RYO山泊主人の雑記帳

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっている。

天王寺界隈を歩く⑥ ~茶臼山と四天王寺の石棺~

2017-04-19 23:54:08 | 史跡を歩く
 逢坂、国道25号線を道なりに歩いていくと、左手に天王寺公園がある。その中に茶臼山と呼ばれる小高い丘がある。大坂冬の陣の時は、徳川家康が、夏の陣の時は真田信繁が本陣を置いたとされ、古戦場として知られている。大河ドラマ「真田丸」の影響か、案内板等を新しく設置して、大坂冬の陣、夏の陣関連の旧跡としてバッチリ推している感じである。

 

 我々のような世代であれば、「じゃりン子チエ」の舞台として覚えているかもしれない。主題歌で「チャブスやまでどんこ釣り」とうたわれていた場所がここである。さすがにどんこ釣りをしている人はいないなあ。天王寺公園がこんなにきれいになる前、30~40年前であれば、あったような気がする。
 その茶臼山については、古墳ではないかとずっと言われている。なんとなく前方後円形に見えるその姿と南側に河底池と呼ばれる池があり、前方後円墳ではないかと言われていた。

 

 また、近くにある四天王寺が荒陵山という山号を持っており、その荒陵が茶臼山であり、四天王寺には茶臼山古墳の出土と伝えられる長持型の石棺の蓋が伝えられている。さらに一見、古墳の周濠と見える河底池は、和気清麻呂が河内川の水を西側の海に流そうとして開削をした跡とも言われている。ちなみに河底池にかかる橋は、和気橋という名称がつけられている。

 

 1986年に行われた発掘調査では、大坂の陣の時のものと思われる遺構や遺物は検出されたものに、古墳を示すような葺石や埴輪などが見つからなかったことから、古墳かどうか疑問視されている。ただ、人工的につくられたのは間違いなく、その工法は、堺市にあった大塚山古墳と同様の手法が取られているらしい。

 

 古墳の周辺は、遊歩道もあり、古墳の墳頂にも容易に上ることができる。
 
 

 ただ、茶臼山の周辺には古墳があったことは間違いなく、周辺からは埴輪が採取されている。茶臼山は、「茶臼山古墳及び河底池」として大阪府の史跡の指定を受けている。
 
 茶臼山から東、国道25号線を挟んで四天王寺がある。四天王寺は、聖徳太子が建立したと伝えられ、日本最古級の寺院である。

 

 南大門、中門、塔、金堂、講堂、そしてその周囲を回廊で取り囲む伽藍形式を四天王寺式伽藍配置と呼ばれ、飛鳥寺式伽藍配置についで古い形式になる。そして、現在の伽藍は戦後に再建されたものであるが、その配置は古式をずっと継続して再建されていることは、戦後に行われた発掘調査で判明している。

 四天王寺の宝物館の前に、長持型石棺の蓋が展示されている。

 

 縄掛突起が8つあり、幅約1.3m、長さ約2.8mというなかなか立派なものである。近くにある茶臼山から運び込まれたとの伝承があり、茶臼山が古墳である根拠の一つとされてきたが、茶臼山を発掘調査をした結果、古墳という証拠が乏しく、また、四天王寺周辺から古墳があったことを示す埴輪片や埴輪棺が出土していることから、四天王寺を創建する際に、大型の古墳を破壊し、その名残が、この石棺ではないかともいわれる。

 

 この石棺は、境内の小溝の橋として使われ、巻物石、蛙石ともよばれていたこともあったらしい。

 四天王寺の創建については、はじめ玉造の方にあり、後にこの地に移ってきたという説もある。実際、発掘調査で出土した瓦などを検討した結果7世紀前半を下らないと考えられている。また、玉造の難波宮下層遺跡では、四天王寺の創建時のものと思われる軒丸瓦が出土している。
 現在の四天王寺は、古代を思いはせるよりは、中世の信仰の跡が色濃く残っている。

 

 西門や石の鳥居は、極楽往生を願う浄土信仰の場として栄え、西門は、極楽浄土の東門に通じると考えられており、ここから西の海に沈む夕陽を眺めながら極楽往生を願ったのである。

 

 
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