ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

片倉家廟所

2008年10月18日 16時34分00秒 | 仙台藩と伊達家のお話し
戦いが終わって穏やかになった日本は、元和となり景綱は59歳でこの世を去った。
数名の家臣も殉死を遂げたといいます。

その後、片倉家は《1代景綱ー2代重長ー3代景長》と続き、伊達騒動の時には、3代景長が4代藩主、伊達綱村をよく補佐したとききます。

片倉家代々が「伊達の功臣」と言われる由縁なのです。

明治維新の頃、新政府軍に反抗したため賊軍となった伊達家は所領を大幅に削減され、また片倉家も所領を失い、片倉家中は北海道に開拓団として移り住み、その移住地が札幌市白石区です。

※2代景綱は後に重長と改名し、その才能と武勇は父、景綱に勝るとも劣らなかった。



マイクロバスが街を巡ってくれます。どこで間違ったかモノクロになってました。



           
奥羽越列藩同盟の軍旗です。この白石城で列藩会議が行われました。
人形は、白石のキャラクターこじゅうろう君です。(写真はほでなすいっくさんからジッテきました。















長々とお付き合いありがとうございました。 
そろそろ現代に戻りたいと思います。
後は、小出しに触れて行きたいと思います。
今、伊達騒動について、振り返り勉強中です。いずれまた・・・
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16 コメント

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白石市民の心意気 (ぐずら)
2008-10-18 18:22:08
片倉家では、北海道に入植する費用に当てるために城を陸軍省に売却、
所管が大蔵省に移った明治7年には民間に払い下げられ、
その後お城は解体されてしまったんだと・・・
それからおよそ120年たった平成7年、
市民の念願かなって天守三階櫓と大手門の再建がなった!
それも、ぜんぶ昔からの工法で・・・
いい話じゃないの
ぐずらさんへ (ひー)
2008-10-18 19:12:01
それに比べ仙台は…大手門再建なるかと思いきや、今は手が加えられなくなったんですよね。
情けない!
維持困難で城を解体したのも如何かと。残念でなりませぬ。
こじゅうろうくん遂に登場 (ほでなすいっく)
2008-10-18 20:18:33
白石城は再建になったのに、青葉城は石垣だけってつまんないね

お城は他に名古屋城と弘前城に行った事があるよ
名古屋城のでかさにビックリ


いっくさんへ (ひー)
2008-10-18 21:19:55
どうもう~
チョコっと使わしてもらいました。
弘前城も確か櫓(やぐら)だったと思いますよ。
仙台は天守閣を持ちませんから、瑞巌寺を大きくした感じです。
でも、もったいなかったですね。
今作れば、何十億かかりますよ。
ジッテきました (あーさん)
2008-10-18 21:21:42
って、ガメて来たという意味ですか?


しかし白石区とはっ!
あーさんへ (ひー)
2008-10-18 21:49:05
そうそう
がめてきたとゆうことです。www
Unknown (桃源児)
2008-10-18 22:46:48
モノクロ写真も味わいがありますね。
こじゅうろう君、彦根のひこにゃんにも似ているような。
桃源児さんへ (ひー)
2008-10-18 23:34:03
やはり…
私もそう思いました。
薩長は今でも仇敵じゃー (クロンシュタット)
2008-10-19 06:20:36
札幌市白石区も成実の末裔の入植地の伊達市も、本家よりも大きな自治体になっていますね。
確か、亘理町と伊達市の交流が、現在でも盛んであると記憶しています。
ご維新の際の「外様の蝦夷地入植」では、仙台藩の実例は、数少ない成功例でしたからね。

「賊軍」と区分されても、奥州諸藩は時代の流れに疎く、ただの「反薩長」でしかなかったのにねー。
会津藩なんかは「勤皇」の権化の藩であったのに、まったく薩長の横暴には怒り心頭です。
斗南藩の地の下北半島北端を歩き回ったことがありますが、恐山を筆頭に奥州の怨嗟の情念が満ちているようで、びびりまくりでした。
クロンシュタットさんへ (ひー)
2008-10-19 06:41:50
斗南に行った会津藩の人達は大変だったことでしょう。
あそこの卑は、会津を向き、その台座の石垣は鶴ヶ城の石を使ったとか…
蝦夷地に開拓で入った伊達家とその人々の苦労も察するおもいです。
先日テレビで伊達市の伊達家の当主がでてましたよ。
お疲れさまでした。 (ミモザ)
2008-10-19 07:38:54
お早う御座います~♪
ひーさんのお陰で伊達家と片倉家の深い結び
つきが、よく分かりました
私も白石城に行っていますのに、歴史よりは
景色ばかり見ていたようです。
歴史を知る事の楽しさが、すこしづつ分かってきたような
こじゅうろう君よりこけし人形可愛くないです
ミモザさんへ (ひー)
2008-10-19 09:38:39
私も、政宗と初代小十郎の関係はわずかながら知っていましたが、あーさんへの記事で伊達家・片倉家の2代3代の事は知らず勉強した次第です。
政宗にしか興味が無かったのですよ。
お陰で勉強になりました。
瓦~ (維真尽(^^))
2008-10-19 23:08:25
1150度~
一般瓦より~かなり高いですね (^^)v
釉は~なんじゃろ? 
維真尽さんへ (ひー)
2008-10-20 07:48:08
美濃の耐寒燻し瓦しか書いてませんね。
鶴ヶ城は赤瓦にするとか。。。
調べておきます。
小十郎が功臣なのは・・・ (丹治)
2008-11-04 09:05:40
片倉小十郎・・・もちろん初代の小十郎です。尽きることを知らぬ智謀と年長者の分別でよく主君を補佐しました。しかし小十郎が伊達家の功臣である最大の理由は、「田村領をつかわす」という秀吉の誘いを断ったことではないでしょうか。

一代で身を起した秀吉には、当然のことながら譜代の家臣がいませんでした。それで自らの股肱の臣を作るべく、他家からの引抜をやったと言われていますが・・・

大名家に楔を打込む、という狙いもあったのではないでしょうか。天下統一を意識した辺りからは特に。

徳川家の石川一正は酒井某(下の名前を失念)三河の半分を束ねる重臣でした。徳川家が従来の軍制を改めて武田式にしたのは、御家の事情を知る重臣が秀吉に奔ったからだといわれています。

また上杉家の直江兼続ですが、米沢三十万石は秀吉から直にもらったものでした。直江の場合は上杉家の家臣に留まったものの、秀吉から知行を得たとなればその意向は無視できません。

島津家の場合も、対豊臣政権の窓口になったのは、義久ではなくて弟の義弘でした。関ヶ原合戦の際には、国元で有力家臣の叛乱事件を抱えていたとはいえ、前線にいる義弘の増援要請に本国の義久は消極的だったといいます。

この二つの例を見ても、自分の言うことを聞く者を作って大名家を牽制するという秀吉の意図は明らかだと思います。

陪臣が直参に取立てられるのですから、ひとかどの武士にとってこれほどおいしい話はありません。しかし小十郎には、秀吉の意図が見え透いていたのでしょうね。

己の立身を省みず、主家の分裂を回避した。これこそ小十郎が名臣・忠臣たる所以と、最近思うようになりました。
丹治さんへ (ひー)
2008-11-04 10:20:51
仰る通り通りですね。
小十郎の判断に拍手を送りたくなります。
政宗との絆の深さを感じます。
結構、政宗をサポートしつつ忠告をしている話しを目にします。
ここでもう少し書きたかったのですが、長くなるので止めました。
伊達成実も豊臣に声をかけられたと読んだことがあります。
丹治さん詳しいですね~ また色々教えて下さい。

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