大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 9章1~18節

2017-09-18 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年9月17日 主日礼拝説教「あなたを選ばれる神」 吉浦玲子

<パウロの悲しみ>
 ある女性の修道院のシスター、のちにカトリックで聖人とされた人ですが、その人が神について思い巡らして語りました。「神様は、わたしをとても愛してくださっていて、もう私のこと以外には興味がおありでないみたいです」。とても大胆な言葉だと思います。神様が自分のこと以外に興味がないように感じられるほど、自分が愛されている、顧みられているという感覚に私はとても驚きました。でもそれは不思議ではないことだとも感じました。別に聖人とか特別の信仰者ではなくても、神との交わりが深くなる時、そのような感覚は誰でも持つことができるのではないかと思います。そのような神との親密な交わりを求めていくのが信仰者の歩みであるとも言えます。


 パウロもまたそのような神との親密な交わりの内に生きた人でした。そのパウロは、8章の最後で声高らかに、「どのようなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と語りました。絶唱と言っていいような力強い響きを持った言葉です。その絶唱から一転して9章では、急にトーンが下がります。少し重い感じがします。9章からは、また新たな内容をパウロは語り始めています。その最初に語られていることは、パウロ自身の同胞のことです。パウロの時代、現代でもですが、ユダヤ教徒であるイスラエルの人々は、イエス・キリストを救い主、メシアとは認めていません。律法を守り続けながら、メシアの到来を待ち続けているのです。つまり彼らにはまだ救いが来ていないのです。現実には、イエス・キリストが来られたのに、それを受け入れることなく、救いを得ることなく、裁きの日を迎えることになる同胞を思うとき、パウロにはうずくような心の痛みがありました。8章終わりの喜びに満ちた絶叫とは異なり、パウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。」と語ります。パウロは同胞から激しい迫害をされていました。しかしなおその同胞のことを思うと悲しみがあり痛みがあるというのです。ここにパウロの伝道者としての愛の深さが感じられます。語っても語っても受け入れられない、受け入れられないどころか、シナゴークを追い出され、命をも狙われているというのに、なおパウロには同胞への愛がありました。「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と語ります。8章の終わりでキリストの愛に結び付けられているその素晴らしさを絶唱し、キリストに結び付けられていることの祝福を誰よりもわかっている、そして逆にキリストから切り離されることの暗黒を誰よりもよく知っているパウロの口からこのような言葉が出ることは驚くべきことです。


 ローマの信徒への手紙で繰り返し出てきたことですが、イスラエルの民はパウロの同胞であっただけではありません。特別に神に選ばれていた民でもありました。旧約聖書の時代から律法を担ってきた民でした。本来なら最初に救いにあずかるべき民でした。聖書の専門家であったパウロはそのことも良く良くわかっていました。最初に救いにあずかるべき、神からの特別な約束をあたえらえていたイスラエルの民が救いから離れているということはパウロにとってたいへんな痛みでした。ですからこそ「同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」という言葉がパウロから出てくるのです。

 これは旧約聖書において出エジプトした民を率いたモーセが、民のためにとりなしを祈ったことを思い起こさせるような言葉です。モーセがシナイ山で十戒を神から賜って降りてきたとき、民の心はすでに神から離れていました。エジプトで多くの不思議な業をなされ、脱出の時には海を分けるという奇跡まで起こして民を救われた神を、イスラエルの人々はあっという間に忘れてしまいました。山に登ったモーセがなかなか降りてこないので、金の牛を造って、それを神として拝んでいたのです。それは偶像崇拝というとんでもない罪でした。目の前で幾たびも神の奇跡を見たにもかかわらず、あっという間に大きな罪に陥ってしまった民のため、モーセはとりなしの祈りを祈ります。その祈りは「この民の罪を赦してくださらなければ・・どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」というものでした。本来、救われるべき人が記されている命の書から自分自身の名を消してくださいとモーセは祈ったのです。民が赦されないのであれば、自分は救われなくてもいいと神に願ったのです。これはとりなしの祈りの典型とも言われます。私たちは、家族のため、友人のため、さまざまなことのために祈ります。とりなしの祈りをします。その祈りは、神と祈る対象の人の間に立って祈るものです。神の前に身を投げ出し、悲しみと痛みを覚えながら祈るのです。自分自身はどこか離れた安全地帯にいて、神に「あの人のことをよろしく」というのではないのです。自分が痛み悲しみながら自分自身を捧げて祈るのがとりなしの祈りです。モーセもパウロもそのようなとりなしの祈りをなした人たちでした。自分に反逆する出エジプトの民、また迫害をするイスラエルの民のために祈りました。そしてそれはモーセやパウロだけが為す祈りではありません。私達もまた愛をもって、身を投げ出して、痛みを覚えつつ神にとりなしの祈りを祈ります。

<選びとは>
 一方で、こういう疑問が出て来ます。じゃあ、もともとイスラエルを救うと約束されていた神の言葉は撤回されたのか?あるいはその神の言葉には効力がなくなったのでしょうか?そうではないとパウロは語ります。「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」。
 そこからパウロはそもそも神の約束とはなんであったかを説明し始めます。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。」と言います。つまりもともと神の約束は血筋とか民族に対するものではなかったのだと言います。「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫とみなされるのです」と語ります。
 確かに民族としてのイスラエルは特別な選びの中にありました。しかし、救いは「神の約束」によるということなのです。ここでパウロは旧約聖書のアブラハムとサラの子供であるイサクについて述べています。血筋ということで言えば、アブラハムにはイサクより先に女奴隷とのあいだにもうけたイシュマエルがいました。イシュマエルこそ、長子という点において、当時の法的な観点においても、アブラハムの第一の継承者であるべき子供であったはずです。しかし、そうはなりませんでした。神が約束されたのは「イサク」であったからです。イシュマエルとイサクでは歳も10歳以上違いました。長子として父の相続をするのならイシュマエルの方が人間的には妥当だったのです。
 そしてさらにイサクの子供であるヤコブとエサウについても同様のことが言えます。ヤコブとエサウは双子でありましたが、長男はエサウでした。ですから当然、本来家を継ぐのはエサウでした。長男エサウがその父イサクに与えられた約束を受け継ぐべき人間だと通常は考えられます。聖書の物語の中にはエサウが長子の権利を軽んじたこと、また、異国の女性をめとっていたことなどが記されています。しかし、エサウはふさわしくないから約束の子として認められなかったのではありません。神の選びはそのようなエサウの態度以前に決まっていました。「子供たちがまだ生まれもせず、良いことも悪いこともしていないのに「兄は弟に仕えるであろう」」とその母親であるリベカに伝えられたことが創世記には記されています。現実的には、ヤコブは策略を使ってエサウの祝福を奪い取ります。そのずるがしこいヤコブのあり方は到底、神に選ばれるようなあり方ではありません。ふさわしくないといえばヤコブこそ、選ばれるにはふさわしくない人物でした。しかしなお、神はヤコブを選ばれました。

 旧約聖書を読んでいますと、なんとなくイシュマエルやエサウはかわいそうな気もします。「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と実際、旧約聖書に書いてあるのです。また「私は自分が憐れもうと思う者を憐み、慈しもうと思う者を慈しむ」とあります。私たちはこういうところで、つまずいてしまいます。ショックを受けてしまいます。神様ってひどいではないかと思うのです。エサウはかわいそうではないか?わたしもエサウのように扱われるのではないか?神様はすべての人間を憐れみ慈しんでくださるのではないか?神様はそんな依怙贔屓をなさる方なのか?そんな疑問がわいてきます。
 しかしここで私たちが注目しないといけないのは、選ばれない側のことではありません。神が憐れまず慈しまれない人間がいるということではありません。パウロはむしろ選ばれるはずのない人間が選ばれ憐れまれ慈しまれているということをここで語っているのです。神が本来選ばれる要素が全くない人間を選び慈しまれる、そのことをパウロは語っているのです。それに、そもそも「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というのは、ヤコブをどれほど愛したかという比較表現です。ヤコブへの愛の深さをエサウとの比較表現で比喩的に語っていると考えられます。そしてまた神様は現実的にエサウを憎んで滅ぼされたかというとそうではありません。エサウをも、一つの大きな部族とされたのです。イサクと異母兄弟であったイシュマエルもそうです。民族の大きさとしてはイスラエルと比べてそん色のないきわめて大きな民族とされました。神の大きな救いの物語の中に選ばれたのがイサクでありイシュマエルだったということなのです。そしてその選びの理由は選ばれる人間の側にはまったくありません。

 このことは、私たちにとっても大きな慰めです。私たちは「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」などという言葉を読むと、わたしは神に愛されている側だろうか?エサウのように憎まれているのだろうか?と不安になります。しかし、そうではないのです。すでに救いの物語は21世紀のこの日本の大阪にも及んでいます。私たちの上にも及んでいます。私たちはイサクのように、またヤコブのように選ばれているのです。その救いの物語に入れられているのです。
 冒頭でお話したシスターが「神はわたしのこと以外に興味がおありではない」みたいです、と語ったのはある意味、本質的なことです。神の選びにおける愛は、誰かと比べて、多い少ないということではないのです。わたしたちのすべてを満たされる、それが神の愛です。あの人の方が私より愛されている、とか、他の人を愛するその手の空いた合間にちょっとだけ神様は私を愛されるそういうことではないのです。神は私たちの空間的時間的心理的すべての次元で100%のその選びにおいて愛を示されるのです。

 昔、ある青年が長く教会に通ってきておられ、礼拝は最前列で守っておられ、各種の勉強会でも熱心に学んでおられたのですが、なかなか洗礼を受けようとされませんでした。その理由は「自分の仲のいい友達が無神論者で、自分が洗礼を受けると、その友人を裏切るようで嫌だから。」ということでした。神はその青年にとって、100%の愛を注いでおられたと思います。しかし青年の方は、横を見ていたと言えるでしょう。神の愛の方ではなく、隣のこの人はどうなんだ?とその青年は見ていた。そういう姿勢では神の本当の愛と選びを感じることはできません。神は私たちを選び、一対一で向き合ってくださる方です。だから私たちもその御顔を一筋に見上げるのです。そのとき「神が私以外のことにはまったく興味をお持ちでないくらいに私のことを愛してくださっている」と感じられるのです。

<柔らかな心で>
 今日の聖書箇所の最後の部分には、なお、つまずいてしまうような言葉が書かれています。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」とあります。神はすべての人の心を柔らかくしてご自身を受け入れるようにしてくださるのではないか?かたくなにされるとはどういうことなのか?そんな疑問がわきます。ここでパウロは出エジプトにおけるエジプト王ファラオを例に引いています。モーセがエジプトから民を率いて出てくるとき、エジプトの最高権力者ファラオとの対決がありました。ファラオは神に敵対した人物でした。実際、出エジプト記には「主はエジプト王ファラオの心をかたくなにされた」という言葉が記述されています。ファラオが自分で自分の心を頑なにしたというのなら理解できます。神がかたくなにされたというのはどういうことでしょうか。ここで言われていることは神の主権ということです。主権は神にあるということです。神に逆らう王ファラオは主権は自分にあると考えていました。しかし、実際はそのファラオの心すら神の主権の下にあったということが示されているのです。神の主権ということについては9章の後半にも関係することで、次週以降にも共に読んでいきたいのですが、神はその愛の選びにおいて主権をもっておられるということを今日は覚えたいと思います。

 神は自由に選び自由に愛される。神の愛の理由は人間の側にないということです。まったくないのです。しかしそのことのゆえに私たちはまことの安心を得ます。愛される理由、救われる理由が私たちの側にあるとしたら、私たちが主権をもって主体的に救いを勝ち取らねばならないとしたら、そこには恵みはありません。神の主権、愛における主権のゆえに私たちはその愛を恵みとして受け取ることができるのです。その恵みを喜び感謝するとき私たちの心は柔らかなものとされます。


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