お寺さんぽ Ver.03

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戦功をあげる「高橋紹運」と婚約者 (岩屋城合戦・高橋紹運)3

2010年03月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)※写真」についてです。

永禄十年(1567)
父「吉弘鑑理(よしひろ・あきただ)」、”雷神”という異名をもつ「立花道雪(戸次鑑連)」らと共に、筑前を守り、筑後へ侵攻。
大友家りの勢力拡大に貢献していました。
しかし、お家再興を目指す「秋月種実」が古処山城を回復。
さらに、彼を支援する「毛利元就」は得意の調略によって、岩屋城の「高橋鑑種(たかはし・あきたね)」、立花城にあった「立花鑑載」らを離反させたのです。
この危機的状況で総大将へ任ぜられた「立花道雪」は、筑前・肥前を転戦して毛利勢を破るなど活躍し、九州からその脅威を完全に排除したのでした。

永禄十二年(1569)
毛利氏の撤退によって、岩屋城で粘っていた「高橋鑑種」もついに降伏・追放。
こうして空いた宝満・岩屋の両城は、なんと今回の主役「高橋紹運」に与えられたのです。
さらに、大蔵(おおくら)氏から続く名家・高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種(たかはし・しげたね)」となったのでした。
(※ややこしいですが、この直前まで「吉弘鎮種(よしひろ・しげたね)」という名乗りだったのですよ)
ちなみに、号の「紹運(じょううん)」を名乗るのは、天正七年(1579)のこと。

なお、この頃に「千熊丸」こと嫡男「高橋統虎」が誕生しました。
その統虎こそが、後に「豊臣秀吉」から鎮西一と評されることとなる、「立花宗茂」です。
(※誕生年は永禄十年(1567)ほか諸説あります)

…と、うっかり息子が誕生してしまいました。
その前に、紹運の結婚にはちょっとしたエピソードがあるので、ここで紹介します。

彼には、父の「吉弘鑑理(よしひろ・あきただ)」が勇将「斎藤鎮実(さいとう・しげざね)」とすすめた婚約者がいました。
鎮実の妹(娘?)「仁志姫(にしひめ)」との婚義は、各地を転戦していた紹運がため、延び延びになっていたのです。
ようやく落ち着いたある日、嫁にと申し出た紹運に意外な返答がありました。

その話はなかったことにしてほしい

なんと、彼が戦場で活躍していた間、「仁志姫」は痘瘡にかかっていたのです。

※痘瘡(とうそう):天然痘(てんねんとう)のこと。戦国時代は伝染力あり、死亡することもありました。有名なところでは、「伊達政宗」、「春日局」などがこの病にかかっています)

どうにか命だけは長らえたものの、姫の顔にはあばたが残ってしまったのでした。
鎮実が縁組を断わってきたのは、そのためだったのです。

しかし、当の紹運は…
斎藤家の祖先は大友家にて武勇のたくましい弓取りにごさりますれば、兄(父?)がそれがしの嫁にと約束したのです。
 それを辞退とは承知できませぬ。
 それがしは色を好む心で妻を迎えるのではありません


そう言って、構わず彼女を妻に迎えたのでした。
どこまで本当か分かりませんが、かっちょえーですね。
事実として、後に出家して「宋雲尼(そううんに)」と名乗る彼女との夫婦仲はいたって円満であったらしく、先の嫡男「立花宗茂」ほか二男四女をもうけているのです。

⇒ つづく。
 次回は「嫡男「立花宗茂」と気に入る道雪」(4/10)

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