リフレッシュオープンのチラシが入っていた。
この店は自宅から一番近い大型店なので時々は行っている。私が入社した当初は西のダイエー、
東の西友と呼ばれ、オーナーの堤清二は流通業の寵児として取り上げられていた時代であった。
時代が流れ、イオンとヨーカ堂が台頭して勢力図は変わり、バブル崩壊後はダイエーは産業再生
機構の支援を経て、今は丸紅及びイオンのもとで小売部門の縮小など再建策が行われている。
西友は紆余曲折あって、今はアメリカの世界最大の小売業のウォルマートの子会社になった。

ウォルマートの傘下で再生を図っていた当初、「エブリディ・ロープライス」というウォルマートの戦略を
そのまま導入し、恒常的な低価格化を目指し、「毎日安いから足を運んでもらえる」という理屈で、
新聞の折込チラシも廃止したことがあった。しかしチラシ特売による集客に頼る日本ではなかなか
根づかず苦戦が続き、また折込チラシを復活していくなど、紆余曲折思考錯誤の時期もあった。

ウォルマートのDNAは「安く売るから消費者の支持が得られる」であり、その戦略に変わりはない。
その後、安く売るためのローコストオペレーションを目指しウォルマート流の固定費人件費の見直し
を地道に行いながら、アメリカ流の戦略を日本市場にマッチングさせるため、西友独自の施策を考え
実行に移していったようである。そして、リーマンショック以来の経済情勢の変化も重なり、ようやく
価格攻勢に立ち向かう体制が整ってきたのであろう。最近は利益率の改善や、スーパー各社が
売上高マイナスの中でも、プラスへと持っていくなど大きく変容しつつあるようである。

スーパーは今でこそ郊外に大きな駐車場付きのショッピングセンター形式のものが支流であるが、
当初は食品や雑貨が中心の小さな店が主力であったが、やがて「ワンストップショッピング」として
疑似百貨店スタイルの駅前の多層階の店に変わって行った。西友小手指店は30年も前に出来た
地下1階地上4階の駅前型多層階の店である。 「ウオルマート流の戦略を日本市場にマッチング
させた西友独自の施策」、果してそれがどんなものか見て取れるのが リニューアルオープンである。
以前と比べて何がどう変わったのか?興味津々で見に行った。以下、写真に添って解説してみる。

          

                     正面入り口の垂れ幕

 「スーパーの西友がSUPER SEIYUにリフレッシュ OPEN」 とありスーパーマンのイラスト。
 いずれ西友からウオルマートへ店名を変えるとのうわさもあり、それを意識したタレント使用か?

地下1階 食品売り場

          

          

          

  青果、果物は黒いカゴを入れ替えるだけのカセット方式で、売り場での陳列はしない。


          

          惣菜売り場、298円の弁当が5~6種、うず高く積まれている。

          

             おにぎり88円など、コンビニより圧倒的に安く感じる。

          

          

     非冷の飲料はラックで大量陳列、要冷はドア付きのリーチインのショーケース


          

          

      グロサリー商品は180センチ以上はある背の高いゴンドラ(陳列棚)を使う

          

    売り場に陳列しきれなかった商品は高いゴンドラの上をストック棚として使っている。

          

          パートさんは脚立を使って上のストック棚から補充していく。

          

     特売はエンドに直接積むのではなく、倉庫でラック陳列してから引き出してくる。

          

                     要冷飲料のコーナー

          

                メインの牛乳(乳脂肪3.6)は常時158円
 18フェイスで上から下まで4段を使用して陳列、多分途中の商品補充は無用であろう。

          

     ヨーグルト等のコーナー、ここも大量に陳列されていて補充なしですむであろう。

          

                  酒売り場はまるで倉庫のよう

          

         食品階のレジはダブルで18台設置、レジ待ちの長い列はない。

1階

今まで1階は婦人衣料やバックなどの小物であったが、今回は衣料を半分にし、
日用雑貨を3階から降ろしてきて、日常品の買い廻り性を高めたようである。

          

     正面入り口付近に150円のビニール傘と、497円の折りたたみ傘等がある

          

          

            やはり食品と同じように1単品を大量に陳列している。

2階

          

           2階のエスカレータを降りたところにあったPOP、
          他に「圧倒的な安さ」のPOPなど安さを前面に打ち出している。

4階

          

          

    今まで縮小されていた家電売り場を拡大、はたして家電量販店と競えるのか?

          

                  自転車売り場も充実させている

          

          

               おもちゃ売り場も今までの倍近いスペース

          

          

     客は靴の種類とサイズを試着で決め、下の棚から商品を選んでレジへ持っていく。
     いちいち店員に倉庫から持ってきてもらう必要が無いから、売り場に店員がいない。


今回のリニューアルを見て、アメリカ的な合理主義を見たように思う。「安く売るために何をするか?」
「安く売るためには販売管理費を徹底的に詰めていかなければ行けない」、そんな考え方のもとに
考えられることを順次実行に移したのであろう。魚や肉や総菜など、今まで店内の厨房でパックして
いたのを止め、パックセンターを作り、そこで一括パックして各店への納品に切り替えたようである。
靴売り場の陳列のように、手間暇のかからない販売の思考は衣料品にもあり、男性のズボン等は
ウエストと股下のサイズ別に品揃えしてあり、スソ直しがいらないようになっている。
ほとんどの商品陳列は夜間に行い、昼間に商品の補充の必要のないように、品数を絞り込んでも
1品当りの陳列量を多くする売り場作りをしている。
発注は全てパートタイマーがやり、その補助としての発注在庫管理システムをアメリカから導入した。
各フロアは常時社員1人(1日2交替、週休2日の為3人)が基本で、あとは全てパートタイマーで
運営することが基本になっているようである。
そんな施策の積み重ねで、徹底した販売管理費(特に人件費)の削減がなされたように見える。

今まで、ヨーカ堂も西友もイオンもダイエーも、同質な競争の中での覇権争いをしていたのである。
そんな中で西友が外国資本に変わり、少し様相が変わってきた。頭が変われば考え方も変わる。
「品揃えやクオリティーにこだわらず、日常使うものを徹底して安く売る」、創業当時の主義主張が
ぼけていたスーパー業界にとって、原点回帰の一つの方向のように思われる。さて他のチェーンは
どうしていくのか?「基本に忠実、変化に対応」これはヨーカ堂のモットーである。しかし今の環境の
変化に一番対応できないなないのはヨーカ堂だそうである。それは鈴木敏文という78歳になっても、
いまだ権力の座に居座りつづけ、頭(トップ)が変わらないことの弊害でもあるようだ。

「さあこれから流通業界はどうなって行くか?」、こんな事を考えながら売り場を見て歩くのも過去に
流通に携わり、今は評論家でいられる私の一つの楽しみでもある。


2010年11月26日 | 日記
そろそろ近郊の紅葉も見頃だろうと思い、東武線にある「国営武蔵丘陵森林公園」に行ってみた。
この公園は埼玉県の滑川町にあり、東西約1km南北約4kmのこの敷地は東京ドームの約65倍
ほどの広さ(面積304ha)がある広大な自然公園である。前回行った茨城の「ひたち海浜公園
(153ha)」立川の「昭和記念公園(148ha)」の倍の広さがあり、歩きごたえのある公園である。
この公園、森林公園とうたっているだけあり、遊技施設等は少なく敷地の90%以上が林である。
林間を縦横に走る小路をたどると、所々に紅葉した木々が混じり合って見える。今年は寒暖の差
が大きく、紅葉も色鮮やかという報道もあるが、私が見た限りは猛暑による葉っぱの痛みが激しく
全体としてはあまりパットしない紅葉のように思ってしまう。

歩き疲れて公園のベンチに座り、ふと空を見上げた時、真っ青な空に点々と雲がたなびいているの
が目にとまる。その雲をじーっと見つめると、ほんのわずかづつ右から左へ流れて行くのがわかる。
雲は高い空にあるのだろう、その動きは止まっているように見えるものの、しかし少しづつ形を変え
ながら確実に流れていっている。その雲を見ながら子供の頃を思いだした。

昔は幼稚園が少なく、希望者はクジ引きであった。私はそのクジに外れ幼稚園には行けなかった。
近所の友達はみな幼稚園に行ってしまい、兄は小学校へ通う。母は弟の面倒を見ることに忙しく、
私一人が取り残されてしまったようで、誰とも遊ぶことができず、独り遊びの日々だったように思う。
そんな時、縁側に寝転んでよく雲の流れるのを見ていた。抜けるような青空、何と広いのだろう?
この空のさらに上はやはり空なのだろうか?雲が流れてやがて太陽を覆い隠す。太陽が雲に隠れ
てもその所在はぼんやりと分かる。雲が流れるから、もう少し待っていれば又太陽が顔をだはずだ。
そんなことを思いながら飽きることなく雲を見つめていた。

小学校の何年生の時だっただろうか、夏休みの自由研究に「雲の観察」をテーマにしたことがある。
夏の空を眺め、特徴的な雲を見つけると、それをスケッチし、図鑑で雲の名前を調べて日記風に
仕立てる。しかし観察し始めると、いつも同じような雲で、特徴的な雲はなかなか現れてくれない。
しかも、雲には正式な分類名(巻雲、乱層雲、積乱雲等)と、俗称(すじ雲、さば雲、入道雲等)
があり、どちらも種類が多くないのである(せいぜい10種)。自分としてはなかなか良いテーマだと
思ったっのだが、毎日々同じような雲を描くしかなかった。途中でテーマを変更することも出来ず、
内容の貧弱な見劣りするレポートになってしまったことを憶えている。

そんなことがあったからか、大人になっても雲を眺めることは多かった。散歩をしていて風景の中に
雲が美しいと思うと、ついつい写真を撮っている。(下の写真は散歩の時々に撮った写真である)
雲は空高くにあると、空をどこまでも高く大きなものに感じさせてくれる。空の低くに、たなびく雲は
刻々と形を変えて流れていき、大気の流れの速さを感じさせてくれる。雲の呼び名は少なくても、
雲の形はどれ一つ同じものはなく、一瞬たりとも留まることもない。

私にとっての雲は「自然」を感じるさせてくれる最も身近な存在のものように思う。今、自分が生活
している周りは、人の手が加わった人工物に囲まれている。庭木も公園も近隣の山々でさえ人の
管理下にあり、人の意思で変更可能な存在である。どこにも自然を感じさせてくれるものが無い。
この日本と言う国の中で、この狭い東京の中で、しかも多くの人に関わらなければいけない社会の
中で生活していると、しばしば自由を奪われているように感じ、発狂しそうになってしまいそうである。

そんな時、誰の意思にも関わらない自由な一人になりたい時もある。そんな時、何にも束縛されない
自然に接してみたくなるのである。私にとっての自然とは人のコントロールが不可能な世界である。
それは「海」であり「雲」なのであろう。誰もいない海岸で、岩に打ち寄せる波を見ていると、その
膨大なエネルギーと恐ろしいような奥深さを感じる。広く澄み渡った空を見上げ、雲の流れを見て
いると、自然の雄大さと果てしなさい広がりの中に、ちっぽけな自分を感じ、その中に包まれている
「私」を思うのである。そんな海や雲を見ていると、自分の心が洗われるように感じて、癒しを感じる
のであろうか。暖かな小春日和の昼下がり河原の土手に寝転がり、日がな一日雲を眺めて過ごす、
そんなシュチュエーションが、自分にとっての至福の時なのではないだろうかと思うこともある。

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            

            



続続・パスタの店

2010年11月19日 | 日記
一昨日、9月17日のブログで書いた友人のパスタ店に行ってみた。オープン後は2度目である。
店が空くだろう2時に店に入る。狙い通りお客さんはいなく店内は彼と奥さんの2人だけであった。
本日の来店者は私で7人目だそうである。早速メニューの中から「ベーコンと季節の野菜(和風味)」
を選んで注文する。待つこと5分程度で、奥さんがカップに入ったコンソメスープを出してくれる。
それからさらに10分で、注文のパスタが出てきた。(上の写真)

麺は太めで生パスタの特徴であるモチモチ感がある。ダシはトマトベースの和風味、彼のこだわりは
化学調味料は一切使わないことだそうだ。食べ終わってみると皿にたっぷりスープが残っている。
残すのはもったいないくらいの味なので、スープーンでスクって飲み干してしまった。
食べ終わってから、彼が「どう思う?」と感想を求めてくる。私は料理の味を振り返って考えてみた。
彼が求めているのは、「美味しかった!」という賛辞ではないはずである。あくまでも客観的な評価
であろう。他にお客さんがいないから、彼と客席で話し始める。

10月の客数は(AM11:00~PM3:00の4時間営業、23日間稼働で)350人だそうである。
「お昼に1日10人のお客さんが来てくれれば持ち出しにはならない。それ以上が自分達の手取り」、
と言うのが、当初彼が描いたアバウトな計算である。11月からは夜の営業(予約のみ)を始めた。
近くの団地にチラシを投入して歩き、そろそろ本格稼働の体制を取るのだということである。

しかし11月になってから、開店当初の初見のお客さん、知人友人でお祝いで来てくれたお客さんも
一段落したのか客数が落ちて来たそうである。そうなると、彼の「心配の種」が芽を吹き出してしまう。
「席が少なく(6席)、今まで来たお客さんで待ってもらった人に、敬遠されたのではないだろうか?」
「席が少ないからゆっくり出来ず、食べたらすぐ出なければと思われて、落ち着かないのだろうか?」
「珈琲が欲しいというお客さんもいる。長居になるからと置いていないが、さてどうしよう?」
「メニューの幅はこれでいいのか?」 「日替わりなどでメニューを変化させた方が良いのだろうか?」
「メニューを増やせば増やすほど食材のロスが多くなるが、どのあたりで折り合いをつけるべきか?」

そんな不安を持ちながら日々営業している時、「美味しいかった。又来るよ」と言ってくれるお客さんが
いると大きな励みになるという。そして開店から毎週のように通ってくれるお客さんも何人かいる。
そんなお客さんを見ると「自分の味が評価されたんだ」という気持ちにもなり、自信にも繋がるという。
一喜一憂してはいけないと自分を戒めてはいるが、やはり不安は付きまとう。今は当初考えたことを
着実にこなし、何とか来年1月までに営業を続けられる目途を付けたい。そんな風に話してくれた。
(11月から座敷にテーブルを置き、4席増やして計10席にしたそうである) 

これからは私の感想と意見である。
彼が始める前に言っていた「丁寧に美味しく作れば、いずれお客さんに認められる」という言葉通り、
料理は美味しく仕上がっていると思う。化学調味料を使っていないから、味は少し薄いが、まろやかで
万人向きである。反面、なんとなくインパクトが足らないように思ってしまう。手を抜かず丁寧に作った
「家庭の味」、そんな表現が一番似合うのではないだろうか。
このパスタ、スープ付きで1000円である。要は「何人の人が、この内容を1000円で認めるか?」
であろう。これを1000円で評価してくれる人もいれば、これでは高いと評価しない人もいるだろう。
評価してくれる人が多ければリピーターが増えて、口コミで広がって行く。評価しない人が多ければ
営業が成り立たたない。お客さんは自分のお金で自分が食べるのだから、その嗜好に妥協はない。
考えてみれば飲食業とは厳しいものである。

私が思うのは、都心でこの味であれば、チェーン店に不満を持つ若い人達には評価されると思う。
しかしこの地は郊外も郊外で、駅から歩いて10分のところにあり、フリーの客は望めない所である。
客は中高年が中心、顧客の広がりもほとんどが口コミが頼りで、常連客中心のお店になると思う。
店内装飾は彼自身が飾り付けをし、家庭的な雰囲気を醸し出している。家庭的な味で家庭的な
雰囲気では、この地においてあまりインパクトを持たないのではないか?と思ってしまうのである。

今の味付けは彼の職人としての味覚だから、これを変えればおかしくなる。だから私は視覚的な
インパクトを作り上げればどうだろうかと思う。例えば、私が今日食べた写真のパスタであれば、
野菜を今の倍ほど使って特徴を出すとか、例えばスープは今の小さめなカップから大きなカップに
変えて、たっぷり飲んでもらうとか、ボリュームのあるサラダを付けるとか、等々。味だけに頼らずに、
店の「売り」をビジアルに表現出来れば、他店との差別化になり固定客が着くように思うのである。
(私はどちらかと言えば味覚音痴の方で、味の評価に自信がないから視覚を重視するのだろう)

中高年が多いマーケットだから、価格を落とすより、麺の量を増やすより、野菜の量を増やした方が
インパクトが強いように思う。原価が50~100円アップするかもしれないけれど、お客さんが来て
くれなければ話にならない。来てくれれば充分採算が取れるように思うのである。チェーン店のように
あまり細かな原価計算にとらわれず、お客さんの満足度を上げていくことを優先させたほうが良いと
思うのである。人は満足すれば、人に話し人を連れて来る。「あの店のパスタは○○が良いんだ」と
人が語ってくれるような「何か」が欲しいように思うのである。

こんな事を言いながら私はあくまでも無責任な評論家の立場である。しかし彼は私の大切な友人、
ぜひ成功してもらいたいと願いながら、これからも毎月1度は食べに行ってみようと思っている。


            
                       カウンター6人席

            
                      増設した座敷の4人席

            


    ホームページURLアドレス  http://www.nama-spaghetti.com/menu1.html

もの忘れ

2010年11月12日 | 日記
                         奥多摩 鳩ノ巣渓谷

先週、昔の同僚に誘われて奥多摩へハイキングに行くことになった。青梅線の古里(コリ)駅で降り、
そこから多摩川沿いに上流に向かって、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を通り奥多摩駅まで歩くコースである。
11月の初旬はまだ紅葉時期には早く、緑の木々の所々に、うっすらと黄色が混ざる程度である。
途中釜めしの店で昼食をし、4時間程度歩いてから、奥多摩駅手前の「もえぎの湯」という温泉で
入浴して帰ることにした。温泉は無色透明で無臭であるが、ねっとりと肌にまつわり付く泉質である。
しかし温泉から上がると、意外とあっさりとしてべとつきもない。休憩室で汗を冷まし、さあ帰ろうという
ことで、受付で下足札を貰おうとしたら、入場時にもらったロッカーキーと引き換えだという。

ポケットを探すがそのロッカーキーが見当たらない。着替え終わった時、確か持って出たはずである。
シャツ、ジャンパー、ズボン全てのポケットを探してみる。しかし何処にも見当たらない。受付でその
旨を話すと、料金表の下にある文面を指さし、「紛失の場合は5000円いただきます」と言われる。
こんなことで5000円はバカバカしい。着替え室を探し、休憩室も探すが、何処にも見当たらない。
「リュックには入れてはいない」と思うものの、念のために紐を解いて探し始める。せっかく冷めた汗が
また噴き出して来た。暑くなったのでジャンパーを脱いだとき、自分の左手首にロッカーキーがはめて
あるのに気が付いた。「あっ、有った」と、ほっとする。しかし、自分の不甲斐なさに愕然としてしまう。

ロッカーキーはゴムバンドになっているから、温泉に入っていた時は手首にはめていた。しかし着かえ
終わって出てくる時は確か手に持っていたのである。何時の間に手首にはめたのかの記憶が無い。
無意識ではめたのか?それともはめたことの記憶が休憩室で皆と喋っていた時に消失したのか?
「自分の行動が記憶に残っていない」と言うことは、酔っ払って家にどう帰ったのか憶えていないのと
同じような現象なのだろう。自分の行動が自分の意識下になかったことが不安になり、自分に対して
自信喪失したような感覚が襲ってくるのである。

「もの忘れが激しくなる」、これは歳をとったことのバロメーターかもしれない。この物忘れも年相応の
もので有れば問題ないのだろうが、物忘れが頻発してくると痴呆症だアルツハイマーだと言うことが
気になり始める。アルツハイマーの患者は推定100万人、75歳以上で5人に1人発症するらしい。

私の友人に、奥さんに「あんたは、まだらボケ」と言われ、自分の記憶に自信を失っている人がる。
思い出せる記憶と忘れてしまった記憶とが歴然と妻には判る。それがまだら模様だから「まだらボケ」
なのだそうである。彼と話してみて、私の記憶の中で2人で出張したこと、遊んだことなど、今までの
付き合いをたどって聞いても、「そんなことはなかったぞ」とか、「お前の方が間違っている」と、言い
返されることが多い。言えば言うほど彼は落込んでしまうので、あまり古い話はしないようにしている。
食事を終えて「今日は俺が払う」と言うと、「お互い貸し借りは止めよう。俺が覚えていなくて不愉快
な思いをさせるかも知れないから」と言う。それほど自分の記憶に自信を失っているのである。

先週から「記憶」についての新書を読んでいる。人の脳の中で「記憶」がどのような行程で獲得され、
どのような形で保存されているのかと言う本である。

人の脳の神経細胞(ニューロン)は1000億個、一つの細胞が1万個のシナプス(神経細胞どうし
の接点のための突起)を持つ、したがってこのシナプスの総数は人の脳で1000兆個になるらしい。
この神経細胞のネットワーク(回路)が脳である。人の目や耳、鼻や味覚や皮膚などの五感から
入ってくる情報は一旦脳の中の側頭葉に入る。側頭葉に入った情報は海馬(かいば)に送られ、
そこで記憶すべきかの取捨選択が行われ、約1ケ月経過すると再び側頭葉に戻され保存される。

記憶とは神経回路の中を走った活動電位(ナトリウムイオンの流れ)が記憶され、流れやすくなった
回路痕跡なのである。ある事柄を思い出そうとした時、脳に蓄えられた過去の記憶(痕跡)を探す
ために、脳の各所に活動電位を送り込む。そして痕跡に活動電位が到達したとき、このシナプスが
活動することが他よりはるかにしやすくなっている。したがってこのシナプスに蓄えられた記憶こそが
今思いだそうとしたものとして想起されると言うことである。記憶とはシナプスの結合の増強が長期的
に持続されているという現象を言うのだそうである。

人の神経細胞は子供のときが一番多く、歳をとるほどにどんどん減って行く、そのスピードは1日に
数万個、毎日々次々に死んでいくので、脳の重さは70歳になるまで5%も減ってしまうらしい。
神経細胞は(1部の細胞を除いて)他の体細胞のように増殖する能力が無い。だから減るにまかせ
ることになる。アルツハイマーはこの神経細胞の死滅が激しくなり、脳が委縮していく病気である。
特に記憶を司る側頭葉や海馬がダメージを受けるので、記憶力が極端に衰えて行くようである。


記憶は何種類かの階層を作って保存されているという。下層に行くほど忘れにくい記憶らしい。

1・短期記憶(30秒~数分以内に消える記憶) 〈個人に意識のある記憶〉
    電話番号を打ち込む時など、わずかな間覚えておく記憶
2・エピソード記憶(個人の思い出) <個人に意識のある記憶〉
    自分の喜怒哀楽が絡んでの体験記憶
3・意味記憶(知識) 〈自分の意識が介在しない潜在記憶〉
    漢字や物事の意味や知識等(学校で覚えること)
4・プライミング記憶(サブリミナル効果) 〈自分の意識が介在しない潜在記憶〉
    いつの間にか無自覚に記憶している記憶。
5・手続き記憶(体で覚えるものごとの手順) 〈自分の意識が介在しない潜在記憶〉
    キャッチボール、自転車や自動車の運転など無意識で発現できる記憶

これら階層による記憶種類は成長とともに少しづつ得意不得意が出てくるようである。例えば若い
頃は意味記憶(知識の記憶力)がよく発達する(学校での勉強は若い時に限る)、上層階にある
エピソード記憶はある年齢からでないと記憶できない。幼児期の思い出がないのはこのエピソード
記憶ができていないからのようで、年齢を重ねるに従って完成してくる。
「絶対音感」の記憶は3~4歳が臨界期、「九九」を覚えるのは10歳まで、言語を覚えるのは
6歳までがベターなど、記憶するときにはその年齢に合った記憶の仕方があるようである。だから歳を
とってからの記憶は、若い時のような丸暗記ではなく、エピソード記憶が発達したことを活かし、論理
だった記憶に変更した方が覚えやすいし、よく活用できるようである。

人は歳のせいで覚えが悪いと嘆く。しかしそれは自分に対しての言い訳をしているのだそうである。
昔自分がものを覚えるためにどれほど努力したのかを忘れている。勉強がその生活の大半を占める
学生時代でも、ひとつのものごとを習得するのに、かなりの時間と労力を必要としたはずである。
こうした苦労した経験を忘れ、ただ老化を嘆くのは愚かな行為であり、「もの忘れがひどいと」と思う
のは、忘れてしまって思い出せないのではなく、単に初めから覚えていない、と言うことだそうである。
「覚えたつもりになっている」、その勘違いが記憶の停滞を引き起こすことになるようである。

歳をとると、しばしば物事に対する情熱が薄れてくる。一つのことに熱中出来なくなってくる。感動も
薄くなる。すると記憶力はてきめんに低下していく。そして歳をとって記憶力が落ちたように錯覚して
しまう最大の原因はここにあるようである。生きることに慣れてしまっている。これではだめで、常に
環境の刺激に敏感になり、緊張感を保ち続けることにより、記憶力は増強されていくようである。

歳をとるに従って高血圧や糖尿などで、脳への血流が悪くなり、神経細胞の死滅が激しくなるのも
確かなようである。しかし生き残っている神経細胞や神経回路は依然その機能を発揮している。
だから、もの忘れが激しくなったと感じるのは、「覚えた」と錯覚しているだけで初めから覚えていない
のかもしれない。そして物事に対する情熱も感動も緊張感も「生き慣れた」ことで低下しているのも
確かなのであろう。温泉でロッカーキーを手首にはめていたことを忘れてしまったことも、自分の
緊張感の欠如なのかも知れない。初めに「紛失の場合は5000円頂きます」ということが分かって
いれば、その時々でロッカーキーの所在を気にしていただろうと思う。

青年期のような純粋さ直向きさ、世の中に対する興味や緊張感、そんなものが失われてきたことが
もの忘れに繋がっているのは確かであろう。この歳になると、若者のようなハツラツとした生き方は
無理としても、せめて物事に対する興味と向上心だけは失わないようにしたいものである。

              
                          奥多摩 数馬峡

             


             


             



                       

喫茶店

2010年11月05日 | 日記
                      朝のエクセルシオール・カフェ

喫茶店には良く行く方である。朝出勤前に立ち寄る駅構内の「エクセルシオール・カフェ 」¥290。
仕事の昼休み、食後に行く会社付近の喫茶店(個人)¥450円。仕事で外出の時間調整等で使う
「ドトールコーヒー」¥200、「スーターバックス」¥300、休日に地元で友人と待ち合わせで使う
「カフェド・クリエ」¥250円、車でコーヒーを飲みにいけるマックやロッテリアの郊外型店等々である。
コーヒーを飲みながら朝の新聞をゆっくり読む、親しい友人と語らう、静かに本を読む、ぼんやりする。
私はコーヒーの味が解るわけでも、うるさいわけでもない。しかし喫茶店に入ってゆっくり椅子に座り、
珈琲を前にすると落ち着いた気持ちになる。「珈琲タイムは自分の時間」そんな感じになるのである。

最近は安いチェーン店に押され、個人経営の喫茶店が極端に少なくなってきた。反面、個性的な
喫茶店もポツリポツリと出来始めている。古民家風な店、昭和レトロな店、木を生かした店内装飾
の店、コンクリートがむき出しになった前衛的な店、窓を広くとって庭を見せる開放的な店、それぞれ
の感性で喫茶のひと時を楽しんでもらうように考え、作られた店である。
セルフサービスの店は300円以下の値段であるが、座席の間隔も狭く落ち着いた気分にならない。
しかし値段との兼ね合いから、これはこれで妥当なように思う。反対に400円以上で珈琲を飲むので
あれば、コーヒーの味にプラスアルファを求めたくなる。店内の調度家具、食器、音楽、景色、静かさ、
ゆったり感、接客、そんなものを総合評価し自分なりの評価点を付けて行く。そして自分の基準で
高い点数の喫茶店が「お気に入りの店」になって行く。
学生時代や職場や通勤途中にそんな「お気に入りの店」は何店かあった。自分の肌に合うというか
自分の感覚に馴染むというか、そんな店である。そんな店に入ると自分の座る位置も固定してくる。
その場所に他の人が座っていると何となく腹立たしい気持ちにもなってくるのである。

先日『マザーウオーター』という映画を見て来た。『かもめ食堂』のスタッフとキャストが集結して作った
映画と言うことである。今回は古風な京都の住宅地が舞台である。映画の中で登場する主人公の
一人に喫茶店を営む女主人(小泉今日子)がいる。彼女の店は道に面し広い窓があり、その前に
カウンター席がある。店の中央には古い肘掛けの椅子と古いテーブルがある。銭湯の主人(光石研)
は何時も同じ席に座り珈琲を飲みながら文庫本を読んでいる。この映画の主題の「心地よいリズムと
安らぎ」を表現する一シーンなのだろう。こんなシュチュエーションは誰もが持っている「安らぎ」の
ひと時なのだろうと思う。「定位置に座り自分の時間を過ごす」、喫茶店の効用とはこんなところに
あるように思う。  ※この映画、私には少しぎくしゃくした違和感を感じるところが多くあった。

映画を見終わって池袋のジュンク堂へ本を買いに行った。店内をウロウロしていて4階の奥まった
場所に喫茶店があるのを発見した。店内を覗くと4~5人の客が思い思いの場所に座り、静かに
本を読んでいる。書店の中にある喫茶店だから当然なのであろう。窓の外はウッドデッキテラスに
なっていて、そこにも椅子とテーブルが並べてある。私は誰もいないテラスに出て珈琲を注文する。
11月の柔らかい日差しが体全体を包むように降り注ぐ、両手を高く突き上げ背伸びをしてみる。
それから買ってきた新書を読み始める。本好きにとってはたまらないスポットである。

映画の中の喫茶店、本屋の中の喫茶店、喫茶店がキーワードになって、自分のお気に入りの店を
広げてみようと思いついた。珈琲を飲み終えて、喫茶店紹介の本を探しに、もう一度書店の中を
歩いて見る。雑誌のコーナーに、見覚えのある店が表紙になった「東京カフェじかん」という雑誌を
見つけた。この店は入谷にある「入谷プラス」と言う店である。何となく親しみを感じてぺらぺらと
ページをめくってみると、都内の個性的な喫茶店約100店が写真入りで紹介してある。これから
都内を散歩する時、近くにこの本に掲載されている喫茶店があれば入ってみることにしようと思う。

歳を取ってくると自分に目標が無くなってくる。だから何かに刺激された時に、思い切って実行に
移した方が良いのだろう。「喫茶店巡り」、自分としてはなかなか良いテーマ設定だと思っている。
月に1店か2店であればそんなに負担にならないだろう。喫茶店に立ち寄り店の雰囲気を味わい、
そしてそれをデジカメに収めてファイルしておく。何年かすればその数は何十店にもなるだろう。
散歩のファイルに喫茶店のファイル、色んなものを自分のパソコンにファイルしておけば、記憶の
再生もしやすいし、ボケ防止になるかもしれない。それと自分の「お気に入り」が増えることで少しは
豊かな気持ちになれるかもしれないと思う。

           

                     ジュンク堂内の喫茶室

           

                    ジュンク堂喫茶室のベランダ

           

                   会社の近くの「うさぎ」という喫茶店

         

2010年10月29日 | 日記
             パノラマ写真 (カーソルを動かしてみてください)


昔は四季の中で春が一番待ち遠しかった。寒い冬がやっと過ぎ、コートを脱ぎホットする季節。
春になると風呂上りにパジャマのまま庭に出る。火照った体が春の外気に触れて気持ちが良い。
長い間、夜空を見ていても冷えることもない。そんな時に春の夜の心地よさを感じたものである。
しかし近年は少し様子が違ってきた。冬はあまり寒くなくオーバーやマフラーなしでも充分である。
暖冬が当たり前のようになると、季節のメリハリがなくなり、いつの間にか春になってしまっている。
それと反対に長く暑い夏になると秋が待ち遠しくなる。「こんなに暑いと、何処も出かけたくない」、
ついついそんな気持ちが起きて、暑さが行動の制約になる。そんなうっぷんが高じてきて、涼しく
なる「秋」が待ち遠しく思うのだろう。

しかし今年の秋はスッキリしない秋である。夏の暑さがやっと和らいだと思ったら雨の天気が多い。
ここ2、3日はあっと言う間に秋を通り越し冬に突入した感じである。「例年こうだっただろうか?」
「これも異常気象なのだろうか?」、そう思うほど秋らしい日が少ないように思ってしまうのである。
「天高く・・・」ではないが、空が澄み、高く広く感じられるのが、私のイメージする「秋」なのである。

通勤途中で見たJRのパンフレットで「ひたち海浜公園」が気になっていた。パンフレットの写真の
コスモスの花やコキヤ(ほうき草)の真っ赤な色が、いかにも秋を感じさせてくれるからである。
先週の23日土曜日は久々に秋晴れの天気予報であった。「さあ、秋を満喫しに行ってみよう」
そう思って、そのパンフレットの茨城県ひたちなか市の「国営ひたち海浜公園」に行くことにした。

上野からJR常磐線で水戸の次の駅、勝田で下車、そこからさらにバスに乗って20分である。
そこに広大な公園がある。総面積は350haで、東京ディズニーランドの5倍程度の広さと言う。
(実際に公園に利用されているのは153haで、立川の昭和記念公園(148ha)と同じくらい)
この公園は「花の公園」と言われて、四季を通じて色とりどりの花が見られるように工夫してある。
入り口で園内の地図をもらう。「さあこの広さ、どう歩こう?」と迷うほどの広さである。久しぶりに
良い天気である。歩くことを優先して、園内を左周りに、大きく一周することにした。

雲もなく空は晴れわたり、空の広さと高さ、澄み渡るすがすがしさを感じる。歩いても暑くはない。
大勢の人が来ているのであろうが、これだけ広いとじゃまにならない。園内のあちらこちらに季節の
花が咲き乱れる。園内2ヶ所に広大なコスモス畑があり、今真っ盛りである。先日行った立川の
昭和記念公園よりスケールは大きい感じである。広々とした草原があり、海に面して砂丘があり、
「みはらしの丘」には真っ赤に色付いたコキア(ほうき草)とコスモスで彩られた丘が広がっていた。
このスケールと管理の良さ、さすがに国営だと感心する。もう少し近ければ四季折々に来てみたい
と思うのだが、上野から鈍行2時間10分は少し遠すぎる。(特急利用だと1時間10分)
※ 入場料 大人400円  65歳以上200円


№290   勝田(ひたち海浜公園)       10月23日(土曜日)


    

                        中央フラワーガーデン

             

                          キバナコスモス
 
             
   
                     一面のキバナコスモスの畑                     
  
    
                   
                    中央フラワーガーデン  コスモス畑 

            
 
                         ローズガーデン  
                     127種4000株のバラ園  

            


            


            


            



              

           
         
            
                    
                         メタセコイアの並木

            
         
                         メタセコイア
 当初、化石として発見されたために絶滅した種とされていたが、中国四川省の 水杉(スイサ)が
   同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれることも多い。

    
          
                          砂丘観察園

    
  
                            大草原

             
           
                       みはらしの里 そば畑

     
                                
                            里の家

              


     
          
                           みはらしの丘

                
          
                          コキア(ほうき草)

              


               
          
       
    


             

  
    
       
                           みはらしの丘

             
 
                             西池

     

                            公園西口



ガンの告知

2010年10月22日 | 日記
先週ブログに書いた高尾山登山で、いつもこの集まりに参加していたT氏が癌の手術をしたという
報告があった。彼は小水のコントロールが効きづらくなったからと病院で見てもらったら、前立腺癌と
診断され、即入院、即手術ということになったらしい。今は退院して家で療養中とのことであった。
その話が発端になって、山登りに参加した人それぞれのネットワークの中で、癌に罹患した仲間の
話しが続々と出てきた。「彼は胃がんで胃を2/3切除したそうだ」「彼は首のリンパに癌ができ手術
をしたが、発見が早かったから転移はないらしい」「学校時代の友達が肺癌で亡くなった」等々。
今60歳を過ぎると死亡原因の50%以上は癌のようである。だからそれぞれが、いつ癌になっても
おかしくないわけである。癌となれば、近代医学では手術か抗癌剤か放射線治療の3大療法が
一般的である。しかし、高齢になってからの癌の闘病生活は本人も家族も負担が大きく、一旦
退院しても、再発の不安を抱えながらの生活になるようである。

「自分がガンと告知されたらどうするか?」話はそんな風に発展していった。ある一人が「もう70歳
になれば人生の大半を終わったわけだし、ジタバタせず成り行きに任せれば良い。だから俺は手術
などしない」と言う。それに対して「そうはいかないだろう。いざ、死に直面すれば誰でもジタバタして
命が惜しくなる。だからそんに達感出来るものではない。俺は手術をして最後まで戦う」という言う。
たぶん世の中の意見も、手術をしない派は少ないものの、大きくはこのように2分されるのだと思う。

本屋に行くと「がんも生活習慣病も体を温めれば治る」「がんの免疫療法」「患者よガンと闘うな」
「ガンが逃げ出す生き方」等々、近代医療に否定的な本は数多くある。私もその種の本は何冊
か読んだことがある。そんな本を要約するとだいたい下記のようなことが書いてあった。

癌は珍しいものではなく、遺伝子のコピーミスで日常から頻繁に発生している。それを自己免疫が
抑えている。その自己免疫が低下して来た時に、癌の発生が抑えきれず肥大していくことになる。
この免疫は自律神経の支配下にある。人はストレスを抱えすぎると、交感神経が緊張し低酸素、
低体温状態になり、高血糖にもなる。これが恒常的になれば体には良くない状態であり、こんな
状態が長く続けば自己免疫を低下させ、病気になり易くなり、やがて癌の発生につながっていく。

「自己免疫を強化する」そのために副交感神経を優位にするような努力をする。例えば睡眠時間
食事、運動、などを意識してバランスの良い生活を心がける。余暇の過ごし方や娯楽の中の笑い
等で緊張を解くためのストレスへの対応策。それに加え体を冷やさないための工夫やヨガや太極拳
などの有酸素運動、指圧マッサージなどの代替医療を生活に取り入れる等が書いてあったと思う。
人間は緊張とリラックスの間を行き来しながらギリギリのところで健康を確保している。生き方の中で
苦にも楽にもどちらにも偏らない「中庸」の状態が生命にとって最も自然であり病気になりずらい。

読むたびに感じるのであるが、「果してこれが癌にならない最上の方策なのであろうか?またこれが
癌の治癒に繋がるのであろうか?」と思うのである。一般的な外科的な治療法に比べてこの手の
話は嘘ではないと思うのであるが、私には今一つ説得力に欠けているような気もするのである。

さて、私自身に癌が見つかった時にどう対処したらいいのか?自分の死と向き合うわけであるから、
動揺するのは当然であろう。だから今のうちにある程度の心構えを持っていた方が良いように思う。
私の義弟は外科医である。あるとき「自己免疫で癌を治癒することが出来るのか?」と聞いて見た。
答えは、「さあ、分からない。精神的な部分が多く個人差があるから、科学的な根拠には乏しい。
人はいずれ死ぬのだから、どちらが早いか遅いかだけの問題、個人がどちらを選択するかでしょう」
と、つれない返事であった。手術にしろ、抗癌剤にしろ、いずれも対処療法であって、ガン体質が
改まるわけではない。その場はそれで収まったとしても、いずれどこかの癌になる確率は高いという。

自分がガンを告知されたらどうするだろう?、そんなことを考えたとき、まずは自分の病状を把握し
医者に近代医学での可能性を確認するだろう。そしてその時が75歳未満で、今の医療技術で
ある程度の健康を取り戻せるのであれば外科的な治療を行うと思う。それが75歳以上の場合は
ガンはそのままにして成り行きにまかせようと思う。多分、これが私の基本スタンスになるのだろう。
なぜかと言うと、ガン発生の主たる要因が自己免疫の低下によるものであれば、ガンが判ったから
と言って、急には自分の体質を変えることは不可能だと思う。だから体質改善に手間取っている
間にガンの進行は進み、治るものも治らなくなり後悔すると思うからである。そして75歳を分岐と
したのは、その時点では気力も体力も免疫力も相当に落ちているだろうと思う。無駄なアガキを
しても、自分が辛くなるだけで、家族にも大きな負担をかけることになると思うからである。どちらに
しても「自己免疫の強化」はガンになってからではなく、今やれば良いわけである。考えられる事前
の手を打っておいて、それでもガンと告知されれば、それはそれで諦めが得られるように思っている。

ここ10年、年賀の前の喪中葉書が極端に多くなったと思っていたら、最近は周りの仲間の中から、
「誰々がガンで手術をした」、「誰々が亡くなってしまった」、そんな話しが頻繁に出るようになった。
9年前に母が、4年前に父がガンで亡くなった時、両親の後ろに隠れていた自分が、急に前列に
押し出されて、「さあ、今度はお前の番だ!」、そんな風に迫られたように感じたものである。多分
このようなステップを踏んで外堀が埋まり、自分の「死」と言うものが次第にリアルなものになって、
自分の中に覚悟のようなものが出来上がっていくのであろう。

歳をとるということ

2010年10月15日 | 日記
「10月9日(土曜)9:30分、京王線高尾山口へ集合」そんなメールがあって、昔の同僚6人で
高尾山に登ることになった。その日が近づくにしたがって、当日は雨の予報が確定的になってくる。
前日予定通り登るのかと心配で幹事に電話をかけた。「明日は雨のようだけど、決行するの?」
「朝のうちは雲りで、昼から雨が降るようだから、早めに下山して何処かで一杯やろう」との返事。
山に登ることが目的ではなく、集まることに意義があるのだろうから、当然予測された返事である。

しかし、土曜日は朝から雨であった。「まあ集まってからどこかに行って食事でもして解散かな?」
そう思いながらも、一応はコンビニで、昼の弁当と安い雨ガッパを買って傘を持って行くことにした。
約束の9:30分、誰一人キャンセルすることもなく、遅れることもなく、6人は時間通り集まった。
集まったのは61歳~68歳の6人、そのうち現役なのは私ともう一人嘱託で勤めている2人だけ、
あとの4人は皆悠々自適の生活である。誰かが、「今日は雨だから登るのは止め、河岸を変えて
どこかでビールでも飲んで食事でもしよう」と言いだすか思っていた。しかし皆にそんな気配はなく、
リュックからカッパや折りたたみ傘を取り出して用意し始めた。私の予測は完全に違ったのである。

高尾山は中腹に文化財を有す薬王院などがある標高599mの低山である。駅から山頂までは
約100分、今日は雨なので石畳が敷かれた1号路を登ることになった。都心からも近いこの山は
年間登山者数約260万人を越え、世界一の登山者数を誇ると言う。普段の山道は人で行列
になるであろうが、今日は雨だからほとんど歩く人はいない。6人はひと塊りになって歩き始めた。
歩きながら全員が会話に加わる時もあり、2人同士で話す時もあり、集団は離れたり固まったり
しながら緩やかな山道を登って行く。しかし、私ともう一人の現役の2人のペースがしだいに遅れ、
他の4人との距離が開くようになる。彼ら4人は山に登ったり、スポーツジムに通ったり、畑仕事を
したりと、日頃から運動量は豊富で、休日しか歩かない我々と比べるとはるかに持久力が有る。

頂上についても雨は上がらない。早めの昼食をし元来た道を引き返して、2時前に麓に着いた。
それから麓の蕎麦屋で酒盛りが始まる。話しの主たる話題は健康に関するものである。自分の
健康法や共通の友人達の消息や近況や健康状態。そんな情報交換が話しの中心である。
最後に蕎麦を食べ、次回11月19日に早めの忘年会の日時を決め、来春は茨城県の筑波山に
登ることを決め解散する。リタイヤした人達にとっては先の予定を手帳に書き込むことは、何にも
ましてありがたいことなのだそうである。

私はどちらかと言えば単独行動の方が性に合っている。しかし、今はまだ仕事で人に接するから、
プライベートは一人の方が良いと思うのだろう。これが仕事を辞めて社会との関わりが少なくなれば
やはり人恋しくなるのだろうと思う。そう考えて、昔の仲間との会合にはなるべく出るようにしている。
今仕事を通して接する現役の人達、そしてたまに集まるリタイアした人達、私はちょうどその狭間に
位置しているようなものである。そんな中で見えてくるのはリタイアした時の意識の変化と若い人達
との断絶の要因である。

まず会社を辞めると、最大の関心ごとが、会社や仕事に関することから、自分の健康のことになる。
「生きている限り健康でありたい」、これが個人の最大の目標になる。だから会社を辞めた当初は
ほとんどの人が散歩やトレーニングジムや山登り等々で体を動かすことを積極的にやるようになる。
したがって、現役組よりリタイヤ組の方が山登りには強いのである。
次に、現役が仕事や職場を通して生の情報が主体なのに対して、リタイヤ組はどうしてもテレビや
新聞を通しての間接的な情報が主体になってくる。だから政治や三面記事的なものが多くなり、
経済的なニュースや社会情勢についてはしだいに疎くなる。そんなことから、集まれば昔の仲間の
動静が話題の中心になるのは、それが身近で一番新鮮な話題だからなのであろう。
そして、これは個人差があるのだろうが、「夢」が無くなるのである。「家を建てる」、「クルマを買う」
と言うような即物的な「夢」であろうが、「自分はこうありたい」と言うような将来的な「夢」であろうが、
限られた残りの人生の中では「夢」というものが考え辛くなくなるのである。少ない収入、先の無い
人生、そんな中では大きなリスクが負えないのである。だから夢も追えないと考えてしまうのである。
そして「毎日を慎ましく生きる」、これがリタイア組の基本姿勢になってしまう。

考えると、リタイヤしたことで人の意識は大きく変わる。人は「自分の考えが一番正しい」が前提で
あるから、この変化してきた意識で世間を見ると、当然現役の人達に対して批判的になってくる。
よく言われる「今の若い者は・・・・・」に代表されるような意識や言い方である。
歳をとれば取るほど、現場から離れれば離れるほど変化に対応できなくなり、理解出来なくなって
くるのではないだろうか。だから自分が育ってきた環境の方がはるかに良かったように思うのである。

例えば携帯電話、リタイヤ組にとって携帯でメールを打つのは面倒だし、カメラ機能もテレビ機能も
いらない。ましてやスマートフォンなど触る気も起らないのである。電話とは話せれば良いのである。
しかし世の中は日進月歩で変化していく、社会にじかに触れていない人間にとって、その変化に
対応していかなければならない必然性がない。だからその変化に対しては批判的になってくる。
「インターネットや携帯電話があるから、人のコミニュケーションスキルが弱くなる」「テレビや漫画
ばかり見て本を読まないから思考力が衰える」「世の中が便利になるのと反比例して、人の心は
殺伐として潤いが無くなってしまった」そんな批判である。ある意味、昔との比較の中で当っている
のかもしれない。しかし今の若者は携帯やインターネットは社会で生活する上で、必須なツールで、
これなしの生活は考えられない。だから携帯やインターネットが悪いと言われても、理解出来ない
のである。こんな論旨で自分の子供達や若い人を説いても、だれも耳を傾けてはくれないだろう。
それは今の若い人が昔を理解できないのと同様に、今の年寄りが今を生きていながら、今を理解
していないために起こるすれ違いのように思うのである。

こんな葛藤を繰り返しやがて70歳も半ばを過ぎてくると、しだいに気力が失せてきて面倒になる。
「勉強する」「何かにチャレンジする」、そんな事をすることに「何の意味があるのか」と思うようになる。
そして、家でテレビを見て過ごすなど、どちらかと言えば受け身な生活に入って行くのであろう。
リタイヤして、直接社会との関わりが無くなってしまえば、遅かれ早かれ同じような道をたどるのかも
知れない。私は今回のメンバーより少し遅れて、その淵に立っている。あと半年、あと1年、その時は
彼らの後姿を見ながら歩んでいくことになる。その分だけ、人の振りを見て自分のスタンスを正すこと
が出来るだろう。今思うことは「自分が向こう側へ行った時、世の中を観念的に批判することはやめ、
出来るだけ理解しようと努力してみよう」と言うことである。