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幸山船長①

2017-04-19 15:06:52 | お話
🚢幸山船長🚢①


多分9月だったと思う、
私は「青べか」を漕いで、堀を東の浜へ出た。

その浜には前に書いた海水浴場があるし、

海へ出るまでの浅い水路は "ごかい" を捕る場所になっていた。

"ごかい" はもちろん魚を釣るのに使う餌で、浅瀬の砂の中に棲んでい、月に5回、「砂を抜けて海へ出る」という。

そのため "ごかい" というそうであるが、学問的に正しいかどうかは知らない。

それは夜半に始まるので、漁師や釣舟屋の船頭たちは、口の広い長さ1メートル半くらいの木綿の袋を持っていて、

穴からぬけて海へ出ようとする "ごかい" をその中へ流れ込むように仕掛けるのであった。


私が初めて東の浜に出たのは、 "ごかい" 捕りとは関係がない。

その浜には芦(あし)の畑があり、魚がよく釣れると聞いたからである。

芦の畑などというと不審に思われるかもしれないが、

実際に水際の広い地域に、幹の太さや葉の色などで個性をあらわした芦が、

たぶん、それぞれの用途によって区別されるのであろう。

稲や麦を作るように、規則正しく分類して育てられ、晩秋から冬にかけて順に刈り取られるのであった。

その芦畑あたりは、冬になると水鳥類のよい猟場になり、芦の茂っているうちは、縦横に通じている水路が魚の寄り場になる、といわれていた。

私は「青べか」をその水路の1つへ漕ぎ入れ、例のとおり漠然とした勘によって釣糸をおろした。

どれだけ収穫があったか、それとも1尾も釣れなかったか、私のノートにはなにも書いてない。

それよりも水路を釣り回っているうちに、私は17号の廃船と、幸山船長にめぐり会ったのである。

いつそんなところにいったかわからないが、

人の呼びかけ声に振り返って見ると、10メートルほどうしろの芦の中に、白く塗った一艘の蒸気船がもやってあり、

その "とも" のところに、1人の痩せた老人の立っているのが見えた。


「そんなとこじゃ釣れねえだよ」

と老人は特徴のあるしゃがれた声で云った、

「こっちへ来せえま、この船の上から釣ればいいだ」

私はへどもどとなにか答えながら、その老人のようすを観察した。

そこは水路のゆき止まりで、向こうに松並木のある岸が見え、

船はそちらを舳先にしてもやってあり、底が浅いため、岸に繋いだほうが高く、ぜんたいが艫(とも)のほうへかしいでいた。

老人の年はわからない、痩せたひょろ長い躯(からだ)に、両前ボタンの古ぼけた制服を着、かぶっている帽子には錆びて黒ずんだモールと、徽章(きしょう)がついていた。

通船の船長の正装であるが、上着から下は裸で、皺(しわ)くちゃになった渋色のパンツが見えていた。

顔は汐やけがして黒く、頬も眼もくぼんでいるが、

顎(あご)は逞しく張っており、

眩(まぶ)しそうに寄せた眉毛は灰色であった。

老人は私と話したいようすを示したが、私はなんとなくおちつかず、、

というのは、その芦畑の中に古い通船があることも、

その船にそんな老人がいることも、

少なからず非現実的なような感じがしたからであるが、、

またこの次に来よう、という意味の返事して、まもなく「青べか」を漕ぎ戻した。


それから2、3日経った或る夜、高品さんの家の炉端で、その老人の話をした。

「幸山船長ですよ」と高品さんが穏やかに笑いながら云った、

「息子もちゃんとしてるし、嫁に行った娘もいるんですがね、


ああやって独りぐらしをしているんです、

人嫌いでね、おかしなじいさんですよ」

幸山船長は東湾汽船に40年の余も務めた。

13か4で見習いになり、それから水夫、エンジナー、船長になったが、40余年のあいだ1度も事故を起こさなかったし、

その勤めぶりも模範的だったので、会社から幾たびか表彰された。

定年になったが、幸山さんは船からおりることを拒絶し、そのまま5年も舵輪(だりん)を放さなかった。


ここで、ちょっとブル船長のことを記しておこう。

ブルさんと仇名(あだな)される波木井船長は、東湾汽船の36号船の船長だが、定年が過ぎたのに頑として船をおりない。

彼は脂肉(あぶらにく)をぞんざいに寄せ集めたように肥えていて、

歩くと躯じゅうの肉がだぶだぶ波打って揺れる。

それも、いちようにではなく、胸のところはこちらへ、腹や腿の肉はこちらへというぐあいで、

見ているのが恥ずかしくなるほど歩きにくそうであり、
また必要のない限りほとんど歩くことはなかった。

顔もたっぷりと肥えていて、瞼(まぶた)が垂れさがっているため、眼は糸のように細く、視力も極度に衰えていた。

顎のところには厚い肉が襞(ひだ)をなしてたまり、首を曲げるとその肉襞がぐりぐりと動いた。

ブルさんとはその風貌ぜんだいをさした仇名であるが、

あまり似すぎているため、却(かえ)って興ざめなくらいであった。

そのブル船長の視力は、20メートル先もよく見えないというくらいだから、

自分の眼では舵輪を操ることができない。

そこで水夫の留さんが舳先に構えていて、

「おも舵」とか「ゴーヘー」とか、

「とり舵」とか「ゴースタン」などと、大きく手を振りながら叫び、

それによって船長は舵輪を廻し、

エンジナーへの合図の鐘を鳴らすのであった。

多少頭の温かいといわれている留さんには、それがなによりも誇りがましい任務だったろう、

彼は酒に酔ったりすると、しばしば得意げにこう云ったのである。

おらあがいねえば36号は "やみ" だ。

それでもなお船を降りないブルさんのように、幸山船長も頑強にねばった。

そして、幾たびめかの辞職勧告に、多額の退職金が示されると、

幸山船長は

「金は要らないが、17号を呉れるなら退職する」

と答えた。


17号はすでに廃船となっていて、徳行の岸繋がれていた。

いくらで払いさげるということにさえ、関心を持つ者がいなかったくらいなので、

幸山船長の交換条件は、こころよく受入れられたのであった。

そこで彼は、17号を東の浜まで曳いていってもらい、

現在の位置に繋留(けいりゅう)したうえ、

そこで自分ひとりの隠退生活を始めたのである。


幸山船長には息子と娘があり、息子はT物産に勤めていい月給を取っているし、

娘の嫁入った先もかなり裕福な商家で、どちらも父親を引取りたいと望んだ。

幸山船長の妻はずっとまえに病死したから、世間に対しても、父親をそんなふうにほったらかして置くわけにはいかなかったのだろう。

けれども、幸山船長は17号船から動かなかった。

浦粕の人たちに云わせると…

フジツボが、岩にひっ付いたみてえ、

だそうで、息子と娘とはやむなく、毎月の仕送りをすることで、各自の良心を慰めている、という話であった。

船乗りの船に対する執着と愛情については、

外国の小説などによく描かれているが、私はブルさんがいまなお見えない眼を剥(む)いて舵輪を放さないことや、

この幸山船長の話に、深い感動をおぼえた。


「あの17号は」

と私は訊(き)いた、

「老人がずっと乗っていた船なんですね」

「いや」

と高品さんは柔和に答えた、

「まだ水夫だったころに、4、5年乗っただけでしょう、

あれはもともと外輪船だったのを改装したもので、

廃船になるまえは荷物専用に使われていたそうですからね」

私はちょっと失望した。

高品さんの云うことが事実とすれば、その話のロマンティックな味わいは、ずっと減少するからである。

「それにしても」

私はまた訊いた、

「どうしてあんな人けのない芦畑の中でなんぞくららしているんですかね」

「さあね」

高品さんは炉べりでキセルをはたき(高品さん夫婦はどちらもキセルで刻みタバコを吸われた)新しく詰めたタバコに火をつけてから云った、

「いろいろな話があるけど、本当のとろこはわかりませんね、

なにしろ変わってるじいさんだから」


秋の末ごろになって、私は一夜その17号で幸山船長と語りあかした。

それまでは4、5回ばかり、「青べか」を漕いでそこへゆき、

船長と話したり、一度は船の上へあがってみたりした。

幸山船長の一日の大部分は、17号の清掃と機関を磨くことに費やされるようであった。

船体の白いペンキはいつも塗ったばかりのようにみえたし、

楕円形の船尾版にある(東・17号)という文字は、入念に描かれた青いペンキの唐草模様で囲まれていた。

蒸気の機関もつねに磨かれ、油を塗られているため、まるで新造船の機械のように光り輝いていた。

甲板にある船長の席はきれいに整頓され、

木工部の舵輪は飴色(あめいろ)に拭きこまれており、

機関部へ命令を伝える鐘や、それに付いている打金紐(うちがねひも)までが、

新品同様に保持されている、というぐあいであった。

…これらの事実は、高品さんの話と矛盾するように思われたので、念のため私はその点を訊いてみた。

幸山船長は徽章モールの付いた帽子を持った手でぼんのくぼを掻いた。


「そうさなぁ」

と幸山船長は考えぶかそうに、特徴のあるしゃがれ声で云った、

「そうさ、おらが乗ったのは19年の年の2月で、それからまる4年くらいだっけかね、まる4年とちょっとだと思うが、

詳しい月日は覚えてねえだよ」

それでは高品さんの云うおとりなので、
17号船そのものに特別の執心があるわけではないのだなぁ、

と私は思った。


たぶん、10月の中旬だったと思う。

月のいい晩で、風はないが気温は低かった。

釣舟宿「千本」の "倉なあこ" (倉のあにき)が、 "ごかい" を捕るところ見せるというので、

私は「青べか」を漕いでいっしょに東の浜へいった。

夜の10時ごろだろうか、堀が海へ出るところは浅瀬で、

左右の岸が、退き始めた汐の中で二条の砂嘴(さし)をなしている。

いってみると、そこにはもう集まってきたべか舟の灯が15、6も見え、すでに仕掛けを始めている者もあった。

私は "倉なあこ" のするのを見たが、前に記した袋の口の4カ所を、二本の女串(めぐし)に結びつけ、その女串を水の中の砂に立てる。

すると袋の口は、ほぼ四角形にあいて、下辺が砂地にぴったり着き、

穴をぬけた "ごかい" が流れて来れば、しぜんとその袋の中にはいる、

というわけであった。

"倉なあこ" は仕掛けをしながら、例のゆっくりした訥弁で、以上のことを説明してくれたのだが、

その説明が終わるのを待っていたように、誰かが私に呼びかけた。

振り返ってみると、反対側の砂嘴(さす)に、幸山船長がカンテラを持って立っていた。

「 "ごかい" 捕りかね」

と船長が云った。

私が答えると、船長は片手に持っている袋を、胸の高さまであげてみせた。

「今夜はぬけるのが早かっただ」

と幸山船長はしゃがれた声で云った、

「おらもう捕ったからけえるとこだよ」

それから人恋しげな口ぶりで、問いかけるように云った、

「いっしょに船へ来ねえかね」

私は "倉なあこ" を見たが、彼は黙って次の仕掛けをやっていた。

ちょっと迷ったが、人恋しげな船長の口ぶりは私をとらえてしまい、

それを振り切ることはできなかった。

私は "倉なあこ" に声をかけておいて、

船長のべか舟のあとから「青べか」を漕いでいった。


伸びるだけ伸び、茂るだけ茂った芦のあいだの水路は、月の光の陰になって昏く、

どこを曲がるのか順路がわからなかった。

しかし幸山船長にとってはぞうさもないことだったのだろう、

私のまだ知らないような、幾曲りかの細い水路をぬけて、

驚くほど短時間に、17号船へゆき着いた。


(つづく)

(「青べか物語」山本周五郎さんより)
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