大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 3章9~20節

2017-07-14 13:18:24 | ローマの信徒への手紙

2017年6月11日 主日礼拝説教 「あなたは正しいですか?」 吉浦玲子牧師

<正しい者は一人もいない>

 今日の聖書箇所の見出しは「正しい者は一人もいない」です。<正しい者は一人もいない>これはずいぶんと厳しい言葉ととられるかもしれません。パウロはこのローマの信徒への手紙のなかで、これまでお読みしたところでは、神から自分たちは特別に選ばれていると考えているユダヤ人であれ、そのユダヤ人から異邦人とさげずまれている人々であれ、皆、平等に神の裁きの前に立つのだということを、語ってきました。そしてその流れの中で「わたしたちには優れた点があるのでしょうか」と、今日の聖書箇所では畳み掛けるように問うています。先日お話した3章の冒頭では、神の御言葉をゆだねられたという点においてユダヤ人は優れていると語っています。しかし、それから一転して、「優れた点は全くありません」と今日の聖書箇所では語っています。ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下(もと)にあるのです、と語っています。優れているところはあるといったり、優れた点は全くないと言ったり、矛盾しているようにも感じます。まるで今日の聖書箇所は前言を撤回するような言葉です。厳密に言いますと、1節の<優れている>というギリシャ語の単語と9節の<優れている>という単語は異なるものです。しかし、単語は違っていても、いずれにせよ、他に比べて優越する、まさっているというニュアンスのある言葉です。パウロは当然、その矛盾を分ったうえで、ここで語っています。

 たしかにユダヤ人は神の言葉をゆだねられてきた、その点のユダヤ人の価値をパウロは3章の最初のところで認めていました。しかしその特別の価値を含めても、結局のところ、すべての人間は皆、罪の下にあるとパウロは語っています。そのことにおいて、すべての人間に優れた点はないのだと強く語ります。ローマの信徒への手紙の講解説教をはじめて、繰り返し、「罪」ということを語ってきました。しかし、実は、パウロが明確に「罪」という言葉を使っているのはここが初めてになります。これまでも人間の「罪」ということをパウロは語ってきましたが、ここで初めて明確に「罪」という単語を出して、今日の次の聖書箇所である「信仰による義」へと話をつなげていく流れになっています。

 実際のところ、手紙の流れに沿って考えた場合、今日の聖書箇所だけで独立して話をするのは難しい面もあります。「罪」だけが語られて、ここだけでは救いがないようにも取れる箇所だからです。そして、繰り返し申し上げてきたことですが、それなりに善良にまじめに生きてきたのに、教会に来ると罪人と言われる、頭では罪のことを理解できても、何となく心ではそれはどうも解せない腑に落ちない、そのような感覚は多くの人が持つのではないでしょうか。自分がことさら完ぺきだとも立派だとももちろん思ってはいない、いやむしろそれなりに欠点や足りないところは多々あると自覚しつつ、ああ自分はダメだなあと時に落ち込みながら、でもまあがんばって社会生活を行っている、できるだけ人さまには迷惑をかけないように心掛けて生きている、それなのに教会では罪人と言われるのか、そう感じる人が多いのではないでしょうか。

 ですから、パウロの言葉はある意味、過激に聞こえますし、厳しく感じますし、場合によっては聞いて落ち込んでしまうところがあります。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。」<優れた点が全くない>そこまで言われないといけないのか、そんな思いを抱く方もおられるのではないでしょうか。

 ただ、ここで少し注意をしたいのは、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。」という言葉です。ユダヤ人もギリシャ人も罪をたくさん犯しましたとはパウロは言っていません。「罪の下にある」そう言っています。これはなにかといいますと、「罪に支配されている」ということです。私たちはけっして「罪の上に」あるのではないということです。「罪の下」にあるのです。パウロ自身が別のところで語っている「罪の奴隷だ」ということです。パウロはあなたがたはこんなに悪いことをしたと、ここで語っているのではなく、罪と人間の関係性を語っています。

 私たちは頑張って生きています。時々だめだと落ち込みながら、反省しながら、やり直しながら生きています。しかし、罪の本質というのは、人間が自分でどうにかできるというものではないということです。人間が反省して心をいれかえてやり直したらいい、そういう生易しいものではないということです。人間が罪の上に立って罪をコントロールできるのではないということです。罪の下(もと)にある私たちは、自分で自分の罪をどうにもできません。

<罪に捕えられている人間の姿>

 10節からパウロは旧約聖書を引用して語っています。今日詩編14編を最初にお読みいただきました。このパウロの引用は詩編14編からの言葉を含みますが、全体としては詩編14編からだけの引用ではなく、イザヤ書や他の箇所からの言葉も組み合わせたものになっています。当時、このような旧約聖書からの言葉を合成したような詩が一般に語られていたのではないかと推測する聖書学者もいます。おそらく当時の人々が良く耳にしていた言葉を引用して、パウロは罪の下にある人間の姿を説明したと考えられます。

 「正しい者はいない。ひとりもいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」ユダヤ人は神の言葉をゆだねられていました。主イエスやパウロの時代、聖書学者はたくさんいました。しかし、聖書の言葉の研究はしても、聖書の内容はよくよく知っていても、本当の意味で神を求めている人はいないのだという痛烈な言葉です。嘆きの言葉です。

 旧約聖書の時代のイザヤやエレミヤをはじめとした預言者の嘆きと同じ嘆きが、この言葉の響きの中にあります。この嘆きは、当時のイスラエルだけではなく、今日でも、罪の下にある人間の嘆きでもあります。日本に住んでいるクリスチャンでない方々は<神も仏もない>という言い方をします。あまりにひどい現実に嘆くことにおいて、パウロの引用した言葉と通じるところはあります。悲惨の中にある人の嘆きとして共通するところがあります。もちろん、聖書の考え方としては、神や仏がないのではありません。神はおられるのに、人間自身が神から離れている、神を見失っているということです。そもそも、神に造られながら、神を求めていないのが罪の姿です。良く罪のことを的外れといいます。神という的から外れている、そこにこの世界の悲惨の源があります。その世界の悲惨を嘆く言葉をパウロは語っています。

 「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」これも厳しい言葉です。先週も名前を出しましたが、植村正久という改革長老教会のすぐれた説教者の言葉に、「腐っても鯛、というが腐った鯛ほど扱いにくいものはない」という言葉があるそうです。植村正久はこの言葉を人間の罪の状態の比喩として語ったそうです。罪人だと言っても、人間は、「役に立たない」とまでは言われる覚えはないと思います。しかし、イエス・キリストへの信仰を抜きにした神との関係においては、やはり、人間は「役に立たないもの」だったのです。「無益な者」だったのです。そうではないと反発する人間の心が、自分自身のことを「鯛」だと感じている心なのだというのです。たしかに自分にはダメなところはあるかもしれない、「でも腐っても鯛だ」と居直っているのが人間の現実だと植村正久は語っていたそうです。でも、タイであれアワビであれ、罪の下にある限り、人間は虚しい存在なのです。罪の下にある限り扱いにくく、役に立たないのです。

 13節からのちはその虚しい人間の有様が描かれています。13、14節では人間が言葉において罪を犯すことを語っています。15節ではその行いの有様です。その結果、人間はみずからは望んでいない悲惨の道を歩くのだと語られています。彼らの目には神への畏れがないと18節にあります。いま、聖書研究祈祷会では箴言を学んでいます。その箴言のもっとも有名な言葉と言っていいかと思いますが、「主を畏れることは知恵の初め」という言葉が箴言1章7節にあります。神を畏れる、神を神として敬う、そこから神と人間の関係が回復されていきます。神の前で人間が豊かに生きる道があたえられます。そこから人間の本当の幸せが始まると言っていいでしょう。しかし、人間は神を畏れることができません。もちろん、古今東西で、人間のコントロールできない自然現象や運命の前で神を怖がるという意味でのおそれはあったでしょう。それが原始的な宗教の始まりであるとも言われます。しかし、人間は賢くなるのです。そして自分は賢くなったと考え、神を畏れなくなります。神を畏れるのは、知恵のない、科学技術のレベルの低い人間だと考えるようになります。先週、ペンテコステの礼拝においてバベルの塔のお話をしました。人間はたえず自分が神になり変わろうとします。そして自分で何でもコントロールできると考えます。人間がどんどん賢くなって、強くなって、神などいらず、すべてをコントロールできると考えていくとき、人間自身も、世界もいっそう悲惨になります。科学技術の発達そのものを聖書は否定していません。でも神を畏れない人間にはその技術を正しく使うこと、コントロールすることはできません。それは20世紀の悲惨な戦争とホロコーストの出来事を考えればすぐにわかることです。人間が賢くなって世界は素晴らしいものになったのか、まったくそうではありませんでした。罪の下にある人間は、自分の都合の良い勝手な欲望のために、まわりのものを利用しようとします。そこから世界の悲惨が生み出されます。神を畏れない、罪の下にある、罪の奴隷である限り、人間は悲惨な道を歩みます。

<神の憐れみのなかを歩む>

 だから神は、神を畏れない人間を一網打尽にやっつけよう、、そうは考えられませんでした。マタイによる福音書の9章36節に「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と主イエスのご様子が描かれています。神を神とも思わない、罪の下にある人間の悲惨を見て、なお主イエスは憐れまれました。同情されました。それは単に、ああかわいそうにという同情ではありません。はらわたよじるほどの思いをもたれたのです。飼い主のない羊は、迷います。群れから離れた羊は、その習性から、やがて野垂れ死にするのです。今日の聖書箇所の12節に「皆迷い」とありますが、罪の下にある人間は皆道に迷うのです。行きあぐねるのです。

 しかしその人間に、限りない神の憐みが注がれました。自分で自分の罪をどうすることもできない人間のために主イエスがその罪を贖ってくださいました。主イエスの十字架によって私たちは罪の奴隷から解放されました。罪の下にあった者が罪から解放されました。

 罪の奴隷から解放されたということは、もう一つの面から言えば、もう自分自身の力で正しくある必要はないということです。これは次の聖書箇所につながるところでもあります。私たちは精一杯、自分自身でどうにか自分をしていこうと頑張ってきました。自分自身で自分を正しくしようと頑張ってきました。

 それはとてもしんどいことでした。急な坂道を一生懸命自転車で漕いで昇るようなことでした。なぜいきなり坂道というかというとご存じのように私は長崎の出身ですから、長崎は坂道が多く、坂道に苦労したからです。もちろん大阪にも坂道はあります。しかし、長崎は本当に坂が多いのです。ですから、長崎で自転車に乗るのはたいへんです。私の実家の近くにやはりとても自転車では上がれないような長くて急な坂道がありました。当時は電動アシスト自転車などもありませんでしたから、そんなところを誰も自転車では上りません。しかし、その坂道を競輪の選手は訓練に使っていました。もちろんプロの競輪の選手ですから、その坂道を自転車で昇っていくのです。その姿を見てすごいもんだなあと感心した記憶があります。

 その坂を思い出しながら思うのです。私たちも主イエスなしで、自分で自分を正しくして生きて行こうとするのは、とんでもない級で長い坂道を自転車でこいで昇っていくようなものです。労多く、むなしいことです。普段生きていくとき、そんなことは意識しないかもしれません。でも自分のちっぽけな正しさのエネルギーで一生懸命ペダルをこいで生きていく、そのたいへんな生き方から解放されなさいと聖書は語っているのです。一生懸命漕いで坂を上がっても、結局、皆道に迷うのです。そんな弱り果てるようなところから神様は自由になりなさいとおっしゃっています。自分で自分の罪をどうしようもできないことを知り、言ってみれば神様に白旗を上げなさい、キリストと共に歩みなさい。そこから本当の自由の道が与えられるのだと聖書は語っています。キリストと共に歩む道にもまったく困難がないわけではありません。坂道もあります。でもキリストと歩む時、坂は低くされ、その歩む足は軽くされます。罪の下から放たれた心も体も軽く喜びにあふれます。

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