ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

蝦夷とは何か???

2015年05月31日 17時18分56秒 | みちのく文化研究&歴史
土偶


蝦夷を簡単に説明はできない、時代背景による呼ばれかたや何をもって蝦夷になるのか不明な部分もあります。
日本古代史において大問題であり未解決なのです。

蝦夷(エミシ)とアイヌは基本的に分けて考えるべきだと考えています。

さて、ここに「蝦夷」と表記していますが、皆さんは何とお読みしたでしょう。

何度も私の記事の中で記載していますが、蝦夷は国家側が東北地方の住民に対する呼称として使用した言葉であり文字です。 東北地方住民の自称ではありません。
 
一般的に東北地方の住民と考えますが、北に追いやられた感もありますね。
坂上田村麻呂を調べていると蝦夷とのかかわりが見えてきます。

延暦十年(791)田村麻呂は34歳の春、このころ何人かの子がいた。
一月十八日、田村麻呂は、正五位上百済王俊哲とともに東海道諸国に派遣されることになる。
同時に従五位下藤真鷲が東山道諸国へ遣わされた。

その使命は以上二道の諸国の「軍士を簡閲し兼ねて戎具(じゅうぐ:武器類)を検(けみ)する。
ことであった。(「続日本紀」)
何のため?と言えば蝦夷を征伐するためでした。
やはり、広い範囲に蝦夷の存在を確認できます。東海道から東山道は滋賀県から関東・東北にかけてですね。

蝦夷は広範囲に居たことがわかりますね。
朝廷(政権)による圧力や強制的な移住もあったようです。
この時田村麻呂は征夷副使となった。
いよいよ桓武朝二度目の蝦夷征伐の開始である。
これよりのちも田村麻呂は十数年にわたり、蝦夷問題にかかわっていくことになるのです。

蝦夷ですが、古くは「毛人」と使用された。
大化改新以降は「蝦夷」であった。
音読みでは「カイ」であるが、現在そう訓む人はまずない。
「エゾ」と訓むのが一般てきであろう。
しかし蝦夷は、どう訓もうとしても「エゾ」とは訓めない。

「エゾ」の用例で現在知られる限りの初例では、長承(ちょうしょう)元年(232)の藤原顕輔の
     
        浅ましや千島のえぞのつくるなる
          とくき(毒木)のや(矢)こそひまはもるなれ


がもっとも古く(「左京大夫顕輔集」)

久安六年(250)の尾張守親隆(藤原)朝臣の秋の歌に
       
        えそかすむつかろの野への萩盛
           こやにしききのたてるなる覧


がそれにつぐ例とされる。 しかし、この「えそ(えぞ)」が直ちに漢字の蝦夷の訓みである証拠にはならない。
 千島や「つかろ」=津軽の住民を「えそ(えぞ)」と呼んだ初例である。
以後、和歌に「えぞ」は、歌い込まれるようになり、いつしか、古くから東北地方住民への呼称「蝦夷」が「エゾ」と訓まれるようになったのであろう。
それ以前には「エミシ」・「エミス」・「エビス」などと訓まれていたのである。

七世紀前半の人である大臣蘇我蝦夷(「日本書紀」)は有名であるが、この名は毛人(えみし)(「上宮聖徳法王帝説」)とも記される。

「日本書紀」の注釈書で鎌倉時代末期に成立した「釈日本紀」の「秘訓四」に「蝦夷」を「養老説、衣比須」(原文)として奈良時代初期に「エビス」と訓んだとしている。

「蝦夷」を「エミシ」訓む方が古いとされている。

「蝦夷「毛人」という人名の使用も奈良時代から平安時代初期あたりまえまでは、みられるが次第に廃れ、「エビス」ももっぱら東国の人をさすようになる。

「蝦夷とはなにか」という問いのもっとも根本的な関心は人種問題ともいえよう。
つまり蝦夷は日本人かアイヌ人かという疑問でである。
従来、明治、大正、昭和の初めにかけて 蝦夷=アイヌ説が支配的であった。

その後、考古学、文献史学の研究の進展とともに、蝦夷=アイヌ説にとってかわって登場してくるのが、蝦夷=辺民説である。

蝦夷をことさら異民族、異人種とみる必要はない。
ようするに、東北地方、当時の辺境に住む人間をいうに過ぎない。とする説である。

それを蝦、蝦(えび)=海老のように腰が曲がった醜い野蛮人=夷(い)としたのは、彼らが国家に対し容易に服属しない「まつろわぬ民」であったからとする。
つまり、蝦夷=日本人である。

現在こうした考えに対し、歴史学研究の発展はなお疑問を投げていわば、ネオアイヌ説ともいうべき説が浮上してくる。
その根拠とされるところは
①東北地方に残るアイヌ語地名の分布。
特に東北地方の北半に集中している。 東側は、宮城県北部、西側は秋田、山形の県境あたり。
この事実をどのように解釈するかということであり、結局ある時期まで東北地方の北半には、アイヌ語を使用する人間の移住を広く認めなければならなくなるはずである。

②考古学上からの北海道特有の土器が東北地方北半に存在することの確認である。
東北地方にもともと古墳分布の上からも鳴瀬・江合川流域(宮城県北部)から最上川流域(山形県北部)を結ぶ線の南北では五世紀頃から文化の面で異質と目されていた。

その北側に北海道特有とされる後北C式とか北大式の土器が出土するというのである。
それはアイヌ語地名は色濃く残る地域と重なるともいうことができる。
こうした事実からするとある時期においては蝦夷には、アイヌが含まれていたとせざるをえなくなるのではないだろうか。


土師器と後北式土器


後北式土器


北大式土器


後北式土器

時代は下るが「日本後紀」の延暦十八年(799)二月二十一日条は注目に価する。
それは陸奥の国新田郡(宮城県北部)の百姓弓削部虎麻呂(ひゃくせいゆげべのとらまろ)とその妻、丈部小広刀自女(はせつかべのこひろとじめ) 二人を九州の日向の国(宮崎県)へ流配に処したとするが、その理由として二人は「久しく賊地に住み、能(よ)く夷語を習ひ、しばしば謾語(まんご=作り話)を以て夷俘の心を騒動す」からであったというのである。

この時点でいうところの賊地とは、岩手県内とみて間違いないのであろう。
夷語とは蝦夷語のことであろうが、これは何語なのであろうか。
これを東北方言と解する考え方もある。
しかし、宮城県北部の新田郡を本貫(本籍)とす二人が通常使用するのは、その土地の言葉、東北方言であったはずであり、それがより北方の賊地に住みわざわざ「能く夷語を習い」というのであるから、この夷語は東北方言ではありえず別の言葉であったとするのが自然ではないだろうか。
となると東北方言、日本語とは別の語、アイヌ語しか考えつかないであろう。

後世、元慶二年(878)、出羽の国秋田でおこった。
夷俘反乱にさいし、鎮守将軍に抜擢された小野春風(おののはるかぜ)は「小にしtれ辺塞に遊び、能く夷語をさとる」(藤原保則伝)と言われた。
釈語(おさ)人、通訳の存在も知られる。
「続日本紀」養老六年(722)四月十六日条に「陸奥の蝦夷、大隅、薩摩の隼人(はやと)等を征伐せし将軍已下、及び有功の蝦夷、并に訳語人に勲位を受けること、各々差有り」とみえている。
この資料では訳語人は蝦夷のそれか、隼人の場合もか必ずしも明白ではない・


九州南部の場合、「奄美訳語」存在は知られる(「延喜式」)
東北でも訳語人について元慶五年(881)に「陸奥蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野に外従五位下を授く」とあり(「三代実録」五月三日条)、また「延喜式」にも伝わる(「大蔵省式」蕃客に賜ふ例」)

東北地方の北部には奈良時代から平安時代に入ってもアイヌ語を使用する人が移住していたことは確かというべきではないかと考える。

奈良時代に入ると「俘囚」(ふしゅう)(「続日本紀」神亀二年閏一月四日条初見)とか
「帰降夷俘」(きこうのいふ)(同上、天平字二年六月十一日条初見)という用語が正史で使用されてくる。

蝦夷という用語は、複雑な内容をもっていて一筋縄ではいかないようだ。

参考文献:坂上田村麻呂 著者:高橋崇
写真引用:古代北方世界に生きた人々/考古学からの挑戦

私的には、蝦夷(えみし)は現日本人であり、北方や南方から多くの移民が考えられる。
倭・大和朝廷ができた頃には、中国貴族の帰化も増えますます。 混血もかなり進んでしまったようです。 DNAの観点から本も読みましたが、これも分類が多岐にわたり一口には言えないようです。

こんな記事も書いています。

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6 コメント

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赤蝦夷。 (綱永井寵生)
2015-06-06 15:39:10
樺太はその昔、北蝦夷と呼ばれていた様です。
そして樺太には赤蝦夷なる者達もいた。この赤蝦夷はご想像の通り白人です。ロシア人になります。

縄文時代、人口が一時急激に減って弥生時代に入ってから今日まで日本人は増えて来てます。
縄文人の遺伝子の割合は東北が75%。琉球は95%。関東から西は弥生人の遺伝子が65%を占めます。
関東以南の縄文式土器は東北に比べ少ない。貝塚を調べても関東以南は大変貧しい食生活だった事が分かっています。
これらはどうも火山の噴火が大きく関わっている可能性が高いと思われます。火山の噴火で縄文人が激減したと考えられます。

塩竃神社の地主神は志波彦神とされる阿須波神と私は考えています。蝦夷のモレの一族が信仰していたと思われます。
そして大和側の兵士は恭順を示していた鹿島付近の蝦夷が多数いた。鹿島の地主神も「鹿島立つ」の謂れとされ、鹿島から旅立った神・阿須波神です。

蝦夷征伐は荒蝦夷対熟蝦夷の戦いだったことは、伊達綱村の研究グループが塩竃神社で示しているのかも知れません。
綱永井寵生さんへ (ひー)
2015-06-08 21:12:19
混血の発生が一番多いのは、やはり中央部つまり大和朝廷と大陸との関係でしょうね。
縄文や蝦夷も時代背景によって複雑に変わっていったのでしょうね。
蝦夷には蝦夷をもって制した、有名な戦いは前九年・後三年の役でしょう。
国府軍は藤原氏に太刀打ちできませんでした。そこで出羽(秋田)の清原氏(蝦夷)を手勢に迎えたのですね。
さて、阿須波神・・これから勉強したいと思います。ご指導ください。
綱村が鹽竈神社の神が定まっていないことに思案し現在の神々を決めたと記憶しております。
そこを研究したグループならおよその考え方がわかるでしょうね。
真実が知りたいですね。
まだ、はまってます。 (だいきょう)
2015-09-10 22:49:37
お久しぶりです!
コメントしていない間も、ずっと記事を読ませていただいてました。ひーさんの記事は、すごく読みやすく、知らないことがたくさん書いてあり、勉強になります!
本当に、私も近ごろまつろわぬ人びとが自分の祖先だったんだよな~なんて、中央に対してかなり悔しく思っています。
先日、また、2回目の多賀城跡、次に堀田柵跡、秋田城跡、大湯ストーンサークルと巡り、縄文人(東北人の祖先)に思いを馳せました!
出会ったボランティアの方々も、最初は通り一辺倒の説明しかしませんが、ちょっと話込むと
すぐに東北が中央から受けたことを自分たちのことのように話てくれました。
口が重いのも、今も昔も同じなのかな?
それはそれで、誇りです。
だいきょうさんへ (ひー)
2015-09-14 21:04:41
お久しぶりです。
蝦夷と中央政権の関係など、知れば知るほど現在東北に住んでいる私の心の中では、侵略してきた大和に敵対心を感じるのです。昔はそうでは無かったのですが・・・・
しかし、自分の血の中のDNAがどうなのかは?自分にもわかりませんがね。
ボランティアで説明している方々は、やはり歴史好きなので、最初はマニュアル通りの説明ですが、こちらも歴史に関心があることがわかればどんどん話します。
多賀城でもこれは・・・・ですよね?なんて話したら、良くご存知ですね~で喜んで話してきます。
出しゃばらない心は、今も昔も変わらないのですよ。
しゃべらなくても、分かり合えるものなのです。
べんきょうになります。 (りひと)
2016-05-11 23:01:29
小野毛人という方を調べたりしましたが、蝦夷の言葉を理解した通訳的に間に挟まった氏族だったのかもしれませんね。
奈良の勉強をしていますが、その中でも青森北海道との交流の可能性も少しでていました。また南朝の支援や援助や伝説信仰なども東北北部にもあるようですから大昔からの交流があったと考えた方がスムーズですよね。そう関東はまだ生活するには良い場所ではなく東北北部から北海道はとても気になりますよ。2496
りひとさんへ (ひー)
2016-05-12 12:24:37
まだ自分も詳しくないのですが、やはり文献の無い時代の歴史は考古学と民俗学とを考慮しながら想像しなくてはいけないんでしょうね。
自分も本からの抜萃が基本ですからね。
また新しい情報があったら記載したいと思います。

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