大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙 5章1~11節

2017-07-14 13:45:17 | ローマの信徒への手紙

2017年7月2日 主日礼拝説教 「神との和解」 吉浦玲子牧師

<神との平和>

 私の母教会では聖餐式のある礼拝では、礼拝の中で、「平和の挨拶」というのを行っていました。礼拝の中で、お隣とか周囲に座っている人と「主の平和」と言いながら挨拶を交わすのです。「平和の挨拶」は、教会によって、具体的なやり方はいろいろで、握手をしたりお辞儀をしたり実際の挨拶の仕方はさまざまです。実際のところ「平和の挨拶」は慣れないとちょっと気恥ずかしいものです。「平和の挨拶」は御言葉と聖餐によって、私たちが神との間に平和を得ていることを確認して、神との平和があるゆえに、隣人とも平和を得ている、新しい交わりができるということを覚えるものです。今日の聖書箇所で「主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とパウロは言っています。

 私たちはキリストの十字架の贖いによって父なる神との間に平和を得ています。先週まで信仰義認ということを共にローマの信徒への手紙から読んできました。そもそも神は罪をなかったことにしてお赦しになる方ではありません。にもかかわらずキリストの十字架のゆえに私たちは罪人でありながら、実際、多くの罪を犯しながらなお赦されています。キリストへの信仰によって正しい者であると、義であると、みなされています。信仰によって義とされているゆえに神との間に平和を得ています。逆にいうとキリストがおられなければ、そして十字架がなければ、人間は神と戦争状態だったということです。キリストへの信仰を公に告白して、神から義とみなされないかぎり、神との間には平和がないということです。神と戦争状態だということです。

 では私たちは洗礼を受ける前、あるいは信仰告白をする前、毎日毎日神様と戦っていたでしょうか?神と戦争をしていたでしょうか?そういう実感を多くの人は持たれないと思います。別に神など知らなくても、聖書など読まなくても、神に祈らなくても、平穏に暮らしている、そう考えている人がほとんどでしょう。

 むしろ、神を知ったとき、神ご自身から知らされた時、私たちはそれまでの私たちに本当の平和がなかったことを知ります。神の恵みの光に照らされたとき、それまでの自分の日々がどれほど暗かったかを知らされます。神の光に照らされたとき、私たちははじめて神と戦争状態であったこと、そして今、キリストによって神との平和を得ていることを知ります。

 ところで、今日お読みいただいた聖書箇所には有名な言葉があります。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」この言葉を聞くとき、なにか苦難に耐えに耐えてその結果何か良いものを得られるような印象を受けるかもしれません。「艱難、汝を玉にする」というような苦労によって人間が成長していくような言葉のイメージでとらえられるかもしれません。

 そうしますと、ずっと読んできましたローマの信徒への手紙でパウロが繰り返し言っている「信仰によって義とされる」ということと矛盾してきます。苦難の中で耐えるという行為や人間の心がけによって信仰の希望が生まれてくるようなことになります。ですから「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という箇所を一般的な「苦難を忍耐しましょう」そうすれば人間的に成長できます、という文脈で読むのはおかしいのです。この箇所は、まずもって、神との平和ということが大前提として語られているのです。

 そもそも艱難、苦難は人間を本当の意味で成長させるでしょうか?そうとばかりはいえないこともあるのではないでしょうか。長い長い苦労の末に、むしろ、心が傷ついて頑なになってしまうということは良くあります。苦労の末に成功はしたけど、傲慢になってしまうそういうこともあります。ある昔話があります。残酷な昔話です。昔々、小さな村の若い男女が恋をして結婚を約束しました。男は都へ行って愛する娘のために一旗あげようと思います。娘は心から男を愛していましたので、その男を信じて、男の帰りをずっと待っていました。男は娘のために出世しようと都で何年も何年もがんばりました。娘は男を信じてずっと村で待っていました。何年も何年もたって、何十年もたって、結局男は成功できずにぼろぼろになって村に逃げ帰ってきました。男は追手に追われて逃げてきたのです。その男を女性は出迎えます。美しいままで娘の時と変わらず、女性は優しく男性を迎え、かくまいます。男はほっとします。ああ、娘は待っていてくれた、今こそこの子と結婚しよう、そう男が思った瞬間、男は女性に食い殺されたのです。女性は何年も何年も村で男の帰りを待ち続け、その寂しさに苦しみ、孤独のうちに狂ってしまったのです。男を愛するゆえに他の男性と結婚もせず小さな村で一人で生きてきて娘はやがて鬼になったのです。自分を鬼にした男をなお愛しながら、かつ憎みながら待っていました。そして男が帰って来たとき鬼となっていた女は男を食い殺してしまった、とても悲しい残酷な昔話です。でもこれは人間の愛の限界、忍耐の限界を、ある意味、端的に表している物語であるといえます。人間は最終的な希望がなければ、たしかな望みがなければ、本当の意味での忍耐はできないのです。希望を持てない忍耐は人間の心を壊してしまうのです。

<なぜ苦難を誇るのか>

 さて、平和と言うことに戻りますと、キリストを信じる信仰によって私たちは神との間に平和を得ている、そこに喜びの源泉があります。生きていく命の源があります。すべてのものはその平和から湧き出てくることです。2節で<キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。>とあります。キリストのゆえに、十字架のゆえに恵みを受け、終わりの日に神の国で私たちは栄光を受ける希望を持っています。その希望こそが誇りだとパウロは言っています。そして3節で<そればかりでなく、苦難をも誇りとします。>こうパウロは語っています。現在の恵みと将来の栄光を誇りとするのは理解できますが、なぜ苦難も誇りになるのでしょうか?それはキリストによって神との平和を得ている者は、最終的な希望、本当の希望、神の栄光にあずかる希望があるので、苦難をも喜びに変えることができるからです。

 そして実際、何回かお話ししてきたことですが、クリスチャンには信仰ゆえの苦難があります。信仰の戦いがあるということです。日本ではクリスチャンはマイナーな存在です。キリスト教徒として日々を送っていくには大なり小なり困難があります。日曜日に礼拝に出てくることそのこと自体がたいへんな戦いを伴う人もいます。周囲の人の無理解と戦ったり、日本の社会の構造上、日曜日に休めないそのような人もいます。そのような外的な信仰生活上の困難と合わせて、自分自身の内側にも困難があります。

 私たちの内側にも神から自分を引き離す力が働きます。聖書や祈りから自分を引き離す力が働きます。そしてまたさまざまな日々の出来事の中で信仰が揺らぐことがあります。そのような信仰の戦いがクリスチャンにはあります。

 逆に戦いのない信仰生活は成長のない信仰生活でもあります。苦難は忍耐を忍耐は練達を生むとありますが、戦いのない信仰生活は練達することのない信仰生活でもあります。希望の失われた生活でもあります。ここで忍耐と訳されている言葉は、単に辛抱するということではありません。積極的にそこにとどまるというニュアンスがあります。投げ出さずにそこにとどまるのです。神との平和を得て、希望があるので投げ出さずにとどまることができるのです。練達と訳されている言葉のギリシャ語は、いろいろな意味がある言葉です。「試す」とか「結果」という意味もあります。練達、つまり熟達するというか熟練するという言葉と試すや結果ではずいぶん違うように感じます。しかし、これは金属を製錬して不純物をとりのぞいていく過程でその金属の純度を試すとか、製錬の結果純度があがるというニュアンスを考えるとわかりやすいかもしれません。試練を投げ出さずに忍耐する、そこに留まると、その結果、信仰の純度が上がっていくという結果が生じる、あるいは製錬によって信仰の純度を試される、そういうニュアンスにおいての練達があります。

<トレーナーはイエス様>

 でもその苦難から忍耐、練達、希望にいたるプロセスにおいても、導いてくださるのは神様です。私たちはなにかトレーニングをするように自力で自分の信仰の純度を上げていくのではありません。

 私は伝道者として歩む過程で、いくたびか迷うときがありました。それは他の伝道者も同様だと思います。まだ補教師になる前、お仕えする教会の任地のことで悩んでいた時、ある牧師先生は、「教会に仕えるということはどこにでも行くということです。でも、それは自然に思わされることで、無理に考えちゃダメだ」とおっしゃいました。また別の時、説教のことであれこれ考えていたら、ある先生から、この方はかなり怖い方だったのですが、ぽつりと「無理をしちゃダメだよ」と言われました。普段はかなり厳しいことをおっしゃる先生の口から「無理をしちゃダメだよ」と、その先生は顔は怖かったのですが、言葉は優しく励ましていただいたのが印象的でした。

 だれでも人間は無理をしてしまう傾向があるのです。結局それは自分の力でやろうしていることなのです。自分の力ではなく神に期待する、それが信仰者のあり方です。なぜなら、5節に<希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えらえた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです>

 聖書は神の愛をくりかえし語ります。私たちも神の愛があることを知っています。しかしその愛は漠然としたものではありません。漠然と神を信じて、なんとなく神様って有難いと思って、またなんとなく神様が困った時には助けてくださるような思いを持ったり、守られているような感じを持ったりする、クリスチャンにとっての神は、そのようなものではありません。神の愛はそのようなものではありません。なんとなく漠然と将来は天国に行くんだと思う、そういうことでもないのです。

 クリスチャンにとって神とは明確なものです。神の愛ははっきりとしめされているのです。何となく有難いものではないのです。もちろん確かに神はありがたい方であることは間違いありませんが、その神の愛を知った時、100万回感謝してもし足りないようなお方です。私たちの生き方の根本を変えてくださるのが神の愛です。そして感謝にあふれ、ひれふして礼拝せざるを得ない、そのような方が聖書に記されている神です。私たちには聖書に記されている明確な神のお姿を知ることができます。そのお姿をキリストによって、私たちは知ります。キリストはなんとなくありがたいような神ではないのです。私たちのために、死んでくださった神です。罪人である私たちを父なる神の前で正しいものとみなされる者としてくださる救い主、それがキリストです。7節8節に「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とあります。

 人間の歴史の中に神の御子が現実にお越しになり、死んでくださいました。それも罪人であった私たちのために死んでくださいました。人間は自分が価値があると思うものに対しては時に命を投げ出すことができるかもしれません。しかし、自分が価値があると思えない者のために命を投げ出すことはできません。しかし、神はそうではありません。ご自分へ反抗をしている、戦争をしている、罪を犯している人間のためにキリストを十字架にかけて死に渡されました。そこに神の愛が示されているのです。キリストの死によって、そしてキリストの血によって私たちは救われました。神と和解させていただきました。これは信仰によって、聖霊によって知らされることです。2000年前に死んだ人が自分と何の関係があるのか、何の根拠でキリストの死によって私の罪が赦されたことがわかるのか、理屈で考えればそのような疑問があるでしょう。しかし、私たちに与えられた聖霊によって、私たちはキリストが他ならぬこの私のために死なれたことを知らされます。今日は聖餐式があります。私たちは聖餐において、繰り返しキリストの死を告げ知らされます。キリストの裂かれた肉と流された血を繰り返し覚えます。そこに明確に、ほかならぬ私たち一人一人にはっきりと示された神の愛を繰り返し覚えるためです。

 キリストの十字架に神の愛が示されました。その愛によって私たちが最終的に行きつく先は神の裁きではなく、永遠の命となりました。それこそが希望の源泉です。その希望があるから私たちは信仰ゆえに苦難を忍耐をすることができます。練達を得ることができます。そしてさらなる希望へと歩んでいきます。私たちの歩みは希望から希望へと向かう歩みなのです。

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