『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー2「戦国彦根の城郭講座」
の第1回目の講座として『佐和山城をめぐる攻防戦』と題された講義が開かれました。
講師は織豊期城郭研究の第一人者で、長浜城歴史博物館館長の中井均先生です。
4月に引き続き、5月も3回シリーズでひこね市民大学講座『歴史手習塾』がスタート。
『どんつき瓦版』編集部として、昨年の肥田城水攻めのシンポジウムでもお世話になった中井先生の講演です。
5月は『戦国彦根の城郭講座』と題して、1回目は「佐和山城をめぐる攻防戦」とのタイトルでのお話が行われました。
佐和山城と言えば、石田三成が最初に思い浮かびがちですが、中井先生は織田信長が佐和山城を攻めた元亀合戦に注目し、この戦がのちの三木城や高松城、そして小田原城にまで繋がる、取出(砦)と鹿垣で城を包囲する戦の始まりになった事や、この時の取出(砦)の確定などをお話されました。
また今よく知られてる佐和山城に残る遺跡から、この城はいつ頃作られた物か?
そして、佐和山城では城下のキャパが補えなくなった為に井伊家は彦根城に移ったのではないか?という説。
井伊家が関ヶ原の論功で与えられたのは佐和山城であり、『徳川実記』などの江戸時代の記録でも“彦根城”を“佐和山城”と言い換えているところが多数みられるので、井伊家が佐和山城を忌み嫌ったのではなく、目出度い城としていたと考える方がいい。
とも仰っておられました。
講演終了後に、管理人は中井先生に、
「元亀の佐和山攻めは、松永久秀の信貴山城攻めで多くの犠牲者が出たことから、城攻めを力攻めから包囲戦に変えたと最初と観られませんか?」
と尋ね、答えも頂いたのですが、大きな勘違いをしていました…
信貴山城の落城は、元亀合戦より後の話でした。
久秀の奈良東大寺大仏殿炎上の年号と、信貴山城の戦いの年号をごっちゃにしていた為にムチャクチャ恥ずかしい質問をしてしまいました(汗)
あと、佐和山城の最近の発掘についてのお話も少し聞く事ができて、有意義な講演となりました。
次回は「肥田城水攻めと野良田合戦」がテーマとなります。
セミナー2「戦国彦根の城郭講座」
の第1回目の講座として『佐和山城をめぐる攻防戦』と題された講義が開かれました。
講師は織豊期城郭研究の第一人者で、長浜城歴史博物館館長の中井均先生です。
4月に引き続き、5月も3回シリーズでひこね市民大学講座『歴史手習塾』がスタート。
『どんつき瓦版』編集部として、昨年の肥田城水攻めのシンポジウムでもお世話になった中井先生の講演です。
5月は『戦国彦根の城郭講座』と題して、1回目は「佐和山城をめぐる攻防戦」とのタイトルでのお話が行われました。
佐和山城と言えば、石田三成が最初に思い浮かびがちですが、中井先生は織田信長が佐和山城を攻めた元亀合戦に注目し、この戦がのちの三木城や高松城、そして小田原城にまで繋がる、取出(砦)と鹿垣で城を包囲する戦の始まりになった事や、この時の取出(砦)の確定などをお話されました。
また今よく知られてる佐和山城に残る遺跡から、この城はいつ頃作られた物か?
そして、佐和山城では城下のキャパが補えなくなった為に井伊家は彦根城に移ったのではないか?という説。
井伊家が関ヶ原の論功で与えられたのは佐和山城であり、『徳川実記』などの江戸時代の記録でも“彦根城”を“佐和山城”と言い換えているところが多数みられるので、井伊家が佐和山城を忌み嫌ったのではなく、目出度い城としていたと考える方がいい。
とも仰っておられました。
講演終了後に、管理人は中井先生に、
「元亀の佐和山攻めは、松永久秀の信貴山城攻めで多くの犠牲者が出たことから、城攻めを力攻めから包囲戦に変えたと最初と観られませんか?」
と尋ね、答えも頂いたのですが、大きな勘違いをしていました…
信貴山城の落城は、元亀合戦より後の話でした。
久秀の奈良東大寺大仏殿炎上の年号と、信貴山城の戦いの年号をごっちゃにしていた為にムチャクチャ恥ずかしい質問をしてしまいました(汗)
あと、佐和山城の最近の発掘についてのお話も少し聞く事ができて、有意義な講演となりました。
次回は「肥田城水攻めと野良田合戦」がテーマとなります。











佐和山の北の物生山(城跡現存)
南の里根山(今のゴルフ場)
西の彦根山(彦根城がある場所)か尾末山(山が崩されてれいる)
と小野(百々辺り)らしいですよ。
ありがとうm(_秀_)mだんだん
信長らしい周到さですよね。