大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

イザヤ書11章1~10節

2017-08-07 19:00:00 | イザヤ書

2017年8月6日 主日礼拝(平和主日)説教 「平和を実現する人」 吉浦玲子

<この世の「平和」>

 イザヤ書の11章1節に出て来ますエッサイはダビデ王の父親です。クリスマスのころに歌われる讃美歌にもその名前は出て来ます。エッサイの株からひとつの芽が萌えいでて、さらにその根からひとつの若枝が育った、その若枝こそがイエス・キリストなのだとイザヤは語ります。もちろん旧約聖書の時代ですから、「イエス」という名前は直接出て来ません。しかし、この箇所は、旧約聖書の中でもイエス・キリスト預言がされている箇所として、たいへん有名なものの一つです。この預言は、約七百年の時を隔てて、成就します。

 この預言が為された時代は、アッシリアという大国が周辺の国々を牛耳っていました。イスラエルは北王国と南王国に分裂をし、おそらくこの預言の時期には北王国はアッシリアによって滅んでいたと考えられます。南王国はかろうじてアッシリアに従属的な位置に甘んじて、その国家としての体裁を保っていました。イスラエルだけでなく、当時、アッシリアの圧倒的な軍事力によって、周辺国家はおとなしくせざるを得なかった、アッシリアの強大さのゆえに、その地域の均衡が保たれていたともいえます。つまり、言ってみれば、当時の世界は「アッシリアの平和」ともいえる皮肉な状態でありました。アッシリアという強大な国の支配によって、見かけ上、世界に平和が保たれているように見えた時代です。「アッシリアの平和」という言葉はおそらく「ローマの平和」という言葉を応用して語られているのでしょう。主イエスの時代は、のちの歴史家によって「パクス・ロマーナ」つまり「ローマの平和」と言われていました。だいたい主イエスのお生まれになる少し前から2世紀後半までの約200年くらいのことです。「パクス・ロマーナ」とはローマ帝国がもっとも強大で安定していた時代のことでした。ローマに支配されていた地域はローマの強大さゆえにはむかうことができず、一見、当時の世界は安定していたのです。支配されていた地域の人々は決して幸せではなかったでしょう。主イエスの時代のイスラエルもローマの支配から解放されることを望んでいました。そんな「パクス・ロマーナ」「ローマの平和」でしたが、やがて徐々にローマ帝国の力が弱まり出すと今度はあちこちで紛争が起こりだしました。「パクス・ロマーナ」が壊れて行ったのです。大国の強大さのゆえに、一見、国際間の秩序が保たれている、しかし、大国の力が衰えるとバランスが崩れ、あちこちで紛争が起き、一触即発の状態となる、そういうことはいつの時代にもありました。20世紀の米ソ冷戦の時代もそうであったかもしれません。現代においてもそうでしょう。米国やロシア、中国といった諸国がそれぞれにやぶにらみの状態でかろうじて均衡を保っているといえます。もっとも現代は、絶え間なく紛争やテロはあり、多くの人々が犠牲になっている現実はあります。ですから「平和」という状況とは程遠いともいえます。

 さて、イザヤ書の時代、「アッシリアの平和」の中で、もちろん、イスラエルの民族感情としては、アッシリアに従属することは本意ではありませんでした。当時のイスラエルの中には、他国と軍事同盟をむすび、アッシリアへ対抗しようという考えもありました。それはいかにも当然なことであります。国家が国家として、民族が民族として生き延びていくために、政治的政策、外交的方策、さらには軍事的手段を取ろうとすること自体は当然のことです。

<預言者の語る「平和」>

 しかし、イザヤは<アッシリアの平和>と言える時代にあって、また、アッシリアに対抗しようという<反アッシリアの平和>をめざす人々の中にあって、人々が考えるのとはまったく異なる平和を語った人でありました。神の造り出す平和を語りました。まず、今日の聖書箇所の冒頭、「エッサイの株から」とあります。新共同訳ではエッサイの株と訳されていますが、多くの翻訳では「切り株」と訳されています。つまりエッサイの株はいったん切り落とされることをイザヤは語っているのです。つまり若枝が育つその前に、裁きがあることをイザヤは語っています。

 いまはまだ国家として命脈を保っているイスラエルが切り落とされる日が来る、そのことをイザヤは語っています。実際、かつて栄華を誇ったダビデ王そしてソロモン王から続いたこの国は廃墟と化します。しかしなお、イスラエルで最も大いなる王とされたダビデの子孫から平和の王が生まれる、それはダビデの父のエッサイの切り株から生まれるのだと言います。切り落とされた株から小さな芽が萌え出でる、とても美しい比喩です。しかし、芽ですから、ほんとうに小さなものです。芽が出たことを気づかれることもないでしょう。その芽が育ち、根が広がっていく、根ですから、土の中にあり、その姿は人間の目には見えません。その肉眼では確認できない根から、やがて出てくる若枝が主イエスであるとイザヤは語ります。そのイエスこそが平和の王であるのだと語ります。イエスが神の平和を作り出すのだと語ります。

さらに時代をくだって、かろうじて存続していた南王国も滅び、生き残った人々もバビロン捕囚としてバビロニアへ連れて行かれるような時代背景の中で預言をした預言者にエレミヤがいます。エレミヤも周囲の人々と異なる平和を目指した点において同様でした。エレミヤの呼びかける平和は、当時の敵のバビロンに投降して、捕囚となってバビロンに行くことでした。エルサレムは包囲され、人々は闘っていました、国を挙げて皆が命がけで戦っているその状況の中で、戦うな捕虜になれとエレミヤは語りました。当然、人々は聞く耳は持ちません。すぐ目の前に敵がいるその戦争状態の中で、戦争を否定するような人間はその国家にとって、また共同体にとって、言ってみれば敵に等しいわけです。当然、エレミヤの言葉に人は耳を貸しませんでしたが、結果的には、エレミヤの預言通りになったのです。しかし、エレミヤ自身、単に、捕囚になって命を長らえることで神の平和が終わるとは考えていませんでした。イザヤと同じく、やがてくる神の平和をエレミヤもまた語ったのです。ふたたび新しく神のもとに皆が集い神を賛美するときがくる、その神の究極の平和をエレミヤは語りました。その究極のビジョンがあったからこそ、ひととき、バビロン捕囚という試練をも甘んじて受けることができるとエレミヤは考えていたのです。バビロン捕囚はまさに今日の聖書箇所で語られているエッサイの株が切り取られた時代のことでした。

<真の平和の王>

 その切り株の根から出た主イエスはまことの平和の王となられます。「そのうえに主の霊がとどまる」とあります。主イエスはまさに神の霊を受けて王となられます。まことの知恵を持ったお方となります。その知恵の根源はなにより「神を畏れる」ことにあります。神を畏れ、正しい裁きを行う王であります。5節までの平和の王、弱い人貧しい人を助ける主イエスの姿には私たちは心慰められます。

 しかし、6節から語られる、その王の造り出す平和は、私たちの目からは、いかにもおとぎ話のようなものに見えます。<狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す>このようなことは現実にはありえないことです。<子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く>子牛といっても大きいものですから、小さい子供にはとうてい導けません。ましてや若獅子などと子供を一緒になどできません。ありえないユートピアのような世界です。

 そもそも、6節からの世界は、創世記で語られた天地創造の時代と同様なものとして世界が造り直されることを現しています。そもそも神は天地創造において、この世界を良いものとして造られました。創世記の第1章に創造されたその世界は「見よ、それは極めて良かった」と記されています。その極めて良かった世界が壊れたのは罪が世界に入って来たからです。きわめて良かった世界は罪のために壊れてしまったのです。しかし、ふたたび、きわめて良い世界として、この世界が造り直される、その再び造り直された世界をイザヤは今日の聖書箇所で語っています。そもそも、狼と小羊が共に宿ることのできなくなったのは、ノアの時代の大洪水のあとからでした。天地創造の最初の時代、実は動物はみな、草食だったと聖書では語られています。しかし、ノアの時代の洪水ののち、神は動物が動物の肉を食べることをゆるされました。その時代から、動物同士が殺し合いをする世界となったのです。動物の血が流される世界となったのです。それは神が罪の世界を忍耐されることを決意された、その決意のなかで、ひととき赦される流血でした。

 しかし、その動物の血が流される世界がやがて、初めの時のように造り替えられる。狼と小羊が共に宿るようになる、これはいま壮年婦人会で読んでいるヨハネの黙示録で語られている終わりの日のことでもあります。

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 では私たちは、その終わりの日まで、狼と小羊が共に宿るその日まで、この暗い、平和のない世界で忍耐をしないといけないのでしょうか?それはたしかに半分はそうです。私たちは、この罪によって壊れた世界で、戦争に怯え、不条理に耐えつつ、菜食主義者でなければ、他の動物の命をいただきながら生きていきます。

 しかし、エッサイの若枝たるキリストはすでに来られたのです。2000年前に。しかし、この2000年間、おびただしい悲惨がこの世界にありました。世界大戦も、原爆も、テロも、原発の事故もありました。ホロコーストもありました。若枝たるキリスト到来ののちも何一つ世界は変わっていない、いやむしろ時代が進めば進むほど、もっと悪くなっているのではないか、そのような現実があります。しかし、それは神の現実でもあります。終わりの日へと、確実に向かう神の現実がこの世界に及んでいるということです。終わりの日は最後の裁きの日です。しかし、それは破滅の日ではありません。神が再び世界を完全に造り直される時です。その時の前に、世界には苦難が満ちていくのです。それはヨハネの黙示録に語られていることです。世界に、そして私たちの日々にも苦難、困難が満ちていきます。信仰の目で見る時、ある面、世界には一層の苦難が満ちているのです。

 しかし、一方で、信仰の目で見る時、すでにイザヤの言う平和は実現しているのです。暗い世界の中に、たしかに、若枝たるキリストの平和は芽生えているのです。その平和は人間が造るのではありません。神が作り出される平和です。平和の主イエス・キリストの力による平和です。それはこの世の力とは異なる力です。平和の主であるキリストは「敵を愛せ」とおっしゃいました。これはクリスチャンでなくても知っている有名な言葉です。そしてクリスチャンであれノンクリスチャンであれ、これがとても難しいことであることを知っています。しかしこの言葉は崇高な理念を語った言葉ではありまえん。難しいかもしれないが、がんばって実践すべき努力項目でもありません。すでにキリストによって実現されたことなのです。そもそも人間は罪によって神の敵となっていました。その神の敵である人間を愛された方がイエス・キリストでした。みずからを十字架につける人々をも愛したお方でした。その愛は、いま、私たちにも注がれています。けっして敵を愛することのできない、いや、味方ですら十全には愛することのできない、愛において無力な私たちの上になお平和の主であるキリストの力はすでに及んでいます。そのキリストの愛のゆえに平和の奇跡はいまこのときの地上においても起きるのです。

 アメリカの黒人差別の歴史の中で、公民権運動のリーダーであったキング牧師は、その運動の日々、絶え間ない脅迫を受けていました。自分や家族の命が奪われる危険を覚えながら、なお、神の奇跡を信じ歩んだ人でした。非暴力を貫き、敵であった白人層からも共感を得て、支持を取り込みつつ歩んだ方でした。しかし、いよいよ黒人の権利が守られる公民権法が制定される前夜、キング牧師の置かれた状況はけっして良いものではありませんでした。むしろ運動が頓挫しそうな意気消沈するような状況でした。しかし、公民権法は制定されました。それはキング牧師の見た奇跡でした。そのキング牧須はその後、暗殺される直前の演説でこのように語っています。

<…前途に困難な日々が待っています。でも、もうどうでもよいのです。私は山の頂上に登ってきたのだから。皆さんと同じように、私も長生きがしたい。長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。神の意志を実現したいだけです。神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。>これは出エジプトの民を率いて40年旅をしてきたモーセが、最晩年、神から約束の地に入ることをゆるされず、しかし、ネボ山の上から約束の地を見せていただいたと記されている申命記を下敷きにした言葉です。キング牧師は、道の途中で暗殺をされました。モーセのように自らは約束の地へはいることはできなかったといえます。しかし、彼はそれを見たのだと暗殺の前夜語ったのです。キング牧師は約束の地を、そして狼と小羊が共に宿るその日を信仰によって見ていた方でした。その終わりの日のビジョンから突き動かされた方であったといえます。平和の主キリストの力によって突き動かされた方でした。人間の目から見たらキング牧師は道の途上で倒れた方かもしれません。しかし、キング牧師を通じて働いたキリストの力はこの地上に平和の奇跡を起こしたのです。

 私たちにもすでに平和の主キリストの力は及んでいます。愛において無力であるはずの私たちもまたキリストによって私たちの日々に平和を造りだす者とされます。この世へと愛を注ぎだす者とされます。

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ローマの信徒への手紙 7章1~6節

2017-07-31 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年7月30日 主日礼拝 「かならず実をむすぶ生活」 説教 吉浦玲子

<花より実>

 永遠の命へ向かう歩みは実が実る生活、聖なる生活の実が実る生活なのだと、6章の終わりでパウロは語りました。そのことを再度、パウロは律法との関係を確認しながら語っているのが今日の聖書箇所です。

 ところで、教会の中庭に教会学校のお子さんたちが種をまいた朝顔が育っています。2週間くらい前までは毎日20輪以上、にぎやかに花が咲いていたのですが、あるときから、ぱったりと花が咲かなくなりました。うっかりしていたのですが、たくさん花が咲いていることに気を取られて、花がらを摘んでいなかったため、咲いた花がすべて種をつけるようになったようです。種が入った袋が丸々とたくさん成長をしています。その種の成長のために養分がとられて、花が咲かなくなってしまったようです。朝顔に限らず、植物には花の時期があり、実りの時期があります。実ったものを食用にする場合もありますが、どちらかというと人間は花の時期を楽しみます。しかし、植物の美しい花が枯れ、実りの季節を迎える、花を愛でたい人間の目には少しさびしい感じでも、植物の命としてはその実りこそ、次の年につながる大事なことです。

 芸術の世界でも、若くして才能を発揮して、早熟な、華々しい活躍をする人がいます。しかしその人が年を経て、さらに良い作品を残していくかどうかというのは分りません。若い頃のきらきらした、才気あふれた感覚が失われ、凡庸になってしまう場合も多くあります。短歌の世界でも10代や20代のとき、まぶしいような作品で世に出てきた才能ある人がある時期から消えてしまう、そういうことがあります。実際、まさに天才的な早熟な人を私は何人か見てきましたが、余りにも若い時がすごかっただけに、その後、うまくいかず挫折したり、過去の栄光にすがるようになってしまった方もいて残念でした。

 芸術の世界であれば、若い時期だけに創作できる、世阿弥がいうところの「時分の花」というような魅力ある、花のある作品もそれはそれで価値があります。でも私たちの日々のあり方は、花よりもむしろ実を実らせることを大事にしていくべきだと聖書は語ります。パウロも6章でもまた今日お読みしました7章でも<実り>ということを語っています。

 私たちは<もう一花咲かせよう>という言い方を一般的にはします。もちろん人生において、花は咲いたらいいと思います。中庭の朝顔もせっかくなので、もう少し花が咲いてほしいと少し手入れをしたりします。しかし、永遠に咲き続けることはできませんし、その必要もありません。命ということで考える時、先ほども言いましたように、実が実っていくことの方が大事なのです。私たちはキリストと共にある日々を歩みながら、毎日毎日変わり映えのしない生活をしていくではありません。豊かな実りへと向かう生活をするのです。それこそがいったんキリストの十字架と共に死に、復活の命に新しく生かされている者の新しい生き方です。

<律法に死んだ者>

 1節から4節までにおいて、パウロはキリストに結ばれた者は律法に対して死んでいるということを語ります。結婚を比喩にして語っています。律法は生きている者に対して有効なのだと語ります。夫婦がいて、夫が死ねば妻を夫と結びつけていた律法からは自由になるというたとえをパウロは語っています。夫が死んだ後、妻が他の男性と一緒になっても姦通の女とはならないと。だからといって、律法自体がなくなるのでも律法が無効になるのでもありません。4節で「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者になっています。」。律法は生きている者と結ばれるものなのであって、洗礼によってキリストと結ばれて死んだ者は律法から自由なのだとパウロは語ります。夫婦のたとえでは夫が死んだたとえでしたが、律法に対して死んでいるのは、キリストの体と結ばれた人間の方です。

 そもそも律法とは罪をあきらかにするレントゲン写真のようなものだと以前、お話ししました。律法がなければ、罪は罪とあきらかにされないのです。律法は罪を図るものさしであったともいえます。しかし5節には「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」とあります。これは不思議な表現だと思います。罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働くというのです。まるで律法が悪いもののように感じます。本来は、律法は神から与えられたもので、それ自体は良いものであるはずです。しかし、罪に支配されている人間、つまり肉に従って生きている人間の体のうちには、その本来善いものである律法によって、むしろ罪への欲情が働いてしまうというのです。単純にいうと律法で「こうやりなさい」と言われたらやりたくないし、律法から「やってはいけない」と言われるとやりたくなる、ということです。以前、お話ししましたように、肉に従って生きている時、私たちは罪をコントロールはできなかったのです。罪を支配することはできなかった。だから心と体の中で、むしろ律法に反することへの誘いが頭をもたげてくるのだというのです。そしてその結果、わたしたちは死に至る実を結んでいました。

 これはモーセに与えられた律法を守ってきたユダヤ人だけの話ではありません。モーセ5書に記されている律法を持たない異邦人であっても、それぞれに神の戒めは与えられています。その戒めに従って、それぞれは罪に定められます。

 しかし、今は違うのです。キリストに結ばれた者はユダヤ人であれ、それ以外の人間であれ、律法・戒めに対して死にました。もはや律法は私たちを縛りません。では、律法から自由であるなら、何をしてもいいのかという、繰り返しの疑問がまたここでも出て来ます。律法で罪と定められ、神から罰されることがないのであれば、何をしてもかまわないのかということがここでも疑問となります。

<聖霊に従って生きる>

 先ほども言いましたが、律法は無効になったわけでも滅んだわけでもありません。神の奴隷として新しい命に生きる私たちは、キリストと結ばれて生きていくのです。パウロは「文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」と語ります。ここで<文字に従う古い生き方>とはなんでしょうか。たしかに律法は紙に書かれた文字ではありました。しかし、もともとは神から与えられた愛の戒めでした。その根本の精神は、神を愛し隣人を愛するということでした。マタイによる福音書を共に読んでおりました時、繰り返し、安息日の戒めに関する主イエスと律法学者の争いがありました。安息日に腕の萎えた人を主イエスはお癒しになりました。安息日に働いてはいけないという律法に反していると律法学者たちは怒りました。お腹を空かせた弟子たちが麦の穂を摘んで安息日に食べたことに対しても律法学者たちは怒りました。麦の穂を摘むということは安息日にしてはならない労働にあたるからです。本来、神の愛の戒めであった律法が、ただ紙に書かれた文字として人間を縛っていくのです。本来は人間を健やかに生かしていくはずのものが、まさに紙に書かれた文字としてだけ解釈され人間を縛っていきました。紙に書かれたもの、文字には従わなくて良いということは、なんでもありということではないのです。本来の、神を愛し、人間を愛するという根本の戒めに従うことなく、律法主義的に生きることが文字に従う古い生き方です。

<文字に従う古い生き方>とは神の戒めに自分の力で従おうとする生き方でもあります。ユダヤ人であれ、それ以外であれ、自分自身の力で正しく生きようとする生き方が<文字に従う古い生き方>です。そもそも、律法それ自身には救いの力はないのです。律法に従おうとして生きる時、人間は無力さを感じます。どこまで行っても従いきれない自分の罪深さを嘆くことになります。キリストの十字架によって救われた、それにふさわしく頑張って生きて行こう、そう思うとき、すでに自由になっているはずの律法にとらわれているのです。パウロの言うところの<文字に従って>いるのです。それは古い生き方であり、実を結ばない生き方です。人間が人間の力で律法を守ろうとするとき、それは「文字に従う」生き方であり、それは実を結ばないだけでなく、自分は律法を守っているという自分自身の誇りへとつながります。自分はこんなにちゃんとしているのに、あいつは何なんだという思いを持ち人を裁くことになります。自分では律法をまじめに守っているつもりで、実際は人を見下している、そこには神への愛も隣人への愛もないのです。

 ネットを見てて憂鬱になるのは、クリスチャン同志で裁き合っているのを見る時です。まじめなクリスチャンほど、そうなのです。他の人の行いを批判している、男女関係のあり方であるとか、あなたは悔い改めが足りないとか、それは聖書に書かれていることに反している、そう指摘して糾弾するのです。愛をもって相手に助言をしたいのなら、それこそ聖書に書いてあるように、他の人の目につかないところで、物陰で、直接いうべきです。批判をする人はまじめなつもりですが、これはまさに「文字に従って」生きている人なのです。でも本当に心配なのは批判をしている人本人です。その人自身が、しんどいのではないかと心配になります。実際、そういう人はまじめさが続かなくなって、自分自身で無理をしているので、やがて信仰的に折れてしまうことが多いのです。

 そういう「文字に従う」生き方ではなく「“霊”に従う新しい生き方」をパウロは説きます。“”つきの霊は聖霊ということですが、聖霊に従う生き方をするのだとパウロは言います。すでに神の愛が私たちには注がれているのです。キリストはそのために死んでくださった。そして、私たちには神の愛を知るための霊、聖霊が与えらえています。その信仰に生きる時、私たちの内なる聖霊に従うことができるのです。

 キリストと共に生きるとは、高速道路をいったん降りて向きを変えて走り出すようなものだと申しました。これまでは死へと向かっていたのが、向きを変えて、永遠の命へと向かって走り出すようなものだと申しました。そのとき、車を運転しているのはたしかに私たちです。私たちがハンドルを握っています。確かに自分でハンドルを握って運転をしているのですが、聖霊がその運転を支えてくださいます。安全に運転できるようにしてくださるのが聖霊です。逆に自分勝手にスピードを出しすぎたり、勝手な判断でハンドルを切ることはできなくなります。自動車教習所で、横に先生が座って運転をしているようなものです。ハンドルの切り方が悪ければ補助してくれますし、危険なことをすれば、ブレーキを引いてくれます。そしてまた、それまで見えなかったいろんな標識も良く見えてきます。世界が違って見えてくるのです。神のなさることが見えてくるのです。この世界に、そして自分の日々に神が働いておられることが見えてきます。それは世界が新しくされたといっていいことです。私たちはしゃにむにハンドルにしがみついて運転を続けていく必要はないのです。ゆったりと周りの景色を楽しみながら走っていくことができるのです。神の御業を喜びながら生きていくのです。

 私たちはすでに新しい世界に生かされています。救いは律法からではなくキリストからきました。私たちの手で救いを勝ち得たのではありません。私たちの手で守ってゆくものでもありません。聖霊を求め、聖霊に従って生きてゆくとき、救いの現実はたしかなものとされます。いままさに、キリストのゆえに死から命へと移され、まったく新しい日々を歩んでいることを実感します。聖霊を求め、聖霊によってその新しい世界を、そして日々をさらに見せていただきましょう。その聖霊に従う日々の中で、私たちは、キリストによって、豊かに実らせていただくのです。

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ローマの信徒への手紙 6章15~23節

2017-07-24 11:36:05 | ローマの信徒への手紙

2017年7月23日 主日礼拝説教 「本当の自由」 吉浦玲子牧師

<永遠の命>

 今年の5月3日、阿倍野のカトリックの教会で行われたある超教派の集いで、私は奨励を依頼されました。実は突然の依頼でした。本来は二か月くらい前に依頼があるのが、10日くらい前に依頼が入りました。というのは、5月3日は、本来、カトリックの神父が奨励をなさる予定だったのです。しかし、その神父は、4月16日、復活祭の朝、急性心不全で突然逝去をされました。そのためのピンチヒッターとして私が立てられたのでした。私はその天に召された神父とは全く面識がありませんでした。神父は復活祭前夜の祈祷会には、いつも通りお元気に奉仕をなさっていたそうです。まだ50代でダニエル神父とおっしゃいます。復活祭の日曜日に、ダニエル神父がミサに出て来られないので司祭館に信徒さんが見に行ったら、もうすでに逝去なさっていたそうです。推定死亡時刻は朝の六時だったそうです。復活祭の朝に旅立たれたのです。急に召されたことは悲しいことですが、神父として教会に仕えて来られ、キリスト教最大の祝祭である復活を祝う復活祭の朝に召されたということは、少しばかり慰めのあることではないかと私などは思います。もちろん、親族や信徒の皆さんにとっては悲しみの極みの出来事です。ダニエル神父は、アフリカのコンゴの出身だったそうです。コンゴから親族の皆さんが日本に来られることに時間がかかったので、葬儀をするまで少し時間が必要だったともお聞きしています。ご家族にしてみればいくら神に仕えるといっても、遠い遠い日本に単身赴いていってめったに会うこともできなかったことには残念な思いもあったでしょう。そしてまだ50代であったことも痛恨のことでしょう。幸い、発見は早かったとはいえ、その死は、だれにみとられることもなかった、言ってみれば、孤独死ともいえます。

 生前、ダニエル神父は故郷のコンゴとはまったく文化の違う日本での日々に、時には孤独を感じられることもあると話されていたともお聞きします。その異国での日々の末に、ダニエル神父はたったひとりで死を迎えられました。パウロは今日の聖書箇所の最後で、永遠の命について語っています。永遠の命のことをダニエル神父ご自身もこの地上にあったとき、いくたびも語ってこられたでしょう。復活祭の前夜の祈りの場でも、復活の命、永遠の命についてダニエル神父は深く思いを巡らされたことでしょう。しかし、神父のこの地上での最後は、他人から見たら、すこしばかりさびしいものであったようにも感じられなくもないのです。

 しかし思うのです。復活祭の朝に召されたダニエル神父はご自身の最後を通して、やはり復活の命を証されたのだと。肉体の命を越える永遠の命へと向かわれることを、復活祭の朝に示されたと思います。

 永遠の命を説くパウロも最後は殉教したと言われています。平安な死ではありませんでした。パウロの時代、キリスト者であること、ましてその宣教をするということは、死と隣り合わせのことでした。たえず、肉体の死の危険をひしひしと感じながら、なお、パウロは希望をもって確信をもって永遠の命を語ることができました。

<義の奴隷>

 遡って今日の聖書箇所を読みます。「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

 キリストを信じて律法から解放され、罪を赦された者はそれにふさわしい生き方をするのだとパウロは語っています。いや、ふさわしい生き方を私たちが意識的に選択するのではなく、もうそうせざるを得ない者としてすでに生かされているはずだとパウロは言うのです。今日の聖書箇所の最初の部分に「私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから罪を犯してよいということでしょうか」とあります。これは6章の前半でもパウロが語っていた<罪がキリストの十字架によって赦されて、人間がキリストの恵みの下にあるのなら、いくら罪を犯しても赦されるのではないか>という屁理屈に対して応えているのです。なぜこのような屁理屈がでてくるのでしょうか?

 ひとつにはかつて自分が罪の奴隷であったということがわかっていないということがあるでしょう。罪の奴隷というほどに私たちは罪に支配されていたのです。映画などで見ますと、ローマ時代の奴隷は牛馬以下の扱いをされていたと言っていいでしょう。だれもがそんな奴隷などは嫌だと思います。3章9節には、「罪の下にあった」とありました。私たちは罪の下にあったのです。私たちは自分で罪をコントロールはできないのです。私たちは罪の上にはいなかった。罪が上から私たちを支配していたのです。私たちはみじめな罪の奴隷でした。でもそれには気づくことができなかったのです。

 もうひとつ大事なことは、罪の奴隷であった私たちを解放してくださるために奴隷になってくださったのはどなたかということです。

 マタイによる福音書の20章でイエス様の弟子であるヤコブとヨハネの母が、主イエスがやがて王様になったとき自分の二人の息子を取り立てて欲しいと願う場面がありました。それを聞いて他の弟子たちは怒りました。つまり二人だけぬけがけするなということです。ぬけがけするなということは他の弟子たちも同じことを考えていたということです。自分たちが偉くなりたい、上になりたいと願っていたということです。それに対して主イエスはお答えになります。「最も偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」ここで言われる僕というのが奴隷という意味の言葉です。偉くなりたい者は僕になれ、奴隷になれと主イエスはおっしゃっているのです。

 当時の人々だって奴隷は嫌だと普通に考えたでしょう。しかし、実際に主イエスは奴隷になられました。牛馬を打つよりもひどい肉をひっかけて裂く鍵のついたローマ式の鞭での残酷な鞭うちにもあわれました。自由を奪われゴルゴタの丘まで歩まされました。十字架につけられ、体も動かせない状態でじわじわと死んでいく死を奴隷として受け入れられました。主イエスご自身が私たちの代わりに奴隷となって仕えてくださり、神の裁きを受けてくださり、私たちは罪を赦されました。

 主イエスご自身が奴隷となってくださり、私たちに救いの恵みが与えられるまで、私たちはそれまで奴隷であったことすら気づかなかったのです。

 ところで、もうひとり、復活祭の朝に召された方の話をします。これはある牧師さんが書かれていたことです。ご高齢の男性がいました。身寄りのない孤独な人でした。その人は教会に来るようになってやがて洗礼を受けられました。穏やかな方で静かに教会生活を送られていた紳士でした。しかし、紳士のように見えていたその男性には過去がありました。家族皆を泣かせるようなあくどいことをしていた過去があったのです。ですから、その男性は、ほんとうは家族がいたのですが、家族から見放され絶縁されていたのです。その男性はほんとうは家族ともう一度話をしたかったことでしょう。しかし自分のやってきたことを思えばそれは叶わないことだと思っておられたようです。その男性は洗礼を受けられて数年後、復活祭の朝、召されていました。礼拝を欠かしたことのない男性が礼拝に来られない、連絡もなく復活祭の礼拝に来られないということで、心配した教会の方が自宅を訪問すると、その方は自宅に倒れておられ、すでに召されておられました。礼拝に向かうためにすっかり身なりや服装を整え、礼拝に出席する姿で倒れておられた。結局、ご家族と再び会うこともなく、葬儀も親族の出席はなくひっそりと行われたそうです。しかしなお、復活祭の朝、礼拝に向かおうとなさっていたこの方の心はすでに天にあったと思います。家族にとんでもないひどいことをしてこられた、家族からは赦されなかった。しかし、神に赦されていることを感謝しながら、永遠の命を与えられたことを喜び、召されたことだと思います。罪の奴隷であった、自分ではどうしようもできない罪に支配され、愛する人をも傷つけ、自分も傷つき、孤独の底にいた、その方のところに奴隷となった主イエスが来てくださいました。降ってきてくださいました。家族にひどいことをした自分よりもっともっと低いお姿でキリストが来てくださった。そのときその方は救われたのです。罪の奴隷ではなく、解放され、新しい主人である神に仕える人になったのです。そして永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

<神があなたをご覧になっているように生きる>

 さて、パウロは<行いではなく信仰によって罪が赦されるのなら行いはどうでもいいではないか、いくらでも罪を犯せるではないか>という屁理屈に繰り返し答えています。そのへ理屈に対してパウロは神によって罪赦され、新しく生きる者となったら、ふたたび罪にまみれて生きることはできないのだと言います。パウロは「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」と言います。聖なる生活というのは聖化、聖に化けると書きますが、聖化しなさいという言い方です。私たちは行いではなく信仰によって義とされました。義認という言い方をしましたが、その義認された者は聖化していくのだとパウロは語ります。

 私が洗礼を授かった牧師はこのことを高速道路に例えておられました。ある時、先生は、高速道路で何回も行ったことのある場所へ向かっていました。しかし、その日はジャンクションを見落として気が付くと違う方向に向かって走っていたそうです。しばらくして普段とは見知らぬ風景に気がついて、あわてて出口から降りて方向を変えて走り出して、どうにか無事目的地に着いたそうです。これは人生においても同じだと先生はおっしゃいます。問題なのは「今どこにいるか」ではなく「どこに向かっているか」なのだと。車で走るときどちらかの方向の道路に乗ります。両方向の道路に同時に乗ることはできません。西か東か、北か南か、どちらか一方に向かう道に乗ります。キリストによって罪赦された者は、永遠の命へと向かいます。罪の中にとどまるものは死へと向かいます。「罪が支払う報酬は死です」とパウロは書いています。目的地が「死」なのか「永遠の命」なのか、それが大事なことなのです。永遠の命に向かいながら、さらに罪を重ねて死へと向かうことはできません。私たちは聖なる生活を送りながら、聖化されながら永遠の命へ向かいます。もし自分が間違った方向に向いていたら、向きを変える必要があります。走っている道から降りて方向転換するのです。神に向かって向きを変える、それが回心です。心を回す、それが回心です。心の向きを変えるのです。永遠の命に向かう道路で私たちは空き缶を投げ捨てたり、隣の車に迷惑をかけたりはできません。

 罪の奴隷であった私たちは今や神の奴隷となりました。奴隷というと嫌な響きですが、神の奴隷である時私たちは安心して生きていくことができるのです。主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とおっしゃいました。私たちの主人である神は柔和で謙遜な方です。血も涙もなく人間をこき使うようなひどい主人ではありません。その軛は軽い、つまり私たちは罪の奴隷であった時より、軽やかにのびのびと生きていくことができるのです。そしてその日々は実を結ぶ生活なのだとパウロは言います。

 洗礼を受け、私たちは向きを変えて生きています。それでも周りの風景は大きく変わってはいないように見えるかもしれません。私たち自身も変わっていないように思えるかもしれません。しかし、その道は既に永遠の命へと向かっています。変わり映えしないように見えても実を結ぶ日々が与えられています。神がそのようにしてくださっているのです。それが恵みです、その恵みの中に私たちはすでに生かされています。そして神ご自身が私たち一人一人を死から命へと向きが変えられた、新しい人間として見てくださっています。その神のまなざしを覚える時、私たちは罪にまみれて生きるのではなく、その神の愛と信頼にこたえて生きる者とされます。神が新しい人間として私たちを見てくださっている、その神のまなざしの中にある新しい人間として生きます。

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ローマの信徒への手紙 6章1~14節

2017-07-17 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年7月16日 主日礼拝説教 「新しい命に生きる」 吉浦玲子牧師

<罪に対する屁理屈>

 ローマの信徒への手紙6章最初で「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」とパウロは問いかけます。これは5章の終わりでパウロが語ったことを受けています。つまり、人間はその罪による死から、一人の人イエス・キリストによって、恵みへと、永遠の命へと移されました。死から永遠の命へと移されました。つまり人間の罪よりも神の恵みの方が圧倒的なのだと語りました。「罪の増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と書かれていることに続いています。

 じゃあ、罪が増したところに、恵みが満ちあふれるなら、そのまま罪の中にいたらいいではないか?そのような屁理屈が出て来るのです。実際、パウロの言うことは、人間を罪の中にとどまらせる誤った考えだと批判する人々が当時あったようです。

 現代、普通に考えても、イエス・キリストの十字架で罪がすでに赦されているのなら、クリスチャンは何をしてもいいのではないか?そもそもパウロは行いではなく信仰によって義とされる、正しいとされるという、信仰義認も説きました。だからまじめな行いをする必要はないのだ、そういう考えは程度の差こそあれ出て来るものです。

 それに対して、パウロは否定しているのです。「罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。」と言っています。「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょうか」罪に対して死んだということは、罪が無くなったということではありません。罪の支配から解放されたということです。キリストの十字架によって私たちは罪に対して死にました。

<死の体験>

 ところで、ここにおられる皆さんは、当然言うまでもなく、まだ死んだ経験はなさっていません。ひょっとしたら、臨死体験とか、生きるか死ぬかの瀬戸際の体験、死を覚悟される体験をなさった方はおられるかもしれません。私自身は、臨死体験も瀬戸際の体験もしたことはありません。ただ、20年ほど前、がん検診で、偽陽性だと言われたことがあります。がんではないかもしれないが、前がん状態かもしれないと。そう聞いたときはたいへんショックを受けました。まだ子どもも小さかった頃です。何度か検査を受けて、結局はがんでも前がん状態でもないということが分かりました。でもその最終的な結果が出るまでは、なんともいえない心理状態でした。最初に偽陽性だと言われた時、いきなり突き落とされたように感じました。そして死というものをいきなり意識しました。当時はクリスチャンではなかったのですが、その時感じた死というものは非常に無機質な底なしの闇のようで、その熱もなにもない空間に落ちて行くような感じがしました。

 ところが、パウロは言います。わたしたちは「罪に対して死んだ」と。また4節「わたしたちは洗礼(バプテスマ)よってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」と。(ここにはまだ洗礼をお受けになっておられない方もおられますが、どうか洗礼はキリスト教の救いの根幹にかかわる事柄ですので、ぜひ救いのことがらとして一緒に聞いてください。)洗礼は、キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとされるものだとパウロは語っています。端的にいえば、洗礼によって、人間は一度死ぬのです。洗礼をお受けになっている方はこのパウロの言葉にどのような感じを持たれますでしょうか。本当に自分は洗礼式の日、死んだと感じられたでしょうか。

 私たちの教会では、滴礼と言って、受洗者の頭の上から水を垂らす形での洗礼を行います。しかし、教会によっては浸礼といって、バスタブのような洗礼槽に体ごとつかる形の洗礼式を行うところもあります。その場合は、いったん頭まですっかり水に潜ることになります。かつて浸礼で洗礼を受けられた牧師先生の話を聞いたことがあります。A先生と仮にいいます。そのA先生が若い頃、洗礼を受けられた時、同時に受洗する人が8人いたそうです。一人一人順番に洗礼槽に入って洗礼を受けるのですが、A先生が洗礼槽につかる順番は8番目だったそうです。そのとき、洗礼式を司式された牧師は高齢の方だったそうです。一人の人を水にざぶんとつける、頭まで水の中にもぐるのです。そしてその先生がぐぐっと受洗者を水の中から抱きあげて引き上げる、それが浸礼式の洗礼の手順です。洗礼式全体で一回水の中で死んで、引き上げられてふたたび生きるということを示すのです。で、そのA先生が洗礼を受けられる時、最初の数名の受洗者の時は良かったのですが、だんだんと司式されている先生は疲れてこられ、一番最後に洗礼槽につかったA先生の時は、A先生が頭まで水につかったあと、なかなか引き上げてくれなかったそうです。A先生は水のなかで息が続かなくなって、どうしようと思ったそうです。自分から飛び出して行くわけにもいかないし、もう駄目だと思った瞬間、ようやく引き上げてもらえたそうです。笑い話のようですが、A先生はそのとき「ほんとうに洗礼というのは一回死ぬものなのだと実感しました」とおっしゃっていました。

 そのような呼吸困難になるような体験はしなくても、私たちの教会で行うような滴礼であっても、洗礼の場には聖霊がおられ、私たちは死ぬのです。それは自分が感覚的に明確に<死んだ>と感じるようなものではありません。私自身、自分が洗礼を受けた時、死んだという実感は正直まったくありませんでした。がん検査で偽陽性と言われたときは死を意識しましたが、洗礼の時は感じませんでした。しかし、実感があるなしということにかかわらず、洗礼とは死ぬものなのだとパウロは語ります。3節で「それともあなたがたは知らないのですか」とわざとパウロは問いかけます。実際、洗礼を受けながら知らないかのように過ごす人々が当時も多かったからです。しかし、人間の側が知らなくても、神は「死んだ」とみなされます。本来は神によって裁かれ、死ななければならなかった人間が、洗礼の時に「死んだ」と神はみなしてくださるということです。

<新しい命に生きるために>

 そして洗礼においてキリストの死にあずかったのはなぜなのかということを、さらにパウロはつづけて語ります。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。」洗礼において人が死ぬ、神によって死んだとみなされるのは、新しい命に生きるためなのだとパウロは語ります。一度死んで新しく生まれる、また復活をするということです。

 ところで、ヨハネによる福音書3章に主イエスとニコデモの会話がでてまいります。ユダヤ人の指導者であったニコデモは、主イエスに親しい思いを抱いて、こっそりと主イエスに会いにきました。律法の教師であり指導者であったニコデモは、ユダヤにおいて尊敬されている指導者でありながら、何か満たされない思いがあったのでしょう。そして主イエスのことを知り、この人なら自分の満たされないところを満たしてくださるのではないかと思っていたようです。そのニコデモに主イエスはおっしゃいました。「はっきり言っておく。人は、新たに生れなければ、神の国を見ることはできない。」

 ニコデモはまじめな人でした。一生懸命律法を守っていた人です。そしてなお自分の欠けた所、自分の足りないところをどうにかして補えば、神の国に入れるのではないかと感じていたと思います。それに対して、主イエスの言葉は驚くべきことでした。「新たに生れなければならない」とおっしゃるのです。ニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることが出来ましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と反論します。神の国に生きるということは、現在の自分の延長線上に、あるいはなんらかのレベルアップをしたところにあるということではなく、<新しく生まれない>といけないのだと主イエスはおっしゃっているのです。「だれでも水と霊によって生れなければ、神の国に入ることはできない。」水と霊によって、というのは洗礼を指します。洗礼は単なる儀式ではなく、一度死に、水と霊によって新しく生きるためのものです。

 私たちは一般的に言う「生まれ変わる」という言葉を比較的安易に使うこともあります。わたしは心を入れ替えて生まれ変わったように頑張って働いたとか、あの人はまるで生まれ変わったように立派になったとか、言います。

 たしかに、大きな挫折とか失敗とか、環境の変化に伴って、心を入れ替えて、生まれ変わったように人間が変わることはないではありません。あの人は別人のようになったということはあります。あの人は大化けしたという言い方もします。

 しかし、パウロが語る「新しい命に生きる」、そしてまた主イエスがおっしゃる「新しく生まれる」ということは、そのような人間の人格的変化や行動の変化を言っているのではありません。一般的に言う「生まれ変わる」ということとは、全く違うのです。そこには前提として、厳然と死があるのです。神の国に入る前に、「死ぬ」、そして新しい命に生きるのだというのです。そしてそれは人間が感覚でとらえられることではなく神の出来事なのです。神がこの人間は罪に対して死んだ、キリストと共に葬られた、そうみなしてくださるということです。

 それが洗礼です。ある先生は、洗礼を植木を根元で断ち切ることだとおっしゃっています。罪の根っこから断ちきって、接ぎ木をするのだというのです。何に接ぎ木をするのか、イエス・キリストにです。罪の根っこを切り取って、すなわち生き物としてはいったん命を断って、それから主イエスにつながれる、というのです。3節に「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」とあり、8節にある「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになるとも信じます」とあります。私たちはキリストと共に死に、キリストと共に、キリストに接ぎ木をされて生きるのです。

<神に捧げて生きる>

 しかし、罪の根っこから切り離されているのに、洗礼を受けたキリスト者であっても、罪を犯します。繰り返し犯します。そのたびに、ああ私はダメだなあと思います。クリスチャンになっても何も変わっていないとすら感じます。確かにキリストに接ぎ木されたはずなのに、自分の目に見える姿は、何も変わっていないような、相変わらず罪深い情けない姿なのです。

 前に言いましたように、私たちは罪に対して死んだのであって、罪が死んだわけではありません。罪自体はまだ生きています。罪から切り離された私たちは、罪には支配されていません。しかし、罪はふたたび人間を支配しようとします。ですから12節で「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」とパウロは言っています。洗礼でたしかに私たちは神の目から見て死にました。しかし、なお肉体は残っています。古い体は残っているのです。その古い死ぬべき体を罪は支配しようとやってきます。罪は古い体に対してやってくるのです。しかし、実際は洗礼を受けた者は新しくされています。一度死んで新しくされた体をいただいていると言っていいのです。私たちは罪を犯すたびに、私はちっとも変っていないと思います。しかし、それは古い体に対してのことなのです。私たちは新しい体に目を向けるべきなのです。洗礼を受けた者は、一度死んで新しくされた体において生きるのです。

 「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に捧げ、また、五体を義のための道具として神に捧げなさい。」と13節でパウロは語っています。本来、アダムの子孫であり、罪によって汚れた体を神に捧げることはできません。旧約聖書の時代から動物を奉納するときも傷のある動物を捧げることはできませんでした。しかし、一度罪に対して死んで新しく生きる者はキリストとつながれた新しい体をいただいています。聖く正しい体をいただいています。その新しい体は神に捧げることがゆるされています。パウロは「五体を義のための道具として神に捧げなさい」と言っています。一度死んで新しく生きる者は神に自分を捧げて生きるのです。それが新しい生き方です。神に捧げて生きる時、罪は私たちを支配することはできません。

 ところで献身という言い方をします。クリスチャンの間では、牧師や神学生のことを献身者といいます。そういう言い方に対して神学者のK先生は良く怒っておられます。「牧師や神学生だけが献身者なんじゃない。牧師や神学生が献身者なんて言うのは傲慢だ。キリストに結ばれた者は皆、だれだって、神に献身して生きるんだ。神に自分を捧げて生きるんだ。」とおっしゃいます。確かにそうだと思います。

 洗礼を受けた皆が自分を神に捧げていきます。それは単に教会の奉仕をするとか伝道をするとかそういうことだけではありません。ひとりひとりがそれぞれの場で、それぞれのあり方で、神に自分の体を、そして日々を捧げて生きていきます。それは罪から自分を守る最善の生き方です。自分を捧げるというと何か自分をなくすような滅私奉公のようなイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。キリストに接ぎ木をされた私たちの本当の個性が生かされ、本当の人生の使命に生かされていく喜びの日々なのです。まさに恵みの中に生きていく生き方です。

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ローマの信徒への手紙 5章12~21節

2017-07-14 13:46:49 | ローマの信徒への手紙

2017年7月9日 主日礼拝説教 「新しいアダム」 吉浦玲子牧師

 ローマの信徒への手紙の5章を先週から読んでいます。4章まででパウロは罪、律法、信仰というものを説明していました。ユダヤ人と異邦人、どちらも共に神による救いに入れられるのだと語っていました。人間は信仰によって義とされる、行いではなく信仰によって正しい者とされる、そう語っていました。5章からは信仰によって正しい者とされた私たちはどのように生きていくのかという話になってきています。

 先週お読みした5章の前半では罪によって義とされた私たちは、たとえ苦難の中でも希望を持って生きていくことができるのだということをパウロは語っていました。その5章前半を受けて今日の聖書箇所は「このようなわけで」とはじまります。そこから語られているのはアダムの話です。罪の話です。さんざん律法と罪について語り、ようやくそののち、信仰によって正しいとされ、神と和解をさせていただいたこと、そしてその希望を語ったその直後の「このようなわけで」で、アダムのことが語られている、つまりふたたび罪のこと、罪の起源について語られているのは少しつながりとしてねじれているような不思議な印象があります。実際、学者の間では「このようなわけで」については、さまざまな解釈が考えられているつながり方なのです。

 しかし、今日お読みした箇所で、パウロは最終的に恵みということについて語っています。信仰によって義とされた私たちにとてつもない恵みが与えられた、その恵みの豊かさを説明するために、恵みの反対のことがらとしてアダムと罪についてまず語られていると考えられます。神との和解の話から地続きに恵みへと移っていくその意味での「このようなわけで」というつながりとも言えます。

<罪と死>

 さて創世記3章には、アダムとエバが神から食べてはいけないと言われていた木の実を食べたことが記されています。エデンの園から人間が追放されたという有名な話です。<一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです>とあります。パウロはアダムという一人の人間が罪を犯した、そのときからこの世界に罪が入って来たというのです。でも普通に考えるとそれは強引な話のようにも思えます。私たちの遠い遠い先祖が罪を犯し、そのためにその子孫である私たちも罪を犯すようになったというのは、なにかスッとは理解できない解せない話です。現代の私たちにアダムの罪の遺伝子のようなものが組み込まれているのでしょうか?

 パウロがここで語っているのは遺伝子やDNAに罪が組み込まれているということではなく罪の普遍性ということです。そもそもアダムというのは「土(アダマ)」という言葉から来た「人間」を表す名詞です。特定の人類の祖先の誰それということではなく普遍的な人間の罪の物語が創世記3章には記されています。実際、罪から免れている人間は誰一人としていない、それは納得のできることではないでしょうか。ですから、遠い遠い祖先ではなく、すべての人間がアダムであるともいえるのです。同時に、すべての人間の罪の源にアダムという普遍的な罪人が想定されているともいえます。

 そしてパウロはその罪によって「死」が入り込んできたというのです。ローマの信徒への手紙の少し先の6章に「罪の支払う報酬は死です」という有名な言葉があります。でも、それもよくよく考えると不思議なことではないでしょうか?人間は、皆、死にます。人間だけではなく、命あるものは、やがて死にます。生物として滅びます。その生物学的なことと、罪という宗教的なこと倫理的なことが結びつくというのは、分りにくいことではないでしょうか。善人であれ悪人であれ、人間は、皆、死にます。善人が悲惨な死を遂げることもあれば、悪行の限りを尽くしたような人間がそこそこ平穏な死を迎えることもあります。

 ところで、ヨハネによる福音書の11章にラザロの死と復活の記事があります。ラザロという、イエス様がとても親しくしていた男性が死んでしまった。そのラザロを、すでに墓に葬られて四日もたっていたのですが、イエス様は生き返らせられます。ラザロを生き返らせられる前、11章35節でラザロが葬られていた墓の前でイエス様は涙を流されます。イエス様は父なる神に祈り、ラザロを生き返らせることができる方でした。実際、主イエスはラザロの墓の前にお立ちになったとき、ラザロの生き返りをすでに確信しておられたはずです。しかし、主イエスは墓の前で涙を流された。これは単にラザロの死を悲しんだのではありません。愛するラザロとの別離のために涙を流されたのはありません。死というもの、人間をからめとる死の力に対してイエス様は憤り涙を流されたのです。そしてその死の根源にある人間の罪に対して憤り涙を流されたのです。

 罪は神に背くことです。神の方を向かず自分中心に生きることです。そしてそれは神との関係が断たれることです。神との関係が断たれていなければ、永遠の神と共に人間も永遠の存在であったはずです。しかし、罪によって人間は神との関係を断たれました。永遠の命を失いました。死ぬようになったのです。創世記3章の楽園追放の記事の最後に命の木の実を人間が取らないように楽園が封鎖されるようすが描かれています。これはアダムの罪によって死が入り込んできたことを明確に示しています。

 ところで、3節に「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められない」と語られています。これは律法は罪を測る尺度であるということです。以前、レントゲン写真と言いましたが、律法に照らした時、罪は罪と診断ができるということです。逆に言えば律法が与えられる前から罪は罪であり死をもたらす者であったということです。「アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」アダムからモーセ、つまり、律法が与えられる前にも人間には罪があり、死を免れなかったということです。

<死ではなく恵み>

 15節からパウロは恵みについて語り始めます。そしてその恵みがアダムではないもう一人の人に結びついていることを語ります。もう一人の人とはイエス・キリストその人です。アダム以来、おびただしい罪があり、死がありました。しかし、たった一人の人、イエス・キリストによって命が与えられました。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」もう一人の人、新しいアダムとも言えるイエス・キリストは罪と死に支配された世界をひっくり返されました。すべては恵みの働きの中へと入れられました。

 「一人の人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」アダムのあやまった行為によって世界に死が入り込んできました。それと対比してイエス・キリストの正しい行為によって命が与えられました。神の恵みは裁きより強く、神の恵みは死をも覆すのです。

 ところで、クリスチャンになってまだ間もない頃、会社の休憩時間に女性の先輩と雑談をしていました。そしてなぜか私がクリスチャンだということに話が及びました。その先輩はとても温和な方で、なんでもにこにこと聞いてくださる方でした。特に宗教的なことに興味を持っておられたわけではないのですが、その時は珍しくなぜ私がクリスチャンになったのかと聞かれました。聞かれたので答えました。すごくかいつまんでいうと「自分がほんとうに汚くてだめな人間だと思ったとき救いが必要だと感じたから」ということです。それを聞いた先輩は、「私も自分が本当にだめで汚い人間だと心から思ったときがある。そしてその時から、すべての宗教に興味を失った。」と答えられたのです。私はその先輩にその時、いやそうではなくてというような反論はしませんでした。できなかったというのが本当のところです。どう答えて言いか考え込んでしまい、うまく答えられませんでした。

 しかし、今なら<恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される>というパウロの言葉を伝えたいと思うのです。<一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです>という言葉を伝えたいと思います。そもそも「すべての宗教に興味を失った」とおっしゃった先輩は具体的に宗教をどうとらえておられたのかは、良くわかりません。しかしなにか、ご自分に絶望するような感覚をもったとき、一般的に考えられる宗教的な儀式や修行などで自分のどうしようもない罪深さというのが取り除かれるわけがないと直感的に感じられたのかなと思います。

 そもそも人間には自分の罪を自分でどうすることもできません。いわゆる「宗教」をもってしてもそれは無理でしょう。それは神の恵みによらなければどうしようもないのです。ただお一人の方によらなければ人間は正しい者とはされません。

 少し話がずれるようですけど、ある神学者は「宗教ではない神の国だ」と語りました。キリストを信じるということは一般的に考えられるような「宗教」ではない、ということです。なんらかの儀式や宗教的行為によって何かを得ていくということではないということです。「宗教ではない神の国だ」という<神の国>というのはキリストによって開かれた神の国の現実を生きるということです。キリストを信じるということは、キリストの恵みに現実にあずかりながら、新しい命に生きるということです。死よりも強い神の恵みと命に生きるということです。どんなに自分が罪深くとも数々の罪を犯していても、ただお一人の方キリストによって、神の前で無罪とされました。そしてもはや死には支配されていません。その喜びのうちに生きるのがキリスト者なのだということです。

 17節「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人が、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」とあります。支配するという言葉はキリストを通して生きる人間がなにかこの世的な支配者になるということではありません。自分自身を支配するということです。そもそも私たちは罪に縛られて生きている時、自由であったでしょうか?パウロの言うところの罪の奴隷ではなかったでしょうか?自分で自由に生きているつもりでも不自由な生き方をしていました。しかし、キリストを通して生きる時、私たちはほんとうの自分を生きることができます。自分を支配することができるようになるのです。

 20節「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪がましたところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」律法は先に述べたように罪を判定するためのものです。律法によって罪はその姿を現すのです。しかし、そのあらわにされた罪のあるところに、恵みが満ちあふれました。罪が増したところに恵みが満ちあふれたというのは不思議な言葉です。この言葉は次の6章にもつながる言葉です。私たちは確かに罪ということにおいてアダムの子孫です。そしてたしかに肉体的にはやがて死を迎えます。しかしもう罪びとである自分に絶望する必要はありません。死に怯える必要はありません。罪が増したところに恵みが満ちあふれたからです。罪に対して余りある恵みがあるからです。とこしえの命が与えられているからです。

 一人の人イエス・キリストによって私たちは死から命へ移されました。永遠の命に写されました。今、壮年婦人会ではヨハネの黙示録を学んでいますが、ヨハネの黙示録22章にはきたるべき天のエルサレムの様子が描かれています。神と共に永遠の命に生きる人間の喜びの姿が描かれています。その天のエルサレムには命の木があるのです。かつて創世記で罪を犯したアダムが追放され、封印された命の木が天のエルサレムに流れる川の両岸にあると黙示録に記されています。一人の人アダムによって入り込んで来た死が、一人の人キリストによって命、永遠の命にかえられたことを象徴しています。

 そして永遠の命というのは未来の遠い話ではありません。もちろん未来の希望はたしかにあります。しかし、いまもその命の希望が与えられているので私たちは日々を喜びをもっていきていくことができるのです。ある先輩の牧師が、重篤な病を得られ痛みが激しい時のことを語られました。信徒さんには、どのような時でも祈りなさい、どうしても祈れない時には主の祈りだけでも祈りなさいと教えながらその牧師自身あまりに肉体的な苦痛が大きい時主の祈りすらこんがらがって祈れなくなったことがあると正直におっしゃっていました。またその先生は数年前まで認知症のおくさまの介護も自宅でされていました。その時期にもなかなかしっかりと祈れないということがあったそうです。しかし、祈ることもできず希望がついえるような苦しみの中にあって、なお決して自分から去ることのない恵みも感じたのだとおっしゃいました。奥様も自分も確かに体は衰えて死に向かっている、しかし、それを越える恵みを感じられたそうです。その恵みはしっかりと祈ったから何か良いことをしたから与えられるのではなく、ただただお一人の方から注がれるものなのだとおっしゃいました。

 私たちはただ一人の方、キリストに信頼しつながっていきます。良き時も悪き時もお一人の方と歩みます。キリストと共に歩むその日々はすでに天のエルサレムである神の国の先取りであり、また神の国へ向かう喜びの日々なのです。

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