古代日本国成立の物語

小学生の頃から好きだった邪馬台国と古代史。自分なりに解き明かしたいと思い続けて40年。少し真面目に取り組んでみよう。

網野銚子山古墳

2017年03月14日 | 実地踏査(遺跡/古墳/神社/仏閣)
 3月10日、朝6時半の便で羽田空港を出発、大阪空港で乗り継いで小型プロペラ機で兵庫県豊岡市のコウノトリ但馬空港へ。快晴の大阪空港を出発する直前に、但馬地方が悪天候の為に引き返す場合がある、とのアナウンス。いきなり出鼻を挫かれそうになったが、激しい雨の中を突き抜けて何とか無事に着陸。その後、レンタカーの手続きをしているときに思わぬアクシデント。いつも財布に入れているはずの運転免許証がない。いくら探してもない。そして探しながら思い出した。確定申告の本人確認書類として自宅でコピーを取ったときにそのまま放置してしまっていたのだ。3人の中で最も年下の私はメインドライバーを務める気マンマンであったが、断念せざるを得ず、その役割をOさんに委ねることになった。誠に申し訳ない。これこそ出鼻を挫かれるツアー最大のアクシデントだったかもしれない。

 そして3人はまず京都府京丹後市網野町にある銚子山古墳へ向かった。銚子山古墳は古墳時代前期末から中期初頭にかけての築造で、墳丘は三段築成、全長が198mの日本海最大の前方後円墳である。神明山古墳、蛭子山古墳とともに日本海三大古墳の一つとされる。そしてここでもアクシデント。古墳近くまでやって来たのに「工事中のため迂回せよ」との案内板。案内に従って迂回路へ回るも古墳から遠ざかるばかり。結局もとの道に戻って行けるところまで行こうと強引に進むと古墳の前に出た。たしかに道はそこで行き止まりにされ、その横で発掘作業をやっていた。何を掘っているのか聞いてみると「前方部の終端を探している」との返事。Wikipediaによると「主に前方部側で墓地化・開墾による改変が加えられている」とあり、前方部の終端が確定できていないことが推測される。しかし、終端がわからないのに全長が198mとなっているのは摩訶不思議だ。
 「丹後国竹野郡誌」によると被葬者は、崇神天皇の御代に四道将軍として丹波地方に派遣された丹波道主命、または開化天皇の皇子である日子坐王のいずれかであるとされている。




前方部付近の発掘現場。


Wikipediaにあるとおり、前方部の右側から後円部にかけて墓地が広がっていた。


三段築成がよくわかる。各段のテラス部に円筒埴輪が並んでいたという。


後円部の頂上からの眺め。

この平野部は浅茂川右岸にあたり、古代は潟湖であったと推測される。銚子山古墳は葺石で覆われた墳丘側面をこの潟湖に見せる形になっており、海を渡ってきた渡来人や海洋交易民たちに対する権力の象徴として機能したのではないだろうか。この潟湖は離湖(はなれこ)と呼ぶらしい。


銚子山古墳の陪塚とされる寛平法王陵古墳。小さな円墳と思われるが、墳丘上に祠が建てられている。


銚子山古墳前方部と寛平法王陵古墳の間にある「浦嶋児宅跡伝承地」の碑。

浦嶋児とは浦嶋太郎のことである。浦嶋伝説のある丹後半島には翌日に訪ねる予定の浦嶋神社を始めとして浦島太郎ゆかりの地がたくさんあり、ここもそのひとつ。丹後には徐福伝説もあり、ともに海を舞台にその名を残した徐福と浦島太郎。記紀には似た人物がもう1人登場する。神武東征を導いた塩土老翁(塩椎神)である。これらの人物に関係性があるのか、ないのか。

浦嶋太郎の屋敷跡の横にある「しわ榎」。

浦嶋太郎が玉手箱を開けたときにできた顔の皺を投げつけたという説話にもとづく。老齢化と海の塩分を含んだ風雨の影響で枯れてしまったとのこと。


 日本海三大古墳をじっくり観察した後、次の目的地である赤坂今井墳丘墓へ向かった。
 
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