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ノーベル賞への道②

2016-12-07 15:50:33 | お話
根岸ノーベル賞②


(根岸先生は平成22年にノーベル化学賞受賞されましたが、

子供の頃からそういう道に行こうと思われていたのですか)

🔹いや、子供の頃はそう思っていませんでしたね。

私の父親は南満州鉄道関係の商社マンだった関係で、旧満州で生まれ育ちました。

8歳の頃に父親の転勤で朝鮮の京城(けいじょう)に移り住むと、
敗戦を迎えた時には、ちょうど10歳になっていました。

我々家族が幸運だったのは、

敗戦時に朝鮮半島の38度線以南にいたことで、

アメリカ軍の占領下だったことからほんとに平和でしたね。

一方、38度線以北はソ連軍に蹂躙され、まさに地獄ですよ。

日本に引き上げるまでは不安もありましたけど、

今思うと、幼少期に外地で過ごした期間は、

誰もが経験できるわけではないので貴重だったかな、という思いはありました。

それと私が5歳だった時のことですが、

2歳年上の姉に勉強を教えるために、日本人の先生が家庭教師として週に1度自宅に来ていましてね。

そんな時、私はいつも姉の後ろでじっと座っていて、

姉が先生の質問に詰まると、

代わりに私がポッと答えていました(笑)。

(小さい頃からよくお出来になったんですね)

🔹きっと姉は、いやらし弟だと思っていたでしょうが、

その先生が、母親に

「もうここまでできるのだから、私が何とかしますので、

来年、小学校に入れたらいかがですか」

と言ってくださったのがきっかけで、

普通の子供よりも1年早く小学校に入ることになったんですよ。

おそらくこういうことができたのは、満州だったからでしょう。

でもそのおかげで、まだ幼いながらも、

「俺はできるのかもしれない」

という自信を持つことはできましたね。

そのまま日本の中学も同じように1年早く入れたのですが、

高校に入る時になって初めて、

「1年歳が足りないから、入れるわけにはいかん」

とストップがかかった。

(どうされたのですか)

🔹その時は中学の先生方が、

「もしダメだったら中学に戻してもらってもいいですから、やらせてみてください」

と学校側と掛け合ってくださったんですよ。

結局、最後は高校の校長先生が神奈川県の教育委員会に電話をされたそうで、

「いいんじゃないですか。
全部の過程を通ってきているんですから」

ということで決着がつきました。

ただ、その反動と言うわけではありませんが、

高校1年生の時は遊んでばかりいました。

そしたら、1年の終わりにもらった通信簿には、「123」と書いてあった。

何かと思ったら、席次だったんですよ。

一学年約400人いるうちの123番目だと。

その時に思ったのは、

自分よりできるのは122人いるけど、あれだけ遊んでいても

自分よりできないのが300人くらいいるのか、ということでした。

私の通っていた県立湘南高校ではその当時、毎年40〜50人くらいは東京大学に進学していたんです。

だから自分も本気で勉強すれば、どうにかなるかもしれない。

そう思った時に、「よし、一発やってみるか」と。

(一念発起されたわけですね)

🔹ええ、湘南高校は高校では珍しく2学期制でして、

秋口に行われた期末試験のときには一気に9番になっていました(笑)。

(それはすごい)

🔹そして、その後は、ずっと1番のままで卒業し、
東大にも無事入学することができました。


(「致知」1月号 ノーベル賞受賞者 根岸英一さんより)
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