RYO山泊主人の雑記帳

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっている。

百舌鳥古墳群を歩く ⑫ ~大山古墳とその周辺(収塚古墳・塚廻古墳)その1~

2017-07-16 16:34:29 | 史跡を歩く
 いよいよ百舌鳥古墳群巡りも、佳境に入り、これより一番中心的な、仁徳天皇陵に治定されており、宮内庁により管理されている大山古墳とその周辺を取り囲んでいる陪冢とされる古墳を見て回ることにする。ちなみに大山古墳の周りには陪冢と考えられている古墳が全部で15基ほどある。このうち宮内庁が陪冢として認定しているのが坊主山、源右衛門山、大安寺山、茶山、永山、丸保山、菰山塚、樋の谷、銅亀山、狐山、竜佐山、孫太夫山の12基であり、陪冢であると考えられるも宮内庁により陪冢とされていないものが、収塚、塚廻、鏡塚古墳などがある。宮内庁による陪冢の指定については、考古学者の森浩一氏が著書「古墳の発掘」の中で言及されていた記憶があるのだが、調べるに至っていない。

 さて、今回から数回にわたって「大山古墳とその周辺」ということで、大山古墳の周りにある中小の古墳を紹介してみることにしたい。
 まず、はじめに、JR百舌鳥駅から西へ大山古墳に向かう途中に大仙公園の入り口辺りに丸い塚が見える。これが収塚古墳である。

 

 収塚古墳については、周濠等が埋め立てられており、前方部が削平されているため円墳のように見えるが、本来は墳丘長約58mの帆立貝型の古墳である。古墳の周りには、道路のタイルの色を変えてもともとの墳丘の大きさ等がわかるように工夫されている。

 

 古墳の濠などから、円筒埴輪や朝顔形埴輪、衣蓋型埴輪などが見つかっており、これらの形式から築造されたのは5世紀の中ごろと考えられている。

 

 また後円部の墳長からは短甲などの破片が散乱していたという話もあるが、埋葬施設等については、具体的な調査はなされておらず不明である。ただ、2015年に削平を受けた前方部の発掘調査が行われ、墳丘を覆っていた葺石などが見つかっており、墳丘の規模が確定している。

 ※残念ながら、大学の同窓会と重なり、現地説明会には行けなかった。

 

 収塚古墳から大山古墳の東側の濠に沿って遊歩道を歩いていくと、中ほどに塚廻古墳がある。この古墳も先ほども述べたように陪冢として宮内庁の管理下に置かれてはいない古墳である。ただし、収塚古墳などと一緒に国の史跡としての指定は受けている。

 

 塚廻古墳については、駐車場側で一部フェンスに囲われているが、反対側の方は、フェンスがなく立ち入ることもできそうな感じでもある。墳丘の上には人物埴輪のごとく狸の置物が飾られている。

 

 立ち入ることはできそうではあるが、民有地でもありそうなのでそっとしておくのが無難な感じではある。

 塚廻古墳については、発掘調査などから直径32mの円墳と考えられ、周りには周濠が巡っていたと考えられている。明治45年に埋葬施設が発掘され、木棺と銅鏡や勾玉などの埋葬品が見つかっている。

 

 古墳の築造された年代としては、埴輪や副葬品などから大山古墳と同じ時期、5世紀の中ごろであると考えられている。
 この古墳の北側にある駐車場のあたりからは、大山古墳の墳丘を見ることができる。写真は残念ながら逆光のため暗くて雰囲気がよくわからない。

 

 正直、大山古墳までの大きさになるとなかなか墳丘をきちんと見ることができないのが残念ではある。

 

 ただ、大山古墳については、三重目の濠にそって遊歩道が完備しているので、ぶらぶらと歩いていくのは楽しいものである。
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