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師と弟子④

2017-06-19 13:30:13 | お話
🌸師と弟子🌸④


🔸中西、さてここからは歴史上の人物にスポットを当てて師と弟子との関係を探ってみたいと思います。

最もポピュラーなものとしては、やはり吉田松陰とその弟子たちではないでしょうか。

🔹童門、そうですね。

🔸中西、吉田松陰が今の時代に、もし生きていたら、「師と弟子の関係についてどう思われますか」とぜひ聞いてみたいところですね。

松陰は「師と弟子」という括りで自分たちを捉えていなかったのではないか。

私は自分が教師として学生を指導する立場になって、そのように考えるようになりました。

教師も平場に下りて常に生徒と同じ視点に立って学ぼうとしたのではないかと。

🔹童門、そう、学友なんです。

先ほど僕は江戸時代の若者が師を求めて全国を旅したという話をしましたが、全国に散在する学者たちも、

「自分は師である。学問的にも人間的にも完璧である」

などという自信を持っていたわけではありません。

むしろ逆に

「人に教えるには、自分の学力や人格を磨かなくてはいけない」

という謙虚な気持ちを持っていました。

つまり、そこには「共に学ぶ」という共学の姿勢がありました。

師と弟子は学友の関係だったわけです。

🔸中西、師匠も弟子から学ぼうとするんですね。学ばなくては損だと。

🔹童門、実際、松陰は入塾者に対して、

「僕は決して君たちの師ではない。

共に学ぶ学友だ。

よろしく頼む」

と言っています。

これは単にいい格好しているわけではなく、

「いつになっても自分は修業者である」

と心からそう思ったからこそ口にできた言葉なんです。

そのことは松下村塾の教育方法によく表れています。

松下村塾は松陰の叔父である久保五郎左衛門が経営したいと頃は、読み書き算盤を教える実用塾でした。

そのために近隣の身分の低い武士の家族は、

「久保先生の塾で読み書きを覚えて、
少しでも萩のお城で出世できる人間に育ててほしい」

と期待を寄せていました。

今風に言えば、就職斡旋学校といったところでしょうか。

🔸中西、そうです。

🔹童門、ところが、久保からこの塾を譲り受けた松陰は、読み書き算盤などを全く教えない。

それよりも

「目を開けて世間をよく見よう。

毎日起こっている出来事をきちんと受け止めよ。

その出来事と政治の関わり合いを深く考えよう」

と説くんですね。

『松下村塾記』を読むと

「萩の東の外れにある松下村塾から長州藩を改革しよう。

長州藩の改革によって日本を改革しよう」

という意味のことを述べています。


松下村塾を就職斡旋学校と思っていた親からすれば、政治大学校になったのですから、泡食っちゃった。

松陰は危険な思想家だというので子弟を遠ざけてしまったことも確かです。

この頃の松陰にとって弟子たちは、何かを教える相手ではなく、

共に学び、共に行動する学友だったんです。


🔹童門、松陰が社会問題に強い関心を抱くようになったのは、

師である佐久間象山の影響でしょう。

象山が生まれた松代(長野市松代町)の象山神社にある石碑に、彼の考え方が刻まれています。

そこには、こんな言葉があるんです。

「私は松代人である。

しかし、地方人でありながら、日本国民であり、世界人でもある」。

これは、一村一品運動で知られる平松守彦・元大分県知事の説いたグローバリズムに通じるものがあります。

つまり、日本人は地方人であり日本国民であり国際人という3つの人格を持っている。

この感覚を忘れずに、いろいろな問題を捉えようという考え方ですね。

松陰が社会や自分を見つめる視点は、象山から教わったこの三つだと言ってもいいと思います。

松陰は全国を歩き回って得た内外の情報を『飛耳長目録(ひじちょうもくろく)』というメモ帳に記しました。

それを松下村塾の脇部屋の一角に置いて、門人たちはその中からテーマを選んで、

自分の考えを文章に纏め、それをもとに討論をしました。

松陰は自分は学友だと思ってますから、

「それでも結果が出なかった時は僕を呼びたまえ」

と言って一緒に討論を交わす。

これが松陰ならではの指導方法だったんです。


🔸中西、松陰は就職斡旋学校だった松下村塾を政治大学校に変えたというお話がありましたが、

ある意味で松陰はいわゆる「面倒見のいい師」では決してなかったとも言えますね。

これは今の大学も同じで、

就職の世話をしてくれる面倒見のいい先生の子ところに学生は集まりがちですが、

果たして、それは正解なのか、と思います。

その点、高坂先生が偉かったなぁと思うのは、

学者として高い評価を得ていても、

決して「学界のボス」にはなろうとせず、就職の世話などは全然してくれない。

だから、逆に言えば学閥をつくったり、教え子たちの人格支配したりということもありませんでした。

高坂先生が面倒見がよくなかった分、

私も30代後半まで就職には苦労しましたが、

しかし、いま考えると、あの時の努力がすべて自分の糧になっていると感じます。

その手の面倒を見ないことは、人を本当に導く上で、「究極の面倒見」ではないだろうかと、

松陰の姿勢を見てもそう感じますね。


(つづく)

(「致知」7月号、中西輝政さん童冬二さん対談より)
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