宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『これが現象学だ』第2章第4節カントとの対決、谷徹(トオル)(1954生れ)、講談社現代新書、2002年

2017-07-08 11:13:14 | Weblog
 第2章第4節 カントとの対決(115-126頁)
A カントの「超越論哲学」:主観的な認識が客観的な対象に従うのでなく、客観的な対象が主観的な認識に従う。(コペルニクス的転回!)
A-2 客観的な対象の認識を可能にする条件は、主観的認識装置に含まれる条件。認識装置にひっかかるものだけが、認識(経験)される。
B 2種類の認識:(ア)対象を認識する「経験的」認識と、(イ)《対象を経験する主観的な認識装置》そのものを認識する「超越論」的認識(超越論哲学)。
B-2 主観性にアプリオリに備わった認識装置①「感性(直観)の形式」、②「悟性のカテゴリー」、③「超越論的統覚の自我」(カント)


(1)「感性(直観)の形式」(カント)
C 主観性にアプリオリに備わった認識装置①「感性(直観)の形式」:主観性には「空間」と「時間」という「感性(直観)の形式」がアプリオリに備わっている。
①ー2 カントは自然のなかに完全な幾何学図形がないので、幾何学の起源を「私たち自身」に移した。
①ー3 フッサール:幾何学は、自然と私たち自身の「あいだ」で成立する。
①ー4 ユークリッド幾何学やニュートン物理学は、直接経験=志向的体験から、あるいは「生活世界」的経験から成立する。生活世界には、先客観的な空間・時間がある。(フッサール)
①ー5 カントは、先客観的な空間・時間(フッサール)を知らず、ユークリッド幾何学やニュートン物理学の客観的な空間概念・時間概念を前提し、それに対応する「感性の形式」が主観性に備わっているとした。
①ー6 フッサール:根源的な直接経験=志向的体験に帰る。そこでは「直観」が働くが、この直観は、ユークリッド・ニュートン的空間・時間に対応するカント的直観(感性)でない。


(2)「悟性のカテゴリー」(カント)
D 主観性にアプリオリに備わった認識装置②「悟性のカテゴリー」:カントは(a)「感性(直観)の形式」と「悟性のカテゴリー」を峻別する。そして(b)前者も後者も主観性にあらかじめ備わっているとした。
②ー2 フッサールは、(a)「直観」と「悟性」を連続的にとらえる、つまり峻別しない。そして(b)直観の「形式」(空間・時間)と悟性の「カテゴリー」が、ともに直接経験=志向的体験から成立すると見る。
②ー3 フッサールにとって、すべての基礎は直接経験=志向的体験である。これは「直観」に与えられる。
②ー3ー2 (a)の問題について:フッサールの直観は、感性的・感覚的なものに限定されたカント的直観でない。


(2)-2 「カテゴリー的直観」(フッサール)
Dー2 ②ー4 (a)の問題について(続):フッサールは「カテゴリー的直観」を認める。
②ー4ー2 カテゴリーとは、「述定する」「述語をつける」という意味をもつ。
②ー4ー3 カントでは、カテゴリーは悟性のみが持つ成分である。それゆえカントでは、直観は述定された事態をとらえ得ない。
②ー4ー4 これに対しフッサールの「カテゴリー的直観」は、直観なのに、述定的・構文的な構造をもった「事態」をとらえる。例えば《「対象」である「白い花」》も、《「事態」である「この花は白い」》も、直観される。(a)フッサールの直観は、カントのように悟性と峻別されない。


(2)-3 カテゴリーは、主観性にあらかじめ備わる(カント)のでなく、直接経験=志向的体験から抽出される(フッサール)
Dー3 ②ー5 (b)の問題について:カントのカテゴリーは、純粋論理学(形式論理学)に対応する。フッサールは、カテゴリーは、主観性にあらかじめ備わるのでなく、直接経験=志向的体験から抽出されるとする。
②ー5ー2 《カテゴリー=純粋論理学(形式論理学)》が直接経験=志向的体験から、どのように抽出されるかを示すのが現象学(超越論的論理学)の仕事である。(後述!)


(3)「超越論的統覚の自我」(カント)
E 主観性にアプリオリに備わった認識装置③「超越論的統覚の自我」:多種多様な表象を統一する機能。
E-2 例えば、昨日の表象と今日の表象が統一されなければ、(1)昨日の表象は、自分の表象でなくなる。あるいは(2)異なる表象ごとに、多数の自己が成立してしまう。
《感想》世界経験において、つねに経験野の中心にある身体の連続性が、多種多様な表象を統一する核となる。

E-3 経験論の系譜では自我は、否定されるか、ごく軽い役割しかない。例えば、ヒュームでは自我は「知覚の束」にすぎない。
E-4 デカルトは自我を哲学の原理にした。(※合理論)
E-5 カントの自我は、デカルト的「実体」でないが、統一原理である。カントはデカルト的思想の嫡子。

F フッサールは当初、マッハ的なウィーンの経験論的思想風土のもとで育ち、カント的自我に批判的だった。
F-2 フッサールは、また、新カント学派(Ex. ナトルプ )的自我(※心理学主義と論理学主義の中庸である純粋自我)にも、批判的だった。


(3)-2 「超越論的自我」(フッサール)
F-3 しかし後に、フッサールは、カント的自我に近い「超越論的自我」を認める。(ナトルプの示唆?)
F-3-2 フッサールは、プフェンダーから、「昨日の対象と今日の対象を同一の対象だと見ることは、どのようにして可能なのか」と問われ、「苦境」に陥る。(1905年)
F-3-3 かくてフッサールは、時間的に遠く隔たった直接経験=志向的体験を統一する働き(同一化機能・中心化機能)が、認識や経験の可能性の条件として必要だと、考えるに至る。
F-3-4 この同一化機能・中心化機能が「自我」である。

G 「自我」とは、「私の生の、私の意識の、固有の中心化」を言い表したもの。
G-2 すでに、これ以前に、フッサールは(1)志向的体験それ自身が、同一化機能・中心化機能を持つことを認めていた。すなわちひとつの志向的体験は、把持および予持の志向性が及ぶところまでは、それ自身の機能によって中心化される。
G-3 今やフッサールは、(2)《時間的に互いに遠く隔たったすべての志向的体験》を、中心化する機能を認める。かくて「体験」の概念が、「現象学的自我」すなわち「超越論的自我」の概念へと拡大された。
G-4 「超越論的」とは、「経験を可能にする諸条件(経験の可能性の条件)」に関わるの意である。
G-5 フッサールは1908年ごろより、「超越論的」の語を使う。反カント的だったフッサールが、「カントは私にとって偉大な人物であり、そしてその格においてもヒュームを凌駕しています」と述べる。
H ただしカントの「超越論的統覚の自我」が《主観性にアプリオリに備わった認識装置》であるのに対し、フッサールの「超越論的自我」は直接経験=志向的体験から生じる。


(4)「受動的綜合」(フッサール)
I カントは、《主観性にアプリオリに備わった認識装置》としての感性(①「感性(直観)の形式」)・悟性(②「悟性のカテゴリー」)・自我(③「超越論的統覚の自我」)による認識の「綜合」を論じた。
J しかしフサールにとっては、カント的な①感性・②悟性・③自我は、主観性にあらかじめ備わるのでなく、直接経験における先行段階から形成されてくる。
J-2 カント的な綜合は、実は、受動的な段階の総合、すなわち「受動的綜合」(フッサール)を隠し持つ。
J-3 フッサールの発生的現象学は、すべて受動的綜合の分析だと言ってよい。(後述!)

K ハイデガーは『カントと形而上学の問題』で、カント哲学のなかに、一種の受動的綜合(自我そのものの受動的構成)の考察があると述べる。(とりわけ、カントの「構想力」を感性と悟性の共通の根とみなす。)
K-2 これに対しフッサールにとっては、構想力=想像力は、派生的であり、根源的でない。フッサールは、ハイデガー的読み方を拒否する。

《感想》
受動性とは、自我の能動性以前であり、「世界が開かれている」層である。
直接経験=志向的体験は、その基層において、世界そのものが現れ出ている。
意識は、世界そのものである。
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