宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『これが現象学だ』第3章直接経験、第1節現出と現出者、第2節数と意味、第3節ノエマの時間性・空間性、第4節ノエマの存在 谷徹(トオル)(1954生れ)、講談社現代新書、2002年

2017-07-16 08:55:16 | Weblog
第3章 直接経験とは何か
A 超越論的論理学:フッサールは、「純粋論理学的なものの形式主義的な扱い」(形式論理学)から、純粋現象学的な扱い(超越論的論理学)へと進む。
A-2 超越論的論理学が、現象学の中核部分であり、内容的には「直接経験の現象学」である。

第1節 志向性と指示関係:現出と現出者
(1)直接経験から論理学を基礎づける
B フッサールは、「直接経験から論理学を基礎づける試み」を、開始する。その最初の成果が『論理学研究』である。
C 論理学では、「主語」S、「述語規定」p、「存在」(ある)を備えた構文「Sはpである」が、基本となる。
C-2 「Sはpである」を基本にして、「Sはpでない」、「Sはpでありうる」など様々な構文形式が生じる。
C-3 フッサールは、論理学のこれら様々な構文形式を、直接経験から基礎づけようとする。

(2)「記号」・「意味」・「対象」
D 「記号」(言葉、音声記号/文字記号等)
・「記号」が「意味」をもてば、「表現」である。
・「記号」(ex. アブラカタブラ)が「意味」を持たなければ、「表現」でない。
・なお「記号」と「意味」は異なる。
E 「意味」
・Cf. 異なる「記号」が同じ「意味」を持つこともあれば、単一の「記号」が異なる「意味」を持つこともある。
・「意味」は、個々の「対象」(Ex. 個々のポチ、シロ)でなく、一般的・普遍的・理念的な「対象」(Ex. 犬一般)である。
・「意味」と「対象」は異なる。
E-2 かくて、「表現」(「意味」を持つ「記号」)は、「意味をもつ」=「意味する」=「意味を指し示す」。
F 「対象」
・「表現」(「意味」を持つ「記号」)は、その「意味」を突破して(媒介にして)、「対象」を指し示す(「名指す」)。
・表現(意味を持つ記号)「宵の明星」は、意味「夕方の空に輝く明るい星」をもつ。
 表現(意味を持つ記号)「明けの明星」は、意味「朝方の空に輝く明るい星」をもつ。
 この両者の意味は異なるが、両者は同じ「対象」(金星)を指し示す(「名指す」)。
・「イエナの勝者」と「ワーテルローの敗者」という表現は、その「意味」を突破して(媒介にして)、ナポレオンという「対象」を指し示す。
F-2 「対象」は、実在的な対象であるだけでなく、理念的対象または中立的対象(空想対象など)でありうる。
F-3 Cf. 表現(意味を持つ「記号」)の中には、「意味」を指し示すが、「対象」を指し示さないものもある。

(3)「ノエマ的意味」:現出が持つ「意味」
G 直接経験=志向的体験において、諸現出の感覚を突破して(媒介にして)、現出者を知覚する。(フッサール)
G-2 この場合、フッサールは、現出を「記号」と呼ぶ。(ただし「括弧つき記号」(フッサール)or「原記号」(谷)!)
G-3 直接経験における「現出」(原記号)の感覚と「現出者」の知覚の関係が、論理学における「言語(記号)」(※意味)と「対象」の関係の基礎にある。
G-4 言語(記号あるいは表現)が持つ「意味」に対し、直接経験において現出が持つ「意味」は「括弧つき意味」(谷)と言うべきである。
H フッサールは、直接経験における現出が持つ「意味」を、「ノエマ的意味」と呼ぶ。(『イデーンⅠ』1913年)
H-2 「ノエマ」は、諸現出と一体的に捉えられたかぎりでの現出者のことである。

《参照》第1章第3節
・「現象」の語は、「諸現出」と「現出者」との二義性を孕む。
・現出は、現出者の「記号」であるとも言える。
・「現象学」は、諸現出と現出者の関係から成り立つ「現象」を扱う学問。
・フッサールは、諸現出と現出者の関係を「普遍的な〈相関関係のアプリオリ〉」と捉える。
・「私の生涯の仕事は、この相関関係のアプリオリを体系的に仕上げるという課題によって支配されてきた。」(フッサール)
・直接経験では、諸現出の体験(感覚)を媒介にし(突破して)現出者が知覚(経験)されるが、この媒介・突破の働きが志向性と呼ばれる。
・それゆえ直接経験は、「志向的体験」と言い換えられる。
・諸現出と現出者の(媒介・突破の)関係がそこで生じる場面、すなわち志向的体験が、「意識」と言われる。


第2節 ノエマの意味と基体:数(事象内容を持たない基体)と意味(事象内容を持った本質)
(1)ノエマ的意味(現出)をまったくまとわない裸の基体(現出者)はない
I 最初に超越論的還元という操作を行うと、マッハ的光景が得られる。
I-2 例えば、サイコロは、5の面、3の面、2の面などが見える。これらは、現出あるいは射影(『イデーンⅠ』)であり、「ノエマ的意味」を含む。
I-3 一つのサイコロ(対象/現出者)の多様な意味(あるいは現出)。つまりサイコロは、もろもろの「ノエマ的意味」と、一つの「基体」からなる。
I-4 ノエマ的意味(現出)をまったくまとわない裸の基体(現出者)といったものはない。すなわち、もろもろのノエマ的意味(現出)が一つの基体(現出者)に収斂するという一体構造。

(2)基体の抽象的分離
J 現出者から、もろもろのノエマ的意味を剥がすという操作を行うと、ノエマ的意味が収斂する(形式的な)極のようなもの(極としての基体)が抽象的に残る。
J-2 極としての基体はノエマ的意味をもたない。基体は「何」の規定(質料的成分)をもたない。基体は、純粋に抽象的・形式的に捉えられた現出者「X」である。
J-3 Ex. 三つ子の場合なら、よく似たノエマ的意味が三つの基体に割り振られ、それらに存在規定が加えられ、はじめて三つの個体の「存在」が構成される。以上のことが、超越論的に還元された光景において判明する。

(3)ノエシスとノエマ(135頁)
K ノエマは、「もろもろのノエマ的意味が基体に収斂させられる」ことによって、構成されている。
K-2 この構成を遂行するのは、直接経験=志向的体験の働き、つまり意識の(能動的および受動的な)働きである。
K-3 この意識の働き(志向性)がノエシスであり、ノエシスとノエマは一体である。

(4)知覚的直観のノエマからの「カテゴリー的(述定的)成分」の抽出(その1):「数」の抽出(「基体」の抽出、事象内容をもたない「本質」の抽出)
L 最も基本的な直接経験=志向的体験は、知覚的直観である。そこから、意識の働きが、能動的に成分を抽出(抽象)する。つまりノエマから、カテゴリー的(述定的)成分を抽出する。「数」と「意味」(「本質」)という成分の抽出。
M 基体が、純粋に「形式」として抽出されると「一」が成立する。言語的レベルでは不定冠詞(英語のa)に相当する。
M-2 事象内容をもった意味が無視されて、数が可能となる。
M-3 基体から「一」を抽出したうえで、それを集めつつ結合して、「二」以後の数を構成する。
M-4 ただし直観的に構成される数は「12」までだと、フッサールは言う。
N それ以後は、例えば《「10」をひとつの記号として、これをさらに集めつつ結合する》といった仕方で、もっと大きな数(「20」・・・・)が構成される。
O このようにしてもなお構成されないような、巨大な無限に増大する数は、「理念化」によって構成される。
O-2 「理念化」は、「直観」の射程を越えたものを構成する思考的な意識の働きである。
P  「0」は、「ない」の経験にもとづく。《「(いくつか)ある」と期待されていたのに「ない」何か》(独語の不定冠詞keinで表示される)から、「0」が抽出された。(フッサール)
Q 「負の数」や「虚数」につては、上記のように正の数が構成された後に、数記号の操作で、形成される。(フッサール)
R かくして直観だけで形成される「より根源的な数」(1~12、0)と、思考的な作用が必要な「より派生的な数」(13以上、理念化によって構成される巨大な数、数記号の操作で形成される「負の数」・「虚数」)がある。

(4)-2 「数」はそれ自体でアプリオリな法則性を持つ
S 数は、上述のように、直観的な基礎を持つ。(フッサール)
Sー2 しかしこのことは、《数が、それ自体でアプリオリな法則性を持つ》ことを妨げない。
Sー3 この法則にしたがって、数学(代数)が樹立される。ここから形式存在論、さらに形式命題論が可能になる。

(4)-3 数学は物理学に応用可能である
T 数が「直観的な基礎を持つ」、すなわち「直接経験の中に基礎を持つ」ように、物理学的な物も、「感性的なー生身のありありとした有様をもった現出者・・・・のなかでのみ、原本的におのれを告げ知らせる」。
Tー2 要するに数学的な数と物理学的な物は、同じ根から派生したもの、基本的に同じものだから、数学を物理学に応用できる。

(4)-4 フッサールはガリレイとカントの間に位置する
U ガリレイは、「数や幾何学は自然の中にあらかじめできあがって備わっている」と見なした。
Uー2 他方、カントは「それらは、主観性の認識装置のなかに、あらかじめ備わっている」とみなした。
Uー3 フッサールは、「それらは、直接経験=志向的体験から抽出されてくる」とみなす。フッサールは、ガリレイとカントの「あいだ」に位置する。

(4)-5 心理主義、論理主義、フッサール
V フレーゲ的な論理主義は、意味や思想(Ex.ピタゴラスの定理)を、「物の外的世界(※実在的世界)とも、表象の内的世界(※心理主義)とも異なる第3領分」で確保しようとした。
V-2 フッサールは、プロレゴメーナ以後、「数や意味がアプリオリであること」を認め、心理主義を批判し、フレーゲ的な論理主義に接近。
V-3 しかしフッサールは、「アプリオリなものが、直接経験からいかにして抽出されるか」を示そうとする。(この限りで『算術の哲学』の立場が守られている。)
V-4 フッサールは心理主義でないが、フレーゲ的論理主義でもなく、フレーゲの「下」に帰る。
V-5 フッサールの本意は、「数や意味の下にある始原(起源・根源)」の探求である。

(5)知覚的直観のノエマからの「カテゴリー的(述定的)成分」の抽出(その2):「意味」の抽出(事象内容をもった「本質」の抽出)
A ノエマから、基体が抽出されると、ノエマ的意味そのものという成分が残る。
(Cf. サイコロのノエマで言えば、もろもろの現出がそこに収斂する基体が、純粋に「形式」として抽出されると「一」が成立する。135-6頁)
A-2 ノエマ的意味そのものという成分は、ノエマの「何」を規定するものであり、事象内容をもった質料的成分である。(Ex. サイコロのノエマで言えば、「白い」、「立方体」などの意味。)
A-3 ここから抽出されて、言語的レベルの述語規定pが可能になる。
B 「本質」:当のものにとって必要不可欠な意味。(Ex. サイコロの場合、意味「白い」はサイコロがサイコロであるために必要不可欠でないが、意味「立方体」は不可欠であり、サイコロの「本質」をなす。)
B-2 「本質直観」:私たちは物の意味を、そして「本質」としての意味を、直観する。
C 本質は、種から類へと上昇する。(Ex. 最低の種(スペチエス)「秋田犬」→その上の類「犬」→「哺乳類」→・・・・→最高類「生命的自然」)
C-2 最高類が「領域」であり、「領域」は3つある。(「物質的自然」「生命的自然」「精神世界」)
D 質料的な事象内容をもった「本質」は、種と類の構造を持つ。
D-2 種から類への移行が「類化」である。類化は、一つの領域の中での上昇である。

(5)-2 類化と形式化
E 「類化」は、事象内容をもった「本質」に関わる。
E-2 これに対し「形式化」(数の抽出)は、事象内容をもたない「本質」に関わる。

(6)ノエマの「時間位置」:アプリオリとは「時間位置」をもたないことである。
F ノエマから、「形式」として「数」が抽出され、「質料」として「意味」(ノエマ的意味そのものという成分、事象内容をもった質料的成分)が抽出される。
F-2 さらにノエマには、「時間位置」という成分がある。
G アプリオリとは、「時間位置」をもたないことである。
G-2 「時間位置」から切り離された成分が、「数」および「意味」というアプリオリなものとして、ノエマから抽出される。

(7)形相的還元
H 「形相」とは、事象内容をもった「本質」のことである。
I例えば、犬というものの必要不可欠な成分(「本質」)は、秋田犬のポチ、セントバーナード犬のジョン、チワワ犬のチビの色や大きさという意味の違いに影響されない。
I-2 犬の「本質」を知るためには、たくさんの犬を見て、それらの意味から、必要不可欠な共通成分を抽出しなければならない。
J 知覚経験する犬が少ない場合は、様々な犬を「空想」し、犬の「共通本質」を抽出することができる。
J-2 このように、ある事象内容をもった個体(Ex. ポチ)から出発して、空想的な「自由変更」をつうじて、それの「形相」(事象内容をもった「本質」)を抽出する作業が、形相的還元である。
K 形相的還元という方法によって、現象学は本質学となる。
K-2 形相的還元と超越論的還元を合わせて、「現象学的還元」と呼ぶ(ことが多い)。

(7)-2 形相的還元(続):「本質」を捉えるため「空想」を用いてよいのか?
L 「形相」(事象内容をもった「本質」)は、意味である。意味は理念的存在である。
L-2 理念的存在は、時間位置を持たないので、客観的時間のなかにも疑似時間のなかにも現れることができる。
言い換えれば、理念的存在である意味としての「形相」(事象内容をもった「本質」)は、知覚のなかにも空想のなかにも、同じものとして現れることができる。
L-3 形相的還元において、知覚の代わりに空想を用いてよい。(本質学としての学問と、空想は矛盾しない。)


第3節 ノエマの時間性・空間性
(1)時間位置・空間位置が、「個体」を可能にする
M 知覚的なノエマから抽出される「数」(Cf.「基体」、事象内容をもたない「本質」)や「意味」(Cf. 事象内容をもった「本質」)のような普遍的(理念的)なものは、時間位置・空間位置を持たない。
M-2 時間位置・空間位置(Ex. 「今・ここに」)が、「個体」を可能にする《直接体験=志向的体験の成分》である。つまり、個体を決めるのは、時間位置・空間位置である。(148頁)
N 例えば、よく似たノエマ的意味も、同一の時間位置において別々の空間位置にある基体に収斂させることができる。(Ex. 強盗犯と似た被疑者のアリバイの問題)
N-2 個体を決めるのは、ノエマ的意味でなく、時間位置・空間位置である。

(2)ノエマの時間位置・空間位置の言語レベルへの抽出
O ノエマの時間位置・空間位置のみを示す言葉(指標詞)がある。フッサールは「偶因的な表現」と呼ぶ。
Ex. 「これ」・「この」、「あれ」・「あの」
P 知覚的ノエマの時間位置は「現在」であり、想起的ノエマの時間位置は「過去」である。
P-2 この二つの時間位置は、言語的次元に抽出されると、「今」と「かつて」となる。
Q 動詞の時制(時間性)の問題:時間位置は動詞の現在形・過去形などとしても登場する。
Q-2 この問題は、論理学的には「ある」=「存在」の問題と絡む。


第4節 ノエマの存在
(1)知覚的ノエマ、想起的ノエマ、予期的ノエマ、そして想像的ノエマと、「ある」=「存在」の問題
A 目の前にあるサイコロについて、「ある」=「存在」を問題にする。
A-2 目の前にあるサイコロについて、知覚的ノエマ、想起的ノエマ、予期的ノエマ、そして想像的ノエマが区別できる。
A-3 これらのノエマには、直接経験において、なんらかの「ある」=「存在」が含まれている。
R-4 それ(=なんらかの「ある」)が抽出されることによって、言語的レベルでの「ある」が可能になる。

(2)直接経験の分析(その1):実在的存在のノエマ(知覚的ノエマ、想起的ノエマ、予期的ノエマ)と客観的時間
B 知覚的ノエマ、想起的ノエマ、予期的ノエマは、同じ「時間」に属すが、「時間位置」が異なる。
B-2 想像的ノエマは、別の「時間」に属する。
C ノエマ「ジョン・レノン」とノエマ「紫式部」を取り上げる。
C-2 両ノエマは、同じ「時間」に属すので、どちらが早く生まれたか(「時間位置」)を決定できる。
D この同じ「時間」を、フッサールは「客観的時間」と呼ぶ。
D-2 客観的時間は、一つだけ認められる。
D-3 《客観的時間のなかの「ある時間位置」から「別の時間位置」までの間隔をノエマが継続的に埋めている(充実している)》とき、そのノエマは「実在的」という「存在」を認められる。
E ノエマ「ジョン・レノン」とノエマ「紫式部」は、その時間位置は離れているが、ともに「実在的」ノエマである。

(3)直接経験の分析(その2):中立的存在のノエマ(想像的ノエマ、あるいは厳密には空想的ノエマ)と疑似時間
F 想像的ノエマ、例えばノエマ「白雪姫」と、ノエマ「紫式部」では、どちらが早く生まれたか?
F-2 ノエマ「白雪姫」の属する時間は、客観的時間でなく、「疑似時間」(フッサール)である。
F-3 ノエマ「白雪姫」は、疑似時間の中で、ある時間位置から別の時間位置までの間隔を継続的に埋めている(充実している)。
F-4 疑似時間は、(ただ一つの)客観的時間のなかに組み込まれていない。疑似時間は、浮遊している時間断片である。
F-5 ノエマ「白雪姫」と、ノエマ「紫式部」は、属する時間が異なるので、時間位置の比較ができない。したがって、どちらが早く生まれたか、答えようがない。(比較できない。)
G 《別々の疑似時間に属するノエマ「白雪姫」とノエマ「かぐや姫」》の誕生日も、比較できない。
H 疑似時間のなかに持続間隔を持つノエマは、「実在的」存在ではないが、「中立的」存在をもつ。
H-2 「昔々」は、客観的時間の中に時間位置を示せないので、中立的存在を実在的存在であるかのように見せかける機能を持つ。
H-3 なお「あるところに」は、客観的空間の中での空間位置についての質問を回避する機能をもつ。

(4)直接経験の分析(その3):(「基体」の抽出、あるいは事象内容をもたない「本質」としての)「数」や(事象内容をもった「本質」としての)「意味」は、ノエマから抽出された抽象的成分として、理念的存在であり、時間位置をもたない
I 「数」や「意味」は、(「本質」として、)ノエマから抽出された抽象的成分であり、最初から時間位置をもたない。これらは客観的時間のなかにも、疑似時間のなかにも、時間位置をもたない。
I-2 「数」や「意味」は、(「本質」として、)理念的存在であり、時間位置をもたない。

(5)3種類の存在:実在的存在・中立的存在・理念的存在
J 「客観的時間のなかに時間位置を持つもの」が、実在的存在である。「疑似時間のなかに時間位置を持つもの」が、中立的存在である。「どちらの時間にも時間位置をもたないが、どちらの時間にも現れることができるもの」が、理念的存在である。

(6)実在的存在と理念的存在の言語形態:直説法(真理に関わる)
K ノエマから、存在に関わる成分が抽出されると、言語的レベルの「存在」(「ある」)が成立する。
L 《実在的存在を持つもの》は、現在の時間位置に現れる(知覚)と「ある」、過去の時間位置に現れる(想起)と「あった」、未来の時間位置に現れる(予期)と「あろう」と、述定される。《実在的存在を持つもの》の述定は、「存在」を示すとともに、時間位置も示す。
M 《理念的存在を持つもの》は、いつも「ある」だけで述定される。《理念的存在を持つもの》の述定は「存在」だけを示し、時間位置を示さない。
N 《いつも時制変化しない「ある」を持つもの》(理念的存在)は、アプリオリである。
N-2 《時制変化する「ある」を持つもの》(実在的存在)は、アポステリオリである。
N-3 両者(アプリオリなもの・アポステリオリなもの)は、「直接法」で表現され、「真理」に関わる。

(7)中立的存在の言語形態:接続法(真理と無関係)
N 中立的存在を、言語的レベルで表すのが、接続法(想像等に用いられる)である。
N-2 接続法で語られたことは、「真理」と無関係である。
N-3 接続法で、疑似時間における時間位置(現在、過去、未来)が、述定される。

(8)存在の構成(あるいは存在の措定)とは
O 言語的レベルの「存在」=「ある」は、直接経験における「存在の構成」(あるいは「存在の措定」)に、基礎を持つ。
O-2 「超越論的」という概念の主要な含意である、この「存在の構成」とは何か?
O-3 「存在の構成」とは、ノエマを、客観的時間あるいは疑似時間に、《時間位置を持つもの》として(※実在的存在あるいは中立的存在)、あるいは《時間位置を持たないもの》として(※理念的存在)、割り振ることである。
P 「存在の構成」(「存在の措定」)は、能動的にも受動的にも行われる。
P-2 「存在の構成」(超越化的思考作用)の仕組みは、ふつう主題化されない(自然的態度)。かくて存在=超越は自明として前提される。
P-3 フッサールは、超越論的還元を経ることによって、「存在の構成」(超越化的思考作用)の仕組みを示した。
Q しかし「存在の構成」のためには、そもそも「時間の構成」が行われていなければならない。
Q-2 《参照》第3章第4節(5)J:客観的時間のなかに時間位置を持つものが「実在的存在」。疑似時間のなかに時間位置を持つものが「中立的存在」。どちらの時間にも時間位置をもたないが、どちらの時間にも現れることができるものが「理念的存在」。

《感想1》
第1章第3節で、次のように言われた。(①②③)
①直接経験では、諸現出の体験(感覚)を媒介にし(突破して)現出者が知覚(経験)されるが、この媒介・突破の働きが志向性と呼ばれる。
②それゆえ直接経験は、「志向的体験」と言い換えられる。
③諸現出と現出者の(媒介・突破の)関係がそこで生じる場面、すなわち志向的体験が、「意識」と言われる。
《感想2》
さて、この場合、志向的体験としての「意識」が、無でなく有である根拠は、どこにあるのか。
「意識」がすべてであり、かつそれが(無でなく)有であることは、志向的体験=「意識」は、単に「心」(のようなもの)でなく、有としての(いまだ超越でない)「世界」の現出(「存在」)を含むと、考えられ。
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