沖縄の「もはや戦後ではない」にしたのは基地経済である。県の「県民は過重な基地負担を背負う」は嘘である。



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沖縄の「もはや戦後ではない」にしたのは基地経済である。:県の「県民は過重な基地負担を背負う」は嘘である。
日本本土では昭和31年(1956年)の経済白書で「もはや戦後ではない」とされ、高度経済成長が始まりましたが、ちょうどその時期に、本土の米軍基地の整理縮小の流れを受けて、本土から沖縄に海兵隊の移転が進みました。
戦後、沖縄は、昭和47年(1972年)の本土復帰まで27年間にわたり、米軍の施政権下にありました。本土復帰後も、本土では基地の整理縮小が進む中、沖縄には多くの米軍基地が日米安全保障条約に基づく提供施設・区域として引き継がれ、県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっています。
 
 県は「本土復帰まで27年間にわたり、米軍の施政権下にありました」と書いてあるが、それは嘘である。米軍の施政権下にあったのは1945年からの5年間であった。1950年からは米民政府の統治に変わる。米国は議会制民主主義国家である。米軍は米大統領の指揮下にあり、シビリアンコントロールされている。米軍は軍事を専門に行うものであり政治を行うことは許されていない。沖縄を統治するということは沖縄の政治を行うことである。米軍が沖縄を統治することは許されていなかった。終戦から5年間はインフラ整備のために米軍が統治した。しかし、1950年からは米大統領の直轄になり、沖縄に米国民政府が設置された。その後は祖国復帰するまで米国民政府が統治したのである。米軍ではない。県の米軍が統治していたというのは嘘である。

 県は、本土は1956年から経済成長が始まったと述べているが、沖縄の経済状況については説明しないで、経済とは関係ない海兵隊の移転が進んだことを述べている。経済と海兵隊は関係がない。「もはや戦後ではない」と本土の経済を述べたのなら、本土と比べて沖縄の経済は発展したのか否かを説明するべきである。海兵隊の移転を述べるなら海兵隊の移転が沖縄の経済に影響したのかどうかを県は説明するべきである。ところが説明していない。

「もはや戦後ではない」と経済白書で記述した根拠は戦後の経済が戦前の経済水準を超えたからである。日本の戦中戦後の経済は戦前の経済より低かった。ここで比較している「戦前」とは、1934年~36年平均のことである。36年以降の日本経済は戦争のために足踏みして成長しなかった。戦争が終わり、低迷していた日本の経済は11年目にして1934年~36年平均を超えたのである。そのことを根拠にして経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言したのである。
それでは1956年度の沖縄経済は戦前に比べてどうなっていたのか、戦前の経済より後退していたのかそれとも発展していたのか。それを知るには戦前の経済を知る必要がある。

沖縄県が設置された明治時代から大正にかけての約40年で人口は約20万人増加した。機械式の製糖工場の導入によりサトウキビから砂糖への生産効率が向上し、産業の近代化が行われたことで、経済が発展し、それに伴い人口が増加したのである。さらに官吏や寄留商人の転入も相次いだ。しかし日清戦争、日露戦争の景気後は日本は大不況となる。それに伴い、沖縄県の主要産物である砂糖は過剰供給となり、さらに砂糖の国際市場価格の下落、関東大震災の発生、世界恐慌が追い打ちをかけ、大正末期から昭和時代初めには沖縄の経済はどん底状態になった。沖縄はサトウキビ生産をしていだので、食糧が極端に不足した。ソテツの実から抽出した澱粉しか食せないほどに沖縄の皮脂人は困窮した。その様は「ソテツ地獄と呼ばれた。
経済がどん底状態になった沖縄から海外へ移住する人々が増加した。1899年から1937年までに約7万人の海外移民がいた。自然増加数と海外移民による社会減少数が同程度であったため、人口推移はほぼ横ばいとなった。
1920年以降みられた、主に大阪府や神奈川県への出稼ぎ労働者は毎年1万人以上となり、その子孫らは大阪府大阪市大正区と神奈川県横浜市鶴見区に暮らしている。その後太平洋戦争によって、県外や台湾へ疎開した者は約8万人に上った。
 戦前の人口推移である。
1920年57万1,572 人
1925年55万7,622 人
1930年57万7,509人
1935年59万2,494 人
1940年57万4,579人
 戦前の沖縄の産業は農業だけであった。工業はなかった。土は赤土であり養分は少なく、農業しかない沖縄は貧しかった。それに加えて世界恐慌などの影響で極貧な島になった。戦前は貧しいために人口が60万人以上になることはなかった。それが戦前の経済であった。
それでは戦後の沖縄の人口はどのように変化したか。
1945年実施されず、推計人口は 32万6,625人
1947年実施されず、推計人口は 53万7,051 人
1950年69万8,827人
1955年801,065人
1960年88万3,122人
1965年93万4,176人
1970年94万5,111人
 沖縄戦で10万人の住民が死亡し、多くの男性は日本兵として戦地に行っていたから終戦の時は沖縄の人口はわずか32万人であった。ところがわずか5年後には69万になり、戦前より10万人も増えている。人口が増えたということは経済もよくなったと考えられる。沖縄はわずか5年で戦前の経済を超えたのである。本土流の経済白書でいえば沖縄は1950年に「戦後は終わった」ということになる。
本土で「戦後は終わった」と経済白書で宣言した1956年の前年の沖縄の人口は80万人を超えている。なんと戦前より21万人も増えたのである。経済から見れば沖縄は戦前をはるかに超えたのである。まさに奇跡の経済成長である。
戦前の沖縄と戦後の沖縄の違いは米軍基地があるかないかである。戦前は米軍基地はなかったが戦後は米軍基地ができた。それ以外は同じである。沖縄の経済発展は米軍基地があったからである。それ以外の原因はない。

 県は、本土は1956年に戦後は終わったが沖縄には米軍が駐留しているから戦後は終わっていないし、県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっていると主張している。
 県が過重な基地負担といっているが、県のいう通り基地が過重な負担であれば沖縄では生活がきついから人口は減少するはずである。ところが沖縄の人口は狂的なスピードで増え続けてきたし経済も発展してきた。人口と経済から見れば基地に過重負担があるとは言えない。むしろ人口増加と経済発展の原動力が基地にあったと言える。沖縄経済を発展させてくれた米軍基地には感謝するべきである。
 米民政府が沖を経済に尽力した象徴的な人物がサムエル・C・オグレスビー氏である。彼は沖縄経済界では「沖縄産業の恩人」と呼ばれている。私はオグレスビー氏について「沖縄内なる民主主義」の1号である「かみつき」に書いた。「かみつき」より引用する。

 サムエル・C・オグレスビーは、1911年10月アメリカ合衆国バージニア州で生まれ、メリーランド大学で学士号及び修司号を修得、さらにエール大学で極東問題と日本語の研さんを積んだ。1966年12月20日逝去され、個人の遺言よって、個人の愛された沖縄、泊の国際墓地に永眠される。
 オグレスビー氏は、1950年3月第二次大戦終焉の激戦地として廃墟化した沖縄に米国民政府職員として赴任した。オグレスビー氏は沖縄の経済、特に諸工業復興の種子を撒き芽を育てた。戦前の沖縄では夢想だにできなかった各種の近代的工業の隆昌を見るにいたったことは、真に沖縄人を愛し、沖縄の繁栄を願う同氏の16余年にわたる献身的努力の賜物である。
 

顕彰墓碑式での具志堅理事長あいさつ
 私ども、沖縄の産業人は、故オクレスビー氏を「沖縄産業の恩人」と呼び慕い、かぎりない感謝と尊敬の念をささげております。
 1950年頃、戦後の荒廃から沖縄産業復興の策定が始まったとき、当時の合衆国琉球軍政府の方針は、食糧増産、黒糖工場で進むことであったようですが、これを沖縄側の要望である農業は甘藷作、そして大型分蜜工場の実現を主張して実現させました。また、石垣島に於ける収穫の6ケ月後に迫ったパイン工場新設を、当時の民政府に直接談判して、特別の民政府直接融資を成功させました。このように故オグレスビー氏、沖縄の二大機関産業である分蜜糖、パイン缶詰の基礎を築かれました。
 私事にわたって失礼ですが、私の企業である味噌醤油、職油、ビールは、オ氏の大きな後援によって今日の発展をみるに至りました。いつもいつもその愛情と功績を感謝している次第です。このようにしてお菓子、鉄筋、合板など沖縄の製造加工業の90%は、オ氏の直接間接の指導後援に負うところが大きいのではないでしょうか。故オグレスビー氏の米国民政府経済局に於ける16年間のお仕事は、そのまま沖縄産業発展の歴史と云っても過言ではないと思います。これもオ氏が日本語をよく話し、沖縄人よりも沖縄人の心になり切って民政府要路の方々を説得することができ、沖縄に適した産業政策を実現された功績によるものであります。
 去る、1964年、琉球連合会創立10周年事業として、胸像を制作、東急ホテルで盛大な贈呈式を行いました。
 1966年12月には、オ氏の名を永久に記念すべく沖縄財界有志の方々から浄財をいただき「オグレスビー記念産業開発基金」を設立(基金5、333ドル)し、第一回の奨学資金授与並び第一回工業功労者表彰を行い、活動を開始しております。そして今回は、沖縄財界人の浄財による「顕彰墓碑」の建立となった次第です。
 以上をもちまして、故オグレスビー氏のご功績を偲び、除幕式のご挨拶とします。
  1968年11月26日
         オグレスビー氏産業開発基金
               理事長 具志堅 宗精

赤マルソウの醤油が出た頃、タイス・オグレスビー夫人は毎日のように平和通りの店を巡り、「キッコウマンより赤マルソウの醤油がいい」と買っては宣伝して回られた。

 沖縄を愛し、沖縄の経済発展に全身全霊をかけたアメリカ人がいたことを君は知っているか。サムエル・C・オグレスビー。彼はウチナーンチュの私や君よりも何倍も何倍も沖縄を愛していた。

 彼は夫人とともに泊の国際墓地で眠っている。

米民政府は軍事基地の強制、事件・事故を起こした米軍兵士の罪の軽減工作だけをやってきたのではない。
行政・立法・裁判の三権分立を確立し、沖縄社会の法治主義・民主主義を推し進めてきたのは紛れもなく米民政府である。
そして、琉球大学、琉球銀行等を創立して沖縄の政治・経済発展を推進してきた。
その中でもサムエル・C・オグレスビー氏は沖縄側の立場に立ち、米民政府と熾烈な交渉をして、沖縄経済発展に貢献した。

「オグレスビーさんは『琉球製糖建設で私も10年歳をとったが宮城も10年ふけた』と云って笑われたのを思い出します」(宮城仁四郎弔辞より)
資金も知識も経験もない沖縄での製糖業の近代化は想像を絶する困難なものであった。
それを実現したのがオグレスビー氏だったのである。

沖縄の経済発展に自分の人生のすべてを打ち込んだアメリカ人がいたことを沖縄の政治家、知識人、マスコミは封殺している。
                 「かみつき」
 米民政府は沖縄の民間の企業育成にも尽力したのである。県はその事実を無視して米軍基地の負担だけを取り上げている。

 私は高校まで読谷村の南側に住んでいた。その頃はベトナム戦争があり嘉手納飛行場の爆音はひどかった。テレビは聞こえない。会話も大声で話さなければならなかった。嘉手納飛行場を爆破したいくらいに本当にひどい状態だった。琉大に合格して首里に住むようになったが、嘉手納飛行場から遠く離れた首里は静かだった。夜になると余りにも静かで気味が悪いくらいであった。嘉手納飛行場がある読谷と嘉手納飛行場がない首里は別世界だった。
 県は県民全体が基地の過重負担を背負っているというが、騒音被害についていえば嘉手納飛行場、普天間飛行場などの周辺の住民は被害を受けるが那覇市など周辺に住んでいない住民は被害を受けない。騒音被害を受けている住民はわずかである。県民の多くは被害を受けていない。
もし、基地が県民に負担を背負わせていたら沖縄の人口は減少していただろう。ところが沖縄の人口は増え続けていったのである。2015年には143万3,566人になった。戦前の2倍以上の人口になった。基地は県民にとって負担ではないから人口はどんどん増えたのである。
 県民が増えただけではない。観光客も増えた。米軍基地が恐ろしい存在であったら観光客が増えるはずはない。米軍基地はアジアの平和を守っている。その象徴的存在が嘉手納飛行場である。
 嘉手納飛行場を一望できる道の駅は連日観光客で賑わっている。観光バスやレンタカーで駐車場はいつも埋まっている。嘉手納飛行場は観光名所になっているのだ。道の駅に来るのは日本人だけでない。台湾、韓国、中国の観光客もやってくる。外国人にも人気がある。
 軍事基地はあらゆる国にある。軍事基地は国を守るために存在しているし。国民は負担とは思っていない。沖縄の米軍基地は沖縄、日本だけでなく韓国、台湾、フィリピンなどアジアの国々の平和を守っている。そんな米軍基地は県民の負担ではない。誇りである。
 
 米軍基地は県土面積の約10%を占めているという。ということは90%には基地はないということだ。人口に当てはめると90%の県民は米軍基地とは関係なく生活しているということになる。
 嘉手納弾薬庫は大自然に覆われているだけである。トリイステーションは通信基地であり爆音もにければ銃弾が飛ぶこともない。静かである。浦添市にあるキャンプ・キンザーは補給基地なので軍事物資を置いてあるだけであり静かである。米軍基地でも騒音や銃弾などで基地被害を出す基地は少ない。数パーセントであろう。キャンプ・キンザーなどの米軍基地はフリーマーケットを開いて多くの県民を楽しませている。
 
基地負担の具体的な説明をしないで「県民は過重な基地負担を背負うことになり、現在もその負担は重くのしかかっています」という県の意見は自分勝手な思い込みである。県は米軍基地について客観的に見るべきである。
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