日本共産党は設立した時から時代遅れで日本に必要のない政党であった



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日本共産党は設立した時から時代遅れで日本に必要のない政党であった
 日本共産党が誕生したのは、1922年7月の15日である。1917年に起こったロシア革命の5年後である。日本共産党は日本でロシアのような社会主義革命を起こすのを目的に結成した政党である。もし、ロシア革命が起こらなかったら日本共産党は誕生しなかったかもしれない。少なくとも暴力革命を目指す政党にはならなかっただろう。ロシア革命が起こり、レーニンが資本家による労働者の搾取を否定する社会主義国家をつくったから、それに触発されて誕生したのが日本共産党である。日本共産党は日本でも暴力革命で労働者を解放する国家をつくろうとした。
 しかし、ロシア革命で倒したのはプロレタリアを搾取するブルジョア階級ではなかった。300年続いたロマノフ王朝のニコライ2世が支配している帝国ロシアであった。

 ロシア革命の始まりは日露戦争の時であった。日露戦争の最中、ロシア国内では「血の日曜日」という事件が起きる。司祭ガポンに率いられた6~7万人の労働者や農民たちが日露戦争の中止、労働者の待遇改善、憲法改正と基本的人権の付与を求め直接皇帝に願い出ようと平和的なデモ行進をした。ところがデモ行進に皇帝の衛士が発砲して多数の死傷者が出た。この事件によって皇帝への市民の信頼は一気に失望へと変わった。この事件の反響は全国に波紋を呼び、ロシアのいたるところで労働者たちがストライキをし、農民は蜂起して抗議をするようになった。
皇帝側は十月宣言で立法権を持つ国会(ドゥーマという)の開設や基本的人権の付与を約束した。労働者と兵士の代表による評議会「ソヴィエト」が結成され、彼らソヴィエトが首都の支配権を握るとニコライ2世は退位を余儀なくされ帝政ロシアの時代は幕を閉じた。日本でいえば江戸幕府の終焉である。
明治政府でも藩閥政治など政府内の対立があったようにロシアでも対立があり、対立の中で最終的に政権を握ったのがレーニンであった。
ロシア皇帝が退位すると資本家や立憲民主党の政党が臨時政府をつくった。レーニンが率いる労働者や兵士が集結したソヴィエトは臨時政府によって弾圧され、レーニンはフィンランドに亡命する。臨時政府がそのまま続けば資本主義を容認した議会制民主主義国家が誕生していたはずであるが、ロシアの場合はそうではなかった。帝政派の将軍であったコルニーロフが反乱を起こして、臨時政府は危うくなるのである。臨時政府はコルニーロフ鎮圧にレーニンの協力を求めた。臨時政府に協力したレーニンはコルニーロフを鎮圧した勢いに乗って臨時政府も倒した。
そして、友人であるトロッキーと全ロシア=ソヴィエト会議の名の下で新政府の樹立を宣言した。世界初の社会主義国家の誕生である。

ロシア革命は薩長連合が江戸幕府を倒したように帝政ロシアを倒したのである。江戸幕府も帝政ロシアも封建国家であった。明治維新とロシア革命は封建国家を倒した同じ性質の革命であったといえる。革命後に日本は四民平等、法治主義、帝国主義、天皇制国家になり、ロシアは共産党一党独裁国家になった。

明治維新は1868年である。明治維新の約50年後にロシア革命は起こった。50年の間に日本は法治主義が発展し、大正デクラシーのように民主主義運動も広まっていった。そういう政治状況の中で日本共産党は誕生したのである。日本共産党が誕生した時、ロシア革命で倒した封建国家は日本ではすでになくなっていた。
社会主義革命は中国やキューバでも起こったが両国とも倒したのは封建国家であってブルジョア階級が支配する資本主義国家ではなかった。資本主義国家でプロレタリア革命が起こったことは一度もない。資本主義国家であり民主化も進んでいた日本でロシア革命が起こる可能性はなかったのである。それにレーニンの革命は共産党一党独裁である。政治も軍事も経済も一党だけでやるという独裁主義の共産党が近代化が進行していた日本に浸透する可能性は低かった。

共産主義思想が生まれたのはロシアではなくヨーロッパである。マルクス・エンゲルス共著の共産党宣言が出版されたのはヨーロッパであったし、共産党が最初に誕生したのもヨーロッパであった。ロシア革命を起こしたロシアで共産主義が誕生したのではなかった。そして、共産主義はヨーロッパで広がった。ロシアでは広がっていなかった。ところが資本主義経済が発展していたヨーロッパでは共産党による革命は起こらなかった。資本主義経済がまだ発達していない、しかも共産主義が広まっていないロシアでレーニン共産党による革命は起きたのである。革命が起こった中国やキューバも封建社会であり資本主義経済は発達していなかった。

日本でロシアのような革命が起こる可能性がなかった象徴として「大正デモクラシー」がある。
「大正デモクラシー」は政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。このような民主化運動が展開されている日本でロシア革命のような暴力革命は起こるはずがなかった。
民主化の象徴として注目すべきことは国政選挙が行われたことである。選挙をするということは国民が間接的に政治に参加することである。選挙をしない共産党一党独裁は国民が政治に参加できない仕組みになっている。大正時代の多くの国民は選挙を拒否する共産党一党独裁を嫌ったはずである。
国政選挙の歴史
1889年(明治22年) - 大日本帝国憲法発布。衆議院議員選挙法制定(制限選挙・小選挙区制・記名投票)]。満25歳以上の男性で直接国税30円(太平洋戦争後の価値で60万円から70万円に相当)以上を納めている者に選挙権付与。
1890年(明治23年) - 第1回衆議院議員総選挙。
1900年(明治33年) - 納税要件緩和。納税条件が10円以上に引下げ。大選挙区制・秘密投票を導入。
1919年(大正8年) - 納税要件緩和。納税条件が3円以上に引下げ。小選挙区制を導入。
1925年(大正14年) - 納税条件撤廃。満25歳以上の男性全員(総人口の20.12%)に選挙権付与(狭義の普通選挙・男子普通選挙)。中選挙区制を導入。
大正7年(1918年)には平民宰相と呼ばれた原敬が総理大臣になった。

共産党が誕生したのは江戸幕府が倒され、近代化が進み、大正デモクラシーが起こり、選挙制度が発展していた1922年である。1925年には満25歳以上の男性全員に選挙権が付与された。共産党一党独裁の社会主義革命が起こる要素がなくなった時代に日本共産党は誕生したのである。

1904年2月9日深夜、日本が宣戦布告なしで旅順のロシア艦隊に攻撃を加えたことで日露戦争が開戦した。日露戦争の時のロシア皇帝はニコライ2世であった。彼は1891年に皇太子として来日したが、大津から京都へ戻る際、滋賀県警察部所属の警察官津田三蔵巡査に人力車に乗っていた時にサーベルで右耳上部を負傷させられた人物でもある。切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入り終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。

ロシア革命の始まりは日露戦争の時であった。だから日本もロシアの政情には深い関心を持っていた。
ロシア革命が終結するのは第一次世界大戦の時である。レーニンは資本主義の発展は帝国主義になると考え、資本主義を否定した。帝国主義日本が資本主義を否定するレーニンの共産党一党独裁の国家に敵対心があったのは当然であった。
だから1918年に、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団が反乱を起こした時、これに乗じて日本はアメリカとともにシベリアに出兵した(シベリア出兵)。
しかし、ロシアの内戦はレーニンのソヴィエト政府側の勝利に終わった。最後までシベリアに残っていた日本軍は1922年に撤退した。
十月革命によって成立したレーニン率いるボリシェヴィキ政権は世界初の社会主義国家となり、全世界に大きな影響を及ぼした。ボリシェヴィキは世界革命論によってロシアの革命を世界へと輸出することを望み、ヨーロッパ諸国へ革命を波及させることを主目的の一つとして1919年3月2日にコミンテルを結成した。コミンテルの支部として設立したのが日本共産党である。

日本政府がもっとも恐れたのは日本への共産主義の浸透であった。共産主義が浸透するのを恐れ、1925年(大正14年)4月22日に法律第46号をして制定した。そして昭和16年(1941年)3月10日に治安維持法(法律第54号)を制定した。治安維持法は国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定した。
治安維持法は共産主義革命運動の激化を懸念したものであったが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。共産党一党独裁国家を目指す日本共産党の誕生は日本の民主主義運動の弾圧を拡大させ、軍部の勢力を拡大させていった原因にもなったのである。
日本共産党は日本に誕生するべきではなかった政党である。

 共産党が日本に必要のない政党であったことは戦後に如実になる。それは中国に亡命した徳田球一の指揮で、共産党が共産主義暴力革命を起こそうとした時である。

 徳田球一は沖縄県の名護市出身である。
 球一の家業は印刷屋であった。旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、旧制第七高等学校に入学するが、教官の琉球出身者に対する差別に反発して退学した。その後上京して、苦学して日本大学の夜間部を卒業し、弁護士になった。1920年(大正9年)、日本社会主義同盟に参加。1921年(大正10年)には社会主義国家になったソ連を訪問した。ロシアから帰った徳田は1922年(大正11年)、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加した。そして中央委員に選出された。徳田は1925年(大正14年)、1927年(昭和2年)にもソ連に渡った。1928年(昭和3年)2月26日に治安維持法違反で門司駅で逮捕された。徳田はそのまま戦後に釈放されるまで獄中で18年間を過ごした。
第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)に出獄すると日本共産党を再建し、同年12月の第4回党大会で書記長に就任する。1946年(昭和21年)には中華民国から帰国した野坂参三と共に衆議院議員に当選した。
しかし、1950年(昭和25年)、GHQによるレッドパージによって公職追放された。7月に団体等規正令に基づく出頭命令を拒否したため逮捕状が出され、地下に潜行した。同年10月、大阪港から中華人民共和国に亡命し、幹部による指導機関である北京機関を組織した。
徳田は亡命先から武装闘争を指示した。徳田が支持した武装闘争は毛沢東率いる人民解放軍が山村の農民の蜂起によって勢力拡大したのを根拠に考え出された武装闘争方式であり、中国の劉少奇はアジアに広げる見解を打ち出していた。これはソ連のスターリンとの相談に基づくものだった。
徳田は中国流の武装闘争を日本で実現しようと山村地区の農民を中心として、全国の農村地帯に「解放区」を組織することを指示した。これを受けて「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの非公然組織が作られ、各地で列車の爆破、交番への焼き打ちや警察官へのテロ行為などの日本共産党による武装闘争が展開された。

日本での中国流の武装闘争は根本的な間違いがあった。
国民党との内戦になった時、毛沢東は封建地主から土地を没収して農民に分配して私有させる「土地革命」をして、農民の支持を獲得していった。ところが戦後の日本はすでに封建社会ではなかった。だから中国のように農民を搾取する封建地主は存在しなかった。すでに農民は土地を私有していたのである。つまり、すでに「解放区」になっていたのだ。土地を私有している日本で中国流の武装闘争はできるはずがなかったのである。
日本共産党がやった山村工作隊は時代遅れであり、農民の支持を得ることはなかった。逆に支持を失った。1952年10月の総選挙では共産党候補者の全員が落選したのである。日本では共産党は時代遅れであり必要がないことを明らかにしたのが「山村工作隊」であった。

世界的に共産党が時代遅れで必要がないことを明らかにしたのがソ連崩壊である。
共産党は民主主義国家の次が社会主義国家であるとして、民主主義革命をやってから社会主義革命をやるという二段階革命論を持っている。しかし、歴史は封建主義国家から社会主義国家にはなったが民主主義国家から社会主義国家になったことは一度もない。その逆はある。それが1991年のソ連崩壊である。社会主義だったソ連の国々はロシアをはじめ崩壊した。その後は議会制民主主義国家になった。日本共産党の想定とは逆になったのが現実の歴史である。
チェコスロバキア、ルーマニア、東ドイツ、ポーランド、ハンガリーなどの社会主義国家も議会制民主主義国家になった。
社会主義国家から議会制民主主義国家になるのは歴史的に必然であると言わざるを得ない。なぜ必然であるかは社会主義と議会制民主主義を比較することによって明らかでなる。

レーニンによって社会主義国家が誕生したが、ロシア革命が起こったのは1910年代である。あの時代のヨーロッパの先進国はアジアやアフリカを植民地にして国が富むという帝国主義国家であった。レーニンは資本主義国家が発展すると経済競争で勝った大資本家が増え、独占資本社会になり、国は独占資本国家になる。独占資本は国内で投資しても利益を得ることはできなくなり国外投資を目指して植民地をつくるようになる。レーニンは資本主義国家は必然的に帝国主義国家になると説いた。レーニンは帝国主義国家であるアメリカを非難し、アメリカのような帝国主義国家にならないために労働者を搾取する資本家や資本家を支持する政治家を参入させないために選挙制度を設立しないで共産党一党独裁国家の社会主義国家をつくった。
レーニンが指摘した資本経済が発展すれば資本が増大し国内投資では利益を得ることができないので海外投資をするようになるという経済論は現在でも当てはまる。
現在、日本の大企業は300兆円を貯め込んでいる。そうでありながら国内投資はしないし、従業員への還元もしない。国内投資をしないのは投資をしても利益を得る可能性が低いからだ。レーニンが生きていた時代ならアジアに植民地を拡大して投資をしていただろう。日本が戦前のように帝国主義国家であったならそれができたが、現在はそれができない。300兆円は行き所がなくて大企業の懐の中で眠っている。

資本家による労働者の搾取、帝国主義を否定して樹立したレーニンの共産党一党独裁による社会主義国家は日本の多くの思想家や政治家に影響を与えた。レーニンは理論や観念ではなく、実際にロシア革命を実現し社会主義国家を樹立したのである。日本でも社会主義国家を目指した革命が実現できると信じた者たちが現れたのは当然といえば当然であった。
同時にレーニンの理論の拡大を一番恐れたのはレーニンによって存在を否定された独占資本家の財閥や帝国主義の軍部や政治家であった。だから彼らが牛耳っている日本国家は共産主義を徹底して取り締まったのである。
共産主義の影響を受けたのは政治家だけではない。多くの芸術家も影響を受けた。文学ではプロレタリア文学があり、多くの小説家や詩人が誕生したし、劇団も誕生した。有名な俳優も居た。

共産主義には労働者を資本家の搾取から解放するという民主主義にはない理論があり、民主主義よりも秀でた思想であるという自負が共産主義思想家たちにはある。この自負が共産主義を支えているし、日本共産党を持続させている。

共産党一党独裁の社会主義国家が人間を自由にし、豊かにしていくものであったなら社会主義国家は拡大していっただろう。レーニンやスターリンによる武力によって拡大はしたが、1991年になるとソ連が崩壊するという社会主義国家の崩壊が起こった。共産党一党独裁の社会主義国家は否定されていることを歴史は証明したのである。ただ、それは共産主義が否定されたのではなく共産党一党独裁が否定されていることを私は主張したい。
共産党一党独裁というが、旧ソ連、中国、キューバなどの共産党は共産主義とは別物である。共産党一党独裁というより一党独裁である。

注目しなければならないのは崩壊したのは社会主義国家だけではないことである。帝国主義国家も崩壊した。崩壊したというより消滅したといった方がいいだろう。第二次世界大戦までの戦争の原因のほとんどは領地争いであり、植民地の獲得競争であった。植民地獲得が原因の戦争は紀元前からあり、それが第二次世界大戦まで続いた。戦争をなくすためには植民地獲得を止めることであることに気が付いた米国やヨーロッパの国々は植民地を放棄し、帝国主義と決別した。
帝国主義への決別に大きく貢献したのが議会制民主主義の発展である。帝国主義国家の原因は財閥と軍部が政治に介入して植民地を増やす政治をやっていったからである。議会制民主主義が発展していくと、財閥のような独占資本を禁止し、自由競争と公正取引きをやる経済社会をつくるようになった。そして。軍隊はシビリアンコントール下に置き、政治への介入をさせないようになった。

レーニンが資本主義は帝国主義になると指摘したのは議会制民主主義が発展していないレーニンの時代の資本主義国家である。独占資本、軍部、政治の三者が国家を握っていた時代は帝国主義国家であったが、議会制民主主義が発展していって国民主権の国家になった時には帝国主義国家ではなくなった。そのことを戦後70年の歴史が証明しているのである。

一党独裁主義国家、帝国主義国家、軍事独裁主義国家は要らない。議会制民主主義国家こそが地球全体に必要である。人間の自由、平等、生活の豊かさを実現していくのが議会制民主主義国家であるからだ。

日本共産党は誕生した時から時代遅れで日本に必要のない政党であった。共産党は日本の政党で一番古い政党であり、資金もあり運動員も多く、組織力、運動などは他の野党より秀でている。しかし、そうであっても政権党になったことがないどころか野党第一党になったこともない。それは共産党が議会制民主主義では時代遅れであり、必要のない政党であるからである。
戦後70年で共産党の勢力はゆっくりではあるが確実に衰えてきた。その流れは変わらないだろう。日本共産党が勢力を拡大するにはロシア革命の夢と決別し、共産党一党独裁主義とも決別することである。
「暴力革命」はとても魅力的である。しかし、封建社会が崩壊した後の民主主義社会では暴力革命は起こらない。
スターリンに追放され暗殺されたトロッキーは永続革命を唱えた。革命が成就しても、常に社会を変革する努力をしなければならない。それをトロッキーは永続革命と呼んだ。
議会制民主主義は選挙を繰り返し、選挙の度に立候補者は国民のための政策を訴え、国民は政策に賛同できる立候補者を投票する。そして、当選した候補者は議会で新しい法律をつくる。それがトロッキーのいう永続革命である。
日本は明治維新の時に暴力革命は終わった。そして、戦後はレーニンが指摘した帝国主義も終焉した。戦後の議会制民主主義国家日本はトロッキーのいう永続革命の時代に入ったのである。
日本共産党はこの現実に気付くべきである。二段階革命論と決別して、労働者の生活が豊かになれる政策つくりに励み、政権党になれるくらいに国民に支持される政党になる努力をするべきである。


学生の時、学生運動をやっていた私は謝花先輩と一緒に図書館前の立て看板の文字を書いていた。謝花先輩は達筆であったので彼が字を書いた。私は紙を貼り合わせたり看板に張り付けるのを手伝っていた。私たちの作業は学生の居ない夜にやった。
二人だけだったので、私は自分ではなかなか解決することができない悩みを謝花先輩に話した。悩みと言うのは米国でも暴力革命をするのかということだった。大統領は国民の選挙で選ばれる。国民が選んだ大統領を革命政党が倒していいのかということだった。学生運動をしている他の学生に話せば一笑されるかもしれないので話せなかった。先輩に話すのも遠慮していたが、夜の立て看板の仕事を続けているうちに話す勇気が湧いてきた。
「謝花さん。米国でも暴力革命をやるのか」
私が質問すると、謝花先輩は字を書きながら、
「当たり前だ」
と言った。
「でも、アメリカは民主主義国家だし、大統領は国民の選挙で選ばれるし、それでも暴力革命で倒すんですか」
謝花先輩は字を書くのを止め、立ち上がり、
「資本主義国家を根本から変革するのが革命なんだ。クーデターとは違うんだ。又吉。革命とクーデターの違いも分からないのか。勉強が足りないな」
私はなにも言うことができなくなり、これで謝花先輩との会話は終わった。それからの私は革命とクーデターの違いを勉強した。私が19歳か20歳のことであり、50年近く前の話である。
 
 あの頃、謝花先輩に質問した以外にも疑問はあった。
○日本の明治維新は暴力革命であるのかそれとも暴力革命ではないのか。
○マルクスは資本主義が発達した国に次の新しい国家は生まれるといい、アメリカが次の新しい国家になるといったが、それはどういうことなのか。
○ロシア革命は社会主義革命と呼ばれているが、革命のエネルギーは貧困に追い詰められた国民のエネルギーであるから民主主義革命と同じエネルギーであり、ロシア革命は民主主義革命でもよかったのではないか。
○共産主義が描く共産社会とはどんな社会なのだろうか。民主主義が描く民主社会とはどんな社会なのだろうか。
○共産社会と民主社会にはどんな違いがあるのだろうか。
○共産党一党独裁国家は独裁政治だから労働者、国民を弾圧する国家にはならないか。
 50年前にこのような疑問を持っていた。箇条書きにして気付いたがあの頃の私は沖縄問題で悩んだことはなかったし、沖縄問題で難しいと思ったことはなかった。

大学生の時に色々疑問があり、悩んだが。深刻な悩みではなかったから疑問を解くために本などを読んで懸命に取り組んだことはなかった。政治に深い関心があるわけではなかったし、大学を卒業すると子供が生まれて生活のための学習塾経営は忙しかったし、実現はしなかったが演劇上演に取り組んでいたから学生の頃の政治に関する疑問はそのまま放置していた。
 あれから50年近くの歳月が経過し、世界は変化していった。1991年のソ連崩壊には驚いた。まさか崩壊するとは全然予想していなかった。しかし、ソ連は崩壊した。そして、崩壊した社会主義国家は議会制民主主義国家になった。予想していなかった歴史の変化である。

 予想していなかったことが起こったのはソ連崩壊だけではなかった。インターネットの登場である。
インターネットが発達して個人の意見をブログで発表することができるようになった。そして、なんといってもグーグルなどで知りたいことを検索できるようになった。
グーグルはどんな大図書館よりも秀でた図書館である。グーグルは図書館に行って調べなければならないことを家で簡単に調べることができる。それどころが図書館で探すのにそうとうな時間をかけなければならない情報を数秒で探すことができるし、図書館では探すことができないような情報さえ見つけることができる。なんてすばらしい時代になったのだろう。インターネットの登場に感謝感激である。
50年という時間の経過とインターネットの登場によって若い頃に疑問に思っていたことに対して私自身が答えることができるようになった。そして、ブログで発表することができるようになった。本を出版することもできるようになった。ありがたい世の中になったものである。
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