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朝刊の片隅に載る
将棋名人戦の局面図に見入っては
次の指し手を考えるのが
渋みの趣味とでもいうような
下手の横好き
ちょっとした楽しみになっている

新緑がさわやかな季節
伊香保の旅館で開かれた名人戦
今年も応援しているT名人がやって来た
一日目は一進一退
どちらが優勢とも劣勢とも見分けがつかず
次の一手を予想しながら
(それは勝敗を決める大事な選択)
翌朝の新聞を心待ちにした

―近ごろは友人との行き来もめっきり減り
将棋の相手もままならない
それぞれの事情は知っている
将棋盤と駒は用意して
毎年の年賀状にだけは
また指そうと書いている

考えあぐねた予想は見事にはずれ
T名人敗れるの見出し
投了の図と短いコメント
錯覚がありました
次にがんばります
彼の未来はまだ遠々と続く

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まわりをよく見回して
そのときどきに使い分ける
威勢をはってまくし立てるおれ
友だちみたいに親しみやすいぼく
スーツ姿でめかし込むわたし

そうやって呼び名を変えて
三つの自分を演じるのも
どっちつかずな性格を見透かされるようで
なんだか居心地が悪い
このごろとくに

もう社会人だからわたしにしたら
突然現れた女性
ぼくみたいに少年を語る人が好きと言う
おれみたいな
ついて来いと頼れる人がいいと言う

テレビに登場した
同じ年の社長さんはわたしだったが
年上のロック歌手はおれだった
差出人不明のメールには
たしかアイアムと打ってあったような

大人の世界を隅から眺めていた
わたしと書いて気恥ずかしいころに比べたら
今では平気で言える
よそよそしくも堂々と
わたし

ようやく決めた一人称
自信をもって自分らしくあれ
旧友からの電話では未だ
ぼくもおれも覗かせて

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この一年間に観た映画テレビ・DVD約60本の中で、印象に残ったものです。
新旧混じっています。

●ドラマ編(洋画)
グラン・トリノ
(2008年・アメリカ)

ライフ・イズ・ビューティフル
(1998年・イタリア )

愛と追憶の日々
(1983年・アメリカ)

●ドラマ編(邦画)
ぐるりのこと。
(2008年)

ジョゼと虎と魚たち
(2003年)
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●ミュージカル編
ウエスト・サイド物語
(1961年・アメリカ )

王様と私
(1956年・アメリカ )

シェルブールの雨傘
(1963年・フランス)

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病院の中庭で
白衣をつけた三人の女性が
向かい合って話しをしている

うちの二人は
編み目のバッグを肩にさげている
仕事を終えた帰り際のようだ

車いすに乗ったお年寄りは
ときどき外の日陰でぼんやりしているが
女性がさかんに話していたのは
どんなことなのだろう

薄曇りのやわらかな陽射しが当たる
アスファルトの片隅を
気づかれないよう
少し急ぎめに通り過ぎる

白衣に包まれた会話は
いつも車の騒音にかき消されて
天使の語りべのように
優しさだけを浮かび上がらせている

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ステレオのわきにある棚に
ずいぶん前に買ったレコード
初めて会社に就職したとき
聴きなれた音楽が休日の楽しみだった

髪の長い女性が好きだったから
ジャケットの写真も髪が長かった
いつも元気づけられたのは
拓郎や陽水のフォークソング
友人に勧められたビートルズ

私のなにかが変わったからか
流行が移ったからか
躰にしみる音楽の心地よさは
このごろ味わえなくなった
ときめきよりも想い出ばかり

古くなったレコードは
埃をかぶって
音が出るか分からない
もう一度かけてみようか
新しい流行歌のCDと並べ替えようか

時代よ もう流れなくていいと
気まぐれな一節を
心の中でふと口ずさむ
明日へのささやかな抵抗にも似て

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秋冬もの大セール
淡いコピーに
あて名は今どきマジックの手書き
よほどの暇か時代おくれか

地域広告のクイズに応募し外れたが
代わりに年に二回は葉書が届いた
しつこさは気にしない
うすっぺらな紙切れは
放ってくず籠の底へ

ある日 太めのタイプで
完全閉店
永年のご愛顧ありがとう云々
一度も買ったことはなく
いつか通りがかりに覗いた
街路わきの平屋のウインドー

休まず届けられて二十五年
右肩上がりの筆跡は
知らずとひと目で判るほどに
店主はどんな理由で
名簿を閉じるのか
私の名前はもう書かれない

この日ばかりは
壁掛けの状差しへ入れた

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 前回に続いて高崎現代詩の会、会誌Scramble99号(2009年4月26日発行)に、
「巻頭エッセイ」として拙文が掲載されたので、そのまま転載します。

見えないものを

 
 最近の楽しみの一つは、DVDで映画を観ることです。今はレンタル店に足を運ばなくても、郵便で配達してくれる便利なシステムがあり、それを知ってから急に観始めるようになりました。昨年は暇に任せて百本くらい鑑賞したでしょうか。

 映画の魅力の一つは、行ったことのない風景や人々の暮らし、或いはその国の歴史や文化を、居ながらにして知ることが出来る点だと思います。だから好んで洋画を選んで観ています。
 映画はあくまで娯楽だと考えていますが、作り手のメッセージが感じられるものは、観終えた後も余韻が残るし、作品として素晴らしいなと感じるときもあります。
 さらに気が付いたことは、そんな良い映画には必ず詩のようなものが流れていることです。画面に映らないから分かりづらいのですが、人の想いや空気感など、何かが胸に届いてきます。

 もう一つの楽しみは詩作です。今さら改めて言うのも可笑しい気がしますが、楽しみというより、自分自身の防波堤のような役目として、永く続けて行けたら良いなと思っています。そして最近、意識するようになったのは、見えないものをどう表現するかということです。
 今までは言葉そのものや、繋がりとしての意味しか気に留めていなかったのですが、果たして自分に必要なのは、別のところにあるのではないかと感じ始めています。

 自己解釈をするなら、日常の会話で言葉の役割は人の想いを五〇パーセントくらいしか伝えられず、私のような口下手だと二〇パーセントくらい。残り五〇パーセント以上の伝わらない部分はこの空間に浮遊していて、そこに本当の気持ちや、夢や希望が存在している。そこを詩で伝えるべきではないかと、漠然と考えています。
 言葉の意味以上のもの、イコール見えないものとして意識していて、敢えて譬(たと)えるなら空想や妄想、ファンタジーと言い換えても良いでしょう。

 ここ四、五年前から、あちこち身体の不具合が出てきて、現実の先行きに心細さを感じている日々ですが、映画鑑賞や詩作で見えないものを感じ、自分なりに表現したいと思っています。それがたとえ現実逃避であったとしても…。
 先に詩を書くのが楽しみと書いたのは、そんな見えないものとの出会いが今後どう生まれるのか、自分への未知への期待感も含まれているのかも知れません。



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 高崎現代詩の会、会誌Scramble98号(2009年2月22日発行)に、
「私の好きな詩」と題してエッセイが掲載されたので、そのまま転載します。

星野富弘さんの視線

 
 書棚を覗くと、吉野弘さんと谷川俊太郎さんの詩集がある。両氏とも比較的分かりやすい文体なので、好んで読んでいる。
 もう一冊、星野富弘さんの詩画集がある。詩画という形式なので、純粋な詩として取り上げて良いものかどうか迷ったが、私が出会った言葉として、記してみたいと思う。

 神様がたった一度だけ
 この腕を動かして下さるとしたら
 母の肩をたたかせてもらおう
 風に揺れる
 ぺんぺん草の実を見ていたら
 そんな日が
 本当に来るような気がした
        (「なずな」より)

 初めてこの詩を読んだのは二十歳の頃で、そのとき前橋の職業訓練施設に入っていた。仲間が就職や進学で離れる中で、自分だけが取り残されていく焦燥感があり、精神も沈んでいた。いかに社会で仕事をして人並みに生活するか、そればかりを考えていた。
 たまたま星野さんの詩画展が近くで開かれて、先生の薦めで見に行き、ふと足が止まったのがこの詩だった。この作品だけを見て思ったのか、全体の流れから感じたのか覚えていないが、「俺も頑張らなきゃ」と心の中で呟いていた。
 およそ詩とは無縁だった私が、初めて言葉から湧いた感情だった。この詩の希望と親子の在り様が、私の突っ張った心を溶きほぐしたのかも知れない。
 詩を書き始めてからも、星野さんの言葉には度々ハッとさせられた。

 ひとは 空に向かって寝る
 寂しくて 空に向かい
 疲れきって 空に向かい
 勝利して 空に向かう

 病気の時も
 一日を終えて床につく時も
 あなたがひとを無限の空に向けるのは
 永遠を見つめよといっているのでしょうか

 ひとは 空に向かって寝る
         (「たいさんぼく」より)

 動けぬ身体の定点は、落下した精神を一転して上昇させ、空へそして宇宙まで届くほど、伸びやかで自由な跳躍を見せる。それは私に新鮮な発見をも与えてくれた。
 また「ひまわり」では、花の形状を甲子園の歓声へと導き、しなやかな視線を伸ばして、架空の旅へと誘ってくれる。
 「棘」では「動ける人が/動かないでいるのには/忍耐が必要だ/私のように動けないものが/動けないでいるのに/忍耐など必要だろうか」と煩悶し、「そう気づいた時/私の体をギリギリに縛りつけていた/忍耐という棘のはえた縄が/フッと解けたような気がした」と自身への解放へと着地している。それはその場所に居座る覚悟のようなものとも汲み取れるし、私のように詩を逃げ場所として飛び込んだ者には、胸を突かれたような思いだった。

 詩そのものの技巧より、その言葉がどのような過程を通して生まれたかに興味が湧く。詩画という性質上、絵と連動しているため、置かれた言葉は平明で短い。しかし扱うモチーフは花でありながら、死生観、見えないものへの価値、自己への煩悶、家族、他者への想いなど、その事柄は 多岐に及んでいる。そのしなやかな視線は、置かれた現実をどれほど深く見つめたかの結果だと感じる。
 これは思い過ごしかも知れないが星野さんの詩は、詩画ゆえの平明さからか、あるいは困難な身体状況が前面に出てしまい、周囲からその独自性や創造性に目が向けられないのが残念だなと思っていたが、先日、本屋で、全集として詩がまとめられて、すでに四年前に発刊されているのを知った。 
 永く読み継がれるだろう言葉だと思う



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とおくの唄に耳をすました
かすかな言葉の音階は
見知らぬ暮らしを
おとぎのように奏でている

とおくから来た人に訊ねた
空や空気 食べ物やアパート
地図もひらかずに
うわさに聞いたあこがれ

田舎よりも都会がいい
道ゆく人の語らい
たとえばフランスのカフェ広場
そこで変われる

日ごろのとおくは
となり町の信号まで
見あきた歩道を行ったり来たり
すれ違うのは同じ自転車

汚れた机をあっさり捨てて
どこまでもどこまでも
離れたくなる思い
いったいどこへ

変われるなんて幻想
それとも冒険
いつかだれもたどり着けない
彼方まで

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この一年間に観た映画テレビ・DVD約60本の中で、印象に残ったものです。
新旧混じっています。

●ドラマ編
・善き人のためのソナタ
(2005年・ドイツ)

・イル・ポスティーノ
(1995年・イタリア)

・バージニア・ウルフなんかこわくない
(1966年・アメリカ)
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●ミュージカル編
・マイ・フェア・レディ
(1964年・アメリカ)

・雨に唄えば
(1952年・アメリカ)

・オペラ座の怪人
(2005年・アメリカ)

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