大阪東教会礼拝説教ブログ

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2017年3月12日主日礼拝説教 マタイによる福音書27章1~15節

2017-04-20 16:44:08 | マタイによる福音書

説教 「後悔をしない」

<後悔のゆえに死んだユダ>

 人間は罪を犯します。そして自分自身が犯した罪ゆえの苦しみがあります。そんな罪を犯したゆえの苦しみの一つに<後悔の念に囚われる>ということがあるかと思います。なぜあんなことをしてしまったのだろう。なぜあんなことを言ってしまったのだろう。どうしてあのとき、あのことをしなかったのか。悔やんでも悔やみきれない後悔の念に苦しめられるということがあるかと思います。何年たっても悔やみ続けるそんな苦しみがあります。

 受洗して間もないころ、ふと疑問に思ったことがあります。神の御子であるイエス様は私たち人間の苦しみを何でもご存じの方だと言われます。病いも疲れも喉の渇きも裏切られる苦しみも、人間の味わう苦しみのすべてをご存じだと言われます。しかし主イエスは、その地上での生涯において、罪を犯しにはなりませんでした。ですから罪を犯したゆえに後悔をするという苦しみを味わわれたことはないのではないか?そう疑問に思いました。イエス様は人間の苦しみをすべてご存知だというけれど、後悔の念に囚われる苦しみはご存じないのではないか?

 当時、牧師にその点を聞いたことがあります。それに対する答えは、「罪の苦しみの本質は神から離れていることにあります、後悔の念というのは罪から派生してくる<影>のようなものです。後悔の念そのものと言う点ではたしかにイエス様は感じられたことはないかもしれません。しかし、罪人として十字架の上で、父なる神と切り離され、罪の裁きを受けられた主イエスは、罪そのものの苦しみは味あわれたのです」でした。

 今日の聖書箇所には、自分の犯した罪ゆえに後悔をしている人物、12弟子の一人であったイスカリオテのユダが出てきます。ユダは後悔のあまり、結局、首をつって自殺したと記述されています。なんとも暗澹とする救いのない最期です。逆に言うと後悔の念は、人を死にすら追いやるものだということが言えます。そこには希望がないということです。 しかし、このユダの悲惨な最期から、なお聖書は私たちへ希望の物語を語ります。共にそれに聞いていきたいと思います。

<お前の問題だ>

 26章に最高法院での主イエスの裁判の様子が描かれていました。その裁判において主イエスの死刑は確定していたのでした。しかし、本来は夜の内に正式には死刑判決の手続きを行えないことから、夜があけてから、改めて正式に主イエスを死刑にするということを決めたのが、27章の冒頭の記事です。これは実際には正式な手続きをとらずに最初から主イエスを殺すということありきで行われた裁判を後付けで正当化しようとしたことだと考えられます。一方、当時、ローマに支配されていたイスラエルでは、独自に死刑は執行できず、ローマの許可が必要でした。ですから、祭司長たちは、ローマから派遣されてきていた総督のピラトへ主イエスを引き渡しました。今日お読みした聖書箇所では、ピラトへの引き渡しと、実際にピラトから主イエスが尋問されることの間に、ユダの自殺の記事が挟まっています。

 今日の聖書箇所の少し前で、大祭司のところで主イエスの裁判が行われ、その外の中庭でペトロの裏切りがあったことを共にお読みしました。ここでは、旧約聖書の預言の成就としての主イエスの死刑判決とメシア宣言があり、その傍らでペトロという一人の男の裏切りが記されていました。壮大な神の救いの歴史と人間の物語が並行して、また交わりながら進んでいるのだとお話しました。

 本日の聖書箇所でもユダの裏切りもまた旧約聖書の預言の成就として描かれています。その神の壮大なご計画の歴史と、ユダ、そしてまたピラトという人間の物語が交錯して進んでいきます。

 ユダに着目しますと、ユダは「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとした」とあります。ユダはまさか主イエスが死刑になるとまでは思っていなかったのでしょう。後悔したユダは「わたしは罪のない人の血を売渡し、罪を犯しました」とはっきりと祭司長たちに語っているのです。しかし、もともと何とか理由をつけて主イエスを殺してしまおうと考えていた人々にとって、いまさらユダがみずからの罪を告白しても何の意味もありませんでした。

 しかし、本来なら、祭司長たちは宗教家であるのですから、罪の告白をしている者に対しての誠実な対応ということが求められるはずです。しかし、彼らの答えは「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と恐るべき冷酷なものでした。主イエスが繰り返し批判されていた祭司長たちの問題はまさにここにあったのです。聖書は罪からの救いについて記されていると言って良いものです。その聖書の専門家である祭司長たち、長老たちが、罪を告白する者に対して「知ったことではない」と答えているのです。祭司長たちは人の罪の赦し、そして救いを語ることはありませんでした。「それはお前の問題だ」。この言葉は「お前が自分で処理しろ」という意味です。それが祭司長たちの愛のないそのままの姿でした。マタイによる福音書二十三章にイエス様ご自身が律法学者やファリサイ人を非難された言葉が記されていました。「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。」あるいは「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」これはユダに対する祭司長たちの態度でもありました。

 ユダの苦しみを知りながら、その苦しみの重荷を「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」自分で処理しろと彼らは今日の場面でも言っているのです。

 しかし、人間には自分の犯した罪であっても、それを担いつづけることはできないのです。自分で処理することはできないのです。しかしなおユダは自分で担おうとしたのです。まさに祭司長たちがいうように自分の問題として自分で解決しようとしたのです。自分で本来担いきれない罪を自分で処理しよう、解決しようとしたとき、結局、人間は自分で自分を殺すしかないのです。ユダは後悔した。取り返しのつかないことをしてしまったと後悔して、死にました。罪を自分の問題として自分でどうにかしようとしたら、後悔して死ぬしかないのです。

<ユダは何を後悔したのだろうか>

 前にもお話ししましたが、おなじく裏切ったという点ではペトロも同様でした。しかし、ペトロは「あなたは鶏が鳴く前に三回わたしを知らないという」とおっしゃった主イエスの言葉を思い出し、涙を流し、とどまりました。主イエスの言葉にとどまったのです。それゆえ、ペトロは救われたのです。

 ペトロとユダはどちらが人間的に見て責任感が強かったのか、誠実だったのか、難しいところです。しかし、ユダはどうにか自分で責任を取ろうと思った、自分で自分を裁いたとも言えます。そしてそこには救いはなかったのです。一方、ペトロは言ってみれば、ただ泣いていただけでした。何もできない、罪深い、どうしようもない自分を知らされ泣いているだけでした。自分で自分をどうにかできるとはペトロには思えなかった。だからとどまったのです。人間的な目からみたらユダの方がむしろ自分で責任を取ったのであり、ペトロは情けなく泣いていただけの人でした。

 さて、ユダは祭司長たちからもらった銀貨を彼らに返すことができず、神殿に投げ入れて自殺しました。その額は銀貨三十枚でした。銀貨三十枚は前に申し上げましたように、当時では、奴隷一人も買えないような安い値段でした。ユダにとって、そしてまた祭司長たちにとって、主イエスはそのくらいの値踏みをされる存在でした。

 ペトロは主イエスの言葉にとどまりました。ペトロは主イエスの言葉を思い出すことができたのです。しかし、ユダは主イエスの言葉を思い出すことはなかったのでしょう。なぜ思い出すことができなかったのでしょう。おそらく彼にとって、銀貨三十枚で値踏みした程度の主イエスの言葉は彼の心に届いていなかったのでしょう。

 ユダの罪は、罪のないキリストを銀貨三十枚で売ったことそれ自体だけでははなく、神であるキリスト、主イエスから離れていたということです。神から離れていた、主イエスの言葉から離れていた、むしろそちらのうが本質的な罪です。その罪の表れとして銀貨三十枚で売るという裏切りはなされたのです。

 ユダは自分の行為の悪はわかっていたのです。だから後悔をしました。ユダとて、悪ではなく善を生きたかったでしょう。でも、罪がある以上、ユダでなくても、人間は善く生きることはできません。本章としての罪がある以上、人間は悪を犯すのです。ユダは自分の罪は分ってはいなかったのです。だから良く生きることのできない自分を自分でさばいて死ぬしかなかったのです。

<取り返しのつかないことなどない>

 ユダが神殿に投げ入れた銀貨で陶器職人の畑を買ったとあります。これはゼカリヤ書十一章十三節の言葉がもとになっています。<主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀30シュケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた>という言葉です。またエレミヤ書18章2節には陶器師のたとえ話があります。つまり、この出来事は神の大きな計画の中にあったということです。

 その大きな計画の中に、今読み進んでいます主イエスのご受難もありました。すべてが神の歴史の中で、一歩一歩確実に救いの成就に向かって物語は進んでいるのです。その物語の中にユダというひとりの人間の物語もありました。本来は、救いのなかに入れられるべきユダが、主イエスに留まることなく、後悔の果てに死んでしまった。罪を知り、悔い改めるのではなく、その罪の影である後悔のなかで死んでしまいました。罪の本体を、罪の本質を知ることなく後悔したのです。しかし、ペトロは罪そのものを知ったのです。キリストの言葉のゆえに。キリストにとどまったがゆえに。

 復活のイエスと出会い、罪の赦しにあずかり、後悔ではなく、悔い改めて、主イエスと共に歩むことのできなかったユダの物語を読むとき、あらためて思います。私たちは自分たちの罪を後悔をするのではないということを。

 私たちはすでに復活のイエスと出会ったのです。公に信仰告白したとき罪は赦され救われました。ですから、私たちはもう後悔をしないのです。すべてを赦されているからです。現実には後悔という名の過去の罪の影によって苦しむこともあるかもしれません。しかし、復活のキリストの光の中でみるとき、後悔は影にすぎません。キリストの光の中で、かききえてしまうものです。後悔をするとき、それは赦されたはずの罪の影ををまだ自分で握りしめているということです。そもそも罪の影を自分で握りしめても、後悔してもどうしようもないのです。繰り返しになりますが、後悔は突き詰めると自分を殺してしまうものなのです。

 主イエスは、私たちが後悔して自分を殺してしまうことがないように、命の中でいきていくことができるように、十字架にかかってくださいました。罪も、その罪の影ももうありません。

 ユダは取り返しのつかないことをしてしまったと後悔して死にました。しかし、主イエスの十字架のゆえにこの地上から取り返しのつかないことはなくなりました。

 ただひとつ取り返しのつかないことは、神に立ち帰らないことです。

 主イエスの言葉に留まらないことです。

 赦されない罪はありません。罪を後悔する人生ではなく、罪赦されて、光の中に生きる人生を主イエスは与えてくださいました。

 長い長い神の救いの歴史によって、私たちにそれは与えられました。

 罪の影である後悔ではなく、春の光のような赦しと救いの中を私たちは明るく歩みます。

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