ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

瑞鳳殿

2013年06月20日 22時50分23秒 | 仙台藩と伊達家のお話し
2008年に4話に分けていた「瑞鳳殿」を写真を差し替え一つにまとめました。


仙台市青葉区霊屋下にある瑞鳳殿に行って来ました。 この住所の霊屋(おたまや)もやはり、

ここに廟所があるからですね。



石造りの階段は。戦災をのがれ藩政時代からのもので、杉並木は樹齢370年余のものもあるそうです。


石段の途中には昔の「お手水」の跡地がありました。昔はここで身を清めたのでしょう。
そしてこの石段は、伊達家62万石を表したものと言われます。

それは石段の数です。坂道を登りつめ、8段の石段を上がると3段にわたる石畳の踊り場に至ります。
左の緩やかな石段は62段になっています。

石畳も隙間無く敷き詰められ当時の石工技巧は見事なものです。

この石段の踊り場又は石段の幅が広いのは、お参りに来る女性が、着物の裾の乱れを整えるとか・・・?



現在の手水は、もちろん龍!


涅槃門(ねはんもん)



内側から・・・











瑞鳳殿
1636年(寛永13年)70歳で生涯を閉じ翌年に、ここ経ヶ峰に造営されたのです。 実は、政宗がここに建てろと言い残した理由、幼名を梵天丸とした理由、政宗出生の秘密がここに繋がるのです。
それは、ここに記載しました。
伊達政宗公誕生秘話 その2
昭和6年に国宝に指定されましたが、昭和20年の戦災で消失、昭和54年に再建、
平成13年に改修が行われ、創建当時の姿に甦りました。

それでは、桃山様式の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築を御覧下さい。















2代藩主・伊達忠宗公/3代藩主・伊達綱宗公の霊屋を見て見ましょう。

杉木立をぬけると、すぐ見えて来ました。




感仙殿

階段を上り門をくぐると、最初に見えてきたのは、

感仙殿(かんせんでん) 『2代藩主・伊達忠宗公』(1599~1658)でした。











この感仙殿も瑞鳳殿と同様、華麗なもので、戦災で焼失する前は国宝でした。


善応殿
善応殿(ぜんのうでん) 『3代藩主・伊達綱宗公』 (1640~1711)









初代政宗公から三代綱宗公までの御廟所を見ていただ来ましたが、よく見比べていただきたいところがあります。

大きく違う点が一箇所あります。


瑞鳳殿 仙台藩主 伊達政宗


感仙殿 二代藩主 伊達忠宗


善応殿 三代藩主 伊達綱宗


この三つの廟所で一つだけ、大きな違いがあったのが、お分かりになりましたか

藩祖 伊達政宗公と二代藩主 忠宗公の廟所には天女が彫られていますが、

三代綱宗公には鳳凰の絵らしきものが、描かれています。

何故、綱宗公には女性の彫り物や絵が描かれていないのでしょう。

何故、わずか2年間で隠居しなければならなかったのか

その辺の話しを出来るだけ簡単に説明したいと思います。

仙台藩の正史治家記録には、『公、故(ゆえ)アリテ御逼塞』とだけあります。

逼塞(ひっそく)=落ちぶれて忍びかくろること 又は 江戸時代に士分および僧侶に科した刑。今回の場合は隠居を命ぜられた事を示すのでしょう

つまり理由は記されていなかったようです。

パンフレットにも『故ありて……』としか書いていません。

しかし、『徳川実記』には

「日頃、酒色にふけり家臣の諌をも用いない、すなわち乱行。

悪行が逼塞の原因であった」というのです。

乱行ということの中に悪所通い、つまり遊女屋に通ったということです。

これは、江戸城の外濠に当たる小石川掘の工事を依頼され、江戸に滞在していた時の話しです。

幕府の老中や藩の重臣の間では綱宗を隠退させよう相談が進められていた。といいます。

それは、その風聞が概に世上にも知れ渡っていたので

公儀からのお咎(とが)めがないうちに隠居願いを差し出したのです。

いずれにせよ、綱宗の個人的な不行跡、乱行が逼塞を受けた原因であったと指摘しています。

綱宗は21歳で隠居をさせられて

4代藩主には、わずか2歳の亀千代(綱村)が就任したのです。

そこで、大叔父の伊達兵部宗勝が後見役として家老の原田甲斐とともに実権を握った。

しかし、これに(保守派)伊達安芸宗茂らが反発する。

そして、伊達騒動(寛文事件)へのはじまりとなるのです。

これは、黒田騒動・加賀騒動とともに、三大お家騒動の一つです。

伊達騒動については、いずれ記したいのですが、まとめるのが大変そうです。

この事件は歌舞伎・浄瑠璃・芝居・講談等の好材料となり『伽羅(めいぼく)先代萩』として脚色され、幼君を毒殺から守る【御殿】の場が有名です。

長々と退屈な話しを読んで下さって、ありとうございました。


追伸:そういうわけで、三代目は女性関係でクビになったので、天女の絵は無かったたのかと思います。 
それで四代藩主・綱村は仙台にあった遊郭を全部塩竃へ移したそうです。

今でも、その名残のある建物が残っています。

当時の殿方は三里も一里と胸を弾ませ、塩釜に通ったのですね。

民謡(塩釜甚句)は、その様子を歌った唄だと聴いたことがあります。

ローカルな話ですみません。   でも地元の人にとっては興味深い話かと・・・・。


伊達騒動(寛文事件)については、こちらに纏めました。


伊達騒動と寛文事件







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2 コメント

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いや~ (維真尽(^^♪)
2013-06-23 19:02:17
立派な建物ですね! (^^♪
 
やはり~
権力も
落ち着いてくると
堕落?するということですか?
維真尽さんへ (ひー)
2013-06-23 23:16:06
ここには三代までの廟所ですが、それ以降のお墓は伊達家の墓地として、近くにあります。
戦国時代が終って安定期になると、ここにはありませんが四代綱村公が力を発揮し色々な所に名を残しています。
幕末になると藩の財政が厳しくなりますが、これは何処のお国もそうだったでしょう。
戊辰戦争で廃藩となりますが、それまで伊達家は安泰でしたね。
現在の当主は、18代目になりますね。

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