大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

2017年4月9日主日礼拝説教 マタイによる福音書27章45~56節

2017-04-20 17:38:36 | マタイによる福音書

説教「神に見捨てられた御子」

<主イエスは弱音を吐かれたのか?>

 主イエスは十字架におかかりになり、苦しみののちに死なれました。他の福音書の記事と合わせて読みますと、同時に十字架に架けられた他の囚人たちに比べたら比較的早く息を引き取られたようです。それは十字架の前の夜通しの裁判、鞭打ちなどの残虐な暴行のために十字架に打ちつけられる前にすでにずいぶんと衰弱されていたせいであると思われます。

 十字架を取り巻く人々は、イエス様が死んでいく有様を見世物のように見物していました。これまで、さまざまな奇跡を起こして、群衆の間で評判だったイエスが、最後になにか奇跡的なことを起こすのではないかという興味もおそらく持って見守っていたことでしょう。しかし、主イエスは、十字架の上で奇跡的なことを起こすことはなく息を引き取られました。

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」この言葉は、聖書を読む上で、昔から、大きな議論になってきた言葉です。これは、詩編22編の言葉であると言われます。しかし、「わが神、なぜお見捨てになったのか」この言葉だけを聞く時、主イエスが最後の最後になって、まるで弱音を吐かれたかのようにも取られかねない響きがあります。実際、ある著名なクリスチャン小説家は、そのエッセイの中で、この言葉はイエス様の言葉として聖書に記されていない方が良かったとすら書いています。しかし、聖書の中に、書かれるべきでない言葉はありません。そこから読み取るべきことがあるから記されているのです。

 主イエスは逮捕に先立つゲッセマネの祈りにおいて、ご自身が十字架にかかることをご自身の飲むべき杯ととらえ、父なる神に「わたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままに」と祈られました。主イエスは父なる神のみこころに従うことを祈りの内に決められたのです。

 ですから、裁判の時も、ピラトの尋問の時も、主イエスはご自身が死をまぬがれることができるような証言は一切なさりませんでした。基本的に沈黙を貫かれたのです。裁判ではほとんど沈黙を貫かれた主イエスは、十字架の上ではいくつかの言葉を語られています。四つの福音書の十字架の場面でそれぞれに主イエスが語られた言葉は少しずつ違って記されています。この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉はマタイとマルコの福音書に出てきます。なぜマタイとマルコは、あえて読みようによってはイエス様の弱音ともとられるような言葉を残しているのでしょうか。

<神の裁き>

 私たちが、ここではっきりと知らねばならないことは、主イエスは、父なる神の裁きを受けられたということです。罪なき御子が、罪ゆえの裁きを受けられたということです。そして罪の報いとして死を迎えられたということです。罪の報いとしての死は、それは明確に父なる神と切り離されること、神から打ち捨てられることを指します。主イエスは父なる神と切り離される死を迎えられたということです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」主イエスはまさに今、これまでのご生涯をもっとも親しく交わってきた父なる神から打ち捨てられている、その絶望的な死を迎えようとしている、それが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉に現わされているのです。容赦ない、罪の裁きを主イエスはお受けになったということがこの言葉から分かるのです。その死は美しいものでも、かっこいいものでもない、極めて残酷で悲惨で、主イエスは決定的に恐ろしい死を死なれた、その死に向かう思いが、この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に現わされています。

 見物人からは、そしてまた、あとからこの福音書を読む多くの人々からも、主イエスはここで弱音を吐いている、結局、みじめに無力に死んだのだ、自分で自分のことを神の御子と言いながら、結局、神から救われることなく死んでいったのだと思われたのです。実際、神の御子である主イエスは父なる神から確かに見捨てられたのです。

 私たちはそのことの恐ろしさを知らないのです。神の裁きの徹底した恐ろしさを知らないので、神の怒りを受けて、いま死のうとされている主イエスに何らかの救いが来るのではないかと期待して見守るのです。惨めな死ではなく、なにか神々しい、ヒーローのような死を期待するのです。

 実際、「エリ、エリ」という言葉が「エリヤ」と響きが似ていたからかもしれませんが、見物人の中には「この人はエリヤを呼んでいる」という人もいました。そして、本当にエリヤが救いに来るか見守っている人たちがいたのです。ちなみにエリヤは旧約聖書を代表する預言者の一人ですが、エリヤ自身は、生きたまま、天に上げられたと旧約聖書に記されています。列王記下2:11を見ますと、エリヤの天に上る場面は実に派手といってもいいある種の荘厳さをもって描かれています。火の戦車、火の馬が現れて、エリヤは嵐の中を天に上って行った、とあります。このようなことが目の前で主イエスに起これば、人々は主イエスがやはり神の子であったとその場で納得したかもしれません。でも火の戦車も火の馬も現れず、嵐の中を主イエスが天に昇られることはありませんでした。ただ最後に、大声でなにごとかを叫び、主イエスは息を引き取られたのです。

 もちろん、そのあとに神殿の垂れ幕が裂けたり地震が起きたり、聖なる者が生き返ったりという異常なことは起こりました。いえ、それ以前にも、そもそも昼の12時に、全地は暗くなったとあります。しかしむしろ、神の御子が息を引き取られる、そのことに伴って、何の不思議なことも起こらないということは考えにくいことです。

 しかし、たとえば主イエスの降誕の場面でルカによる福音書ではみどりごイエスの誕生を知らされた羊飼いの前に天の大軍が出てまいります。天使と天の大軍の讃美が鳴り響くのです。でも本来それは驚くべきことではありません。神の御子が御降誕になった。その場面で、天の大軍が出てくることなど、ある意味、当たり前のことなのです。驚くべきことは、その神の御子が貧しい若い夫婦の家に、非衛生的な飼い葉桶の中に寝かされているということです。神の御子である方がそのように貧しい姿でこの地上に来られたことの方が天の大軍の讃美よりも驚くべきことです。同様のことがこの主イエスの死の場面でも言えます。罪なき御子が父なる神に見捨てられてみじめに息を引き取られた、それはたいへん驚くべきことです。全地が暗くなったことや、神殿の幕が裂けたり地震が起きるなどということは、神の御子が罪の裁きを受けられたことに比べれば驚くに足りないことです。

<新しい時代の始まり> 

もちろん、ひとつひとつのことには意味があるのです。昼に全地が暗くなるというのはアモス書に記されている裁きの場面の預言です。裁きの時、全地は暗くなるのです。まさに主イエスの上に神の怒りの裁きが到来したことを示します。また、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことにも意味はあるのです。長く教会に来られている方はお聞きになったことがあるかもしれません。この垂れ幕は神殿の中の至聖所と呼ばれる場所を区切っている幕です。この幕で隔てられた至聖所には年に一回、大祭司だけが入ることがゆるされています。そして大祭司は年に一回、そこで罪の贖いの儀式をするのです。動物の犠牲を用いて、動物の血を使って、人間の罪の贖いの儀式をしたのです。しかし、今、まことの神の子羊であられる主イエスの血によって、永遠の贖いの業が成就しました。ですから、もう大祭司が至聖所で贖いの業をなす必要はなくなったのです。ですから、この神殿の垂れ幕は裂けたのです。そもそもこの「裂けた」という言葉は、原語では「裂かれた」となっています。そしてまた、上から下に裂けたということからも分かるように、天におられる父なる神が裂かれたと言えます。別の言い方をしますと、人間の罪ゆえに神と人間との間を隔たらせていたものが、今、神ご自身によって上から下に裂かれたのです。まったく新しい時代が始まったということです。

 そしてまた、地震が起こり、墓が開いた、聖なる者たちの体が生き返ったとあります。墓が開くと聞くと、わたしたちはおぞましい幽霊やゾンビみたいなものが出てくるようなイメージを持ちます。しかし、ここで言われているのはまったく違います。死の力、おぞましい汚れた力ではなく、命の力が新しく起こったということです。この世界を支配していた死の力が敗北したということを示しています。

 これらの出来事を見ても、多くの人々は何が起こったのかを知ることはありませんでした。ただ、ローマの兵隊である百人隊長と見張りをしていた人たちだけが「本当に、この人は神の子だった。」と語るのです。神から特別に選ばれた民であるはずのイスラエルの人々ではなく外国人である百人隊長、ローマの人々が主イエスが神の子であると告白しているというのは皮肉なことです。

 この世界は混沌に満ちています。恐怖に満ちています。すぐる週、世界には大きな緊張が走りました。何が正義で何が事実であるかメディアからだけでは私たちには理解が及びません。正義であれ、悪であれ、弱き者、小さな者が、悲惨な状況においては、多く命を落とし、また傷つきます。そして、一方において正義であったとしても相手にとっては往々にして憎悪を深めることであります。そうして憎悪が憎悪を産みます。

<この世界の片隅で>

 いま日本で、ことにこの大阪の地にいる限りにおいては、かろうじて平和が守られているように感じるかもしれません。しかし、この大阪の地もまた、混沌とした恐怖に満ちた世界のただなかにあることには変わりはありません。昨年公開された「この世界の片隅で」という映画がありました。わたしは映画は見ていませんが原作のコミックは読みました。戦争中の一地方の人々の暮らしが味わい深く描かれた作品でした。少女だった主人公が、結婚して大人になっていく、嫁ぎ先でのいろいろなこと、人生のさまざまなことを経験しながら生きていく、当時の風習や文化がリアルに描かれていて、生き生きとしていました。小姑との確執とか、子どもができないとか、いろんなこの世のいってみれば平凡な営みが、淡々と、しかし愛を持って描かれていました。そしてその主人公の人生に戦争が影を落としていきます。最後には広島の原爆投下へと至ります。この世界の片隅のほんのささやかな、でもかけがえのない、一人一人の生活、人生が踏みにじられていく、それがある種、淡々と描かれていました。今日生きるわたしたちもまた、恐ろしい、恐怖に満ちた世界の片隅にあります。その片隅で精一杯に生きています。世界の大きな枠組は私たちの思いを越えて揺れ動き、時として罅が入って行きます。

 私たちは何に頼れば良いのか。ミサイルが飛んできたとき、祈っていれば、助かるのか?毒ガスがまかれたとき、神を信じていれば大丈夫なのか、いえ、そういうことでなくても、この日本には多くの自然災害があります。今日の聖書箇所のように地震が起こり、地が揺れ動き、岩が裂け、とんでもないことが起こるかもしれません。わたしたちはどうしたらよいのか。

 そのなかでいえるただひとつのことは、ごく当たり前のことですが、私たちの命も死もすべて神のご支配の中にあるということです。祈ればミサイルを逃れられる、地震で助かる、そういうことはわからないことです。それは神の御心のうちにあるからです。しかし、大事なことはこの地上に生きる時、なおキリストの十字架を見上げ、そこにこそ命と死のすべてがあることを確信することです。そこにこそ力があり、そこにすべてをかけるのです。

 揺れ動く世界の中にあって、たしかなものはなにひとつない、しかし、ただ一つ確かなものとして、十字架があります。そしてその十字架が復活への命へと続くものであることを、今日も明日も明後日も、繰り返し覚えます。死は既に滅びました。たしかに肉体の死は私たちに訪れます。しかし、それで終わりではない命があります。神と共に生きる命があります。

 百人隊長たちは地震が起こり、あり得ないことが起こる状況の中でなお役目として職務としてその場を離れることができなかったということもありますが、キリストのもとにとどまったのです。キリストのもとに留まったからこそ「この人は神の子だった」と告白ができたのです。わたしたちもまたキリストのもとに留まり、キリストへの信仰に生きる時、この世界の片隅にあって、世界はどのように動揺しても、なお平安を得、明るい命の中に生きることができるのです。この受難週をそのことを覚えつつ喜びのイースターを共に迎えましょう。

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