ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

鹽竈神社「秋」

2015年11月11日 20時46分02秒 | 塩竈の散歩道

いつも掲載が遅くなってしまい季節外れになってしまいますので今回は早めにUPします。
目的も無く、ふらりと出かけた鹽竈神社です。

鹽竈に関する記事は左のサイドバーにリンクしてありますがHPに纏めています。

古代朝廷が多賀城に国府を築きその鬼門にあたる北東5kmの位置がこの鹽竈神社になる。 しかし、私の考えではそれ以前からここに住む民の神があったはずだと考える。

境内には、『延喜式神名帳』に記載されている志波彦神社がある。 1874年(明治7)に現在の宮城野区岩切から遷宮されてきた。
明治ですから近年ですね。
そのため正式名称は「志波彦神社・鹽竈神社」である。 

鹽竈神社の創建年代は不明です。 延喜式式内社に入っていないのが不思議なのですが、「弘仁式主税式」1万束という最大級の祭祀料が記載され、また「延喜式主税式」にも同様に記載されている。

詳しくは、「しおがまの不思議1・2・3・4」に記載していますが、ここに全文記載したいと思います。


鹽竈神社、それは陸奥国一宮を名乗り、またその社も陸奥国最大のものでしょう。
古くから県内外に関わらず多くの崇敬を受けている神社でもあります。
平泉の藤原三代をはじめ、中世の武将や豪族などからも厚い信仰を受け、近世には仙台藩主伊達家の守護神として、藩をあげて信仰されてきた大社でもあるのです。
また、全国にはここを本社とする鹽竈神社が110社もあります。
そして陸奥国一宮としては鎌倉時代の文献に出てきており大社であることは明らかなのですが「祭神も起源もはっきりしていない」のが事実です。
さて、鹽竈神社を語るには蝦夷の時代まで遡らなくてはなりません。
原住民である所謂蝦夷の集団があってその中心となっていた神があったはずです。
「日本書紀」に齊明天皇五年正月の阿部比羅夫征伐の條に
「即似三船一隻與二五色総帛一祭二彼 地神一」とあり、ここに出てきた地神こそ蝦夷が崇拝していた神なのではないでしょうか。
原始的な信仰であれば、やはり自然崇拝であり、その中心となるものは山・川・湖・岩・石・太陽・海のようなものだったのでしょう。
ですから、当然最初は何の神と云うこともなく名前を持っていなかったのかも知れません。
(自分が一番興味があるのは、この時代の神の存在です。)
しかし、その神は大和朝廷の支配下になるとそこの移住民や朝廷までも崇拝するようになり、次第にその祭神が朝廷の神話に出てくる神々と置き換えられ考えられるようになってきたはずです。
それは大山祗神、高皇産靈神、大己貴神等と考えられ、または開発に関係の深い經津主神・武甕槌神或は日本武尊と考えるようになったのかも知れません。
この地に居住していた蝦夷なのか移住民なのかは別として、この地に何らかの形で神を祭っていたことは間違いないでしょう。
昔からあった民の神は他の社会と関係を持つことで、その土地に纏わる名前を持つようになります。
そこで、この神は塩竈の神とでも呼ばれることになったのでしょう?
中央の文化がこの地方に及ぶと塩竈の神が、日本神話に出てくる「鹽土翁」であると意識されてきます。
鹽土翁とは、鹽土神・鹽推神・鹽筒考翁とも称され「記紀」の山幸・海幸の物語に出て来て山幸彦を海神の宮に行くことを教えています。
海神の性格(潮流を司る神・航海の神)から考えられたのでしょう。
岐神(ふなどのかみ)は、舟戸神・久那戸神・(道祖神・ちまたのかみ)とも称され古事記・神代紀一書に伊弉諾尊がその境界として枝を投げて岐神としている。
古事記には伊弉諾尊が禊祓の際に、投げ棄てた杖から衝立舟戸神(つきたつふなどかみ)で脱ぎ棄てた褌(ふんどし)から道俣神(みちまたのかみ)が化生した。
つまり、分岐点に祀られる神の意です。
猿田彦と同神(日本書紀)と言われ、後に中国から伝来した道路の神である道祖神と集合した。
そこから、道祖神も猿田彦と同一視されるようになったと見られます。

神代紀の一書に經津主神、武甕槌神が平定に向かった際に高皇産靈神(タカムスビノカミ)のさとしにより、大己貴神(オオナムチ:大国主命)が岐神を二神に勧めて教道の神としている。
ここに、岐神と經槌主神、武甕槌神との関係が見えてきます 。

岐神と鹽土翁が同神のようにも見えるが岐神は境界に立っている神であり、道の分岐点を示す神です 。
共に道しるべの神であるところから教道の神となり。
この教道の神としての性格が、岐神と鹽土翁神が共通しているので両者が混同されてしまうのでしょう。

しかし、伝承の中には同一神とされているものもあるようです。
同一神だと面白くなるのが、岐神=久那戸神=猿田彦=道祖神の繋がりから
以前「古代出雲帝国」の記事で書いておりますが、出雲大社が杵築へ移る前までは熊野にあり、クナトノ大神を祀っています。

富氏の伝承には、この世界が一夜にして氷の山になった。
大先祖のクナトノ大神はその難を避けるため一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え海沿いを歩いた。
そして何代もかかってようやくたどり着いたのが出雲の地であった。
クナトノ大神は色々な知識を持ち鉄の採り方、布の織方、農耕の方法などを教えた。また途中の地である塩竈にて塩作りを教えています。
人々を導いて来たことを考えると猿田彦の性格と合致しますね。

出雲大社の御神体は釜でであり、鉄にも関わりがあります。
出雲神族の大先祖は「クナト(岐神)」の大首長だが、もう一つの女首長に「アラハバキ」があり体勢側により抹殺されようとした時、クナトは地蔵にアラハバキは弁財天へと変身した。と伝承しています。

塩竈神社は岐神との関係が明らかですから、クナトとアラハバキが一対のものと考えられているので、元々はアラハバキの様な所謂蝦夷の時代または縄文時代に存在していた神の祠があったのだと想像がつきます。
どこにあったのか? 実は先日写真を撮りに行ってきました。
ここではないか? と思われるところです。
それは、後程・・・・・
さて、戻ります。
経津主神 ・武甕槌神 ですが、共に武神の神とされていることから、なかなか征服されない陸奥国北部の蝦夷を征伐するため。
そして、朝廷側の武威を高める為に、鹿島・香取に祀られた神を取り入れたのでしょう。
また、この二社は中臣氏(藤原氏)の本拠地でありつまり伊達家の先祖に当たることから両神が祀られる大きな要因の一つだったのかも知れません。
経津主神 ・武甕槌神 と鹽土翁は鹽土翁が岐神 であるから、両神の教導の神という形で結びついたのです
猿田彦神すなわち岐神 と考えられた鼻節神社。
岐神 とされた志波彦神社等が元の神であり鹽竈神社がそこから移って来たといいます。

それでは延喜式についてですが、延喜式神名帳(全国に3132社)に鹽竈神社の名がありません。
この事について明確ではないのです。
つまり、式内社では無いのですが、これについて色々な仮説を述べているようです。
しかし、仮説は仮説ですから真実かどうかは何とも判断しがたいところです。

陸奥国には総社(奏社)という別の神社が多賀城にあります。
総社というのは国中の神を纏めて祀ったものです。
これは陸奥総社宮で説明していますが、簡単に言えば、多賀城の国府に国司として赴任して来た者は陸奥国にある神社をすべて回ることになっていますが、それは大変なことであり事実上不可能でもあります。
そこで平安中期になると総社のシステムが構築されていったのですね。
そこで東門の外側のすぐ側に総社宮を建立し、そこに百社もの神社を祀り国司は総社宮に参拝すればすべての神社を参拝したことになるのです。
いたって、合理的でありますね。
この総社についても異説がありますので後程記したいと思います。

鹽竈神社には国土開発、蝦夷征伐という意味で、そのような性格の神だけがここに総合されたのではないか?と市史では大きな意味で鹽竈神社も総社の一部で武神だけを鹽竈神社に祀り国府多賀城の付近にあったので大いに崇敬される大社になったのであろうとしています。
しかし、私が思うには香取・鹿島の神を持って来たのは伊達綱村の時代ですから国府との関わりはもっと違った意味なのでは?と考えます。

御由緒の中で一番強調されている謎は「延喜式」において「式内社」とされていないのに、弘仁11(820)に編纂された「弘仁式」主税帳逸文には「鹽竈神を祀る料壱萬束」とあり国料を賜っていることが謎の一つです。

ここで、くどいようですが延喜式について説明しておきます。

●弘仁式
701年から819年までの式を集めたもの40巻。

●貞観格式(じょうがんきゃくしき)
三代格式の一、格は820年(弘仁11)より868年(貞観10)までの詔勅官符を編纂、翌年完成。12巻
式は弘仁式の補遺として変更新設した条文だけを編纂、871年完成。20巻

まず、日本古代の法典と養考律令がありました。
これは藤原不比等が学者・渡来人と大宝律令の条文字句の修正を開始し養老2年(718)完成したが、公式史料は伝えるが疑問あり・・・・しかし、編纂事業はその後も継続した。
720年に不比等の死後中絶するが、757年に藤原仲麻呂が公布施行。
律10巻約500条は大半散逸、令10巻約1000条は大半存在。

この養老律令の施行細則を集大成した法典が延喜式で醍醐天皇の命により905年に完成した全50巻。
弘仁・貞観の二式と併合して取捨と改訂したもの延喜式は三代格式のうちほぼ完全な形残存する唯一のものです。

この内巻1~10の神祈官関係の式があり、巻9・10は神名帳となっていて神社の一覧表となっています。
延喜式神名帳に記載のある神社を一般に式内社と言われる社格とされ当時朝廷から重要視された神社である。
平たく云えば式内社は朝廷に認められた神社ということになりますね。
逆に云えば朝廷に都合のいい祭神を祀っている神社とも云えますが?
しかし、この鹽竈神社は式外社であるにも関わらず、国税が与えられているから不思議なのですね。

延喜式の主税式には

陸奥国正税   六十万三千束
公 廨     八十万三千七百十五束
国司料     六十四万千二百束
鎭官料     十六万二千五百十五束
祭鹽竈神料    一万束
国分寺料     四萬米
文殊會料     二千束
救急料     十二万束

※束とは頴稲(えいとう)の単位(刈り取った稲のこと)
1束=10把 1把=10刈   把とは片手で握るという意味

主税式において国料を賜っている神社は鹽竃神社の他に

伊豆国の三島神 二千束
出羽国の月山大物忌神の祭料 二千束
淡路国の大和国魂神の祭料 八百束があります。

三島神社は伊豆国の総社から発達した神で、月山・大物忌神(おおものいみのかみ)は、蝦夷征伐にて重要な関係のあった神とされ、大和国魂神も国土守護の神であった。

この四社だけが主税式に載せられている。

つまり、国料でまかなう必要があった神社を示しているのでしょう。
他の神社と比べるとかなり高額なのですが、国ごとの租税総額から見るとその割合は決して高くは無く平均的だと思います。


 国  名  祖稻総額    神社料   総額に対する比率
 陸奥国  1.582.715束  10.000束      0.6%
 伊豆国   179.000束   2.000束        1.1%
 出羽国     823.392束   2.000束        0.2%
 淡路国     126.800束    800束        0.6%

これを見ると、確かに鹽竈神社の祭料は多いのですが、割合を見ると0.6%で他国と比べると決して突出していませんね。
それでは前記しましたが、鹽竈神社の祭神の創設の時期については、古来より多くの説があり明確にすることは困難と言えます。
伊達家の崇敬が厚いことは、知られていますが特に四代綱村公の功績は大きく現在の社殿も綱村公から9年の歳月をかけ五代吉村公の宝永元年(1704)に竣工されたものです。

ところで現在の祭神ですが、伊達綱村はその祭神の一定せざるを嘆いて、元禄年間に儒馬遊佐好生等に命じて調査をさせた。とあります。
時の神祗管領吉田兼連と縁起を撰述し、その祭料を「左宮・武甕槌神、右宮・経津主神、別宮・岐神」と定め、一応「鹽竈神社 縁起」が成立した。

しかし、その後も異論はあり、縁起自身も問題で一応決定したに過ぎない。と市史には記述がある。
ところが今になってもその真実は不明のままで、現在の祭神が定着しているのが現実です。

さて、現在の祭神 に伊達綱村公が決めたのは前記しましたが、それ以前の中世~近世にかけて当時の人々はどのように考察し記録を残しているのでしょう。

宇比地邇神・須比智邇神
「鹽竈社考」(新井白石:「白石遺文」下)に二神始めて魚鹽の利を利し、以て民用をたらわす。
故に名付くとして「宇比地邇神・須比智邇神」を祭った。
ウヒチニノカミ・スヒチニノカミは、日本神話に登場する神で神代七代の三代目です。
宇比地邇が男神、須比智邇が女神で、日本書紀では陰陽の気が相交じって生まれたので男女一対になっています。
神代七代では二代目までは独神でしたが、三代のこの神から男女の対で現れます。
ただし、真の意味での夫婦神は七代のイザナギ・イザナミが最初となります。
この神は大地が泥や砂でやや形を表した状態を表現した神と考えられますが、具体的なエピソードは無く、祀られている神社は多くありません。

鹽竈六所大明神
祭神 一座、味耜高彦根命・「和漢字三才図会(正徳元年)」・吉野重泰の「式外神名帳」・古河古松軒の「東遊雑記」などがこの説にしたがっています。

また「封内名蹟志」では「多賀神社在、塩竈村 四座之一 今之塩竈一の宮也 郷説には浮島の明神也」

これは、鹽竈神社を多賀神社としていますね。
今の所多賀神社は突然文献から消え、現在多賀城廃寺跡の横に鎮座していますが、以前はどこにあったかわからないとしています。
封内名蹟志は仙台藩佐藤信要(さとうのぶあき)が1741年に21巻を編纂したもの。

塩竈明神(塩竈大明神)の説ですが、平家物語にこんな話があります。
これは、あこやの松の伝説が元になっています。
この話は知っていました。
何故かと云いますと旅行会社時代、ここを通るとガイドさんが話してくれていたからです。
山形自動車道を山形蔵王ICで降り286号を山形に向かうと左側に千歳山が見えてきます。
つまり笹谷峠を越えて山形に入ってからです。

阿古耶の松と阿古耶姫の伝説です。
阿古耶姫は信夫群司中納言藤原豊充の娘と伝え、千歳山の古松の精と契りを結んだが、その古松は名取川の橋材として伐されてしまったので姫は嘆き悲しみ仏門に入り山の頂上に松を植えて弔ったのが後に阿古耶の松と称された。

平安物語 巻二 「阿古屋之松」

※備前・備中の話から例え話で出羽と陸奥国の話が出てくる・・・・
流罪になった大納言成親(なりちか)卿とその椅子でである丹波の将軍成経(なりつね)にまつわる話。

かつて藤原実方が陸奥(みちのく)の阿古屋の松のありかを尋ねた時には出羽国は陸奥国から分かれていたが元は一国であった。
備前、備中も元は一国であったから十二~三日もかかるはずがない。
これはきっと父の居所を知らせまいと思ってわざとでたらめを言っているのに違いないと思い父の事は何も尋ねなかった。というのがその段のあらすじです。

阿古屋の松に関わる部分・・・・

あづまに聞ゆる出羽陸奥両国も昔は六十六郡が一国にてありけるを、其の時十二郡をさきわかって、出羽国とはたてられたり。
さらば実方中将、奥州へながされたりける時、此国の名所にあこやの松と云所を見ばやとて、国のうちを尋ねありきけるが、尋ねかねて帰りける道に老翁の一人逢いたりければ「やや御辺(ごへん)は、ふるい人とこそ見奉れ。当国の名所にあこやの松と云所やしりたる」ととふに、「またく当国のうちには候はず。出羽国にや候らん」
「さては御辺しらざりけり、世はすえになって名所をもはやよびうしなひたるにこそ」とてむなしく過ぎんとしければ、老翁中将の神をひかへて「あれは君はみちのくのあこや屋の松に木がくれていづべき月のいでもやらぬかといふ歌の心をもつて当国の名所あこやの松とは仰せられ候か、それは両国が一国なりし時読待る歌也。十二郡をさきわかって後は、出羽国にや候らん」と申しければ、実方中将も出羽国に越えてこそ阿古屋の松をば見たりけれ。とあります。注目すべき所は、老翁ですね。
実方中将にあこやの松のありかを教えたのは老翁ですが、実は塩竈明神(塩竈大明神)の化身であったといいます。

平家物語の異本とも言われた、源平盛哀記の中に
「彼老翁ト云ケルハ、塩竈大明神トゾ聞エシ。加様二名所ヲバ注シテ進セタレ共。 赦免ハナカリケリ。」とあります。
平安末期又は鎌倉時代には、「塩竈大明神」と呼ばれていたことがわかります。
鎌倉初期の建暦二年(1212)から建保三年(1225)の間に成る説話集の古事談にも同じような話が見られるようです。

江戸時代に鹽竃神社の縁起に継承されたとしている「春日権験記」「余目記録」は以下のように表している。
「春日権現霊験記繪」延慶二年(1309)
藤原氏の氏神として、興福寺と一体となって政治的・文化的両面での大きな影響力をもった春日大社の効験を集成した絵巻物である。
成立は鎌倉時代後期の1309(延慶2)年、絵師は高階隆兼と、成立年代や絵師の具体的な名までが判明している数少ない例で、歴史的資料としても注目されている。

昔我朝、悪鬼邪神あけくれたたかひて、都鄙やすらかざりしかば、武甕槌命、是をあはれみて、陸奥国塩竈浦をあまくだり給。
邪神霊威におそれたてまつりて、或はにげさり、或はしたがひててまつる。そののち常陸国跡の社より鹿島に遷らせ給、~つまり~ 塩竈の浦にあまくだった神は常陸鹿島の祭神、武甕槌命であるとしている。宮内庁

「余目記録」 永正十一年 (1514)
これは、鎌倉・室町時代に奥州留守職であった伊沢家の正史です。
いまだ年号がはじまざる時に候。しほがまの大明神 仁王十四代仲哀天皇御孫、花園新少将が・・・・
あまり意味がないので割愛・・・
つまり、仲哀天皇の御孫が塩竈の明神として現れた・・と言うもの。

老翁と云う人物の姿はどこにでも見えますが、つまり名前が無いわけで、話のこじ付けでどのようにも変化してしまうということですね。

こうして大雑把に見ていても。文献に出てくるのは平安末期~鎌倉以降ですね。
しかたがないことだと思います。
多賀城に国府が築かれますと平安の都から国司達が赴任してまいります。
その時この社(やしろ)のことや文化に触れたのでしょう。
その風景やみちのくの魅力はその者達によって都人に知られることになったのでしょう。
その中に豊富な金や馬・漆などを欲しがる者もいたのでしょう。
国府軍は、戦って奪おうとアテルイを初め平泉の安倍貞任・宗任または奥州藤原との戦い起こったのです。
彼らは俘囚と呼ばれ、つまり朝廷に逆らう蝦夷のことですね。

七曲坂 この坂こそ最古の参道とされています。

昔の所謂鹽竈神社に参拝する道はここだけだったのです。

表参道の長い階段も、女坂と呼ばれる裏参道も近世代の参道と云うことになりますね。

この神社の記録が無いのですから当然その形成も不鮮明ではありますが、神社の創建と同時期の奈良時代頃と推測されています。
私の考えでは、鹽竈神社として考えれば奈良かも知れませんが、それ以前の古代から神聖な聖域として何らかの古代の神が祀られていたのでしょう。
下記に示す地図からも七曲坂しか鹽竈神社への道はありません。

この参道の下は、江尻と呼ばれ古代中世にかけて海が入り込み、入江の最奥部をなしていたことから江尻と呼ばれたようです。

古くはこの辺りまで船が入り込み停泊していたことでしょう。
ここから南の丘を登る道は、古代多賀城(国府)への古道ですが、国府:多賀城からの道順は、多賀城から香津(国府津ー古代市街地/第一小学校周辺)へ至る東海道を鳥居原(古代の市場/塩釜高校校庭)で江尻へ下り、入江となっていた祓川(はらいがわ)を舟で渡りこの坂への道筋になっていた。

祓川には鎌倉時代に「御臺の橋(おだいのはし)」架けられ、江戸時代には橋板の間から水面が見える透かし橋造りで、一般の人馬の通行は禁じられていました。
祓川は現在道路の下に埋められています。

またここから、地図に見れる上野原(古代の野菜採取場)や利府春日、松島方面へ通じる重要な生活道路ともなっていたようです。
それから、この坂下の四方石(よもせき)辺りは道を作る際に排出した土砂を用いて海面を埋め立て造成されたもので、神社創設以来の神官阿部家が江戸時代初期まで約一千年間屋敷を構え参道口を守っていたと伝えられています。
一千年も同じ地に居たら親戚も増えるでしょう。
阿部家がこの街に多いのもうなづけますね。

享保十六年(1731)から近年までは、御神輿の帰る道筋となっていたようです。

平安末から鎌倉初期

※図


国府津を抜け国府多賀城への道 

※図

地図にある母子石は以前記事にしております。母子石の伝説

古代の塩竈地方

※図

塩竈浦

※図      ※図やこの後の写真は 「しおがまさまの不思議3」をご覧ください

こんな感じですが、地元の人なら大体わかりますね。
さて、現在の江尻・・つまり七曲坂の入口のところです。

しるべの石 「奥塩地名集」では塩竈九名石の一つになっています。
東 なゝまがり水戸
南 御だい乃はし
北 なゝまがり坂
西 御古しかけ石 と刻まれています。

ここが塩竈の中心地だったのかも知れませんね。

突き当たりを左に曲がると七曲坂です。
今は、道路になっていますが、この道の下に祓川が流れていたのです。
完全に塞がれたのは最近のことです。 以前は一方通行で今の半分が道路で半分が川でした。

おさんこ茶屋です。地元では有名。

七曲坂の入口の横に四方跡公園ですが、鹽竈神社の左宮一禰宜であった阿部安太夫家が約千年もの間存続した場所とされています。
ここに塩土老翁神が座って休まれたと云われる「おこしかけの石」があると言い伝えられてきました。

江戸時代の古文書には「影向石(ようこうせき)」や「神憩石(しんけいせき)」とみられます。

この猿田彦の石碑の前にある六角形石がそれであると云われていますが、異説ではこの下に大きな石が埋まっているというせつもあります。
でも、この地は道を作る時に出た土で埋め立てした土地ですから、その後に塩土老翁神が現れるのは時代が食い違います。
神社が出来てから神が来るのは変ですよね。
やはり、鎌倉~江戸時期に考えられた話なのかも知れません。
他にも石碑があります。

この後は写真が多いので原本のページをご覧ください。

しおがまさまの不思議4



















































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先日退院いたしましたぁ (酔漢です)
2015-11-14 09:10:06
ご無沙汰いたしておりました。なんとか退院いたしました。
しばらくは自宅療養となります。(暇?です(^_^;)
さて、秋の様子を病室から眺めてばかりで季節を実感する間もなく過ぎていきました。
鹽竈様の様子。ありがとうございます。
さて、途中頓挫しました自分の「塩竃巡り」をそろそろ復活させていこうかと思ってます。
それにいたしましても、読み応えたっぷりの内容ですね。
勉強になりました。
また、よろしく願いいたします。
酔漢さんへ (ひー)
2015-11-15 11:54:25
退院おめでとうございます。
メールもできないし、郵便で返信するしかないな!なんて考えているうちに日にちが経ってしまったようですね。
ゆっくりできましたかね?? 自分も長く休んだことがありましたが、こんな時は開き直ってのんびりするしかないんですよ。
真面目な人が陥る現象だと思います。開き直って?と思いながら職場のことを考えてしまうんですよね。
実は、上司がいないと下のものは成長するものです。
かつての職場でも長期に休んでしまった時に社長が私にいいました。大変だったけど部下たちは色々と仕事を覚えて成長したよ。って!
地元に戻ってちょっと頑張り過ぎたのかもしれませんね。 私やグズラ君と酒でも飲んでストレス発散しましょう。 

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