彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「肥田城」

2006年09月04日 | 史跡
宇曽川沿いにある肥田城水攻め堤の跡


有史以来、日本各地で多くのお城が築城されました、彦根市内だけでも彦根城や佐和山城以外にも、市指定重要文化財に指定されている山崎山城や今の高宮小学校にあった高宮城など歴史の影に消えていった城は沢山あったのです。

そんな中で、小さいながらも戦国合戦史に名前を残しているのが肥田城です。
戦国時代初期、近江は南近江守護・六角氏と北近江守護・京極氏が激しい領地争いを行っていました。
しかし、1523年、当時の京極家当主だった京極高清は、国人・浅井亮政(長政の祖父)によって尾張に追われ、近江北部は浅井氏の支配下となったのでした。
翌年には小谷城が完成して、亮政は京極高清と高延親子を客人として迎え入れ住まわせたのです、この場所が小谷城内の京極丸です。
余談ですが、浅井亮政の孫・マリア(宣教師・オルガンチノの洗礼を受けたキリシタン)は京極高清の次男・高吉に嫁ぎ、その息子・高次は浅井長政(マリアの弟)の次女・初を正室に迎えています。

さて、浅井氏が京極氏に代わり六角氏との争いを継承していた頃、今の彦根市肥田町辺りを治めていた肥田城主・高野瀬秀隆は、六角氏に仕えて最前線を守っていたのですが、六角氏を裏切って勢いに乗っている浅井長政に臣従したのです。
これに怒った六角義賢・義弼親子は、自ら軍を率いて肥田城を攻めたのでした。
この時、城攻めの為に採られた戦略が水攻めだったのです。水攻めと言えば羽柴秀吉が備中高松城攻めの時に思いついた、秀吉のオリジナル戦略のようなイメージがありますが、中国では紀元前から使われている戦略で、春秋時代の最後の戦い「晋陽の戦い」で使われたり、後漢末期には曹操もこの策略を採用しているんです。

そして、日本での水攻めの最初がこの肥田城の戦いだと言われています。
1559年、六角軍は、肥田城から200mほどしか離れていない宇曽川と約1㎞離れた愛知川を堰き止めて、肥田城に水を流し込みました。
城に籠もっている高野瀬軍は、浅井軍が援けに来ると信じながらも段々水に浸かっていく城を守ります、しかし精神的に追い詰められていったのです。
もう落城寸前かと思われたのですが、5月28日に大雨によって肥田城を囲んでいた堤防が決壊し、六角氏の城攻めは失敗に終ったのです。
この堤防が切れた場所は今でも廿八という地名が残っています。

明治9(1876)年、この城址らしき場所から壺に入った銭が発見されました。もしかしたら軍資金だったのかも知れませんね。 

ちなみに戦国時代の水攻めは、高松城や肥田城以外にも幾つか例があります。
秀吉の子飼いの官僚・石田三成が秀吉の北条攻めの時に小田原城の支城・忍城を水攻めにしていますが、城主不在の忍城を落とす事ができませんでした。
この件から三成の戦下手の証明とする声もありますが、水攻めは攻める側の大将の卓越した慧眼がないと成功する事がなく、六角親子も石田三成も決して戦下手だった訳ではないのですよ。


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