🌸師と弟子🌸⑤
🔹童門、松陰は長州藩から始まってこの国をどうするかという視野に立って物事を捉える人だから、
就職など即効薬を求めて入塾するような人には向かなかったでしょうね。
しかし、弟子たちは就職斡旋学校では決して得られない価値観を松下村塾に見出していたわけです。
特に松陰の無私無欲な人柄に触れたことが大きかったと言わなくてはいけません。
ただ、中には見当違いをして入門してくる者もいました。
例えば、山縣有朋(やまがたありとも)です。
🔸中西、彼は武術家になりたくて、松下村塾に入門していますね。
🔹童門、ええ。松陰の四天王の1人である吉田栄太郎がある時、松下村塾で1枚の絵を描きました。
その絵には暴れ牛が一頭、
裃(かみしも)を身につけて正座する坊主頭の人物が1人、
木剣が1本、
それから棒が1本、描かれていました。
傍にいた山縣が吉田に絵の意味を訪ねます。
「暴れ馬は高杉晋作だ。
裃を着た男が久坂玄瑞だ。
久坂は藩の重役につけても立派に務まる男だ。
剣は入江九一(くいち)だ。
一生懸命だが、まだ刀にはなり切っていない」
「じゃあ、棒は」
と質問した山縣に吉田は
「おまえだ」
と、
つまり、皆が山縣を見る目は棒切れでしかないというんですね。
だけど、山縣の偉いところは、
そこで一念発起して真剣に松陰に学ぶようになるんです。
山縣が伊藤博文と並んで、総理大臣の座に登り詰めたのは説明するまでもありませんが、
特に、元老になってからというもの、いつも松陰の名を出しては
「こんなに偉い先生に俺は学んだんだ」
と自慢気に語っていたといいます。
かつては棒切れと仲間から軽んじられていた山縣が、
松陰の名を後世に残し世に知らしめた1番の功労者となるわけですから、
何とも興味深いところです。
🔸中西、地方の名もない松下村塾がなぜあれだけ多くの逸材を排出できたのか、関心が尽きませんが、
入門時、既に師を迎える心の準備ができていた意識の高い弟子たちがいたことは確かでしょう。
久坂玄瑞などは松陰と出会った途端、すぐに師弟の深い絆を結んでしまった印象すら受けます。
🔹童門、そうですね。
🔸中西、久坂は強烈な憂国の情にかられて松陰の門を叩いている。
そして松陰と問題意識を完全に共有している。
先ほどの法然と親鸞もそうですが、
劇的な機縁と申しますか、
火花が散るような出会いがそこに生まれたのでしょうね。
これは久坂に限ったことではありません。
他方、直接薫陶を受けなくても松陰の魂に感奮興起する人たちがいました。
私は松陰の弟子で日本法律学校(現・日本大学)を創設した山田顕義の研究によって、明治の政治家や外交官を学ぶ機会が多かったのですが、
乃木希典も児玉源太郎も、山田をとおして間接的にしろ松陰の教えに触れ啓発されているんですね。
松陰が強調してやまなかった国家の柱石を担う人間としてのモラルを乃木も児玉もしっかり身につけている。
それが日露戦争を勝利に導いた一因と申し上げても過言ではないでしょう。
🔹童門、高杉は伊藤が松陰に惹かれた理由の1つには、
藩校の講義が面白くなかったこともあると思います。
句読点がどうとか解釈がどうとか、
型どおりのことしか教えないことに高杉は呆(あき)れるんですね。
一方で、アンチ藩校て型破りな彼には、松陰の教育はピタッとはまるものがあった。
🔸中西、高杉のあの滾(たぎ)るような行動力を、
学問をとおして1つのチャンネルに向け、
国の未来を考えられるような人間に育て上げたところにも松陰の偉大さがありますね。
🔹童門、しかも、人間の長短を見事に組み合わせるんです。
高杉が入門してきた時、松陰は
「高杉君は社会常識は身につけているが、学問が足りない。
足りない学問は久坂君に補ってもらいたまえ。
久坂君に足りない社会常識は君から教えるようにしたまえ」
と言ってコンビを組ませるんですね。
松陰は門人同士の切磋琢磨によって新しい人格を生むことの妙を知っていたのでしょう。
松陰の「士規七則(しきしちそく)」には
「徳を成し材を達するには、師恩友益多きに居り」
(人としての徳を身につけ才能を開かせるには、師の恩や友からの益が多い)
とありますが、味わい深い言葉です。
🔸中西、その松陰は、まだ20代の若者でありながら、まさに人間観察の達人と言うべきですね。
自分の学問だけでも手一杯なはずなのに、
一人ひとりの弟子を実によく見ている。
弁に長けた伊藤博文に
「君は周旋に向いているよ」
と言ったのもその一例です。
伊藤は師の言葉のとおり、政治や外交の場で、その天分をいかんなく発揮しましたからね。
松陰は戦後、何か狂信的なイメージで捉えられてきましたが。
しかし、本当は大きな視野とバランス感覚と人間観察力が組み合わさった
優れた指導者だったことは間違いありません。
(つづく)
(「致知」7月号、中西輝政さん童冬二さん対談より)
🔹童門、松陰は長州藩から始まってこの国をどうするかという視野に立って物事を捉える人だから、
就職など即効薬を求めて入塾するような人には向かなかったでしょうね。
しかし、弟子たちは就職斡旋学校では決して得られない価値観を松下村塾に見出していたわけです。
特に松陰の無私無欲な人柄に触れたことが大きかったと言わなくてはいけません。
ただ、中には見当違いをして入門してくる者もいました。
例えば、山縣有朋(やまがたありとも)です。
🔸中西、彼は武術家になりたくて、松下村塾に入門していますね。
🔹童門、ええ。松陰の四天王の1人である吉田栄太郎がある時、松下村塾で1枚の絵を描きました。
その絵には暴れ牛が一頭、
裃(かみしも)を身につけて正座する坊主頭の人物が1人、
木剣が1本、
それから棒が1本、描かれていました。
傍にいた山縣が吉田に絵の意味を訪ねます。
「暴れ馬は高杉晋作だ。
裃を着た男が久坂玄瑞だ。
久坂は藩の重役につけても立派に務まる男だ。
剣は入江九一(くいち)だ。
一生懸命だが、まだ刀にはなり切っていない」
「じゃあ、棒は」
と質問した山縣に吉田は
「おまえだ」
と、
つまり、皆が山縣を見る目は棒切れでしかないというんですね。
だけど、山縣の偉いところは、
そこで一念発起して真剣に松陰に学ぶようになるんです。
山縣が伊藤博文と並んで、総理大臣の座に登り詰めたのは説明するまでもありませんが、
特に、元老になってからというもの、いつも松陰の名を出しては
「こんなに偉い先生に俺は学んだんだ」
と自慢気に語っていたといいます。
かつては棒切れと仲間から軽んじられていた山縣が、
松陰の名を後世に残し世に知らしめた1番の功労者となるわけですから、
何とも興味深いところです。
🔸中西、地方の名もない松下村塾がなぜあれだけ多くの逸材を排出できたのか、関心が尽きませんが、
入門時、既に師を迎える心の準備ができていた意識の高い弟子たちがいたことは確かでしょう。
久坂玄瑞などは松陰と出会った途端、すぐに師弟の深い絆を結んでしまった印象すら受けます。
🔹童門、そうですね。
🔸中西、久坂は強烈な憂国の情にかられて松陰の門を叩いている。
そして松陰と問題意識を完全に共有している。
先ほどの法然と親鸞もそうですが、
劇的な機縁と申しますか、
火花が散るような出会いがそこに生まれたのでしょうね。
これは久坂に限ったことではありません。
他方、直接薫陶を受けなくても松陰の魂に感奮興起する人たちがいました。
私は松陰の弟子で日本法律学校(現・日本大学)を創設した山田顕義の研究によって、明治の政治家や外交官を学ぶ機会が多かったのですが、
乃木希典も児玉源太郎も、山田をとおして間接的にしろ松陰の教えに触れ啓発されているんですね。
松陰が強調してやまなかった国家の柱石を担う人間としてのモラルを乃木も児玉もしっかり身につけている。
それが日露戦争を勝利に導いた一因と申し上げても過言ではないでしょう。
🔹童門、高杉は伊藤が松陰に惹かれた理由の1つには、
藩校の講義が面白くなかったこともあると思います。
句読点がどうとか解釈がどうとか、
型どおりのことしか教えないことに高杉は呆(あき)れるんですね。
一方で、アンチ藩校て型破りな彼には、松陰の教育はピタッとはまるものがあった。
🔸中西、高杉のあの滾(たぎ)るような行動力を、
学問をとおして1つのチャンネルに向け、
国の未来を考えられるような人間に育て上げたところにも松陰の偉大さがありますね。
🔹童門、しかも、人間の長短を見事に組み合わせるんです。
高杉が入門してきた時、松陰は
「高杉君は社会常識は身につけているが、学問が足りない。
足りない学問は久坂君に補ってもらいたまえ。
久坂君に足りない社会常識は君から教えるようにしたまえ」
と言ってコンビを組ませるんですね。
松陰は門人同士の切磋琢磨によって新しい人格を生むことの妙を知っていたのでしょう。
松陰の「士規七則(しきしちそく)」には
「徳を成し材を達するには、師恩友益多きに居り」
(人としての徳を身につけ才能を開かせるには、師の恩や友からの益が多い)
とありますが、味わい深い言葉です。
🔸中西、その松陰は、まだ20代の若者でありながら、まさに人間観察の達人と言うべきですね。
自分の学問だけでも手一杯なはずなのに、
一人ひとりの弟子を実によく見ている。
弁に長けた伊藤博文に
「君は周旋に向いているよ」
と言ったのもその一例です。
伊藤は師の言葉のとおり、政治や外交の場で、その天分をいかんなく発揮しましたからね。
松陰は戦後、何か狂信的なイメージで捉えられてきましたが。
しかし、本当は大きな視野とバランス感覚と人間観察力が組み合わさった
優れた指導者だったことは間違いありません。
(つづく)
(「致知」7月号、中西輝政さん童冬二さん対談より)