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読んだ本などを忘れないように書き留めるメモ。

小泉義之『レヴィナス―何のために生きるのか』

2009年06月02日 15時24分20秒 | 哲学・思想の本
「何のために生きるのか」という問いに対して「生きることに意味や目的なんて無い」という答えがある。しかしながら私たちは生きている。だから、生きることを捉え直さなければならない。

ひきこもりについて。

何もかもが面倒だど思われるときでも、トイレには行く。食べ物は食べる。その行為と学校や会社に行くという行為には何の差も無い。では、なぜ立ち上がれないのか。それは、重荷としての実存に疲れているのだ。この重荷は「契約」からやってくるとレヴィナスは言う。「契約」とは、例えば、生存の本能、運命、使命である。

NO MUSIC,NO LIFE.

レヴィナスは生きることは幸福だと言い切る。なぜならば、人は享受しているからである。食べ物等だけではない。「美味しいスープ」を享受しているのだ。「美味しいスープ」とは、空気、光、光景、労働、観念、眠り等など。ひきこもりの人も、部屋にいることを享受している。そして享受して生きることは自分の為に生きることである。レヴィナスはこの幸福な状況を「人生のエゴイズム」と呼ぶ。パンを食べることと、NO MUSIC,NO LIFE.には、何の差も無い。幸福なエゴイズムである。

また、人生の短絡的な目的が生きる目的には成り得ない。例えば、労働の究極的な目的は、賃金の獲得である。幸せに生きる為に、お金を稼ぐのだ。では何のために幸せに生きるのか?答えは出ない。ただ、レヴィナスの享受論からすると、生きることは既に幸せである。

また、人生の目的を自己完成に求める人々もいるが、これは、レヴィナスによると、「逃走の欲求(戦前)」または「形而上学的欲望(戦後)」である。本当の自分になるために、自分から逃げ出すのだ。では、何のために、自分の為に生きるのか。

私は自分のために生きている。エゴイスティックに。そしてあるとき、<他者>が現れる。<他者>の顔に呼びかけようとするが、他者の顔から顔を背けて、他者をめぐって、何事かを語るようになる。しかしながら他者は私達を問いただす。<私達はパンではない>

…続く…