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寧静致遠(ねいせいちえん)①

2017-05-16 12:11:39 | お話
🍀🍀寧静致遠(ねいせいちえん)🍀🍀
「丁寧に静かに真心を尽くすと遠大なることに到る」①

(ノーベル賞生理学・医学賞受賞 大村 智さんの講演から)


本日は、このようにたくさんの方々の前でお話をさせていただきますことを大変光栄に存じますおります。

私『致知』を長年愛読しており、

私の生き方はこの雑誌の影響を色濃く受けていると思っております。

そんなご縁で、藤尾社長から講演のご依頼をいただきましたけれども、

未熟者の私が人間学を説くのはちょっと荷が重く、

まぁ、「私が歩んできた道」ぐらいならお話しできるだろうということで、

本日ここに立たせていただくことになりました。

私は大学を卒業して都立高校の教員になりましたが、

28歳の時に発心して研究の道を歩むことにいたしました。

「おまえの経歴で研究者になってもあまり将来性がない。

このまま教師を続けて将来は校長にでもなったほうがいい」

というのが、私の周りの圧倒的多数の方々の意見でした。

そんな私が今日までどのように歩んできたのか。

生い立ちから順番に振り返ってまいりたいと思います。

私は1935年、山梨県の農家に生まれました。

詩人の大岡信先生は「眺望は人を養う」と説いておられますが、

私が生まれたところは非常に風光明媚であり、

また神を敬いご先祖を崇める敬神崇祖の精神も根づいており、

そのような素晴らしい風土に育まれて幼少期を過ごしました。

子供の頃、最も影響を受けたのが、農作業で忙しい両親の代わりに10歳まで面倒を見てくれた祖母でした。

私はこの祖母から、

「智(さとし)、世の中で1番大事な事は、人のためになることだ」

と繰り返し、繰り返し言い聞かされて育ったのであります。

父は村の顔役として毎日忙しく飛び回り、

母は終戦まで小学校の教員をやっておりましたが、

私はこの両親から勉強するように言われたことがありません。

なぜなら、私は勉強をすると農作業を手伝わせることができなくなるからです。

農繁期になりますと、暗いうちから起こされて両親と一緒に野良仕事をし、

近所の仲間がゾロゾロと家を出てくる頃にようやく解放されて学校へ行きました。

父は私に農業を継がせ、多少なりとも村の役に立つ人間にしたかったのでしょう。

私に農作業を徹底的に教え込むわけです。

おかげで中学3年の頃には、馬の背中に大きな俵をくくりつけることもできるようになってきましたが、

これは村の青年でも、なかなかできないもので、ずいぶん驚かれたものです。

とにかく農作業は厳しく、少年の小さな体でそれをこなすのは大変なことでした。

しかし、コンラート・ローレンツというノーベル賞学者が、

「子供の時に肉体的に辛い経験を与えないと、大人になって人間的に不幸だ」

と言っているように、厳しい農作業のおかげで徹底的に体力も精神力も鍛えられ、

私はとても幸せだったと思います。

いずれ自分はお百姓さんをやるんだと考え、

あまり勉強しなかった私を、中学の恩師である鈴木勝枝先生はずいぶん可愛がってくださいました。

農繁期に学校休んで田んぼで働いていると、

ぬかるんであぜ道を歩いてきて、

「きょうは学校でこんなことがあったよ」

と教えてくださり、

「将来は村長になるのに、こんな字を書いていたらみっともないよ」

と教えてくださったり、いつも気にかけてくださっていました。

私は後に研究者となり世界中を飛び回るようになっても、

この先生にだけはハガキを書こうと心に決め、現地で絵ハガキを買っては近況を報告しておりました。

お亡くなりになる前に、少し痴呆症の気があったらしいのですが、

私の名前は最後まで覚えておられ、友達から羨ましがれたものです。

お百姓するには体をきか鍛えなければならないと考え、高校からはスポーツに打ち込みました。

特に力を入れたのはスキーと卓球で、

スキーは高校3年の時に、山梨県の選手権大会で優勝して以来、長距離で5年連続優勝を果たしました。

同級生は受験勉強に励んでいましたが、私はスキーや山ばかりに行って、

高校3年の時は1番成績の悪いクラスに在籍していました。

ところが、高校3年の春に盲腸の手術をし、療養中に本を読んでいるのを父が見て、

「勉強したいなら、大学にいかせてやる」

と言ってくれたのです。

そうか、そんな道もあったのかということで、

夜は数時間しか寝ずに猛勉強を始めました。

先生には無理だと言われていましたが、何とか山梨大学に受かったのです。

クラスからは2人しか国立大学に受からなかったそうですが、

大学に入っても私は相変わらずスキーに明け暮れていました。

ありがたかったのは、担当教官の丸田銓二郎先生が、いつ研究室に顔を出してもすぐ実験ができるよう取り計らってくださったことです。

実験のできない科学者は科学者とは言えず、これは科学においては1番大事なことです。

後年、研究の道に進むことができたのは、丸田先生のおかげです。


スキーでは山梨県代表として国体に2回出場しましたが、

私はスキーからも大事なことを随分学びました。

私はたくさんの優勝カップをいただきましたが、

それはレベルの高い新潟県に行って練習したからで、

山梨に帰れば楽々優勝できる力が自ずと身についていたのです。

この経験を踏まえて私は、自分の身をなるべく高いレベルに置くこと。

人を教育する立場にいるなら、そういう環境をつくってやることが大事だということをいつも申し上げています。

また、私が指導を受けたスキーの名手・横山隆策先生のお話では、

かつて新潟県は北海道にどうしても勝てなかったそうですが、

北海道へ行って教わるのをやめて自分たちで独自に工夫するようになって

初めて北海道に勝てるようになったとのことでした。

これは研究にも通じることです。

あるレベルまでは優れた人の指導を仰ぐことが大切ですが、

それを超えるには自分独自の創造性や個性を生かして戦わなければ勝てないことを、

私はそのお話から学びました。


雪のない夏になると地質学の田中元之進先生の元で地質調査を手伝いました。

田中先生にはずいぶん可愛がっていただき、

ある日昼食をご一緒にしている時にいただいたお話は今も心に残っています。

「大村くん、どこの大学を出たとか、何を学んだとかいうことは、

世の中に出てあまり役に立たないものだよ。

1番大事なのは、卒業してから5年しっかり頑張ることだ。

そうすると何かを物にすることができる」

後でお話ししますが、

この助言によって私の人生は大きく開けていたのです。


(つづく)

(「致知」6月号 ノーベル賞生理学・医学賞受賞 大村 智さんより)
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