「半日学校制度」とは、小学校あるいは中学校から大学に至るまで、学校は半日とし、残り半日は実践共同体内での生活(仕事)を通して「学ぶ」ということである。
学校を半日とすることで、現在バラバラになっている「学校教育」「家庭教育」「社会教育」を有機的に連絡し、学校でできないこと(規範教育等)までも学校で引き受けようとしていることを止めさせて、それらを「家庭教育」「社会教育」が役割分担し、今一度、村落共同体で行われていた「学び」を子供から大人まで貫徹させるのである。
そうして、生涯にわたる「教育」、「学習」が人間の生活、人生そのもののあり方として、一人一人の中に位置づくことを「常態」にすることが、重要なのではないだろうか。なぜなら現在は、学校教育までが「学び」で、社会に出てからは「学び」はないものと思っている人が大多数である。しかし、実社会ではそんなことは決してない。どんな生活をしていようが、生きている限りは、常に「学び」はある。
そうなってしまった背景にあるのが、「学習」「教育」の中身と、「仕事」の中身を切り離し、有利な学歴を獲得することが優先されてきた「学歴主義」なるものである。しかし、もはやそれはガタガタになりつつあり、そういった「学校教育」に長期間滞在することによって、青少年の問題も多発しているのである。
また、「教育」を生涯にわたる「学習」とすることで、学校での勉強時間を半日にしたとしても、勉強しない項目がでてくることは避けられるだろう。あるいは、勉強時間を少なくしても、事足りる勉強法を探るのも一つの答えかもしれない。
では「半日学校制度」にするにあたって、学校以外の生活と学習に関しては、具体的にどんなものがあるだろうか?
以下に、考えられる例を示す。
1.家庭の実業(祖父母あるいは父母の職業)の手伝い
2.能力相応の職業に従事
3.農業や林業、漁業あるいは工場等への従事
4.職人見習い等の職業訓練の実践を伴った専門の学習
5.音楽やスポーツ等の子の才に応じた教育をプロ集団内で行う
ここで注意が必要なのが、これらは決して、学校が行う体験学習や実業教育であってはならないということである。
なぜならば、あくまでも教師は、「非実業者」なのであり、実業の深いところまでを伝達することはできないからである。文字通り、「実業」についての教育は、「非実業者たる学校の手から」取り戻すというのも、「半日学校制度」の提案の理由なのである。かつての手工業における徒弟制度や商業における住み込みでの丁稚奉公、そして農漁業での親や地域共同体から伝授していたこと(規範教育等)を「学校」で行おうとしても、それは適切に実施できないという判断である。
では、「学校」の役割は何か?
それは、「家庭教育」「社会教育」の相互連絡的役割である。これらの学校以外の生活での経験を、日々学校で他の生徒と共有することで、他の職業がどういったものであるか、一つの仕事(課題)を終えるのにどれだけの苦労があるのか?等を生々しく身体化できるようになるだろう。これにより、クレーマー等もいなくなるはずである。逆に、他の職業に感謝できるようになるだろう。
そして、他の仕事にも興味を抱くようになれば、次の年はまた別の職業へといったように、ローテーションするのも良いだろう。
そのように、様々な職業をする上で、本当に必要となる最低限の基本的な事柄を教えるのが「学校教育」の役割になっていくのではないだろうか。応用はあくまで、実業で行えば良いのである。
また、今までほとんどないがしろ(ただの暗記科目)にされてきた歴史や地理をとことん追究する場とすることもできる。
「半日学校制度」とすることによって、「教育」の中身と、「仕事」の中身は一体となり、バラバラになってしまった、「学校教育」「家庭教育」「社会教育」を元に戻し、実践共同体に各人が参加することで、「知識」「学び」「わかる」を一体化し、生涯にわたる本来の「学び」を取り戻すことができる。そして、人として生きるうえでの「規範」等もしっかりと根付いていき、入学難や就職難などというものはなくなり、社会全体の活力も取り戻すことができるのではないだろうか。
参考文献:「学力問題のウソ」小笠原善康
「牧口常三郎全集」