ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

仙台藩伊達家歴代藩主の正室たち

2014年06月14日 19時18分56秒 | 仙台藩と伊達家のお話し
私たちが想像する藩主夫人の姿は、城中の奥深いところに居住し大勢の待女にかしづかれて暮らす高貴な婦人方というところではないだろうか。

当時の社会にあっては一般庶民から見れば、まさに雲の上の高貴な女性であった。
しかし、この高貴な婦人方は夫が支配する領国の城下町仙台を一度も見ることはなかった。
それは徳川幕府の方針で正夫人たちは勝手に江戸を離れることは厳しく禁止されていた。
そうでなくても藩主夫人である彼女らの姿など滅多に見られるものではなかったのです。

ここでは、初代藩主から13代藩主まで記載しました。 世継ぎや藩主又はその夫人たちの人生は順風満帆とはいかなかった。
現在のような医療が確立されていない江戸期の人々は、簡単に命を失ったようにも思えた。
家を継ぐ事がこれほどにも大変だったとは、自分も驚いた次第でした。


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①藩祖 政宗

愛姫(めごひめ)
藩祖政宗の正室である愛姫の場合はどうっだたのでしょう?
奥州三春城主従五位下大膳大夫人 田村清顕の娘で、天正七年(1579)十一月、十一歳で政宗の将来を見抜いて田村清顕が差し上げたいと申し入れて来たという。
華々しい行列などは無く、こっそりと人に知られないように迎えたというのが真実なのです。いわば人質として差し出されたともいえる。
実際に結婚式が行われたのは三年後の天正十年正月である。

会津黒川城に秀吉を出迎えた時のことだった。
「京の貴紳に交わり、大国の夫人としての教養をつまれよ」との秀吉の言葉に従って京都伏見に登った。(この時21歳です)
つまり人質として伏見桃山に連れていかれ夫人はこれ以後京都や江戸に住むことになり八十六歳の死を迎えるまで遂に領国である仙台に帰って来ることは無かった。

政宗の死後、尼となり松島瑞巌寺の雲居禅師に帰依して禅門の奥義を極める。
承応二年(1653)1月24日午前九時八十六歳の生涯を閉じた。

陽徳院御霊屋「寶華殿」と瑞巌寺庫裡~愛姫の霊屋


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②二代忠宗

慶長四年(1599)十二月八日大坂の屋敷で生まれる。(母:愛姫)

振姫(ふりひめ)

徳川二代将軍秀忠の養女。
実際は播磨宰相池田輝政の娘として慶長十二年(1607)四月二十一日 姫路に生まれた。
家康は慶長十六年(1611)四月に養女として迎え後忠宗に許嫁することにしていたが、元和二年(1616)四月に家康は亡くなったので、夫人は秀忠の養女となり、翌元和三年(1617)三月十三日忠宗に嫁いだ。 この時夫人は十一歳であった。
夫人は鍋姫、虎千代君、光宗君はという三人のお子を生んだが、鍋姫は五十八歳まで生存し虎千代君は七歳、光宗君は十九歳と二人の男子に早死にされた。
このため三代藩主は側室から生まれた、綱宗が継ぐ。
萬治二年(1659)二月五日五十三歳で没した。 仙台市孝勝寺に葬られた。


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③三代 綱宗

生母は貝姫。二代忠宗の側室で秀忠(将軍)の養女となっているが、実は櫛笥(くしげ)左中将藤原隆政の娘である。(公家出身)
貝姫は寛永十七年(1640)八月八日に仙台城で綱宗を出産。

三沢初子

綱宗に正夫人はいなかった。 事実上の夫人は、この三沢初子であり忠宗は子息綱宗とこの夫人を明暦元年(1655)正月に結婚させたという。
しかし、幕府への届け出や仙台藩伊達家の系図に記載がないようだ。
歌舞伎「伽羅先代萩」の中に幼君を守りぬく政岡という女性がいる。 そのモデルになったのが夫人である。
夫人は貞享三年(1866)二月四日四十六歳の生涯を終える。

政岡墓所:三沢初子の墓

上記の歌舞伎「伽羅先代萩」とは実際にあった寛文事件(通称:伊達騒動)を歌舞伎にしたもので有名です。この事件や伊達騒動については下記のページに纏めています。
伊達騒動:(寛文事件)と伽羅先代萩


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④四代 綱村(亀千代)

三沢初子は万治二年(1659)三月八日、午後二時頃に、江戸仙台藩邸で綱村を出産した。

仙姫

仙姫は四代藩主綱村の正夫人である。
幕府老中稲葉美濃守正則(相州 小田原城主 九万五千石)の娘で萬治二年(1659)三月一日に生まれた。
延宝元年(1673)十二月十五日、四代将軍家綱の命により、綱村と婚約した。
夫人も綱村もこの時、共に十五歳であった。
二人の婚儀はそれから四年後の延宝五年(1677)四月六日に行われている。
夫人は男子を含め三人のお子を生んだが、みな早死したので養子を迎えた。
それが五代藩主となる。


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⑤五代 吉村

四代夫人仙姫の養子として迎えられたのが伊達肥前宗房の長男であった村房である。
村房の父は綱宗の弟にあたる。
延宝八年(1680)六月二十八日に黒川郡宮床に生まれた。元禄八年(1695)十二月二十六日、綱村の後継者となり、翌二十七日に名を藤二郎と改めた。
時に十六歳である。正式に五代藩主となったのが元禄十六年(1703)八月二十五日で、翌二十六日に陸奥守に任じられた。

冬姫

五代藩主吉村の正夫人である。
内大臣通誠養女であるが、実際は通誠の兄で従三位権中納言通名人道知足静斉の二女で、母は静斉の側室松向栄珠院という。
元禄十五年(1702)四月二十八日に吉村のもとに嫁いできた。
夫人は時に十四歳、吉村は二十三歳であった。
八代将軍吉宗は吉村を高く評価したが夫人も「殊の外、人柄勝れ、女には珍敷」と賞揚したと言う。
借金で火の車にとなった藩の財政を建て直すなど、並の藩主ではなかった。
冬姫自身も夫に負けない位の賢夫人であった。

<女にはめずらしき>と吉宗が言っているのは、<女には珍しい位、気のしっかりした>という意味で、別の言葉でいえば<芯の通った気の強い>といえる。


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⑥六代 宗村

享保三年(1718)五月二十七日、冬姫は六人目にして始めて男子を出産。
通称を勝千代丸、初名を久村、後に総次郎、成人して六代藩主宗村となる。

利根姫

六代藩主宗村の正室である。
名は温子(はるこ)といい、八代将軍吉宗の養女となったが実は記伊大納言宗直の娘である。
初め峰姫とも称し享保二十年(1735)十一月二十八日に宗村と結婚した。夫人には二人の姫君が生まれた。
長女は松平信濃重茂に嫁いだが、もう一人は生まれて翌日死んでいる。
そして夫人自身もこの二人目の姫を生んだ約二週間後の延亨二年(1745)閏十二月十六日に二十九歳で亡くなっている。


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⑦七代 重村

寛保2年(1742)4月19日 西暦5月23日~寛政8年(1796)西暦5月27
重村の生母は、六代藩主宗村の側室で名を坂氏信子といい、夫人のお子は九人で側室達の中では最も多くのお子に恵まれた。
重村は宝暦6年(1756)七月九日に藩主となった。

惇姫(あつひめ)

惇姫は名を近衛氏年子(のぶこ)といい関白内前公の養女となっているが、実父は広幡大納言長忠である。
生家広幡家というのは、大政大臣以下大臣、大将となることのできる七清華家の一である。また夫人が養女となった近衛家は摂生関白となる王摂家の一つで宮中に於ける席の順位は将軍の上座である。したがって格式から言えば夫人の家格は夫の重村の仙台藩より、はるかに高いということになる。 夫人は宝暦十年(1760)正月二十五日、京を登って江戸に下り、二月二十一日、仙台藩芝口上屋敷(現在の浜離宮の北側)で婚礼が行われた。
この時、夫人は十六歳、重村は十九歳であった。夫人は三人の姫君を生んだが、世継ぎに恵まれなかった。



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⑧八代 斎村

斎村の生母は、徳川幕府の台所役をしていた、喜多山藤蔵美啓の長女で名を郷子といい、定とも称し、後に於寛の方と改めた。
安永三年(1774)十二月五日、江戸大崎の藩邸で斎村を生んでいる。
寛政二年(1790)六月二十三日に十六歳で藩主になったがそれから六年後の寛政八年(1811)八月十二日、帰国の途中白河で発した暑気あたりのため二十二歳で亡くなった。 (暑気あたり=今でいう熱中症みたいなものです)


興姫(おきひめ)

安永四年(1775)四月十六日、関白鷹司輔平の娘として生まれた。 名を誠子といい母は輔平の側室千歳の方である。
寛政五年(1793)四月十八日 斎村のもとに嫁いできた。
時に夫人は19歳であった。 三年後の寛政八年(1796)三月二日、夫人は長男 政千代を生んだが約一ヶ月後の四月十五日に産後の浮腫で亡くなった。
歴代藩主夫人の中で最も短命であった。夫人の生んだ政千代は後に九代藩主 周宗(ちかむね)となるが、この周宗も文政九年(1826)二月七日病気(疱瘡)のため藩主の地位を退き、その後を異母弟の徳三郎(後の十代藩主歳宗)に譲ったが、二ヶ月後の四月二十四日十七歳で死去している。


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⑨九代 周宗(ちかむね)

周宗は寛政八年(1796)三月二日に江戸仙台藩上屋敷で八代藩主 斎村とその正室興姫の長男として生まれた。
しかし、同年七月二日に父、斎村二十二歳で亡くなる。 このため二ヶ月後の九月二十九日に周宗は将軍家斉の命に依り、仙台藩九代藩主となった。

綾姫

命を長がらえていれば九代藩主の周宗の正室となった夫人。 寛政八年(1796)九月二十九日、十一代将軍家斉の命により、綾姫と周宗の婚約が成立した。
上記の通り周宗は、生まれて半年足らずであった。 しかし、2年後の寛政十年(1798)三月二十八日、午前十一時にこの綾姫は病気で亡くなってしまう。 なお周宗自身も文化九年(1812)四月二十四日午前一時に十七歳で死去している。



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⑩十代 斉宗(なりむね)

斉宗の生母は、八代斉村の側室で於信の方。 名を信といい幕府台所役人喜多山藤蔵・美昭の娘である。
寛政八年(1797)九月十五日、江戸大崎の藩邸で斉宗を生んだ。


鍇姫(かたひめ)

十代藩主斉宗の正室である。
紀伊大納言治実の娘として寛政七年(1795)に生まれた。文化十一年(1814)二月九日に斉宗のもとに嫁いでいる。時に二十歳であった。
ところが嫁いで六年後文政二年(1819)五月斉宗は仙台城で病気になり五月二十四日に二十四歳で亡くなってしまった。
しかし、斉村と夫人との間には子供は一人も生まれなかった。
夫の死から八年目の文政十年(1827)八月八日、夫人も三十三歳で没した。



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⑪十一代 斉義

上記の通り、三代藩主綱宗・九代藩主周宗・そして十一代斉義、この藩主達には夫人の名が無い。
つまり三人は正式な結婚をしていなかった。周宗と斉義は正式な結婚をする前に二人とも亡くなってしまったからです。


十代藩主斉宗の長女として文化十三年(1816)六月六日仙台城に生まれた芝姫がいる。
母は斉村の側室於留世の方である。

姫の名は蓁子(もとこ)といい、文政二年(1819)四月十九日斉宗の正室である鍇姫の養女となった。
当時藩主と側室との間に出来た子息や息女の間には、よくこのようなことが行われている。
十代藩主斉宗には寔丸君という男子が生まれているが、一ヶ月もたたずに亡くなった。
つまり養女にした芝姫しかいなくなったので世継ぎとして親類に当たる田村家(一関三万石。藩祖政宗の正室愛姫が自分の実家である田村家が絶えることを優い、お子である二代忠宗の子、宗良に継がせた)の左京大夫田村村資の三男である藤次郎を迎え、これを世継ぎとして娘である芝姫と結婚させた。 即ち藤次郎は斉義と改め文政二年(1819)七月十五日十一代将軍家斉の命により斉宗の世子となりその翌日十一代藩主となった。
ところが、婚約から一年十ヶ月後の文政十年(1827)十一月二十七日、夫人の婚約者斉義が三十歳で亡くなってしまった。
つまり正式な結婚はせず。正式に夫人とは言えないのである。



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⑫十二代 斉邦(なりくに)

登米伊達氏、伊達宗充(第五代藩主、伊達吉村の八男・伊達村良の子)の長男。母は片倉村典の娘。


綏姫(まさひめ)

名を伊達氏、徽(のり子)という。
十二代 斉邦の正室であり文政六年(1823)十一月二十二日仙台城で生まれた。
夫人の母は十一代藩主斉義の側室で於美屋の方である夫人は天保八年(1837)十二月五日に斉邦と結婚して、時に十五歳であった。
しかし、四年後の天保八年(1841)七月二十四日夫の斉邦が二十五歳で亡くなった。
夫人それから一ヶ月後八月二十日、髪をおとして仏門に入り栄心院と称した。 後に勁松院と改め文久元年(1861)五月十六日、三十九歳で亡くなった。


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⑬十三代 慶邦(よしくに)

父は、十一代斉義。 母は側室山本敬親の娘(敬親は秋田藩支藩岩崎藩家臣)
慶邦は二人の正夫人を持った。

綱姫(つなひめ)

近衛氏備子といい、内大臣近衛忠凞の養女で、実父は関白鷹司政凞、母はその側室玉川であった。
弘化元年(1844)4月5日慶邦のもとに嫁いできた。 時に夫人は夫人は十七歳、慶邦は二十歳であった。
しかし、それから八年後の嘉永五年(1852)正月二十一日、夫人は亡くなった。時に二十五歳であった。

短命から言えば八代斎村夫人興姫の二十二歳についで藩主夫人の中では二番目にはかない生涯であった。
備光院と号し仙台市大年寺に葬られている。

後夫人
八代姫(やよひめ)

名は徳川氏孝子で徳川御三家の一つ水戸中納言斉昭の娘として天保十二年(1841)二月十五日に生まれた。
夫人の生母は、斉昭の側室、北面越前守 松波光寧の娘で貞子といった。
綱姫が亡くなって四年後、安政三年(1886)四月九日後夫人として婚礼が行われた。
しかし、夫人も明治二年(1869)十一月十七日二十九歳で没した。
文靖夫人と称され仙台市小田原祥麟山に葬られた。


二人の夫人とも慶邦との間にお子が一人も出来なかった。



政宗の側室にかかわる記事に、「伊達政宗の資質と歴史の因果」もあります。

ホームページに「伊達政宗と仙台藩」があります。
こちらに纏めています。



参考文献:仙台藩 伊達家の女たち 安部宗男著




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2 コメント

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おばんです (ほでなすいっく)
2014-06-14 22:39:52
正直、政宗とお父さんの輝宗以外はよく分かりませんが

BSで再放送中の「独眼竜政宗」にハマっております
(放送当時は中学1年か2年でした)
愛姫役が桜田淳子なんだよねー
今見るとビミョー
ほでなすいっくさんへ (ひー)
2014-06-15 16:10:33
お久しぶりです。
大河ドラマの政宗は、全巻持ってます。
私的には愛姫=桜田淳子です。
やはり地元で名を残しているのは4代綱村までですね。
三代は直ぐ隠居させられましたから

江戸の後半になると仙台藩も財政難になってきます。
そこで下級武士は、内職をします。二十人町では、提灯を作ったり北仙台の北側辺りの堤町では焼き物やダルマを作ったようです。
確か?
藩主もその姫も若くして亡くなっていることが残ねんですね。

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