晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

最勝河原-4 7/11

2017-07-11 | 上林たんけん隊

2017.7.11(火)晴れ

 西院村から最勝河原に向かう道になぜそんなにこだわるのだろうか。一種ノスタルジアかもしれないが、この道はひょっとしたら平安時代から有るのかもしれないぞという思いと、明らかに官製の道ではなくて庶民の道だという思いがあるからだ。なにか古い地蔵でもないものかと思いつつ歩いたのだが、なにせあの雨ではつぶさに観察することもできなかった。
 古文書によるとこの道の斜めから水平になるところ、現在の西大路蛸薬師の部分に東西十間余り、高さ三間あまりの小山があり、小竹飯山(イヒヤマ)と呼ばれていると書かれている。東西18m、高さ6mの小山なら、こりゃあ古墳だろう。明治25年陸地測量部の地図にも竹林の記号がある。もしこの山が古墳なら発掘調査されているかもしれないが、そこまで調べるすべもない。また古文書に地蔵堂(高山寺)から上に2,3町行けば松林があり、深夜に女の声がしたなどという怪談話がある。かつて高山寺から直接北に向かう道(現在の西土居通り)があったかどうかわからないのだが、前述の陸地測量部地図にも文久2年の京都指掌図にもその道は見当たらない。どちらも西院村からの道のみが描かれている。
 
京都指掌図(文久2年)と陸地測量部(明治25年)地図
 陸地測量部地図で最勝河原、鶴林の両三昧(火葬場)はどう表されているかと言えば、三条西土居に平べったい建物が表されているだけで、六角近くまで空き地になっている。実は最勝河原も鶴林も享保4年(1719年)に断絶しているのである。従って文久2年(1862年)の地図にも建物は見られない。鶴林の火葬場が鳥辺野の南無地蔵から建仁寺門前へ、そして最勝河原の隣に移ってきたように、都市化や神社、禁裏などの建築にともなって移動させられた。最勝河原は元々この地にあったようだが、断絶の後は七条河原口の七条道場金光寺に合併させられたようである。
 四条通りに面する高山寺は「賽(西院)の河原、西院の地蔵」で有名で現在まで残っている史跡である。何年もこの前をとおり通勤していたのだが、今回初めて境内に入った。わたしの記憶では40数年前には山門は開放されていなかったように思うのだが、、、。

日照山高山寺山門

【今日のじょん】フークに会いに行こうとプレート田村さんに行く。ところが生憎去勢の手術で入院していて会えなかった。でも保護犬の雪路と夢路が来ていてじょんは結構喜んでいたみたい。(保護されて4日目とか)


 


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