大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録 2章1~13節

2017-07-14 13:04:44 | 使徒言行録

2017年6月4日 ペンテコステ礼拝 説教「みことばがあなたの近くに」 吉浦玲子牧師

<神の出来事としての教会の誕生>

 御子イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマス、復活を祝うイースターとならび、キリスト教の三大祝祭のひとつであるペンテコステを迎えました。

 ペンテコステは聖霊の降臨を祝います。その聖霊の降臨のときの様子が今日お読みした聖書箇所に記されています。聖霊に降臨の10日前、主イエス・キリストは天に昇られました。そののちキリストは地上には不在でした。そのキリスト不在の9日間を弟子たちは、どのように過ごしていたのでしょうか。かつてキリストが十字架におかかりになり死なれたのちのように怯えて過ごしていたのでしょうか。そうではないようです。彼らはその期間、祈りつつ待っていたのです。主イエスが約束された聖霊が与えられる日を待っていました。彼らはふたたび自分たちの前から主イエスがおられなくなった、そのことにまったく不安や恐れがなかったといえばそうではなかったかもしれません。しかし、彼らは心を合わせて熱心に祈っていたのです。今日の聖書箇所の前の部分を読みますと、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた(1:14)」とあります。また、主イエスを裏切って自殺したイスカリオテのユダの代わりの使徒を選出しています。彼らは、祈りつつ、いまできることをやりながら、来るべき日を待っていたのです。

 その祈りつつ待っていた共同体に聖霊が降りました。今日の聖書箇所には、そのときの激烈な、そしてまた神秘的な様が描かれています。突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたとあります。

 私たちは聖霊というと、霊という言葉がありますから、なにかふわふわした捉えどころのないもののように感じてしまいます。しかし、聖霊は、神です。父なる神、子なる神と並ぶ、神です。その神がおくだりになる、そのときに家中に響くようなものすごい音がしたというのはある意味当然なのです。かつて出エジプトの民のまえで神が顕現する時、シナイ山ははげしく山全体が震えた、そして雷鳴を持って神は答えられたと出エジプト記にはあります。そういうことを考えますと、神である聖霊が降られる時、激烈なことが起こるのは不思議でもなんでもありません。

 そしてまた、<その激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ>とありますが、この天とは、単に上の方、空と言うことではありません。神の支配されている所、つまり人間の世界の外から来たということです。そしてある先生はこの箇所の「風が吹いて来るような」の<来るような>というところが重要なのだとおっしゃっています。つまり、風が吹いてきたわけではない、風が吹いて来る<ような>としか表現できない、人間の捉えることのできない現象が起こったのだということです。人間の理解を越えた出来事、つまり神の出来事が起こったということです。

 ペンテコステは教会の誕生日だと言われます。2000年前のこのとき、神の出来事が起こり、教会が建てられたのです。さきほど、ペンテコステの前に新たな使徒を弟子たちは選出したとありました。しかし、使徒が12人そろったそのときが教会の誕生ではありませんでした。天から風の吹いて来るような激しい音がした、その神の出来事によって、教会は誕生したのだと聖書は語っています。ある神学者は教会はこの世界のどのような組織とも社会とも異なると語っています。神が建てられたのですからそれは当然です。見た目の組織や制度はこの世の組織のように見えることはあります。また人間の集まりとしてそこに人間的なさまざまな思惑や意見もあるでしょう。しかし、教会は神によって建てられ聖霊によって導かれている、それはペンテコステの日から変わらぬことなのです。

<言葉の回復>

 その神なる聖霊がくだったとき、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した出したとあります。たいへん不思議なことが起こりました。120名ほどの人々がそれぞれに語りだした。異様な光景です。しかし、ここで何か熱狂的な陶酔状態が起こったわけではありません。今日お読みした最後のところでは、その光景を見て「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」という人もあったことが記されています。実際、異様な光景ではあったのでしょう。が、それは単なる陶酔状態や酩酊状態ではなく、あくまでも言葉を語り出したのです。それも神の福音をそれぞれに外国の言葉で語り出したのです。その言語を知っている人には、明確に聞き取れる言葉として語られたのです。

 この出来事は、最初にお読みしました創世記のなかのバベルの塔の出来事と関連していることを御存じの方もおられるかと思います。ノアの箱舟で有名なノアののちの時代、人間は思い上がって、その傲慢の象徴と言うべき高いバベルの塔を造ろうとしました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言ったとあります。天まで届く、というのはまさに神への挑戦です。神の領域を犯そうとする思い上がりがあったということです。そして自分自身が有名になる、それは神を第一にするのではなく、自分が第一になろうとすることです。その人間の愚かさを見て、神は人間の言葉を混乱させられました。それまで同じ言葉をしゃべっていた人々の言葉を互いに聞き取れない言葉にされました。そして人間が集まって、一緒になって愚かなことをなすことを止められました。バベルというのは混乱という意味です。バベルの塔以来、人間の言葉は混乱していたのです。人間の自己中心的な心により、言葉が混乱したのです。神が混乱させられたのです。

 しかし、ペンテコステの日、言葉の混乱が取り去られたのです。ひとりひとりが自分の国の言葉ではなく外国の言葉を話しだしたのです。もちろんペンテコステのまえにも、違う言語を話す同士の人間も、外国語の習得は行っていたでしょう。また通訳なり翻訳を通して意思の疎通を図ることはできていました。実際、この当時、ローマと言う強大な帝国があり、その帝国は、力によってさまざまな言語をもつ多くの民族を支配していたのです。ローマの意思はローマの標準語を話す人々以外にも伝えられたのです。

 しかし、ペンテコステの日に伝えられたことは、神の言葉でした。

 愛の言葉でした。その愛は単に優しい言葉とか、困った人を慰める言葉とか、社会的に差別されている人を解放する言葉といったようなヒューマニズムの言葉ではありませんでした。その言葉は神の救いの言葉でした。人間の愚かさ、罪から救う言葉でした。罪によって切り離されていた神と人間の関係を回復させる言葉でした。十字架と復活の言葉でした。人間のすべての苦しみの根源にある罪から救われるための言葉でした。天まで届くバベルの塔を造ろうとし、たえず神に成り替わろうとする人間の心には平安がありませんでした。たえず<もっと高く><もっと強く>と際限なく駆り立てられ、疲れていく病んでいくような人間を安らかにする慰めの言葉でした。

<聖霊の働き>

 ペンテコステの日、今日の聖書箇所ののちの場面となりますが、ペトロの大説教が行われ3000人の人が洗礼を受けたとあります。これは神の業が言葉によって伝わったということです。確かにそれは人間の言葉によって語られたのです。神がテレパシーや超常現象を使って人間に伝えられたのではありません。ペトロ自身の言葉として伝えられました。神は人間を用いられ、そしてその言葉は聞いていた人々に通じたのです。それはペトロの説教が巧みだったからではありません。まさにペトロに聖霊が与えられていたので、その語る言葉が命の言葉として人々に伝わったのです。実際、ペトロは、ある意味、とんでもないことを語っているのです。人々の罪をはっきりと語ったのです。普通なら、聞いている人々は怒り狂いペトロや弟子たちは酷い目に遭っても仕方のないことを語ったのです。「ですからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」とペトロは語っています。イスラエルは十字架にイエスをつけて殺した、つまり「あなたがたは殺人者だ、罪人だ」と言っているのです。この場には出身地はさまざまであっても、ユダヤ教徒もしくはユダヤ教への改宗者がいたと思われます。つまりまさにイスラエルに連なる人々がいたのです。そのイスラエルの罪をはっきりとペトロは語りました。それに対して、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれた」とあります。聖霊によって自らの罪を悟り人々は悔い改めたのです。その人々が3000人洗礼を受けたのです。

 この聖霊はいまも私たちに働いています。その働き方はさまざまです。最初のペンテコステの時のように、時として激しく聖霊が働かれる時もあります。しかし、多くの場合は、そうではありません。むしろ私には聖霊の力は及んでいるのだろうか?と思うこともあるくらい感じにくいかもしれません。しかし、教会に導かれている、ここにおられるすべての方に聖霊の力は及んでいます。聖書を読み、御言葉に心打たれる時、聖霊は働いています。

 熱狂主義と混同されては困るのですが、聖霊が働く時、涙がこぼれる時もあります。悲しいわけでもなく、映画や小説を読んで感動するのとは違う不思議な思いに囚われて涙がこぼれる時があります。いつものように普通に祈りながら涙がこぼれるときがあります。あるいは、ふとした人の言葉に神の御旨を感じ打たれてふるえるようなこともあります。

 そしてさらにキリストを主と信じ洗礼を受けるとき、なお聖霊は私たちの内側に与えられます。今日の聖書箇所の3節に炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとりひとりの上にとどまった、とあります。<大きな>炎のような舌が、皆の上にとどまったのではなく、<分かれ分かれ>に現れ、ひとりひとりのうえにとどまったのです。これは、聖霊が十把一絡げにあたえられるのではなく、一人一人に個別に与えられるということです。そして、その聖霊を与えられた一人一人が言葉を語り出したのです。

<神の良き道具として>

 ギリシャ語の原語では、3節の「舌」という言葉と、4節の他の国々の言葉とある、「言葉」は、同じ単語になります。「舌」というギリシャ語には「言葉」という意味もあるのです。つまり舌が分かれ分かれに現れた時、それぞれの人に言葉が与えられたのです。人とつながる言葉を与えられたのです。宣教の言葉を与えられたのです。だからといって、皆が皆、講壇の上に立って説教をする役に召されているわけではないでしょう。毎日、だれかに神様のことを話ししなさい、自分の信仰を証する機会を持ちなさいということでもないでしょう。しかし、なお、私たち一人一人は、それぞれの場でそれぞれのあり方で、宣教をする言葉を与えられているのです。それは私たちの力で行うことではありません。聖霊に満たされた私たちのうちで聖霊が働いてくださり、私たちを用いてくださるのです。

 言ってみれば私たちは神の良き道具として用いていただけるのです。道具と言われると、何か主体性がなくてつまらないように感じられるかも知れません。しかし、本当に聖霊に満たされて用いられる時、本当の意味で、私たち一人一人の個性、神からの賜物が生かされるのです。そして用いられた時、私たちも喜びに満たされるのです。

 聖霊について、ある神学の先生はこうおっしゃっていました。父なる神、天地創造の神はあまりにも大きな存在で、人間には理解することができない、だから人間の姿をとってへりくだってこの世界に来られ人間に理解できる言葉を語られたのが子なる神、イエス・キリストである、そしてさらに、その神が小さくへりくだり、とうとう私たちのうちに存在してくださるようになった、それが聖霊なる神である、と。

 小さく小さく私たちのうちにいてくださる神、聖霊ですが、聖書には「聖霊に満たされ」とあります。前にも言いましたが、満たされというと、気体か液体のように、充満しているイメージがあります。しかし、最初に言いましたように聖霊は神なのです。その神である聖霊に満たされるとはどういうことでしょうか。それは聖霊なる神に人間が委ねた状態であるといえます。存分に聖霊が働いてくださっている状態と言えます。聖霊はペンテコステの時以来、そしてまた洗礼を受けた時以来、確かに私たちのうちに働かれますが、私たちの勝手な思いで、聖霊の働きを邪魔するようなこともあります。しかし私たちが心素直に聖霊なる神に委ねる時、聖霊は私たちのうちで大きく働いてくださいます。聖霊が私たちを存分に用いてくださいます。愛の言葉を語る者としてくださいます。まことの喜びの言葉を伝える者としてくださいます。

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