大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 4章1~25節

2017-07-14 13:42:14 | ローマの信徒への手紙

2017年6月25日 主日礼拝説教 「神の約束のたしかさ」 吉浦玲子牧師

<信仰の父>

創世記の15章で神はアブラハムにおっしゃいます。

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる」

アブラハム、このときはまだアブラムという名前でしたが、その信仰は揺らいでいました。彼は75歳で故郷を旅立ち、あなたの子孫を祝福するという神の約束を信じて歩んできました。創世記15章の時点で、旅立ってかなりの年月がたっていたのです。明確な年数はわかりませんが、10年以上たっていたかもしれません。しかし、依然としてアブラハムには子供は授けられていませんでした。子孫を祝福するとおっしゃったにもかかわらず、子孫どころかたった一人の子供さえまだアブラハムにはいなかったのです。

創世記の12章に遡りますと、アブラハムは完全に故郷を捨てて、財産すべてをもって旅立ったのです。いざとなったら故郷に戻ることができるというような旅立ちではありませんでした。それだけアブラハムは神に忠実に歩んできたのです。

その歳月の中で、共に旅をしてきた甥のロトとの別れ、戦争、アブラハム自身のいくつかの失敗、さまざまなことがありました。時に失敗しながらも、長い歳月、アブラハムは精一杯、神に従って歩んできました。その歳月の中で、神はいつになったら自分に子供を与えられるのかアブラハムには疑いが生じて来たようです。創世記の15章にはとてもはっきりとしたアブラハムの神への抗議が記されています。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」あなたはわたしに子供を与えてくださらない、だから使用人であるエリエゼルに家を継がせるしかないではないか?従順に神に従って歩んできたアブラハムが、ある意味、いまふうの言い方をすれば神に向かってキレている場面と言ってもいいでしょう。

そのアブラハムを神は外に連れ出して、空の星を数えよとおっしゃいます。現代の都市部では見える星の数は少ないですが、当時は空気も良く夜は真っ暗でしたし、ことにアブラハムは街中に住む者ではなく、草の生えた広い土地を転々として放牧する生活でしたから、たくさんの星が見えたでしょう。

ちなみに、調べてみますと、だいたい人間が見ることができる星は六等星くらいまでと一般的に言われるそうです。しかし、空気が良い場所でかなり目の良い人であれば七等星くらいでも見える場合があるそうです。七等星まで入れますと地上から見える星の数はだいたい8000くらいになるそうです。8000と耳で聞くとそれほど多くないように感じますが、実際に満天の星の輝きを見た時、それはやはり数えきれないほど多くの星だと感じることでしょう。

「あなたの子孫はこのようになる。」神はそうおっしゃいました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

先週も信仰義認の話をしました。信仰によって神は私たちを義としてくださる。正しいとみなしてくださる。私たちの行いによるのではない、そう御言葉から聞きました。信仰の父と言われるアブラハムは、この場面で、神を信じました、そのことにおいて、信仰の父なのです。そのアブラハムは私たちの信仰の父でもあります。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」私たちの信仰の源流、信仰の源泉はここにあります。

<信じることの困難>

 しかし、一方で、信じるということは人間にとってけっして簡単なことではありません。重大な仕事を始めようとするときに共に仕事をする相手が信用できるかどうか慎重に考えます。結婚でもそうです。信じていたのに裏切られた、そういうことはこの世界にはいくらでもあります。私たち自身もまた、人生において結果的に人を裏切ってしまうことになるということもないわけではありません。信じてくれていた人を心ならずも裏切ってしまうこと、それは人間の人生の中にいくたびかあることです。ですから私たちはなかなか人を信じることができない、でも一番信じられないのは自分かもしれません。

 では、相手が神であれば簡単に私たちは信じることができるでしょうか。

 聖書の記述を見ますと、アブラハムは神と会話をすることができたようです。アブラハムののちの時代のモーセや預言者たちも手段は様々でありましたが、神の言葉を聞くことができました。しかし、そんな神の言葉を聞ける人々であっても、神を信じることは困難を伴うことでした。モーセもエリヤも信仰が揺らぐときはあったのです。そして冒頭で申しましたように、アブラハムもまた、神への信頼が揺らぐときがあったのです。アブラハムや預言者ではない私たちであれば、なおさら、神を信じるということには困難があるかもしれません。

 しかし、奇妙な言い方でありますけれど、信仰の困難にあるときこそ、人間はむしろ神とあいまみえることができるのです。神の恵みを感じることができるのです。創世記15章でもアブラハムは神に抗議をしていました。あなたのおっしゃることは当てにならないではないか、そうアブラハムは神に思いをぶつけたのです。そのアブラハムに対して神はお答えになりました。

 ローマの信徒への手紙4章ではアブラハムと並んでダビデの詩が紹介されています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があるとみなされない人は幸いである。」これは詩編の32編冒頭の言葉です。ダビデ王自身、大きな罪を犯した人でした。不倫と王という立場、権力を利用した殺人を犯しました。それ以外にもダビデは生涯神の前で罪を犯しました。そんなダビデは自分が罪びとであることをよくよく知っている人でした。その自分の罪の大きさにおののきつつ、神に向かい、ダビデはむしろ神がその罪を裁かれる方ではなく、なお憐みをもって赦してくださる方であることを知りました。<主から罪があるとみなされない人は幸いである>これは新共同訳の詩編32編の訳を見ますと「主に咎を数えられない人は幸いである」となっています。実際に罪とがはあるのだけど神はそれを数えられない、そのことが幸いなのだとダビデは言っています。罪とがを神が数えられないのはキリストのゆえですが、ダビデやアブラハムの姿をみるとき、神への不信や自分自身の信仰のつまずきのなかで、人間はむしろ神と出会うことがわかります。信じられない人間や罪の中で苦しむ人間と神ご自身が出会ってくださるのです。

 主イエスの弟子であったペトロもそうでした。主イエスを見捨てて逃げた、主イエスの逮捕ののち三度も主イエスを知らないと言った、その自分のどうしようもないふがいなさ、情けなさの中で、なおペトロは主イエスの愛のまなざしと出会いました。復活のキリストと出会いました。

 わたしたちもまた信仰が揺らぐとき、自分の弱さに気づくとき、そのときこそ神と出会います。神が出会ってくださいます。神ご自身が、私たちを信じる者としてくださいます。先週、ルターの話をしましたが、宗教改革者ルターもまた、長い信仰的な困難ののちに、神の光と出会いました。行いではなく信仰によって義としてくださる方と出会いました。私たちも神と出会います。神の方から出会ってくださいます。そして信じる者としてくださいます。アブラハムを外に連れ出し星を数えて見よとおっしゃった神は、信じることのできない私たちにもまた、目の前の現実から外に連れ出し、神の恵みの約束を見せてくださいます。こんなにも豊かなものがあなたにあたえられるのだという約束を私たちにみせてくださいます。

<神の約束>

 ところで神はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」とおっしゃいました。それがアブラハムへの約束でした。パウロはその土地を与える子孫とは誰かということをのべています。当時、その子孫とは当然、イスラエル人だと、イスラエルの人々は考えていました。イスラエルの人々は皆「われわれはアブラハムの子孫である」と考えていたのです。ですから神の約束である土地を受け継ぐのは自分たちであると考えていたのです。しかし、自分自身イスラエル人であるパウロは13節で語ります。「神はアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたことです。」つまりそもそもアブラハムに約束が与えられたのは、イスラエルという血筋に対してではなく、アブラハムの信仰に基づくものなのだというのです。信仰に基づいて与えられた約束は信仰に従う者にも与えられるのだとパウロは語っています。イスラエルという血筋は、それはとりもなおさず律法を担ってきた血筋でありますが、その律法によっては義とされないし、律法に頼る者が神の約束にあずかるのではないとパウロは語っています。信じる者がアブラハムの子孫なのだとパウロは語っています。

 さらっと読むと「なるほど、信仰によって私たちもアブラハムの子孫なんだ」と思うのですが、自分自身のことをイスラエル人中のイスラエル人だと自負しているパウロの口から「信じる者がアブラハムの子孫であり、信仰によって世界を受け継ぐ者となる」という言葉が出るというのは驚くべきことです。そもそも聖書は、法律の概念が強く出ている書物です。キリストの十字架による贖いというときの「贖い」という言葉も当時の法律に基づいた概念です。世界を受け次ぐというときの「受け継ぐ」は、遺産の相続ということです。当然、遺産相続も厳密に法的な対象者が受け継ぐのです。マタイによる福音書の冒頭は、アブラハムから主イエスにいたる系図が記されています。これは主イエスが正当なユダヤにおけるダビデの子孫であるという血筋を示したものです。正当な王ダビデの血筋であり、メシアとしての存在の法的な根拠がこの系図で記されています。それほどに法的な根拠を重視するイスラエルにあって、イスラエル人であるパウロが、「信仰のみ」によって世界を、神の約束を受け継ぐ、神の遺産相続をする権利があるのだと語っていることは驚くべきことです。しかしこれはパウロが勝手に新しい説を唱えたということではありません。18節に「彼は希望するすべもなかったときに、なお望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、多くの民の父となりました。」<多くの民の父となった>つまりアブラハムはイスラエルだけの父ではないということですが、これは旧約聖書に根拠のあることです。たとえば、アブラハムはもともとアブラムという名前でした。この名前には「偉大な父」という意味があるそうです。しかし、やがてアブラハムと名前を変えるように神は命じられます。アブラハムには「諸国民の父」という意味があるのです。また創世記の12章でアブラハムの最初の旅立ちの時の神の言葉にも「地上のすべての氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とあります。アブラハムは地上のすべての氏族の祝福の源なのです。アブラハムの血筋の子孫だけが祝福されるとは約束されていません。アブラハムによってすての氏族が祝福に入るのです。

 そしてその約束は成就されました。主イエスの十字架と復活による罪の贖いの業によって成就しました。アブラハムに約束された祝福の中に、今、私たちはいます。それにしても、アブラハムと主イエスやパウロの時代の間には1000年以上の間隔があります。1000年という時間の流れを私たちは直感的に感じることはできません。しかし、神の約束はそれほど壮大なスケールを持っているのです。

 逆に神は1000年と言わず、なぜすぐに約束を果たしてくださらないのか?神はのんびりされているのか?それは人間にはわからないことです。ひとつはっきり言えることは、神は大いなる忍耐をもってすべての人間を救おうとなさっているということです。救いの計画を持っておられるということです。

 アブラハムの約束は成就されましたと申し上げました。たしかに、私たちは今、キリストによる救いの内に神の遺産を相続する者として生かされています。しかし、神の約束はまだ続きます。神の土地を与えられる、それが最終的な約束の成就です。今はその約束が果たされつつある時間だといえます。その約束の完成までの途上を私たちは歩んでいます。キリストが再び来られ、御国へと、神が与えてくださる土地へと私たちが入れられる、その時までの時間をわたしたちは生きています。神の約束、神のご計画は人間にはわからないスケールなのだと先ほど申しましたが、私たちは神の約束をいつになったら成就されるのかとやきもきしながら、不安に思いながら生きていくのではありません。キリストの到来によって、私たちにはすでに神のご計画の確かさを信じることができる者とされているからです。聖霊によって、確信を強められて生きていきます。かならず私たちが受け継ぐ約束の未来に向かって歩む時、その日々の一歩一歩も真の希望に満ちたものとなります。

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