宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『これが現象学だ』第4章 世界の発生と現象学、谷徹(トオル)(1954生れ)、講談社現代新書、2002年

2017-08-04 12:07:25 | Weblog
第4章 世界の発生と現象学(その1):「原連合」(連想=連合①)、「連想」(連想=連合②)
A  1920年代のフッサールは、ノエマ的意味、時間・空間の構成、自我の構成を、「発生」の観点から分析するようになる:発生的現象学。
A-2  なお、これらの成分をできあがった状態で分析するのが静態的現象学である。

(1)意味の発生的構成
B ノエマ的意味は、徐々に構成されくる=「発生」してくる。
Bー2 その原理が、連想=連合(association, assoziation)である。
B-3 「連想=連合」は2種類ある。
①「原連合」:はじめてなにかが見えてくるような場面で起きるアソシエーション。日本語の「連合」に近い。(連想=連合①)
②「連想」:以前に見たものと似たものが見えてくるような場面で起きるアソシエーション。日本語の「連想」に近い。(連想=連合②)

(2)「原連合」:はじめてなにかが見えてくるような場面で起きるアソシエーション(連想=連合①)
C ある「場」から、「なにか」が際立ってくる。
Cー2 この「なにか」が、後に「対象」となる。
Cー3 この際立ちは、意味的な際立ちである。
《感想》ここで「意味的」とは、質料と異なる形相が出現することだ。
D 場の中で、同質的なもの(親近的なもの)同士はまとまり、異質的なもの(異他的なもの)は分離する。
Dー2 ゲシュタルト心理学でいう「ゲシュタルト」のようなものが、「図」として際立ったきて、「地」から分離するといったこと。
Dー3  例えば8つの点のうち、近接した2つの点が、1組ずつのまとまりとして浮かび上がる。
Dー4 フッサールは、このことを「原連合」と呼ぶ。

(2)ー2 ゲシュタルト心理学とフッサール現象学
E マッハがすでに、ゲシュタルトに気づいていた。例えば、異なる音程の二つの同じメロディは、「等しい〈音のゲシュタルト〉をもった〈音の形象〉」である。
E-2 マッハから、ゲシュタルト心理学の創始者の一人エーレンフェルスは、影響を受けたし、フッサールも影響を受けた。
F ゲシュタルト心理学は、フッサール現象学の「連合」(=連想)の考え方を、要素主義的と、批判する。
F-2 連合は、要素と要素が結びつくことであり、要素主義的である。
F-3 ゲシュタルト心理学は、「全体(ゲシュタルトの全体)が先に与えられる」との立場であり、要素主義を批判する。
G しかしフッサールの「原連合」は、実は、ゲシュタルト心理学の考え方に近い。
G-2 フッサールは、《ゲシュタルト心理学は、志向性分析に取り込まれる》と考えていた。つまりゲシュタルト心理学の独創性を、あまり評価しない。
G-3 フッサールの原連合の分析に影響を与えたのは、マッハやゲシュタルト心理学でなく、《ブレンターノ門下の兄弟子かつフッサールの師の一人》でもあるシュトンプフ。
G-4 後にメルロ=ポンティが、フッサール現象学とゲシュタルト心理学を、より近づける。
G-5 現代では、《ゲシュタルト心理学を下敷きにしたアフォーダンス理論》と、現象学が近い。
《参考》アフォーダンス理論
アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことで、 アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語。クルト・レヴィン やクルト・コフカのゲシュタルト心理学から派生。

(2)-3 原連合にもとづく「ゲシュタルトのようなもの」の触発(際立ち)に対し、「注視」が向かい、かくて意味と基体が分化する:志向性分析
H 「ゲシュタルト」のようなものが、「図」として際立って(触発)してくると、注視がそれに向かう。
H-2 フッサール現象学は、ここからゲシュタルト心理学から離れる。独自の志向性分析へ。
I 志向性は、諸現出(ノエマ的意味の諸規定)と、《これらの諸現出を付着させる基体》を分化させる。
I-2 つまりノエマ的意味の「規定α、β・・・・」が見出だされる(Ex. サイコロなら「白い」、「立方体」・・・・)とともに、それらの意味が収斂する「基体」が分化していく。
I-3 このことを出発点にして、後に、主語S(基体)と述語p(意味)といった論理的カテゴリーが成立していく。
I-4 かくてこの場面は「いわゆる『論理的カテゴリー』の最初のものの原現場」(フッサール)である。

(2)-4 外部地平:Ex. サイコロは、外部との関係の中で意味規定を受けていく
J さらに、「注視」による、解明は進む。
J-2 Ex. サイコロは、机の上、部屋の中、家の中、住宅地の中にある・・・・
J-3 このように、サイコロは、「外部」との関係の中で、さらに意味規定を受けていく。この「外部」は「外部地平」と呼ばれる。
J-4 外部地平:この場合、空間的な地平だけでなく、それと結びついた意味地平が問題になっている

(3)「原連合」から「連想」へ:「連想」とは、《以前に見たものと似たもの》が見えてくるような場面で起きるアソシエーションである(連想=連合②)
K 対象の規定(意味)が、一度獲得されると、その時だけで消えてしまうわけでない。
《感想》上記のように、対象の規定(意味)は、「基体」と「規定」(意味)(「規定α、β・・・・」&外部地平を含む)からなる。

K-2 一度見たものは、「『ぼんやりとした』記憶」の中に残り、それに似たもの(同質的なもの・親近的なもの)を再び見る時に、「類型的ななじみ深さ」を引き起こす。これがアソシエーション②(「連想」)である。
K-3 規定(意味)が、類型として残る。それが次の経験に影響を与える。
《感想a》諸規定(意味)が重なることが、アソシエーション②(「連想」)である。
《感想b》類型とは、重なる諸規定のセットである。あるいは、類型とは、相互に連想(アソシエーション②)される諸規定のセットである。

L こうして先行する規定(意味)が、後続する規定(意味)の構成に関与する。
L-2 しかもこの関与は一方的でない。先行する規定(意味)がぼんやりして失われそうな場合、後続する規定(意味)が、先行する規定(意味)を呼び覚ます。
L-3 「現在地平」に属すものと、「過去地平」に属すものが、互いに呼び覚まし合い、想い起させあう。
《感想1》これは、まさしく、諸規定(意味)の重なりであり、アソシエーション②(「連想」)である
《感想2》重なりをなす諸規定(意味)そのものも、ノエマ的意味であり、これが種々の「存在措定」という規定をさらに得て、理念的存在、実在的存在、中立的存在となる。
《感想3》世界は、ノエマ的意味としてしか、現出しない。

(3)-2 部分(個々の直観)は全体(背景的な地平(過去地平))と結びついている:解釈学的循環
M 先行する規定(意味)と後続する規定(意味)との相互作用があるので、アソシエーション②(「連想」)では、純粋に個別的な(一回限りの)直観はない。
M-2 この場面では、個々の直観は、背景的な地平(過去地平)と結びついている。
《感想》あらゆる出来事・対象の直観は、類型として把握される限り、例えば言葉で語られる限り、すでに純粋に個別的な(一回限りの)直観ではない。

M-3 個々の直観は、その背景的な地平(過去地平)と結びついている。
M-4 あるいは部分(個々の直観)は全体(背景的な地平(過去地平))と結びついている。
《感想》全体とは、先行する複数の規定(意味)のことである。

N こうした「直接経験」に即したフッサールの分析は、後に、ハイデガーやガダマーが展開する「解釈学」の部分と全体の理論を思い起こさせる。
N-2 個別的対象の「意味」(Ex. コカ・コーラの瓶or神様からの贈り物)は、背景的地平(時間地平と空間地平、さらにそこにおける「意味地平」、Ex. 西洋型の社会orアフリカの少数民族の集落)との関連の中で決まる。
N-3 個別的対象の「意味」と「意味地平」の関係は、部分と全体との「解釈学的循環」の関係にある。
N-4 部分の意味を決めるには全体の意味が前提され、全体の意味を決めるには部分の意味が前提される。


第4章 世界の発生と現象学(その2):直接経験と述定的判断(=論理学的命題)
(4)規定(意味)の本質(形相)的純化A 「類型」(※重なる諸規定のセット、あるいは、相互に連想(アソシエーション②)される諸規定のセット)には、本質的な意味成分と非本質的な意味成分が、含まれる。(※参照(3)K-3)
A-2 例えば、サイコロの類型の中で、「立方体」は本質的な意味成分、「白い」は非本質的な意味成分。
A-3 本質的な意味成分を取り出せば、そのものの本質規定となる。(※ Ex. 「サイコロは立方体である」)
A-4 その本質規定から出発して「類化」がなされれば、類的な本質規定も可能となる。(※ Ex. 「サイコロは玩具である」)
《感想》「類化」は事象内容を持った本質に関わるが、「形式化」(数の抽象)は 事象内容をもたない基体に関わる。
A-5 このようにして規定(意味)は、本質(形相)的に純化されて構成されていく。

(4(続))言語的・述定的な「判断」=論理学的命題(Sはpである)
B そして、すでに分化していた基体Sと、この規定(意味)pとが、「ある」によって結び付けられるとき、言語的・述定的な「判断」=論理学的命題(Sはpである)が完成する。
B-2 つまり、狭義の論理学的なものの成立である。

(4)-2 述定的判断(=論理学的命題)は、直接経験における相関項として「事態」を持つ。
C この言語的・述定的判断(=論理学的命題)は、(カントのように)《主観に備わったカテゴリー》に条件付けらるのでない。
C-2 フッサールは、《言語的・述定的判断は、直接経験から抽出される》とする。
D 述定的判断は、直接経験における相関項として「事態」を持つ。
D-2 述定的判断は、事態を名指す。(Cf. これは《名詞が、対象を名指す》のと同じ。)
D-3 カテゴリー的直観:「述定的判断」(「このサイコロは白い」)に対応する「事態」(このサイコロは白い)が直接経験において直観される。(Cf. これは《名詞(「サイコロ」)に対応する対象(サイコロそのもの)が直接経験において直観される》のと同じ。)
D-4 フッサールは、いわば、事態実在論(!)の立場をとる。(Cf. これはカントと大きく異なる。)

(4)-3 論理学的次元(=述定的判断)における「様相」
E  様相は話法の「助動詞」、または形容詞を伴う「ある」で表される。
E-2 canやbe possible、「ありうる」が、可能性の様相を示す。
E-3 この場合、「Sはpである」が、「Sはpでありうる」(「Sは可能的にpである」)となる。
E-4 様相は、「ある」(存在)の有様の強弱によって生じる変化である。

(4)-4 直接経験の「ない」(否性Nichtigkeit)から、言語的・述定的・論理学的な「ない」(否定Negation)へ
F フッサールは、「様相の変化は、直接的経験に基礎を持つ」とする。
F-2「直観経過」:直接経験の直観は、把持・原印象・予持の3つの位相を持つ。Ex. 置いてあるサイコロにおける二の目の把持、三の目の原印象、五の目の予持。
F-3  Ex. 五の目の予持は、ふつう充実される。つまり身体運動を通じ二の目の裏側へ行き、「実際に見る」=「原印象的に直観する」。かくて予持の期待は「確証」される。
G Ex. しかし実際に見たら五の目でなかった。つまり予持の期待が裏切られることがある。「期待外れ」(フッサール)。
G-2 この時、まだ言語化されていないが、「(期待されていた)五の目でない」つまり「ない」の意識が生じる。これが直接経験の「ない」の意識、すなわち「否性」(Nichtigkeit)である。
G-3 直接経験の「否性」は、言語的・述定的・論理学的レベルの「ない」の先行形態である。
H 言語的レベルの「ない」は、「否定」(Negation)である。

(4)-5 直接経験の「ない」:派生的だが、「ある」と強さは同じ
I 直接経験の「ない」は、「期待外れ」から生じるので、「ある」よりも派生的である。
I-2 しかし「ない」と「ある」の強さは、同じである。「ない」と「ある」は、同じ強さを持つ。(参照E-4)

(4)-6 直接経験と定立性の様相(その1):「否定」とは「非存在の定立」である
J 直接経験の「ない」は、言語的に表現すれば、“S is not p”(「S は pでない」=「S は pでないのである」)である。
J-2 これは、“S is p”(「S は pである」=「S は pであるのである」)と同じく、直接法の“is”(「ある」)を含み、「真理」を主張する。
K 「ある」は「存在の措定」に基づくのに対し、「ない」は「非存在の措定」に基づく。(※これは以下に指摘されるように、留保あり。)
K-2 厳密には、フッサールでは、「措定」は「存在の措定」だけを指す。だから「ない」については「非存在の措定」と言えない。「存在の措定」が様相変化を被った場合は「定立」である。
K-3 「否定」とは「非存在の定立」である。

(5)直接経験と定立性の様相(その2):「疑わしさ」(「確実性」の揺らぎ)としての「可能性」・「蓋然性」
L 言語的・述定的・論理学的レベルの「否定」を可能にするのが、「否性」の直接経験である。
M  Ex.  二の目の裏側が五の目でないという「否性」の直接経験が起きると、五の目に期待されていた「存在」(=「ある」)の措定に揺らぎが起る。
M-2 最初の素朴な「確信」=「確実性」が揺らいで「疑わしさ」が生じる。
M-3 「ある」と「ない」との葛藤が生じると、どちらも「ありうる」こととなる。この直接経験において、「可能性」の様相が準備される。
M-4 「ある」と「ない」のどちらかが強くなった場合には、この直接経験において、「蓋然性」の様相が準備される。
N 「存在の措定」(「確実性」)のここまでの様相変化(「否定」・「可能性」・「蓋然性」)は、定立性の様相であり、強さ/弱さの差はあるが、「真理」に関わる。(「定立」されたものは「真理」に関わる。)

(6)直接経験と中立性の様相
O 直接経験において、「ある」や「ない」がせめぎ合ったあげく、「定立」そのものがなくなってしまうことがる。「否定」が働くのでない。「定立」が働かない。
《感想》中立的様相の述定的判断(=論理学的命題)は、もはや「真理」に関わらない。想像された内容が述定される。第4章第4節(7)参照。
O-2 これが「中立性」の様相である。
O-3 中立性の様相は、言語的レベルでは、接続法で示される。
O-4 中立性の様相も、直接経験において発生的に準備され、そこから生じて来る。

(7)直接経験において起こることが、言語的・論理学的な諸様相の起源となる
P 以上のように、直接経験において、根源的な様相(原様相)としての確実性が、期待外れによって裏切られることによって、(a)否定(※否定も様相である)や可能性や蓋然性の様相が、さらには(b)中立性の様相が、派生的・発生的に生じてくる。
P-2 このような直接経験において起こることが、言語的・論理学的な諸様相の起源となる。
《感想》「存在の措定」(「確実性」)の様相変化のうち、「否定」・「可能性」・「蓋然性」は、定立性の様相である。さらに中立性の様相もある。(参照(5)N!)


第4章 世界の発生と現象学(その3):世界の〈存在〉が、対象の存在よりも存在論的・超越論的に先行する
(8)フッサールの論理学の基礎づけと、「世界」という事象
A フッサールの論理学の基礎づけは、これまで述べたより、はるかに詳細。
A-2 内容も知ろうとせず、「基礎づけ主義」とフッサールにレッテルを張るだけの批判が多い。
A-3 本書は、(なぜか、これまでほとんど示されたことのない)フッサールの《論理学の基礎づけ》の概略を示した。
B その上で、フッサールの基本的着想が、届かなくなるところまで、分析を進める。
B-2 事象は、《フッサールの当初の予想通りの構造》を持っていなかった:「世界」という事象の問題!

(8)-2 「諸対象の全総体概念」(フッサール)としての世界or《最大のノエマ》(谷)としての世界
C フッサールは、世界を(さしあたり)石・机・樹木など諸対象の「全総体概念」と、定義する。
Cー2 さて「数」という「総体概念」の構成は、すでに示した。石の「一」と机の「一」と樹木の「一」と・・・・のように、「と」によって物を集めつつ結びつけていくこと(集合的結合)による。
Cー3 フッサールは、おそらく、それらの質料的事象内容も集合的に結合し、世界は「諸対象の全総体概念」と考えた。
《感想》諸対象は並列でなく、錯綜する。しかも3次元的、4次元的に錯綜する。その全総体として世界がある。
Cー4 この場合、諸対象はノエマ構造を持つから、世界は《最大のノエマ(※対象)》(谷)ということになる。

(8)-3 世界は「諸対象の全総体概念」か?:世界を(※質料的)「意味」(Cf. 基体)という面から考える
D ノエマ(※対象)は、「基体」と「ノエマ的意味」という構造をもつ。
E 世界を、ノエマ的意味という面から考える。
F 世界は、個々の対象(ノエマ)の外部地平である。
Fー2 世界の意味は、個々の対象(ノエマ)から出発して徐々に規定されてゆく。
Fー3 しかし世界がどんどん規定されていっても、世界は地平(意味に関しては「意味地平」)である限り、意味の固定はできない=未規定性を残す。世界は、いつも解明的に規定されない「残存地平」を残す。
Fー4 例えば、サイコロから出発し、それが「机の上に」ある、「家の中」、「・・・・市」の中、・・・・と意味を詳しく規定していく。しかし「残存地平」を残す。
G ところが《未規定の「残存地平」をつねに残す世界地平》は、つまり世界は、まったく未知だというわけでない。
Gー2 世界地平は、そのつど、既知のもののすぐ外側、一歩先としてあらかじめ思い描かれている。
Gー3 この世界地平の(非主題的な)意味は、個々の物の意味に関与する。つまり、それは一種の既知性を持つ。それは「既知と未知が絡み合った構造」をもつ。
《参照:谷170-1頁》地平はそのつど内部しか見えないが、たえず外部を指し示す。つまりクローズドであるとともにオープン、つまりクロープン!
H かくて、残存地平を持つ世界の「意味」(Cf. 基体)は、それを主題化しようとすると個々の対象(ノエマ)より、つねに遅れるが、それでも個々の対象(ノエマ)の意味と相互関係的に結びつく。
Hー2 かくして(質料的)意味(Cf.基体)という観点では、世界と対象に一定の連携関係がある。
《感想》つまり世界を「諸対象の全総体概念」(フッサール)とする捉え方は、誤りでない。

(8)-4 世界は「諸対象の全総体概念」か?(続):世界を「基体」という面から考えると、世界は基体を持たずノエマ(対象)でない
I フッサールは、「いかなるノエマ(※対象)においても、・・・・純粋に規定可能なXが不可欠である」と述べた。この「X」は、ノエマ的意味がそこに収斂する基体である。
J ところが、後年のフッサールは、言う。「明らかに、全自然[=世界]は、端的な経験[=直接経験]においては、基体をもったものとして経験されてはいない。」
Jー2 世界は、(※質料的)意味に関してはノエマと連携しているとしても、意味を収斂させる基体を持たない。
Jー3 基体を持たないなら、世界はノエマでない。
Jー4 基体という点では、世界は、ノエマとまったく異質である。
《感想1》フッサールが対象と呼ぶのはノエマであるが、これは《広義に理念的存在であるかぎりでの「意味」》である。
《感想1-2》ノエマは、実在的存在・中立的存在・理念的存在という規定を与えられることが出来るので、ノエマは、この《狭義の理念的存在としての「意味」》以上のものである。
《感想1-3》ノエマは、《広義に理念的存在であるかぎりでの「意味」》と呼ぶべきである。
《感想1-4》ただし、この世界はノエマとしてしか現出しないから、ノエマは世界現出そのものである。
《感想1-5》世界は、ノエマとしてのみ、つまり、《広義に理念的存在であるかぎりでの「意味」》としてのみ現出する。
《感想2》ノエマが、基体と意味からなると言う時、この場合の意味とは、質料的意味内容のことである。

(8)-5 世界の唯一性:世界は、対象(=客観=ノエマ)でない
K 基体は「一」の起源である。世界が基体をもたないとすれば、世界は「一」でないということか?
Kー2 そうではない。
L 世界は、意味を収斂させる基体を持たないから、「一」ではない。すなわち世界は「と」による集合的結合によって複数になりうるような「一」ではない。
L-2 実は、世界は、複数が無意味である「唯一性」である。
L-3 世界は、対象(=客観=ノエマ)でない。つまり世界は、複数が可能であるような対象(客観)でない。

(8)-6世界の存在(その1):世界は時間地平・空間地平そのものである
M 対象(ノエマ)は、時間位置と空間位置を持つ。つまり、それは、客観的時間と客観的空間の内部に位置づけられる。
M-2 かくて対象(ノエマ)は、「実在的」などの「存在」をもつ。
M-3 客観的時間と客観的空間が、時間地平と空間地平という構造を持っていても、このことは変わらない。
N ところが世界は、時間地平と空間地平そのものである。
Nー2 あるいは世界は、「世界地平」だと言ってよい。
Nー3 世界以前の時間や、世界の外部の空間などは、無意味である。「以前の時間」や「外部の空間」、それら自体、世界地平の一部である。
O 世界(世界地平)それ自体は、時間位置と空間位置を持たない。
(8)-7 世界の存在(その2):世界は「対象」と同類でないor世界は「対象」と全く異なった不思議なものである
P 「存在」は、それが時間地平と空間地平のなかに内属する仕方によって決まる。
Pー2 世界(時間地平と空間地平)のなかに位置づけられない世界は、「存在」をもたないのか?
Pー3 そうではない!

Q フッサールは次のように言う。
Q-2 「世界意識は、信憑の確実性という様相における意識であって、
Q-3  [世界意識は、](a)存在措定―現存在しているとしての把握―や、さらには(b)述定的な実存判断といった、生のつながりの中でことさらに登場してくる作用によって、獲得されるわけではない。
Q-4 これらすべて[=(a)直接経験における存在措定、および(b)述定的レベルでの実存判断]は、すでに信憑の確実性における世界意識を前提している。」

R (a)「存在措定」とは対象に「存在する」と認めること、すなわち直接経験において対象を時間のなかに内属させることである。
Rー2 対象の(実在的or中立的or理念的)「存在」は、意識が「存在措定」を遂行することで成立する。
《感想》ここで意識とは超越論的意識である。それは、モナドあるいは世界現出そのものと、言ってよいだろう。

S では「世界」は、どうか?
《感想》以下では、「世界」が、「対象」(=客観=ノエマ)と異なることが、述べられる。

Sー2 「存在措定」は、「対象」を世界地平のなかに内属させること。かくて「存在措定」は、それ自体、世界地平の〈存在〉を前提している。
《感想》「対象」の存在と、「世界」の〈存在〉は、意味が全く異なる。
T 世界の〈存在〉は対象(ノエマ)の存在とは、全く別様である。
Tー2 世界は「措定」された存在でない。世界は、別様の〈存在〉、措定されたのでない〈存在〉を持つ。
U 「存在措定」は、対象を世界地平のなかに内属させることだから、すでに世界地平の〈存在〉を前提している。
Uー2 世界の〈存在〉が、対象の存在よりも存在論的・超越論的に先行する。
《感想》超越論的とは、「意識の問題でなく、存在の問題・世界現出の問題だということ」、つまり存在論的ということである。

U-3 もし世界が〈存在〉しなければ、対象の存在が不可能となる。
U-4 世界の〈存在〉は、対象が持つような実在的・中立的・理念的といった存在ではない。
V かくして「世界意識の仕方と、物意識・客観意識・・・・の仕方においては、原理的な区別が成り立っている。」(フッサール)
Vー2 世界は、対象と同類のものではない。
Vー3 科学主義・客観主義は、世界を対象と同類と考える。
V-4 ただし科学は、実は、世界(宇宙)をもっと柔軟に考え始めている。
Vー5 現象学は、厳密な分析によって、つまり学問的に無前提な分析によって、「世界」が、「対象」と異なる不思議なものだと発見した。

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