大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 3章1~8節

2017-07-14 12:57:28 | ローマの信徒への手紙

2017年5月28日 主日礼拝説教 「神は真実な方」 吉浦玲子牧師

 リュティという神学者は今日読まれましたローマの信徒への手紙3章1節からを「天国への門」であると言ったそうです。今日読まれた箇所は、日本語としては難解なところはなく、なんとなく理解できても、背景がわからないとスッと入って来ない所かと思います。ただ、どうもパウロは厳しいことを言っているらしいと、まず感じます。神の誠実とか人間の不誠実、また神の怒りや裁きといった言葉が出て来ます。この箇所は「天国への門」なのかもしれないけれど、多くの人がその先に進みがたい雰囲気があります。

 一方で、ある神学者は今日の聖書箇所を「人間の屁理屈が現れている箇所」といった言葉で説明をしておられます。実際、伝道者パウロは多くの自分への反対者に対して、その反対者たちの言葉が屁理屈であって信仰的でないことを、多くの手紙に置いて指摘しています。今日の聖書箇所でも、パウロは自分への反対者を想定して、言ってみれば仮想的な議論を展開しているのです。議論のシュミレーションをしていると言ってもいいかもしれません。意味の取りにくいところは、パウロ自身が、当時自分へ向けて非難された言葉をそのまま引用して反論していることからくるようです。

<ユダヤ人の優れた点>

 まずパウロはユダヤ人の優れた点について述べています。今日の聖書箇所の前の2章では、ユダヤ人であれ異邦人であれ、神の裁きの前では公平なのだということをパウロは述べています。律法を与えられているから、また、肉体的に割礼を受けているから、神の裁きをまぬがれることはないのだと語っています。

 しかしなお、神に特別に選ばれた民としてユダヤ人には優れた点があると今日の聖書箇所でパウロは語っています。それは先週にもお話したことと関連しますが、旧約聖書のアブラハムの時代から、ユダヤ人は選ばれた民としてあった、特別な存在意義があった、そのことをパウロは認めているのです。そしてそれが具体的に語られているのが2節の「神の言葉をゆだねられたのです」ということです。神の言葉を委ねられているという点に置いてユダヤ人は優れている、その特別な存在意義が認められるというのです。たしかにユダヤの人々はその長い歴史のなかで「神の言葉」を保ち続けていたのです。もちろん、主イエスによって、また、パウロによって、「神の言葉」をゆだねられ、保ち続けてきながら、その神の言葉に本質的には、従順ではない、見かけだけ従順なふりをして、その心において神の言葉を軽んじているという批判は受けています。しかしなお、ユダヤ人は神の言葉を託され、その言葉を担って来たことは間違いないのです。パウロ自身もファリサイ派と呼ばれる聖書の専門家でした。そのファリサイ派をはじめ、神の言葉を熱心に研究し、守ろうとしていた人々がユダヤ人だったのです。紀元前6世紀の王国の崩壊、バビロン捕囚、そのような悲惨なイスラエルの長い長い歴史の中で、「神の言葉」は捨てられることはありませんでした。むしろ、そのような悲惨をくぐってきたゆえにユダヤの人々は「神の言葉」を自分たちの存在の根幹にかかわるものと認識したのです。ですから、国の崩壊という壊滅的な出来事にあってもなお「神の言葉」を歴史のかなたにうずもれさせることなく担って来たのは事実です。そのことにおいてユダヤ人は優れているとパウロは評価しているのです。

 「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで神の誠実が無にされるとでもいうのですか」とパウロは畳みかけていいます。たしかにユダヤ人は「神の言葉」をになって来ました。しかし、担いつつ、先ほども申し上げたように、神を心において軽んじ、神と隣人とに対して不誠実なことをユダヤ人はしていました。それに対して、「神の言葉」を担っている者たちが不誠実だからといって担われている「神の言葉」の主である神ご自身が不誠実であるとは言えないとパウロは言っているのです。

 たとえば主イエスを信じる信仰者が、やはり罪人であり、人から見て不誠実なことをするということも現実的にはあり得ます。あんな人が信じている宗教なんて信じられない、あの人が信じている神なんて価値がないのではないか、そう感じられてしまうということは残念ながらあります。教会の歴史においてもそうです。初めて教会に来られた方と何回かお話しして、かなりの確率で出てくる話題は2000年の教会の歴史の中で、教会が行って来た罪深いことへの質問です。十字軍もそうですし、アウシュビッツを作った国家はキリスト教国だった、そんなこともあります。近年でもさまざまに国際的な紛争においてキリスト教を信じている国や民族が正しいことをしているようには見えないことがいくらでもあります。過去の、そして現在の、キリスト教徒に悪い奴がいたから、また教会が悪いことをしてきた、だから、そんな人たちや教会が言っている神は信じられない、あるいはそんなはっきりとした不信感ではなくても、なんとなく不安を覚えるような感覚を持っておられる方は多いのです。ここでパウロがいっているのはこれと同じような話です。

<神の誠実>

 だからといってここでパウロは神様が不誠実と思われないように信仰者はみんな誠実でありなさい、教会はきっちりしなさいと言っているのではありません。それは人間の罪ということを考える時、無理なことです。あくまでもここでパウロが言っているのは神の誠実です。人間が、それも神の御言葉を担って来た人間が、今日でいえば、主イエスの信仰を持っている人間がどれだけ不誠実であったとしても神の誠実は絶対に変わらないということです。「あなたは、御言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と4節に引用されているのは詩編51編の6節です。これは新共同訳の51編6節と言葉が異なります。言葉の相違は、パウロの引用は、当時、広く読まれていた旧約聖書をギリシャ語に訳したものからの引用だからです。ですから、ヘブライ語から訳された新共同訳と少し違うのです。その詩編51編6節で言われていることは「法廷の裁判で最後に勝利を得られるのは神である」ということです。新共同訳の訳では「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」となっています。この詩編51編はダビデが人妻のバトシェバと犯した罪を背景にした悔い改めの詩でした。人間はどこまでも罪深く、しかし、神はどこまでも正しい。人間の罪の闇の中でむしろ神の正義の光は輝いている、そのことがこの詩編51編の言葉で分かります。

<神の栄光のために罪を犯そう?> 

 しかしまた、ここでひとつの「屁理屈」がでてくるのです。人間の罪の闇の中で光が輝くように神の正義が現れるのなら、いっそ罪の闇が深い程、神様の光がわかりやすくなるのではないか、つまり5節にある「わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら」というのは、人間は不義であったとしても、それで神様の義が明らかになるなら人間が不義であることはそんなに悪いことではないのではないかという言葉なのです。「人間の論法に従って言いますが」とは、このような「屁理屈」を言うことを人間の論法とパウロは痛烈にいっていることです。7節に「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう」とありますが、これも同じ「屁理屈」です。自分の偽りによって神の栄光が現わされているんだから自分が裁かれるのは不当だと言っているのです。

 実際、パウロを批判する人は、パウロが「善が生じるために悪をしよう」と言っていると責めていたようです。それに対してパウロは反論しているのです。

と ころでもう一度ここで、神の言葉である律法というものを確認しておきます。律法は神と隣人へのあり方を示したものです。しかし、罪人である人間は律法を守ることができませんでした。表面上の文字面での戒めは守りましたが、キリストの十字架と復活、また聖霊の降臨より前は、人間は本当の愛と慈しみに生きることはできませんでした。律法を守れなかったのです。じゃあ律法は無駄だったのかというとそうではなく、律法は、人間の罪を映し出す鏡のようなものとなったのです。ある先生は律法は罪を映し出すレントゲン写真のようなものとおっしゃっていました。律法によって人間は自分の罪を照らし出されるのです。ローマの信徒への手紙の少し先の所になりますが、「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(5:20)恵みはキリストゆえの救いと関わることですが、こういうところを、字面だけ都合良く読むと、パウロは「罪が増したから恵みも満ちたと言っている。つまり罪があるから恵みがあるといっているじゃないか、だからパウロは恵みのために悪をなそう、善が生じるために悪をしようといっているのだ」と結論付け、批判するような人々がいたのです。そのような反対者に対して、パウロは「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」と厳しく言っています。

<キリストのゆえに神の前に立つことができる>

 パウロでなくても、誰が聞いても、神に栄光が現れるように不義を行おうなどという言葉は愚かで欺瞞的に感じられます。しかし、なおここで考える必要があります。パウロは確かにそのような屁理屈を言う自分への当時の批判者を具体的に想定して語っているのですが、神の前で屁理屈をこねるのは、そもそも人間の性質なのだということを私たちは受け止める必要があります。

 神の誠実ということをパウロは前半で語っていました。人間が、あの人は誠実であるというとき、どういう尺度で誠実だと感じるのでしょうか。嘘をつかない、言うことがころころ変わらない、言ってることとやっていることが一致している、相手によって態度や言うことを変えない、いろいろな要素があるかと思います。たとえば会社員で上役には良い態度をして、部下や立場の弱い取引先などにはひどい態度をとる、そういう人は誠実であるとは感じません。あるいは普段は誠実そうな人が、たとえば、レストランなどに行ったとき、そこのお店の人に傍若無人な対応をしていたら、がっかりします。どんなにその人が自分には親切に丁寧に接してくれたとしても、そういう人は本当の意味では誠実な人とは感じられません。

 一方で私たちはパウロが言うように神が誠実な方であることを知っています。人間である私たちが不誠実であったとしても神はどこまでも誠実な方だと思っています。しかしそう思いながらも、私たちの望む神の誠実は、どこまで行っても、自分を中心に据えた神の誠実さであることを認めざるを得ません。自分に都合の良い神の誠実さをどうしても人間は求めます。

 しかし、神の誠実は、正しくないことに対して怒りを発せられる誠実さであり、裁きの日に厳格に裁きをなさる誠実さです。その誠実は誰に対しても平等なのです。人間にはそのような誠実が耐えられないのです。自分だけはどうにかその平等な裁きから言い訳をして逃れたいと思います。人間の罪の本性のゆえに神の誠実さ、平等さは耐えられないのです。

 最初にリュティがこのローマの信徒への手紙の三章は「天国への門」だと言っていると申しました。パウロはここで厳しいことを書いています。神の前で屁理屈をこねる、神の誠実を自分中心にとらえる人間の姿を描いています。律法は罪を映し出すレントゲン写真だと言いましたが、今日の聖書箇所もまた、人間の罪をパウロによってあきらかにされている箇所であると言えます。

 私たちの罪が明らかにされただけであるなら、この箇所は「天国への門」ではありません。しかしなお、この箇所は「天国への門」なのです。私たちはキリストのゆえに、私たちの罪があきらかにされることを恐れる必要がないからです。私たちはキリストの十字架と復活の救いの業のゆえに、神の誠実の前に、正直に罪の姿のままで立つことができるのです。屁理屈をいって罪を認めないのではなく、恐れることなく罪を認め、悔い改めることができるのです。人間の本性として神の前で屁理屈をこね、自分の不誠実を隠したいところですが、キリストのゆえに私たちはもうそうする必要はなくなりました。

 最近、私は飛行機に乗ることはないのですが、飛行機に乗る前にはテロ対策で厳重に持ち物検査があります。荷物を調べられ、X線装置のなかを通って危険なものを体に身につけていないか隠していないかも調べられます。その結果、なにも危険なものを持っていないと判断されれば飛行機の搭乗ゲートへ向かうことができます。今日の聖書箇所はその飛行機搭乗前の持ち物検査、身体検査に似ています。「天国への門」の前で、私たちは自分を吟味することを求められます。ただ、心素直に神の誠実の前に立つことを求められます。自分の持っているものをすべて神の前に置くのです。自分の罪を差し出すのです。自分の心を神のX線装置にさらすのです。そしてそこで自分の本当のみじめさ、罪の姿があきらかにされます。しかしそれは絶望ではありません。その本当の自分の姿のままで立つ時、キリストが共におられるゆえ、罪を悔い改めることができます。罪を赦されます。そして神の国の門が開かれます。本来は乗ることのできなかった飛行機の搭乗ゲートに案内されるように、私たちは神の国の門へと導かれるのです。

 

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