心に青雲

心に青雲とは青雲の志を抱くこと。弁証法、認識論を踏まえ、空手、科学、芸術、時事問題などを論じます。

静岡市立三保第二小学校に巣食う不逞の輩(上)

2008年03月10日 | Weblog
《1》現象と構造の無理解からくるもの

 先日コメントをお寄せいただいた静岡の「ますみ様」の、児童相談所に小学校1年生の愛息を拉致されたお話は心が痛んだ。ぜひ「DVの実態は真昼の暗黒」最終回のますみ様のコメントをお読みいただき、また以下のHPもご覧いただけたらと思う。
http://www.boreas.dti.ne.jp/~h777m300/
 詳しくはコメントと同HPに譲るとして、私が今回指摘したいのは、この事件を恣意的に起こした静岡市立三保第二小学校の教師の面々の犯罪性についてである。その教師とは学校長・中村博之、教頭・田中徹、担任・西村道子である。彼らは自分らのおかしな「教育観」が論破された腹いせに、ご両親になんの相談もなく一方的に虚偽の通知を児童相談所にし、なんの咎もない児童とご両親を地獄に突き落としたと言ってよい。
 それに加えて静岡市児童相談所の職員どもでもある。
 悪魔のような教師の問題の核心は、この国にはびこる「現象と構造の無知または意図しての勘違い」についてである。
 端的に一例を挙げれば、児童相談所所長の村松隆之は、こう言う。「体罰により子供が傷を負えば、理由の如何を問わず虐待という他なく、体罰と虐待が根本的に異なるとは言えない」と堂々珍説を開陳している(ご両親の市長への訴えに対する、児相の弁明書より)。

 すでに本ブログでも何度か、記述してきた。その一例として「軍隊は殺人を目的とする集団である。軍隊を保有することは社会の恥である。特に徴兵制度は、人間性に対する犯罪」と罵る典型的サヨクの捉え方を批判した。
 現象は同じでも論理構造が違うということ、これである。それがわからないのがサヨクの「軍隊は殺人集団」なる曲解だ。
 今回の静岡の例では、体罰も児童虐待も、現象としては殴打であっても、その論理構造(目的意識性)が異なるということが、教師どもや役人にはわかっていないのである。わかっていないのか、意図的に混同しているのかは定かではない。

 教育者でありながら、彼らは例えば校長が校舎のゴミを拾うのと、用務員(主事)がゴミを拾うことは同じだと思うのであろう。私が何を言っているのか、教師たちにはわかるまいが…。簡単に説けば、校長は教育の一環としてゴミを拾うのであるが、主事は単に校舎をキレイにするためにゴミ拾いなのである。目的意識性の違い、志の違いがわかっていただけるだろうか。
 アタマの悪い人は、これを絶対に認めない。同じゴミ拾いだとしか認識しないだろう。

 あらかじめ申し上げておけば、私も原則的に体罰には賛成である。ますみさんの家庭で、愛息を躾のために叩いたにしても、そんな程度は家庭内の問題で、他人が介入するべきレベルではない。
 体罰については次回つまびらかにしたい。
 もし現在の教育現場で体罰を(昔のように)復活させれば、ほとんどの教育問題は解決すると言ってもよいほどである。それは自分の他人化を理解することになるからだ。こういうまともな教育論を怠け者の教師や木っ端役人どもは知るまい。
 解決して仕事がなくなっては困るから、行政の寄生虫どもは体罰を禁止してきたのであろう。体罰を禁止したから、教師は無責任になり、統括ができなくなって、そして子どもが荒れるようになった。
 木っ端役人と教員はスクラムを組んで、自分らに都合のよいシステムを構築し、あぐらをかいてきた。その根拠とするものが、先に述べた「現象と論理構造の無理解または意図的混同」である。体罰は教育の一環として行われるものだが、それを現象のみ見て「暴力」だと言いたてた。

 再度この「現象と論理構造」の卑近な例を取り上げる。
 幼児が描く「お絵描き」と一流画家が描く絵画とは、現象はどちらも「絵を描く」であるが、これを同じとは言わない。論理構造、すなわち目的意識性(どんな社会的認識をベースに対象を描くか、心象風景を描くかの目的)が異なることは、小学生でもわかることである。その区別が児相の木っ端役人どもには分かず「理由の如何を問わず絵画だ」と主張するのだろう。それほどアタマが悪いのだ。もしそれくらい分かるぞ、というのなら、子どもを躾で叩く場合と、虐待との区別と連関を論理的に説明してみなさい。できないのなら、彼らには人様のいたいけな子どもを「保護」する資格なんかない!

 DV問題で取り上げた際に紹介したが、結婚は売春だとエンゲルスは言い切ったのだ。男女がまぐわうという現象は同じであるが、これを同一だと主張するのがサヨクである。そのくせ女癖が悪いサヨク連中が多い。これなどの現象(見た目)と論理構造の違いを意図的に混同させている一例である。
 論理能力のない人は、戦争は殺人だとか、結婚も売春もレイプも同じだと人に言われると困惑してしまう。なんか違うなと感じつつ、現象は同じなので反論できないのだ。こういう汚い手口をサヨクは使う。

 われわれはよく「バカ」と言う。ところが、この「バカ」という言葉は絶対的に侮蔑の意味、または頭が悪いの意味かといえば、そんなことはない。愛情表現で「バカね」ということもある。気をつけろよ、シャキッとしろよ、の意味で「バカ」と言うときもある。「バカ」にはいろいろなニュアンスがある。ということも児相職員はわからず「理由の如何を問わず『バカ』は侮辱」と決めつける。こんな低度の連中に、国家資格もなしで、強大な権限を持たせていいわけがない。

 『レ・ミゼラブル』では、主人公ジャン・ヴァルジャンが泊めてもらった教会から銀の燭台を盗み、警官に捕まる。警官はジャン・ヴァルジャンを司教のところに連れていき、「こいつが盗んだのでしょう?」と確認する。すると司教は「いいえ、燭台は彼に差し上げたのです」と答え、ジャン・ヴァルジャンは釈放される。司教は、盗みという現象だけを見なかったのである。ジャン・ヴァルジャンがかつて貧困に耐えきれずにたった1本のパンを盗んで19年監獄に入れられていた男だと知っていて、貧しくて食うものにも困ったあげくの犯行だと見抜いた。
 警察はその中身は問わないで、窃盗はどんな理由があろうと窃盗だと決めつける。現象では同じ窃盗だとしても、遊興に使うための窃盗と貧困に耐えかねての窃盗は、その中身(目的意識性)が異なる。作者ビクトル・ユーゴはその論理を説いたのである。司教は単に犯罪者にも優しくしたのではない。
 ますみさんの息子さんを拉致した小学校の教師たちや児相職員は、『レ・ミゼラブル』は読んだことがないのであろうし、窃盗は窃盗以外の何ものでもない、という冷たい人間なのだ。

 昔、幼女殺害の疑いをかけられ死刑が確定してしまった宮崎勤は、自宅にエロビデオを何千本と持っていた。それをマスゴミがよってたかって異常だとはやし立てたが、それはマスゴミが異常だろうと問いかけ的に見るからだ。教師が体罰を虐待と問いかけ的に見る事と変わらない。しかし例に出して申し訳ないが、ブックマーク欄に掲載してある「VINYL JUNKY」のMICKEY氏などは大変なレコード蒐集家で家にはそれこそ何千枚のLPレコードがあるだろうが、誰もそれを異常とはいうまい。
 体罰か虐待かの問題は、人を殴るときに、どういう決断(認識)でやったか、に、異常性があるかどうかなのだ。事実(現象)だけ見れば誰だって、エロビデオを集めることぐらいやっても不思議はない。事実で決めてはいけないのである。
 その人間の行為が社会規範に則っていれば良いのである。三保第二小の中村博之校長、田中徹教頭、西村道子教諭は、逆に親の正当な主張を一顧だにせず、児童相談所に拉致しさったことは社会規範に反した暴挙であることは言うまでもない。

 弁証法の三浦つとむさんは、『弁証法はどういう科学か』でこう書いていた。
 ここに警官がドロボウをつかまえてひっぱっていく図が描かれている(前にドロボウ、後ろにヒもを持った警官)。もう一つの図があって、これは逆に前に警官が縛られていて、後ろにドロボウがそのひもを持って歩いている。後者の場合は、見たところ、ドロボウが警官をひっぱっていくようにも見え、そういうこともあるが、ここではニセ警官が私服の警官にひっぱっていかれるありさまだ、という説明である。
 つまり前者の図も後者の図も基本的には同じだが、見かけは逆になっているのだ。「本質と現象とは必ずしも一致しないこと、時、所、条件によって時には逆立ちしたかたちで現象することがわかります。」と説かれている。

 現象だけ見て判断することはナンセンスなのである。
 この三浦つとむさんの説明は「相対的独立」という弁証法の一つの概念を説明している。相対的独立とは「切り離すことができないにもかかわらず、その一方がある限界の中では他方と関係なしに変化できること」と定義されている。先の例でいえば、戦争と殺人は相対的独立の関係にあるのである。戦争と殺人はいかにも切り離すことはできないが、殺人という概念とは関係なしに変化(目的意識性を変える)することができるのである。
 体罰も同じことだ。殴るという現象では切り離すことはできないが、教育という目的意識性の範囲では、暴力とは関係なく中身を変化させることができる。
 だから戦前は教師が体罰をふるって子どもを躾けることができた。それで子どもが馬鹿になったわけではない。
 しかしながら、現今の教員や教委、児童相談所の木っ端役人は、どうあっても対象の論理構造では勝負したくないのだ。目的意識性という概念を認めてしまえば、親の教育の一環としての体罰を容認しなければならなくなる。そうしたのでは自分らの振る舞いの正当性が失われる。だから何がなんでも「だって、これは暴力じゃん」と現象だけで言い張る。

 こんな馬鹿げた国にさせられたのは、戦争に負けてアメリカに指導されるようになったからである。そのアメリカの学的研究はすべて、つまり教育研究・実践もロックフェラー(ユダヤ)がつくり、運営し、すべての民を洗脳しようとしてきた。その成れの果てが日本の文科省と日教組の方針である。
 戦後ずっと、日本の教育は受験一筋で子どもを縛りつけ、大志も論理能力も身につけさせることをしてこなかった(ユダヤ闇権力によってそうされてきた)。
 官僚も教員も、研究者も評論家も、そして一般大衆も、現象と論理構造の相対的独立の関係を見極める論理能力が皆無で育っている。そういう人間を育てたほうが権力者には都合がよいからである。

 こんな初歩的な論理能力すら持ち合わせないような教育を戦後このかた続けていること、そしてそんな低度の木っ端役人が裁量で決めつけることこそ、わが国の危機でなくて何だろうか。代数がわからなくてもいいから、物事は現象だけで判断してはいけないということだけは学校で教えろ。

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6 コメント

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Unknown (真奈美)
2008-03-10 13:04:16
私はどうも、このご紹介の方のHPにエラーで入れないのですが、体罰は理由によって許されるものであると考えております。しつけなどやむをえないような場合には許されるべき、親や教師が自分の鬱憤晴らしや感情に任せてするようなものは断固禁止すべきであると考えます。しつけといっても、異常に厳しすぎたり、通常では叱責の対象にならないような些細な事を気にして体罰に至るのは良くないでしょうが、言っても分からない、聞く気がないような場合にはとても有効であるでしょう。
怪我に至るようなやりすぎでない限り、良いと思います。
まず、話して聞かせてわからない、わかろうとしない、とても重要な事でそれを良くない事だ、と分からせないといけない、などの場合は体罰は致し方ない、と思われます。
許されない場合は、子供の行動を叱るためのものでなく、親や教師の不機嫌や、イライラ、怒り等を子供の行動と余り関係なく体罰として暴力をふるう場合でしょう。叱ると怒るは違うものである、ということです。
この前、駅に急ぐ道で、小さい女の子を連れたお母さんが、何時までにどこそこへ行かないといけないのに、あんたの足が遅い、と女の子をボコボコ殴ったり、蹴ったりしながら怒鳴りながら歩いていて、見ていて嫌な気分になりました。どうも遅れそうなのはその女の子のせいでは無さそうだし、足が遅いというのもよちよち歩き程度の幼女が親より速かったら異常です。たんなる母親の感情任せの暴力にしか見えませんでした。別にどこかに通報しようなんて事は全く思いませんでしたが。

宮崎勤の件ですが、ビデオに囲まれた部屋自体は、私は別に異常であるともなんとも思いませんでした。単に趣味のものがたくさんあるというだけで。趣味のものが沢山有ったら異常だ、というのなら、お庭にバラをものすごく沢山咲かせている人とかも異常だ、ということになってしまいますよね。
彼の異常なところは、アニメ、エロビデオ、特撮ビデオ、などを見て気持ちを昇華させる事が出来ず、実際の幼女に対する猥褻行為、殺害行為に至ってしまった点です。普通は趣味のものを一杯集めたり、やったりすることによって満足したり、欲求不満を解消させたりして、爆発させる事無く、収まるはずなのですが、彼の心の奥底の異常な欲求はビデオくらいじゃなだめる事はできなかったという事なのでしょう。
後、事件が起きたからといって、マスコミがやたらとこの事件はこの映画を見て起こしたのではないか、などとやたら色々なものを自粛させたり規制させたりするのはおかしいと思います。
神戸の少年少女殺害事件が起きた当時、私はあるスーパーのCD・ビデオ販売部門のスタッフだったのですが、あるアメリカのバンドの新婦が発売予定だったのですが、ポスターのデザインが問題(少年が犯行声明文に書いたゾディアックマーク)になり、貼るのを自粛と言う事になり、発売そのものも全く宣伝無しでひっそりと隠すように行われました。私は聞いていないですが、お店に拠ってはそれでも会に来たお客さんの住所氏名をチェック、などいうことも行われたようです。底までやってそのバンドが事件に関係が有ったかというと、全く関係なし、でした。現在でもそのジャンルでは人気で活動中のバンドですが、その作品だけ明らかに売上が少ないです。根強いファンは何が有ろうと買いますが、宣伝や視聴盤が置かれなかったので、一般のフリの客を捕まえる事が出来なかったのでしょう。学校でもそのバンドの購入、聞くことを禁止したところも有ったそうです。
音楽を聴いたから、殺人した、自殺した、なんて事は通常では考えられないと思います。実際にやってしまった人がいたとしたら、個人攻撃の歌詞でもない限り、その人が異常です。異常の人の責任なんて負う事はないと思います。
明らかに暴力的だったり、猥褻だったりの出版物などは、子供の目に触れないように規制しなければならないですが、それさえ守られれば楽しむのは個人の自由でしょう。それでおかしくなったとしても、それで責任を負わなければならないのはその人本人であるべきです。
Unknown (真奈美様へ)
2008-03-10 14:38:01
ブログ主です。コメントいつもありがとうございます。
〈1〉桂と近藤の逸話で言いたかった事は、ルールがあればルールを破ったほうが悪いことになりますが、ルールがなければ反則ではないのです。剣道のルールがあって、それに従うことになっているのなら、反則でしょうが、物事は決められたルールだけが正しいとは限らないのです。
パレスチナの人が自爆テロをやりますね。あれは卑怯でしょうか? 戦争のルールは、カネのある大国が決めたのであって、大国に有利なルールになっています。戦艦や戦闘機も持てないパレスチナの人は、ではいっさい抵抗してはいけないのでしょうか? 大国のルールに従っていたのでは、圧倒的に不利なのです。

〈2〉宮崎勤は、幼女殺害の犯人ではないと私は思いますね。神戸の酒鬼薔薇事件も、淳クンを殺したのは、少年Aではあり得ません。
体罰と虐待の違いを論理的に説くならば、本ブログでもすでに書いたのですが、要するに体罰は心罰なのであって、子どもの心になんらかの規範を浸透させようとして働きかけることなのです。虐待にはその心に働きかける面がないことです。




見事です (Red)
2008-03-10 17:25:52
「〜不逞の輩」という過激なタイトルにちょっと驚きましたが、読み進むうちにひきこまれました。

「体罰か虐待かの問題は、人を殴るときに、どういう決断(認識)でやったか、に、異常性があるかどうか」これは見事な論理ですね。

ここに登場した教師や役人のような頭の悪い人たちに、ブログ主様のこのまっとうな論理展開が理解できないでしょうが…。
拉致された息子さんを無条件で即刻解放すべきです。
ホントに悪魔 (BMW)
2008-03-10 19:28:22
実録・児童相談所の実態というサイトも見ました。
なるほど。
これはひどいですね。
「悪魔」とは、よく言ってくださった。三保二小の校長らと静岡児相の職員は極刑がふさわしい。
こんな連中が、今日も涼しい顔して子どもに教えているって、想像すると、ぞっとします。
どうしたら、こいつらに天誅がくだせるでしょう。
はじめまして (鹿)
2009-08-05 23:39:43
教職を目指すにあたって自分の弱点を克服する為、色々調べていて、弁証法からこちらのブログへたどり着きました。

「弁証法はどういう科学か」をブログを拝読する中で知り、今、勉強中です。

いつも貴重な情報を発信していただけること、感謝しております。

学校教育で、また、自分の人生で弁証法を武器にしたいと思っています。

若輩者ではございますが、ご教授いただければ幸いです。

一言お礼をと思いコメントしました。
Unknown (鹿様へ(ブログ主です))
2009-08-06 11:11:42
コメントありがとうございます。

「弁証法はどういう科学か」を勉強中とのことで、大変嬉しく存じます。がんばってください。

まずは弁証法はどういう科学かを知識で学び、そのあとは実践することです。
南郷先生は、弁証法は知るのはむずかしくないが、「できない」のがむずかしい、とおしゃいます。

なにかご質問があれば、ブログ右にある「メッセージ」からメールをどうぞ。

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