古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

垂仁天皇(その1 誉津別命)

2017年06月18日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 第二部の前回更新から少し時間が経ってしまったが、今回より再開したい。崇神天皇の次は第11代垂仁天皇の事蹟を追ってみたい。垂仁天皇は崇神天皇の第三子で母親は御間城姫といって四道将軍の一人である大彦命の娘である。宮は邪馬台国である纒向の珠城宮である。

 后の狭穂姫との間に誉津別命(ほむつわけのみこと)を設けたが、この子は大人になっても口がきけなかったという。書紀では垂仁23年、誉津別命が30歳のときに大空を飛ぶ鵠(くぐい)をみて「あれは何物か」と初めて言葉を発したので、天皇はその鳥を捕えさせようとした。天湯河板挙(あめのゆかわたな)が出雲まで追いかけて捕まえて献上し、誉津別命はこの鳥と遊ぶようになって口がきけるようになった。
 古事記はさらに詳しく記されている。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛び回った末に捕えられ献上されたが、相変わらず子は口をきけなかった。天皇が占ったところ、子が物を言わないのは出雲大神の祟りによるものであることがわかったので曙立王(あけたつのみこ)と兎上王(うなかみのみこ)を付き添わせて出雲へ行かせた。出雲で大神を参拝し、帰りに出雲国造の祖先である岐比佐都美(きひさつみ)が食事を差し上げようとしたときに初めて言葉を発した。
 少し内容が違っているが、いずれも出雲が関係している。国譲りのところで見た通り、邪馬台国は先代の崇神天皇のときに出雲を制圧し、出雲の支配者であった大国主神の霊をなだめるために出雲大社を建てるとともに、大国主神を三輪山に祀った。しかし、垂仁天皇の時代になっても大国主神の祟りを畏れていたのだろう。

 垂仁天皇紀には他にも出雲や丹波がたびたび登場する。大加羅国の王子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は穴門(長門国)から出雲を経て越に着いたという話、新羅の王子である天日槍(あめのひぼこ)が持ってきた神宝は但馬国に収められているとう話、その天日槍は但馬国を居所と定めて出石の女を娶ったという話、狭穂彦の反乱によって后を失った垂仁天皇は丹波国の5人の女を後宮に入れたという話、出雲から野見宿禰を連れてきて當麻蹶速(たぎまのけはや)と相撲を取らせたという話、その野見宿禰は殉葬の習慣をやめて代わりに埴輪を並べるよう提案したところ採用され、出雲から土部(はじべ)百人を呼び寄せた話、物部十千根(とおちね)に出雲の神宝を検分させた話、石上神宮にある八尺瓊勾玉は丹波国の犬が食い殺した獣の腹にあったという話、などである。丹波は崇神王朝と並立する神武王朝側の国であり、四道将軍を派遣するなどして争った国である。垂仁紀が出雲と丹波に関連する話で溢れているのは、崇神王朝がこれらの国々との関係ができて往来が盛んになったからであろうか。あるいは、都怒我阿羅斯等や天日槍の話、野見宿禰の相撲の話などは両国の抵抗が続いていたことが反映されているのであろうか。話の内容から推察するに、出雲は支配下に収めた結果としてヒトやモノの交流が進んだことが反映され、逆に丹波・但馬は抵抗を続けていることが反映されているのだろうと思う。このあとに見ていくことにする。

 余談であるが、垂仁天皇は即位後の垂仁2年に狭穂姫を后として誉津別命が生まれたとなっている。しかし上記の口がきけるようになった話では、垂仁23年に誉津別命が30歳になったと書かれている。后として迎えた時点で誉津別命すでに9歳になっていたということになる。
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