ブログで、静岡市児童相談所に愛息を拉致されたご両親の問題を取り上げてきた。その3回目(昨日)で、そもそもの発端である、担任N教諭がやみくもに大量の宿題を児童に課すことに、両親が疑問をいだき質問状を担任に送ったことを記載した。
今回は、そういう誤った指導をしようとした担任Nの認識形成とその指導法の誤りについて述べたい。
ご両親の質問の主旨を再度かいつまんで紹介すると、Ñ教諭が、入学早々から親に「宿題のチェック及び評価」をするよう指示が出始めた。最初はひらがなの練習プリント1枚であったものが、徐々にその数量が増え、これは安易に学校側がしなければいけないことを、さも親がすべきことのように丸投げしているようにも思える、と両親は感じた。
そこで両親が「保護者である私たちが採点評価し、それを記帳させ翌日担任が確認するやり方が保護者にとって大きな負担となることを説明したうえで、学校側の家庭に対する要望事項を無神経に増やさないで欲しいという意味で」質問状を提出したのである。
ご両親は、こういうやり口は学校側の逸脱した権限行使としか思えないと述べる。宿題をやらせる又はやる癖をつけさせる等、親が協力すべきことはあるが、その成果及び正誤判断は本来学校側がするべきことである。
例えば音読の評価なんてことは、親と先生の教え方とでは絶対に同じにはならず、しかもあろうことか親が感情を込めた読み方を教えても、担任は単語のアクセントや棒読み等、変に直されて来る始末だったという。また、計算帳の回答速度を毎日記録させられることについて子供に聞いてみると、最終的には「1分」で出来るようにとやらされていると聞かされ唖然としました。計算式と答えを早口で唱えさせるという曲芸のようなことをさせたら計算に強い子供ができるのですか?と問い、 そしてその記録を親がチェックして毎日つけなきゃならないと指示することは異常だと両親は指摘したのである。
これはまことに正論である。いったいこの教員は、正気なのかと思いたくなる。問題はこのような教師はどうして誕生するのか、だ。
Nの指導は、ある意味では正しい手法と言ってもいい。ただしそれは小学校が受験勉強の予備校だとするならば、だ。毎日大量の計算問題の宿題を課し、スピードをつけさせる。ひらがな学習も大量に宿題を出す。読み方も、親が指導するような感情を込めたものではなく、棒読みをあえて強いる。これは見事に、わざわざ感情を薄く育てて、無味乾燥な暗記一本やりの受験秀才をつくる方法としては優秀である。
だから親からクレームをつけられたN教諭は激怒し、「何が悪い」とすごんでみせたのだ。この人はおそらく“受験秀才”であったのだろうし、自分が“受験の神様”になりたいらしい。受験に勝って一流大学に行く事だけが人生の最大価値だと信じ込んでいる…。だから自分がやってきた学習だけが正しいと勘違いする。感情を育てることが受験では阻害要因になるから、ひたすら大量の“問題”を暗記させ、解かせることだけが、人生に勝者になる道だと妄信しているのではないか。
しかしながらこうしたやり方は、譬えていうなら、コーヒーを「コーヒー」という文字で見て覚えさせるようなもので、コーヒーを飲んで味わって理解して覚えるあり方とは異なる。受験秀才を育てるには、コーヒーを飲ませている手間や時間がもったいないから、ひたすら文字だけで覚えさせ、それで入試を突破できればよいとする教え方になる。それがN教諭のやりかただろう。小学生ならコーヒーを実際に飲んで味わう学習でなければならぬ。
昨今の教師(役人も)実力が低く、子どもに入試しかさせられない。これでは豊かな感性は育たない。逆に愚劣な特待生制度を採用して、野球やサッカーなどの得意な児童生徒も感性ゼロのバカが育ってしまう。それが戦後、連綿と続いてきて、児相の木っ端役人やN教諭のような無能な(入試にだけ有能な?)連中は、見事に感性が育てられてきていない人間に育ち、その感性のない人間がまた教壇に立って、愚劣な感性抜きの指導をしてしまう。
というと、いいえ入試ばかりじゃござんせん、個性を尊重しています、と答えるだろう。冗談言ってはこまる。現今教師の「個性尊重」は社会規範を教える事抜きの、わがまま勝手を容認することでしかない。また困った事にその“個性”を社会が受け入れてしまう。
例えば鉛筆の持ち方や箸の上げ下ろしなどは、戦前は見事に子どもが躾けられ、変な持ち方をする子どもはいなかった。今は鉛筆や箸の持ち方を指導すると、子どもに精神的苦痛を与えるから、それは虐待だと決めつけられる。嘘のような話である。だから、どの子も鉛筆を正しく持てなくなった。試みに病院の看護婦や役所で若い担当者のボールペンの持ち方をご覧なれ、ほぼ全員がめちゃくちゃな持ち方をしている。これが個性尊重教育の成れの果てだ。
ここまで教師を批判すると、私たちは感性豊かですッ、何を証拠に感性が薄いなんていちゃもんをつけるのかッと、すごむであろう。では言ってやる。担任に質問状をしたためたご両親の筆致が、あれが感性豊かな人の文章である。
「実録 児童相談所の実態」http://www.boreas.dti.ne.jp/~h777m300の07年7月4日の記録にある質問状原文を見られたい。親御さんが感情をこめて批判している様子が見てとれる。それに対して担任が取った態度とは、むかついて両親の家に押し掛けて、延々自説を曲げずに議論し(それを軟禁されたとでっち上げた)、あげくに同僚教師に同意を求め、ついには論破されると腹いせに自分の学級の子どもを官権に売り渡したのだ。だから感性ゼロという。
感性豊かなら、論破されたら悔しくて自分が情けなくて、襖の一つも蹴り上げるものである。それが脳細胞が実体として活動する感性の豊かさなのだ。ところが受験秀才は感性が薄いため、逆恨みという行動に出がちだ。あるいは感性薄く消極的な人間ならばショボンとしてしまう。悔しかったら、自分が実力をつけていずれ論破してやる、それまで勉強してやる! となるものだ。ところが腹いせをすることだけに認識が向くとしたらそれは、感性が薄いからである。
入試にばかりうつつを抜かし、社会規範を重視しない教育を受ければ、感性薄い人間になるのだ。
昔の旧制中学、旧制高校では、下級生がわがままを言たり、グレたりすれば、先生はもとより上級生から「ふざけるな」と鉄拳制裁を受けた。だからグレようがなく、不貞腐れようがなかった。グレて学校をサボろうにもゲーセンはなし、マンガ喫茶もないから、どうにもならない。かように社会ぐるみで中学生の認識の発展に尽くしたものだった。それで日本は立派な国家になった。それが敗戦を機にアメリカに不当に壊された。
今は受験をやった人間だけが評価される社会にされてしまった。そして個性ばかりが煽られる。マスゴミも、入試と個性ばかり尊重するように仕向け、だから体罰を禁じて子どもに社会規範を身につけさせないアメリカ(ユダヤ闇権力)の意向を反映させている。
幾ら言ってもわからない教師は、だからその言いつけどおりに、小学1年生から、入試の準備をさせることだけが、教育だと思い込んでいる。で「何が悪い」と親にすごむのである。
小学生も中学生もそうだが、子どもは感性豊かに育てなければならない。夕日を見て涙する、チョウチョの羽化を見て感動する、友だちの友情に感謝する、そういう貴重な、大事な経験を積んでこそ感性は豊かになる。人間になる。愚劣教師はその時期に「模擬テストで何番」だけに脳細胞が働くように育てようとする。それを中学、高校と延々続けるつもりだ。
小学校も中学校も、知識よりも大事なことは「人間性を育てる」ことにある。勉強だけではブタになる。現に多くの教師がそうなっているではないか。憲法違反の「虐待解釈」をして、冷酷に親子のきずなを断ち切ったではないか。人間性を育て損なったから、平然と自分の教え子を親から引きはがして施設に放り込む。愚にもつかぬ知識でアタマが一杯にすることが学習のすべてと思い込んでいる。
自分がそういう馬鹿げた教育を受けてきた反省はないのか。断言しておくが、そのような教師は、卒業後に教え子からいつまでも感謝されるということはあり得ないだろう。
教師と教育者の違いとは何か。それは教師はいうなれば大工であって、教育者は建築家なのだ。家を建てたとき、大工はたいして感謝されないが、建築家は感謝と尊敬を勝ち得る。まちがった教育をする教師は大工ですらない。
※以下のサイト「児童相談所の真実」にも、児相の言語道断の実態がつづられている。読んでみてください。
http://plaza.rakuten.co.jp/jidousoudannjo/
今回は、そういう誤った指導をしようとした担任Nの認識形成とその指導法の誤りについて述べたい。
ご両親の質問の主旨を再度かいつまんで紹介すると、Ñ教諭が、入学早々から親に「宿題のチェック及び評価」をするよう指示が出始めた。最初はひらがなの練習プリント1枚であったものが、徐々にその数量が増え、これは安易に学校側がしなければいけないことを、さも親がすべきことのように丸投げしているようにも思える、と両親は感じた。
そこで両親が「保護者である私たちが採点評価し、それを記帳させ翌日担任が確認するやり方が保護者にとって大きな負担となることを説明したうえで、学校側の家庭に対する要望事項を無神経に増やさないで欲しいという意味で」質問状を提出したのである。
ご両親は、こういうやり口は学校側の逸脱した権限行使としか思えないと述べる。宿題をやらせる又はやる癖をつけさせる等、親が協力すべきことはあるが、その成果及び正誤判断は本来学校側がするべきことである。
例えば音読の評価なんてことは、親と先生の教え方とでは絶対に同じにはならず、しかもあろうことか親が感情を込めた読み方を教えても、担任は単語のアクセントや棒読み等、変に直されて来る始末だったという。また、計算帳の回答速度を毎日記録させられることについて子供に聞いてみると、最終的には「1分」で出来るようにとやらされていると聞かされ唖然としました。計算式と答えを早口で唱えさせるという曲芸のようなことをさせたら計算に強い子供ができるのですか?と問い、 そしてその記録を親がチェックして毎日つけなきゃならないと指示することは異常だと両親は指摘したのである。
これはまことに正論である。いったいこの教員は、正気なのかと思いたくなる。問題はこのような教師はどうして誕生するのか、だ。
Nの指導は、ある意味では正しい手法と言ってもいい。ただしそれは小学校が受験勉強の予備校だとするならば、だ。毎日大量の計算問題の宿題を課し、スピードをつけさせる。ひらがな学習も大量に宿題を出す。読み方も、親が指導するような感情を込めたものではなく、棒読みをあえて強いる。これは見事に、わざわざ感情を薄く育てて、無味乾燥な暗記一本やりの受験秀才をつくる方法としては優秀である。
だから親からクレームをつけられたN教諭は激怒し、「何が悪い」とすごんでみせたのだ。この人はおそらく“受験秀才”であったのだろうし、自分が“受験の神様”になりたいらしい。受験に勝って一流大学に行く事だけが人生の最大価値だと信じ込んでいる…。だから自分がやってきた学習だけが正しいと勘違いする。感情を育てることが受験では阻害要因になるから、ひたすら大量の“問題”を暗記させ、解かせることだけが、人生に勝者になる道だと妄信しているのではないか。
しかしながらこうしたやり方は、譬えていうなら、コーヒーを「コーヒー」という文字で見て覚えさせるようなもので、コーヒーを飲んで味わって理解して覚えるあり方とは異なる。受験秀才を育てるには、コーヒーを飲ませている手間や時間がもったいないから、ひたすら文字だけで覚えさせ、それで入試を突破できればよいとする教え方になる。それがN教諭のやりかただろう。小学生ならコーヒーを実際に飲んで味わう学習でなければならぬ。
昨今の教師(役人も)実力が低く、子どもに入試しかさせられない。これでは豊かな感性は育たない。逆に愚劣な特待生制度を採用して、野球やサッカーなどの得意な児童生徒も感性ゼロのバカが育ってしまう。それが戦後、連綿と続いてきて、児相の木っ端役人やN教諭のような無能な(入試にだけ有能な?)連中は、見事に感性が育てられてきていない人間に育ち、その感性のない人間がまた教壇に立って、愚劣な感性抜きの指導をしてしまう。
というと、いいえ入試ばかりじゃござんせん、個性を尊重しています、と答えるだろう。冗談言ってはこまる。現今教師の「個性尊重」は社会規範を教える事抜きの、わがまま勝手を容認することでしかない。また困った事にその“個性”を社会が受け入れてしまう。
例えば鉛筆の持ち方や箸の上げ下ろしなどは、戦前は見事に子どもが躾けられ、変な持ち方をする子どもはいなかった。今は鉛筆や箸の持ち方を指導すると、子どもに精神的苦痛を与えるから、それは虐待だと決めつけられる。嘘のような話である。だから、どの子も鉛筆を正しく持てなくなった。試みに病院の看護婦や役所で若い担当者のボールペンの持ち方をご覧なれ、ほぼ全員がめちゃくちゃな持ち方をしている。これが個性尊重教育の成れの果てだ。
ここまで教師を批判すると、私たちは感性豊かですッ、何を証拠に感性が薄いなんていちゃもんをつけるのかッと、すごむであろう。では言ってやる。担任に質問状をしたためたご両親の筆致が、あれが感性豊かな人の文章である。
「実録 児童相談所の実態」http://www.boreas.dti.ne.jp/~h777m300の07年7月4日の記録にある質問状原文を見られたい。親御さんが感情をこめて批判している様子が見てとれる。それに対して担任が取った態度とは、むかついて両親の家に押し掛けて、延々自説を曲げずに議論し(それを軟禁されたとでっち上げた)、あげくに同僚教師に同意を求め、ついには論破されると腹いせに自分の学級の子どもを官権に売り渡したのだ。だから感性ゼロという。
感性豊かなら、論破されたら悔しくて自分が情けなくて、襖の一つも蹴り上げるものである。それが脳細胞が実体として活動する感性の豊かさなのだ。ところが受験秀才は感性が薄いため、逆恨みという行動に出がちだ。あるいは感性薄く消極的な人間ならばショボンとしてしまう。悔しかったら、自分が実力をつけていずれ論破してやる、それまで勉強してやる! となるものだ。ところが腹いせをすることだけに認識が向くとしたらそれは、感性が薄いからである。
入試にばかりうつつを抜かし、社会規範を重視しない教育を受ければ、感性薄い人間になるのだ。
昔の旧制中学、旧制高校では、下級生がわがままを言たり、グレたりすれば、先生はもとより上級生から「ふざけるな」と鉄拳制裁を受けた。だからグレようがなく、不貞腐れようがなかった。グレて学校をサボろうにもゲーセンはなし、マンガ喫茶もないから、どうにもならない。かように社会ぐるみで中学生の認識の発展に尽くしたものだった。それで日本は立派な国家になった。それが敗戦を機にアメリカに不当に壊された。
今は受験をやった人間だけが評価される社会にされてしまった。そして個性ばかりが煽られる。マスゴミも、入試と個性ばかり尊重するように仕向け、だから体罰を禁じて子どもに社会規範を身につけさせないアメリカ(ユダヤ闇権力)の意向を反映させている。
幾ら言ってもわからない教師は、だからその言いつけどおりに、小学1年生から、入試の準備をさせることだけが、教育だと思い込んでいる。で「何が悪い」と親にすごむのである。
小学生も中学生もそうだが、子どもは感性豊かに育てなければならない。夕日を見て涙する、チョウチョの羽化を見て感動する、友だちの友情に感謝する、そういう貴重な、大事な経験を積んでこそ感性は豊かになる。人間になる。愚劣教師はその時期に「模擬テストで何番」だけに脳細胞が働くように育てようとする。それを中学、高校と延々続けるつもりだ。
小学校も中学校も、知識よりも大事なことは「人間性を育てる」ことにある。勉強だけではブタになる。現に多くの教師がそうなっているではないか。憲法違反の「虐待解釈」をして、冷酷に親子のきずなを断ち切ったではないか。人間性を育て損なったから、平然と自分の教え子を親から引きはがして施設に放り込む。愚にもつかぬ知識でアタマが一杯にすることが学習のすべてと思い込んでいる。
自分がそういう馬鹿げた教育を受けてきた反省はないのか。断言しておくが、そのような教師は、卒業後に教え子からいつまでも感謝されるということはあり得ないだろう。
教師と教育者の違いとは何か。それは教師はいうなれば大工であって、教育者は建築家なのだ。家を建てたとき、大工はたいして感謝されないが、建築家は感謝と尊敬を勝ち得る。まちがった教育をする教師は大工ですらない。
※以下のサイト「児童相談所の真実」にも、児相の言語道断の実態がつづられている。読んでみてください。
http://plaza.rakuten.co.jp/jidousoudannjo/










子供に宿題など全く出さないタイプの教師だと、子供に学力がつかないのでは?と親からクレームがつくこともしばしば有るようです。
親では子供に勉強させられないので強制的に宿題を出して欲しい、などという教師に丸投げタイプの親も往々にしているのです。勉強なんて子供の自主性に任せるのが本来の姿ではないか、と思うのですが。
とにかく詰め込むだけ詰め込む方式で受験に勝たせたい、という親も一定量は存在します。情緒や人間性やモラルやマナーなんて受験には役に立たない、計算式、化学式、漢字、英単語、とにかく詰め込めるだけ詰め込んで、なんて思っていたりするのです。それで感情のないロボット型か、情緒面に問題のあるマナー知らずの不良になってしまったりするのです。
私なんか勉強なんてした事無かったし、それでも何とかなっているものです、って言ってもどうしょうもないですが。
単に本を沢山読んでいたくらいでしょうか。人から言われて勉強したんでは結局は身に付かないと思いますね。
この教師はそれがわかっていないのでしょう。むしろ勉強させてやってるんだから感謝しろ、くらいに思っているのではないでしょうか。そして、宿題沢山出していい先生ね、なんて思ってる親もいると思いますよ。