WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

いじめ問題に一言

2006年11月13日 | つまらない雑談

 いじめ自殺が社会問題化している。いじめ問題がマスコミで取り上げられる場合、先生方や学校の対応のまずさが指摘される。糾弾されているといってもよい。もしそのことが原因でいじめが拡大し、自殺に追い込まれたのであれば、まったく不幸なことだ。弁解の余地もあるまい。

 ただ、私は少し異なる見解をもっている。恐らく、多くの先生方はそこで「本当に」「明らかな」いじめが行われていれば、それを放置してはおくまい。にもかかわらず、適切な対応がなされないのは、そこにいじめ問題への対応の難しさが存在するからである。

① まず、何がいじめかという問題である。もちろん被害者側に苦痛が伴えば、それはいじめなのであろうが、実際の教育現場では加害者側がシラをきるという問題があり、いじめの立件には困難が伴うだろう。現代の子供たちは、自分のマイナスになる加害行為を素直に認めるほどには素直ではないからだ。むしろ、皮相な権利意識をもった加害生徒らは、教師に疑われていることに対して人権を盾に抵抗することが考えられる。過度に疑った場合、保護者がやはり人権侵害を盾に騒ぎ立てることもあるだろう。恐らくはいじめがあったことは間違いないが、本人がシラをきっているという状況で、何らかの処分や指導ができるのかという問題がある。疑わしいというだけでは停学や出校停止にできないという学校のジレンマがここにあるのだ。この場合、もちろん加害者の保護者が人権を盾に騒ぎ立てることは容易に想像できる。

② 何らかのいじめ行為が発覚しても、加害者には被害者の痛みがわからず、いじめの認識が薄いことが問題だ。この場合、加害者側の保護者についても同様である。なぜこんなことぐらいでという意識は、加害者の保護者について回るだろう。この場合も何がいじめかということが問題になる。特に、権利意識だけが強く、自分のこどもを甘やかしているような家庭については、なぜうちの子だけ叱られるのか。先生方はうち子を差別しているのではないかという意識を持つだろう。

③ 最近のいじめの形態が、メールやweb掲示板を使った匿名性の強いものが多いことも問題だ。メールやweb掲示板によって被害者本人が知らぬ間に包囲網が築かれ、仲間はずれや諸々の攻撃がはじまるのだ。匿名の発言のため、加害者側の言葉は残虐性を極め、言いたい放題の場合も多い。被害者本人がそれに気づいたときのショックは並大抵ではなかろう。また、このような場合、学校側が状況を把握するのが難しいという問題もある。

④ 問題が発覚した場合、加害生徒をどうするかということにも大きな問題が付きまとう。停学や出校停止にするのがよいだろうが、この場合も、加害者本人や保護者が皮相な人権意識を盾に騒ぎ立てることは想像に難くない。校長もいじめ問題については教委に報告したがらない傾向があるだろう。昇進にも響くことも考えられるし、加害者側・被害者側双方の保護者とのトラブルは避けたいからだ。

 結局、いじめを立件するまでには被害者側・加害者側・それぞれの保護者・人権問題など多くのハードルがあるわけだ。もちろん、それでもその困難なハードルを乗り越えていくべきなのだが、現実には被害・加害の対立する主張や人権問題という聖域の前で先生方は板ばさみになっているのが現状ではないか。

 マスコミ報道をみると、先生方が無能で、あるいは腹黒く、また事なかれ主義で、それがいじめを容認しているといった勧善懲悪的なニュアンスが伝わってくる。しかし、当然のことながら事態はそれほど単純ではない。むしろ、多くの先生方はいじめに対しては「ゆるせない」というピュアな気持ちをもっているのではないか。ピュアな気持ちを持っているが故に、「人権」とか「差別」とかのことばに弱いのだ。当然のことなかせら、先生方は人間である。魔法使いでもスーパーマンではない。「人権」や「保護者の異議申し立て」や「上からの管理」の前に、武器も権限も取り上げられてしまった現代の先生方にそれを期待するのは無理である。酷であるといってもよい。

 文部科学省や教委は、上記のようないじめ認定の諸局面での対応のマニュアルと学校や先生方に与えられるべき権限を明示するべきである。はっきりいうなら、いじめ防止やその他の学校秩序を維持するため、学校に特別の権限でも与えない限り、いじめ摘発は無理な話であり、学校秩序の維持も困難であろう。文部科学省や教委は、自らは安全な地帯に居りながら、何の権限も方策も持たずにいじめと直面し、疲れ果てている先生方に責任を押し付けているように見える。丸腰の学校を諸悪の根源のように糾弾しても何の解決にもならないだろう。

 まさか、だから教育基本法を改正すべきだとでもいうのだろうか。

 ※ 尚、念のために記しておくが、上記のことは教員を擁護するために書かれたものではない。