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芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

掌説うためいろ 本郷すれちがい坂

2015年09月30日 | エッセイ
 昔の人はよく歩いた。交通機関が無かったからだと言えばにべもない。住まいからかなり離れたあちこちの寺社へのお参りも、気楽に頻繁に出かけている。ろくに娯楽もなかったからだと言えば身も蓋もない。暇ばかりがあったからだと言えば取り付く島もない。
 みな粗食であったが実に健脚だったのである。明治になって陸蒸気が走り、人力車が行き交い、鉄道馬車が敷かれ、鉄道の敷設が進み、人々は便利になったが、時間に追い回されるようにもなった。それでも明治人は実によく歩いている。散策好きでもあったのだ。
 夏目漱石もよく歩いた。学生時代から馴染んだ本郷界隈は眼をつぶっても歩ける程である。彼の散策は一に健康のためと、一に思索のためである。漱石は胃弱と神経衰弱に悩まされていた。医者があれこれ薬や摂生を勧めても生返事ばかりであった。しかし家に出入りの寺田寅彦が言うことには、「うん、そうしよう」と機嫌良く相槌をうった。寅彦が勧めたのはほかでもない。
「先生、できるだけ歩くことですよ。散策がよかろうと思います。気散じになりますし、よい考えも浮かび、食欲も進むはずです」
と言ったのである。

 漱石は散策の道すがら、何度か森鴎外とすれちがっている。お互い、その顔を見知っているが、立ち止まることもなく、誰も気づかぬほどの軽い会釈を交わすのみである。この日も、二人はそのようにしてすれちがった。
 鴎外は常日頃から軍人らしい厳粛な面立ちである。なかなか声を掛けにくい。なに、声を掛けにくい仏頂面なら漱石も負けてはいない。何しろ胃痛と神経衰弱でいつも不機嫌なのである。漱石は文学者としての鴎外を常に意識し、尊敬もしていたが、彼は偉い陸軍軍医総監、陸軍省医務局長でもあった。
 漱石は軍人も兵隊も戦争も嫌いなのである。何しろ若い頃、徴兵免れのため北海道の浅岡家に移籍して分家届けを出したほどだ。もちろん北海道には渡ったこともない。日露戦争の際、日本中が熱に浮かされたようになった。当然とも言え、やむを得ないとも言えるだろう。しかし漱石は「滅ぶね」と吐き捨てるように言った。日本が滅ぶというのである。

 その日、鴎外は外出先から団子坂の家に急いでいた。佐佐木信綱から訪ねたいという手紙をもらっていたからである。鴎外が日露戦後の奉天から帰国して日もない肌寒い時節であった。
 佐佐木信綱は明治五年、本居宣長の強い影響を受けた国学と歌学の盛んな三重県鈴鹿の歌詠みの家に生まれた。父は佐々木弘綱である。弘綱四十三歳の時に、初めて授かった待望の子であった。弘綱は信綱が四歳になるやならずの頃から、万葉集や古今、新古今などの暗唱と歌道を叩き込んだ。信綱十一歳のとき、弘綱は一家をあげて東京に移り住んだ。自ら天才教育をほどこした信綱を世に問うためである。信綱は十二歳にして「文章作例集」を上梓し、翌年帝大の古典科に入学し十七歳で卒業した。
 弘綱の門弟に小山作之助がいた。小山は文久三年、新潟県大潟町の生まれである。文部省音楽取調掛を経て東京音楽学校の助教授、教授となった。彼は芝唱歌会で十五歳の滝廉太郎の東京音楽学校受験を指導し、その才能に最初に気づき、最年少の仮入学に尽力した。
 その小山が助教授の時、まだ二十四歳の信綱に、「国民唱歌集」のための曲を作ったので日本風の歌詞を書いて欲しいと依頼した。明治二十九年のことである。無論、信綱は喜んで作詞を引き受けた。こうして名歌「夏は来ぬ」が生まれた。
 
      卯の花の匂ふ垣根に
      時鳥(ほととぎす)はやも来鳴きて
      忍び音もらす 夏は来ぬ

      五月雨の注ぐ山田に
      早乙女が裳裾ぬらして
      玉苗植うる 夏は来ぬ

      橘の薫る軒端の
      窓近く螢飛びかひ
      怠り諫むる 夏は来ぬ
      
      楝(おうち)散る川辺の宿の
      門遠く水鶏(くいな)声して
      夕月涼しき 夏は来ぬ

      さつきやみ螢飛びかひ
      水鶏鳴き卯の花咲きて
      早苗植えわたす 夏は来ぬ
 
 鴎外や幸田露伴、斉藤緑雨が「めさまし草」を創刊したのは、信綱が「夏は来ぬ」を書いた年である。信綱は「めさまし草」投稿者の常連となって、以来鴎外らと親交を深めた。
 ちなみに「めさまし草」は鴎外や露伴、緑雨の合評「三人冗語」を載せた。ここで鴎外等は無名の樋口一葉を絶賛したが、惜しくも、彼女はそれからほどなくして亡くなってしまったのである。
 本郷の路地坂で、小柄な樋口一葉(奈津)が鴎外や漱石、信綱等とすれちがったこともあっただろう。奈津は春日、伝通院前の安藤坂にあった中島歌子の歌塾「萩の舎」に通っていたこともあった。良家の令嬢ばかりが集まったこの歌塾では、奈津ばかりが貧しく、地味な古着姿で座っていたのだ。奈津は内向し、「ものつつみの君」とからかわれていた。「ものづつみ」とは〈物慎み〉で、控えめで遠慮がちという意味である。しかし信綱が、一葉、田辺龍子、伊藤夏子を萩の舎の三才媛と呼んだほど、彼女の才能はひときわ光っていたのである。

 信綱も鴎外邸を訪ねる道すがら漱石を見かけた。信綱は「あ」と声をあげて会釈したのだが、漱石は不機嫌そうに何やら思案顔で、俯いたまま彼に気づかずに通り過ぎて行った。
 信綱は鴎外に
「ついさっき、夏目漱石さんとすれちがいましたが、こちらには気づかず行ってしまいました」
と笑った。
「私も見かけました。何か新しい小説のことでも考えながら歩いておられたのでしょう」
と鴎外も言った。
 その日の信綱の用件は、文部省の「尋常小学校読本」用の唱歌「水師営の会見」の作詞に当たり、乃木希典将軍に面会したいので、鴎外に口添えの紹介状を書いて欲しいというものであった。鴎外は了解した。すでに信綱の詞はほぼできあがっていたのだが、彼はいくつかの点を直接将軍に確認したかったのだ。
 こうして信綱は鴎外の名刺と紹介状を持ち、閑寂な木造洋館の小邸を訪い、名高い乃木将軍に会う機会を得た。将軍は信綱から用件を聞くと「面映ゆい」と言って黙ってしまった。信綱は寡黙な彼から、苦労して水師営会見の話を聞き取った。
 後、信綱はできあがった詞「水師営の会見」を持参して、再び乃木邸を訪ねた。詞を一読した将軍は
「確かに…拝読しました」
と言ったきり、何も言わなかった。不安になった信綱が
「いかがでしょう」
と尋ねると、将軍は
「うむ」
と言ったきり黙したままであった。普段から物音一つしない乃木邸は、ますます気まずいまでに静まりかえった。信綱は将軍がこの詞に不満なのだと思った。
 その年の六月「水師営の会見」は「尋常小学校読本(五年)」に掲載された。

 …駿河台から冷たい北風が吹いてきた。漱石は冬の街をぶらぶらと歩いて、春日通りに面した本郷中央会堂の前に出た。美しく壮大な木造チャーチである。当時、本格的にコンサートができるホールは、鹿鳴館と東京音楽学校の奏楽堂と、この中央会堂しかなかった。最もコンサートが行われたのはこの中央会堂である。ここでは伊藤博文の演説会や、野口英世らの講演会なども数多く開催されている。
 漱石は以前この会堂で開催された慈善音楽会に行ったことがある。別に「耶蘇教」に関心があったわけではない。たまたま鏡子夫人に誘われて同道しただけである。鏡子夫人も親しい知人に誘われただけであった。そこでパイプオルガンの演奏を聴いた。確かに美しく荘厳な調べではあった。演奏していたのは細身で小柄な男である。漱石には彼の小さな背中しか見えなかった。その後も散策がてら、何度か中央会堂の前に立ち止まって、中から聞こえてくるオルガンの演奏や賛美歌に耳を傾けたことがある。…あいにくその日は何も聞こえてこなかった。漱石は所在なげに鉄柵にもたれ掛かったり、掲示されている説教文を読んだりした。読み終わって
「ふん」
と言った。
 漱石が中央会堂の慈善音楽会に行ったらしいことは、彼の「琴のそら音」の中で触れられている。幻想的な幽霊話である。

 漱石が聴いた本郷中央会堂のオルガンの演奏者は岡野貞一といった。この中央会堂は明治二十三年に開設されたが、すぐ焼失し、結城無二三らの熱心な奔走で再建された。この中央会堂の初代のオルガン弾きはエドワード・ガントレットである。ガントレットは明治二十三年にイギリスから聖歌隊長として来日し、二十五年に再建されたばかりの中央会堂で最初にパイプオルガンを弾いた。彼は山田耕筰の姉の恒子と結婚し、耕筰にもオルガンの演奏を手ほどきしている。
 明治三十三年、ガントレットは岡山の教会に赴任することになった。後任の演奏家を誰にするか、ガントレットや牧師たちは決めかねていた。そのとき熱心な信者の一人だった岡野が、自らオルガン演奏と賛美歌の歌唱指導を買って出たのである。買って出たと言っても実に慎ましい申し出であった。
「もし私でよろしけれは…」
と言うのである。「そう言えば…」とガントレットや牧師等は、岡野が東京音楽学校で「先生をしている…らしい」ことを思い出した。 
 岡野はオルガンの前に座って弾き始めた。それは見事な演奏であった。牧師は感動し、ガントレットもぜひ岡野に後を託したいと興奮気味であった。岡野は
「はい」
と小さく言って頷き、静かに微笑んだ。聞けば岡野にオルガンを教授したのは、日本の先駆的オルガニストの島崎赤太郎であった。島崎の名を聞いて、ガントレットは岡野の腕前にますます納得した。
 以来岡野は昭和十六年にその生涯を閉じるまで、およそ四十年間に渡って、本郷中央会堂のオルガン弾きを務めた。しかし教会に通うほとんどの信者たちは、岡野が東京音楽学校の教授だったことも、誰もが知っている唱歌「故郷」「朧月夜」「春が来た」「日の丸の旗」「春の小川」「桃太郎」の作曲家だったことも、全く知らなかったのである。岡野貞一の子息ですら、「もみじ」が自分の父が作曲したことを知らなかったほどである。岡野は実に寡黙で、自らを語ることの少ない、物慎ましき人だったのである。

 さて、本郷中央会堂の前に立った夏目漱石のことである。
「前に立って、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往ったり来たりした。」
 三四郎は美禰子を訪ねたが会堂(チャーチ)に行って留守であった。その場所を聞き、会堂の前で美禰子が出てくるのを待つことにした。三四郎は「新しい女」美禰子に翻弄され続け、手も足も出ないのである。忽然と会堂の戸が開いて中から人が出て「天国から浮世に帰る。」…冷える時節である。出てきた美禰子はいかにも寒そうな仕草を見せた。
 美禰子は「往来の忙しさに、始めて気が付いた様に顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の眼に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。」…そして美禰子は「われは我が咎を知る。我が罪は我が前にあり」と言った。三四郎と美禰子は中央会堂の前で、このようにして別れるのである。漱石は、このようにして〈迷羊=ストレイ・シープ〉「三四郎」の恋を終わらせたのである。漱石が「三四郎」を発表したのは明治四十一年であった。

 この年は戊辰詔書が発表され、あらためて国家主義と忠君愛国が全面に打ち出された。佐佐木信綱が作詞した「水師営の会見」は、文部省尋常小学校唱歌作曲委員の岡野貞一によって曲を付けられ、明治四十三年の「尋常小学校唱歌」に掲載された。

    旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
    乃木大将と会見の 所は何処水師営

    庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木 弾丸あともいちじるく
    くづれ残れる民屋に 今ぞ相見る二将軍

    乃木大将はおごそかに 御めぐみ深き大君の
    大みことのり伝ふれば 彼畏みて謝しまつる

    昨日の敵は今日の友 語る言葉もうちとけて
    我は称へつ彼の防備 彼は称へつ我が武勇

    かたち正して言ひ出ぬ この方面の戦闘に
    二子を失ひ給ひつる 閣下の心如何にぞと

    二人の我が子をそれぞれに 死所を得たると喜べり
    これぞ武門の面目と 大将答へ力あり

    両将昼食をともにして 尚も尽きせぬ物語
    我に愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし

    厚意謝するに余りあり 軍のおきてに従ひて
    他日吾が手に受領せば 永くいたはり養はん

    さらばと握手ねんごろに 別れて行くや右左
    砲音絶へし砲台に ひらめき立てり日の御旗

 いくつかの余談を書き留めたい。
 鴎外はその本郷の住まいを「観潮楼」と名付けていた。書斎から品川沖が望めたからである。明治四十年、彼は自邸で観潮楼歌会を始めた。何かと対立していた与謝野鉄幹らの「新詩社」系と正岡子規系の「根岸」派の融和のための歌会である。鉄幹や伊藤左千夫、上田敏、平野万里、木下杢太郎、佐佐木信綱、斎藤茂吉らが参加した。やがて北原白秋、吉井勇、石川啄木等も顔を出すようになった。
 明治四十一年、本郷西方町一番地の家に、魯迅ら仲間五人が暮らし始めている。彼らはこの共同の家を伍舎と名付けた。この家は漱石がロンドン留学前に住んでいた家である。漱石と魯迅も本郷のどこかですれちがっていたに違いない。
 岡野貞一が演奏し夏目漱石が聴いた本郷中央会堂のパイプオルガンは、当初、西洋の賽銭箱と間違えられ、お賽銭を投げる人が後を絶たなかったそうである。 
 そして本郷中央会堂の初代牧師・結城無二三のことである。無二三は近藤勇と親しく、彼の客士として行動を共にし、伊東甲子太郎らを叩っ斬り、鳥羽伏見戦に参加し、甲陽鎮撫隊として戦った男であった。敗走後はまさに波瀾万丈である。故郷の山梨に帰り開拓民となるが、病に倒れて漢訳の聖書に接した。メソジスト会のカナダ人宣教師イビィから受洗し、山梨で伝道活動に入った。彼はイビィの本郷中央会堂の設立の計画を聞くと、上京してこれを助け、初代牧師となったのである。
 結城無二三の名は坂本龍馬暗殺に於いても頻出する。龍馬を斬ったとされる見廻組の今井信郎の談によれば、無二三は竹刀を持った稽古ではからきし弱いが、真剣を握ると誰も敵わぬほどの恐ろしい使い手に変じたという。無二三を見ていると日頃の剣術の鍛錬が馬鹿らしくなった、と今井は言ったらしい。
 無二三は教会の維持のため下宿屋を経営した。牧師を辞したあと癌に冒されたが、その痛みを全く顔に出すことなく、平然として逝ったという。
 本郷中央会堂の建物は、東京に最も早く入ったパイプオルガンと共に、大正十二年の関東大震災で焼尽した。山葉製の小さなオルガンだけは外に運び出され、被災を免れたそうである。現在の教会はその後の昭和四年に再建されたものである。
 ちなみに滝廉太郎の恩師で「夏は来ぬ」の作曲家・小山作之助は、山葉楽器の顧問も務めた。山葉楽器は無論現在のヤマハである。


         
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天才

2015年09月30日 | コラム
 鈴木一朗はドラフト4位でオリックスブルーウェーブに入団した。彼の獲得を狙っていたのはオリックスだけだった。高校時代は三塁手と投手で、三年間の通算打率が5割超、盗塁130超、球速は140キロ台半ばであった。それらを考えれば低すぎる評価に思える。身長は180センチあったが見た目に線が細く、非力に思われたのだろう。
 球団は彼を打者として採用した。独特の癖のあるフォームながら打撃センスは良く、バットコントロールも巧みだった。しかし土井正三監督や山内一弘打撃コーチ等は正統な打撃理論でフォームを改造させようとした。一朗はそれを受け入れず、自身のフォームに固執した。一朗は一軍に定着できず、主に二軍で過ごした。次の年も一軍に定着できなかったが、二軍の河村打撃コーチと共に自身が固執した打撃フォームをさらに磨き、その進化に取り組んだ。
 三年目に仰木彬が監督に就任した。彼は古典的打撃理論とはかけ離れた一朗のフォーム、打撃センス、並外れた動体視力、全体のリズム感、守備の上手さ、俊足、肩の強さに瞠目した。仰木監督は彼をイチローとして選手登録し、一軍に上げた。イチローはヒットを量産し始め、彼の映像がテレビに頻出するようになった。

 バントヒット、半ば走り出しながらの片手撃ちヒット等、面白いように出塁し、盗塁する。見ようによってはセコいヒットである。私はこのような打者に既視感があった。誰だったろう? そうだ水島新司の名作漫画「ドカベン」の団子っ鼻、出っ歯、チビ(これは差別用語に当たるだろうか)の殿馬である。
「ドカベン」には主人公の山田太郎を凌ぐ天才キャラが二人いる。岩鬼と殿馬だ。殿馬はチームで一番身体が小さい。絵では岩鬼の半分もなく非力に見える。俊敏な天才的内野手である。守備でも打席でも彼の周りに音符が描かれる。類稀な音感とリズム感を持つピアノの天才なのだ。撃つ瞬間、彼の身体は宙に浮いている。秘打白鳥の湖、秘打花のワルツ…ズンヅラヅラ、ズンヅラヨ~というリズム打法で、高い出塁率を誇る。
 イチローの自らの身体能力にあった独特の打法は、この殿馬をヒントにして編み出したものではなかったか。周囲は「振り子打法」と呼んだ。
 イチローのヒッティングゾーンはかなり広い。彼にはストライクゾーンを外れた悪球も好球なのだ(悪球打ちは岩鬼の代名詞だ)。ワンバウンドの球にも手を出し、ヒットにしてしまう。だから三振、四球が極端に少ない。類稀な動体視力でボールをとらえ、これも類稀なバットコントロールで右、左、中、内、外、野手の間へと落とす。彼は全体の視野が広いのだ。
 天才殿馬も全体の視野が広く沈着冷静である。これと、天才イチローが言う「ボールを点、線ではなく、立体的にとらえる」は、どこか宮本武蔵の「五輪の書」に通じるものがある。



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名言

2015年09月30日 | 相撲エッセイ
 野球、柔道、水泳、陸上、相撲でも、一流のアスリートたちには名言が多い。
「今自分にできること。頑張ればできそうなこと。そういうことを積み重ねていかないと、遠くの目標は近づいてこない」(イチロー)
「良かったことの現実も、悪いことの現実も、次へ向かう糧にしたい」(高橋尚子)
「自分はあるがままのもの。それ以上でも、それ以下でもない」(青木功)
「克己とは、体力の差でもない、知識の差でもない、意思の差だ」(古賀稔彦)

 一流が発した言葉だから重みがあり、名言とされるのである。これが幕下や三段目で廃業した力士が言っても、名言とはされない。時には暴言とされる。
 若羽黒という力士がいた。親方衆が「土俵には宝が埋まっている」と言うと、「埋まってるわけないじゃん」とせせら嗤った。肚の中で思ったのではなく、声に出したのだ。
 若羽黒は生来柔らかな身体で腰も重い。当時としては大きな丸い身体を丸めて、下からモコモコとハズで押していく。突進型ではないから簡単に前に落ちない。親方衆や玄人はだしの好角家たちは、その天賦の才に舌を巻き期待した。
 ところが若羽黒は大の稽古嫌いであった。彼はろくに稽古もせず、大関になり優勝もした。栃錦引退後、初代若乃花と共に「二若時代来る」と期待された。
 ちばてつやの「のたり松太郎」は天衣無縫な輪島と、怪力北天佑がモデルとされた。しかし若羽黒こそ松太郎に近似だと思われる。彼は天衣「無法」なのである。部屋付きの親方が彼を注意すると「親方、番付はどこまでだい? 僕は大関だよ」と言い放った(彼は自分を「僕」と称した当時唯一の力士である)。
 アロハシャツに短パンで場所入りし「品格がない」と注意を受けると、翌日からスーツにネクタイ姿で場所入りした。反逆児なのである。
 ある日中山競馬場に遊びに行った若羽黒は、そこでヤクザ者と一悶着を起こした。激昂したヤクザ者はピストルの銃口を若羽黒の口の中に押し込み「ぶっ殺すぞテメェ」と恫喝した。その男は別件で何度も刑務所に入っていたのだが、後年作家としてデビューした。安部譲二である。
 周囲やファンが期待した二若時代はついに来なかった。普段からの稽古不足で、体力の衰えも転落も早かったのだ。天賦の才はついに花開かなかった。
「天才(天賦の才)は努力によって花開くのである」(これ私の言葉)…けだし名言だなあと思っても、私が言ったのでは説得力も重みもないなあ。それより「勝っても、かぶっても、おしめよ」(藤猛)の方が面白いなあ。


 
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掌説うためいろ ハレー彗星余燼

2015年09月29日 | エッセイ
 
 明治四十二年、不安な噂が広がりつつあった。フランスの高名な天文学者カミーユ・フレンマリオン博士によれば、来年の五月下旬にさしかかる頃、地球はハレー彗星の尾の中に包まれ、地上の生命は全て死滅するというのである。ハレー彗星の長い尾の正体は猛毒のシアン化合物のガスなのだ。彗星が太陽面を通過する際、遠ざかる彗星の尾の中に地球が入り込むという説である。
 人はいつの時代も人類滅亡話を好むものらしい。嫌な、苦しい浮世である。そんな世の中、自分だけではなく地球の全てが滅ぶというのが痛快なのだろう。ついに、「一九一〇年ハレー彗星墜つ」という噂も広がった。地球に彗星が墜ちるにせよ、シアンの猛毒ガスが覆うにせよ、日本ではその破滅の時が、「五月二十二日十一時二十二分」であるという具体的な日時まで流布されたのである。

 明治四十三年五月二十二日は、何も起きなかった。しかし三日後の二十五日、近代天皇制の国家権力という猛毒が、日本中を震撼させ覆い尽くしたのである。
 当初は信州明科爆裂弾製造事件であった。これを奇貨とした当局は、日をおかず大逆事件とし、幸徳秋水とその一味たちの一網打尽と抹殺を謀った。国家権力が社会主義運動、無政府主義運動、労働運動等の「好もしくない」主義思想の人間と組織の根絶やしを狙い、全国で一斉検挙に出た。
 先ず宮下太吉、新村忠雄、古河力作、管野スガ(須賀子)、幸徳秋水、森近運平、大石誠之助、内山愚童、成石平四郎、高木顕明、松尾卯一太、坂本清馬、奥宮健之ら二十六人が次々に逮捕されたのに続き、日本中でおよそ八百人の検挙者が出た。この検挙者の中に竹久夢二もいた。

 宮下は明科の蒸気機関や製材機などの機械工で、彼が爆裂弾を作り実験もしていた。新村は新宮の医師・大石誠之助の薬局で働いていた正義感の強い明朗快活な青年だった。古河は短躯ながら頑健、強固な意志を相貌に宿した無口な男で、滝野川の花圃で働く花卉職人だ。実際に天皇暗殺について具体的に話し合っていたのは宮下、古河、新村、そしてスガの四人である。
 最初に宮下を秋水やスガに紹介したのは「大阪平民新聞」の森近で、彼はだいぶ後になって、四人が計画を立てていることを知ったに過ぎない。スガは、秋水が老母と暮らすため引退して土佐に帰ると洩らしていたので、彼を計画から外していた。
 大逆の主要人物である宮下、新村、スガ、古河の四人以外の人々は、秋水等と親しい、談笑し家に一泊した、借りた本を返しに来て談笑した、薬研を貸した、以前家に泊めた、というだけの理由で逮捕され、後に刑死することになった。彼らは正義感が強く、社会主義や無政府主義に共鳴し、非戦と人間の自由平等を唱え、かつ社会改良や弱者救済の実践に奔走する人格者として、慕われていた者が少なくない。そうした医師や僧侶なども含まれていた。特筆すべきは大石誠之助である。彼は医師で、社会主義者で、クリスチャンであった。

 大石誠之助は慶応二年、紀伊東牟婁郡新宮仲之町に代々学者や医師として続く名家に生まれた。同志社英学校、神田共立学校を中退後、ワシントン州の中学校、オレゴン州立大学医学科を出て、モントリオール大学で外科学を学んだ。帰国後の明治二十九年、新宮に開業した。
 彼の医院は「払える人はお払いください」という医院だった。貧しい人から無理に金を取らなかった。優しく穏やかで明朗闊達、高潔、人に分け隔てなく、被差別の人々の医療や生活改善に意を注いだ。病気の年寄りや子どもは医院に来るのもしんどかろう、しかし病気は待ってくれないと、往診に力を注いだ。彼は「毒取る(ドクトル)」と呼ばれ慕われていた。
 誠之助は明治三十二年、シンガポールに渡り病院で医師として働きながらマラリアと脚気を研究し、その後インドのポンペイ大学に伝染病の研究のため留学した。彼はインドで人間の尊厳、生得の権利について深く考えさせられ、より社会主義に共鳴して戻ってきた。
 彼は友人の秋水に頼まれて、新村忠雄青年を医院に預かった。誠之助は秋水とも親しかったが、地元紀伊田辺の牟婁新報社長・主筆の毛利柴庵(さいあん)とも親しかった。
 柴庵は十三歳で得度し、高野山大学林を首席で出た革新的仏教者であった。柴庵は足尾鉱毒事件の田中正造に強く共鳴した。非戦論と社会主義を支持した。柴庵が刑務所に収監されていた期間、編集長として招かれたのが管野スガである。一時、牟婁新報には荒畑寒村も席を置いた。
 明治三十九年以降、柴庵は南方熊楠と共に宗教の自由と神社合祀問題、自然環境保護の論陣を張った。誠之助も彼らを強く支持していた。
 また誠之助は与謝野鉄幹とも親しく、禄亭という号で雑俳の名手としても知られた。この大逆事件で、誠之助や秋水の弁護を平出修(ひらいでしゅう)に依頼したのは鉄幹である。平出は「明星」の若き同人であり、石川啄木の親友でもあった。
 さて大石誠之助の甥(長兄・余平の長男)が、文化学院を創設した教育者・西村伊作である。伊作も大逆事件で拘留された。ちなみに誠之助の次兄・玉置酉久の妻の係累に山本七平がいる。ハレー彗星の尾の余燼は、実に長い。

 誠之助は地元の名望家であるばかりでなく、中央でもその名を知られていた。
 若き天才詩人・佐藤春夫は、当時慶応の学生であった。彼は明治二十五年、東牟婁郡新宮町に生まれた。父は医師の佐藤豊太郎で、代々続く医師の家である。
 無論春夫は大石誠之助を知っており、大逆事件と彼の刑死に強い衝撃を受けていた。春夫は官権を意識して刑死者を愚者と韜晦した痛切な追悼詩、「愚者の死」を書いた。それは春夫が誠之助の死と大逆事件に触れた最後であった。
 おそらく「愚者の死」を発表した前後から、彼の周囲に私服刑事の影がつきまとったのであろう。あるいは刑事から「お前は新宮の出らしいな。大石とはどういう付き合いかね?」と、尋ねられたのかも知れない。以後、春夫は政治向きのことや思想について語ること少なく、川と花と洋館と廃墟と路地と、異国と南国と支那を愛する、耽美的幻想の詩歌と小説を書き続けるのである。

 永井荷風が慶応の教授時代のことである。明治四十四年の一月二十四日の朝、彼は偶然大逆事件の受刑者たちを乗せた馬車を目撃した。受刑者たちは刑場に向かったのだ。荷風は立ちすくんだまま馬車を見送り、無力感と無常観に打ちのめされていた。
 彼はその後「花火」という小品を書き、偏奇館と名付けた麻布の洋館に住まい、奇行の目立つ風変わりな生活を送った。江戸情緒の残る隅田川界隈と、三味線の音の響く路地裏に遊び、紅灯の巷を彷徨い歩いた。政治批判めいた言辞も洩らさず、まるで社会の出来事に無関心を装った。その後の「断腸亭日乗」には世間の大ニュースがほんの一言二言触れられるばかりである。日本の近代化の軽躁さを侮蔑し、現実への憎悪、世事への嫌悪が、荷風を、三味線と川面に映じる月や、遊女たちとの戯れや、下町の路地裏と江戸趣味に向かわせたと言うしかない。彼はその美と嗜好に耽溺することにしたのである。それが荷風に於ける彗星の余燼だった。
 谷崎潤一郎や芥川龍之介、江戸川乱歩等も同じだった。イデオロギー的傾向から遠く距離を置き、その美的嗜好と性向は、川への愛、江戸趣味と路地へのこだわり、異国への憧憬、屋根裏好き、洋館と人工的な庭と花への愛、廃墟と幻覚への嗜好、怪奇趣味、支那趣味、南方への憧れ、希薄な生活感…これらは彼らの生活と自己韜晦とフィクションに欠かせぬ道具立てになった。
 
 大逆事件は、大阪に暮らしていた池田師範学校校長の東基吉と、その妻のくめを驚愕させ、激しく動揺させた。
 くめは明治十年、新宮藩の家老だった由比甚五郎の長女として生まれた。十五歳で東京音楽学校に進みピアノと和声を学び、滝廉太郎に頼まれて、組曲「四季」の夏に当たる「納涼」の詞を書き、「鳩ぽっぽ」「お正月」の作詞も担当した。彼女は東京音楽学校の研究科に在籍のまま東京府高等女学校の教諭を務め、明治三十一年、二十一歳のとき、同じ新宮出身で東京女子高等師範学校教授の東基吉と結婚した。二人はもちろん大石誠之助をよく知っており、この同郷の先輩を畏敬していたのである。
「あの誠之助さんが…」
「あの大石先生が…」
「これは何かとんでもない間違いか、それとも何か大変なことが起こっているに違いない…」
 何か漠然とした重苦しい不安である。闇夜の鵺(ぬえ)のようなものの存在が、肌をざわざわと粟立てさせる不安である。

 明治四十三年の六月中旬、竹久夢二の家に二人の刑事が来た。彼らに両側から挟まれて引っ立てられて行く夢二を、他万喜(たまき)は幼児の虹之助を抱え、玄関前の道まで出て見送った。夢二は二十七歳である。
 夢二と他万喜はすでに夫婦ではない。度重なる夢二の浮気が原因で喧嘩が絶えず、前年に協議離婚していた。この年、他万喜は虹之助にかこつけて再び同居していたのである。
 夢二の惚れっぽさと浮気は病気のようなものである。愛憎のもつれから女に刃物を突きつけられたこともある。しかし気に入った娘がいると、横に他万喜がいても口説き始めるのだ。夢二はカサノヴァなのである。そのくせ夢二は嫉妬深かった。他万喜の浮気を疑い嫉妬した。実に勝手な男である。しかし他万喜は夢二が好きで、どうしても離れがたかったのだ。

 他万喜は富山治安裁判所の判事だった岸六郎の二女で、金沢に生まれた。彼女が十八歳の時、東京美術学校出の高岡工芸学校絵画教師・堀内喜一と結婚した。一男一女を授かったが、夫は三十三歳で亡くなってしまう。他万喜はまだ二十四歳の若さである。堀内の実家が子どもたちを引き取り、彼女は家を出た。他万喜が堀内家に残した二人の幼い子どもたちの寂しさを想うと、実に切ないものがある。彼らは幸せになれたのだろうか…。 
 他万喜は上京し、四つ年上の兄・岸他丑(たちゅう)を頼った。他丑は麹町区の九段下飯田町で絵はがき発行販売の「つるや書房」を営んでいた。彼は早稲田鶴巻町に絵はがき屋の「つるや」を開き、他万喜に任せた。
 十一月一日に開店し、その五日目に早稲田実業の学生・夢二が店を訪れた。夢二は色白で大きな眼をした他万喜に一目惚れした。他万喜は夢二より二歳年上である。夢二は毎日「つるや」に来た。自分が描いた絵はがきを他万喜に見せた。それを店で売って欲しいと言った。あなたを絵はがきにしたいと言った。僕のモデルになって欲しいと言った。他万喜はモデルになった。「夢二式美人」が生まれた。さらに僕と結婚して欲しいと言った。「はい」と言ってくれるまで毎日来ると言った。他万喜は「はい」と言った。翌年の一月二十四日に正式に結婚した。

 夢二は警察でさんざん取り調べられた。
 きさま幸徳一味の新聞や雑誌にコマ絵を描いているな、ということはお前も一味だな、違う? 何が違う、きさまは社会主義者じゃないのか、きさま髪が長いな、主義者にはそういう長髪が多いんだよ、岡栄次郎や荒畑との付き合いはいつからだ、幸徳一味との付き合いはいつからだ、管野スガを知っているな、知ってるだろ、赤旗事件で刑務所に入っているがお前と親しい荒畑勝三の女房だ、今は幸徳の女だがな、宮下太吉や古河力作と面識はあるか、新村忠雄と新宮の大石誠之助を知っているか、大阪の森近運平は知っているな、奴の雑誌にコマ絵を描いてるよな、千駄ヶ谷の幸徳の家に行ったことはあるか、一味の大逆の謀議を知っていたか、知らんはずはなかろう、大杉栄とは面識はあるか、堺や山川とはどんな話をした、石川は知っているな…三四郎だよ、当然知っているな、平民社の一味だものな、きさまも一味なんだろ、小川芋銭(うせん)も一味だな、ほれ一緒にコマ絵を描いてる芋銭だよ、きさまが知ってる一味の名前を教えてくれ、知らない? きさま洗いざらい吐かないと帰れないよ…。
 夢二は二日留置場に泊まった。拘留が解かれるとき中年刑事の一人が
「おい、あんな可愛い女房と子どもを泣かせるなよ」
と言った。夢二はムッとしたまま無言で警察を出た。夢二の背後を目つきの悪い男が尾けはじめた。

 夢二が神戸中学の頃、牛窓の父親が酒造業に失敗した。夢二も学校を中退し、一家は親戚のいる八幡に移った。巨大な製鉄所の建設が進んでおり、夢二はここで製図の筆工として働いた。彼はこの建設現場で貧しい日雇い労働者たちと社会の不合理、搾取を見た。
 翌年家出をして上京、早稲田実業に入ったが、好きな絵ばかり描いていた。同級生に社会主義者を公言する岡栄次郎がいた。夢二は岡の影響を受けた。岡の友人で荒畑勝三(寒村)とも親しくなった。寒村と岡が雑司ヶ谷鬼子母神近くの夢二の下宿に転がり込んで、彼らは共同生活をした。
 夢二は以前から、幸徳秋水や堺利彦、内村鑑三や石川三四郎らの非戦論に感銘を受けていた。やがて夢二は寒村の紹介で「平民新聞」「光」「直言」にコマ絵を描き始めた。絵は批判精神にみちた諷刺画である。
 明治四十年一月二十四日の「平民新聞」に、夢二が結婚して牛込宮比町に新居を構えたと紹介記事が載った(それから四年後の一月二十四日は、秋水の命日となった)。夢二は「平民新聞」に幽冥路の筆名でコマ絵と川柳も発表した。
 翌年に虹之助が生まれた。明治四十二年五月に他万喜と別れ、その師走に最初の「夢二画集 春の巻」を刊行した。「夢二画集」はよく売れた。
 年が明けた明治四十三年早々に再び他万喜と同居した。そして五月にハレー彗星が夜空をよぎって大逆事件が世間を震撼させ、六月にエハガキ「夢二カード」の第一集が出て間もなく、彼は警察に引っ張られたわけである。

 二階の窓から外を見ると、電柱の陰に刑事らしき男が張り込んでいる。夢二が出かけると、その男も尾いてくる。それがずっと続いた。夢二はうんざりした。ある日夢二は電柱の下に佇む男に近づき
「犬とはよく言ったものだ。電柱が大好きなんだな」
 と毒づいた。男は凄い顔をして夢二を睨んだ。
「おゝ、きょーてー(恐い)」
 と夢二は首をすくめた。
「きさまが幸徳一味だという疑いが晴れたわけではない。まだ逃亡している一味とツナギを付けるかも知れんからな」
 と刑事は言った。
「らっしもねえ(バカな)」
 と夢二は岡山弁で抗した。
 夢二は社会主義に興味をなくし、距離を置きはじめた。コマ絵を描いただけでこんな目に遭う。実に剣呑ではないか。彼は政治向きの話をいっさい口に出さなくなった。梅雨時に加え、あの刑事たちの張り込みと尾行は鬱陶しい。
 
 梅雨が明けた。夢二は、気分転換に避暑に出かけることにした。そこまでは尾行はつくまい。夢二は他万喜と虹之助を連れて銚子に向かった。先ず霊岸島から船に乗り、内房の鋸山・保田の湊に着く。そこから安房小湊、九十九里浜、屏風ヶ浦、銚子まで宿泊しながら、徒歩と荷馬車に便乗した旅程である。
 銚子の海鹿(あしか)島は明治末頃までアシカとトドが棲息していた。大正に激減し、昭和にはその姿が見られなくなった。夢二たちが海鹿島を訪ねた頃はかろうじて姿が見られたにちがいない。沖にはアシカとイルカたちを狙うシャチも遊泳していたかも知れない。
 夢二たちは宮下荘に宿をとった。その隣に長谷川という大きな家があった。長谷川夫妻は秋田・久保田藩士族の家の出で、代々学者、教育者の家柄であった。ただこの当主、長谷川康は軍人となり、退役後に銚子の海鹿島に越してきたという。康の兄妹もみな教育者であるらしい。
 長谷川夫妻には三人の娘がいた。長女は女子師範学校を出て、成田で高等女学校の教師をしており、二女は秋田の教師に嫁していた。三女のカタは成田の長姉の元に寄寓していた。彼女は夏休みを利用し、海鹿島の両親の元に遊びに来ていたのである。カタは色白で目の大きな美しい娘だった。秋田美人なのである。読書好きの、大人しげな娘だった。夢二はたちまち一目惚れした。
 夢二は宮下荘の二階から、娘が外に出てくる機会を待った。また日盛りの中で、彼女が外に出てくるのを待った。カタが外出すると夢二はすぐ後を追い、挨拶の声をかけた。
 他万喜と虹之助は全く放っておかれた。母子は、海鹿島の汀や岩礁の汐溜まりで寂しく遊んだ。
 大待宵草(おおまちよいぐさ)が黄色の花を開く夕方の松林の中を歩きながら、夢二はカタに優しく微笑みかけ、絵の話や文学の話をし、そしてカタの話を聞こうとした。カタは無口で微笑みかえすばかりだった。夢二はカタに自分の画集とエハガキを贈った。君を絵に描きたいと言った。僕の絵のモデルになって欲しいと言った。カタは十九歳である。夢二の言葉に満更でもなかった。
 カタと東京の絵描きは海鹿島の集落の噂になった。何しろ、カタが外出する際には、その横に必ず東京の絵描きがいるのである。カタも嬉しそうに寄り添って歩いているという。長谷川夫妻はこの噂に驚き、東京の絵描きと一緒に歩いたカタをひどく叱った。
 夢二は大逆事件も他万喜も虹之助もどうでもよくなり、カタを口説き落とすことに全力を挙げた。しかしカタの両親の必死の警戒と妨害もあり、なかなかカタをものにできなかった。やがて夢二の夏休みも終わり、仕事の打ち合わせ等もあって、彼は恋の焦燥感を抱きながら東京に戻った。他万喜と虹之助は九月まで海鹿島に留まった。
 夢二はカタに恋情に溢れた手紙を出した。カタからの返書に有頂天になり、また手紙を出したり、新しいエハガキを贈ったりした。実にまめなのである。

 長谷川カタの両親も焦っていた。あの男の娘を見る目つきの嫌らしさはどうだろう。女房も子どももいるというのに、人目を憚らず娘をつけ回す。あの女たらし、あんな不良絵描きの毒牙にかかる前に、カタを真面目な堅気の男に嫁がせたい。
 父親の教育関係の知人から良い話が寄せられた。紀州藩藩校の代々学者や教育者の家柄で、東京音楽学校を出て、いま鹿児島師範学校で音楽教師をしている実直で壮健な、実に好青年がいる。近々京都師範に移るという。カタの父親はその信頼できる知人に言った。
「あなたがそこまで誉めるのですから安心です。是非その方とのお話を進めていただきたい」

 その好青年の名を須川政太郎といった。明治十七年の暮、和歌山県東牟婁郡新宮町に生まれた。和歌山中学から東京音楽学校の甲種師範科に進み、教師となった。彼は大正四年に、第七高等学校(鹿児島大学)造士館寮の寮歌「北辰斜に」を作曲している(近年「北辰斜めにさすところ」が映画化された)。
 須川政太郎は少年の頃から大石誠之助が好きだった。子どもの頃病気をしたおり、青年医師の大石先生が往診に駆けつけてくれたことがある。先生は誰に対しても優しかった。道で会うと必ず声をかけてくれた。話しかけられると元気が出た。肩を叩かれると勇気が出た。この大石先生の姿に人間の生き方の理想像を見た。先生は社会改良や人間の生得権などの話を、まるで同輩の友人に語るように、易しい言葉で話してくれた。
 大石先生に音楽教師への志望を親に反対されていると話すと、
「音楽かいなあ、ほりゃええげー、がいにええ夢じゃがのし。音楽で世ん中を明(あか)くせえよし」
 と励まし、音楽は人の心を慰める、元気づける、少しぐらいの病気は音楽で治せるんだと笑った。そして
「おまんとこの親父さんにゃあ、わえからもよう言うちゃろ」
 と請け合った。政太郎はそんな郷土の先輩・大石先生を尊敬していた。
…ところが、大逆事件の首謀者の一人として先生は逮捕され、死刑判決が出た。大きな衝撃が政太郎を襲った。爾来、政太郎は人前で政治向きの話を一切しなくなった。

 明治四十四年一月二十四日、街に号外が出た。それは死刑判決が下っていた幸徳一味十二名のうち、スガを除く男の受刑者十一名の処刑が執行されたという速報である(スガの執行は翌日である)。
 夢二宅に頻繁に出入りしていた一人の女子学生が、その号外版を夢二に手渡した。読み終わった夢二は
「今夜はみんなでお通夜をしようよ。線香と蝋燭を買ってきておくれ」
 と言って、女子学生にお金を渡した。
 彼女が自分の所用をすませ、お線香と蝋燭を買って戻ってきた頃、春未だ遠い短日はたちまち暮れようとしていた。彼女の名を神近市子といった。市子は五年後、愛憎のもつれから、葉山の日陰茶屋で大杉栄を刺すという傷害事件を起こしている。

 その初秋、夢二は銚子の海鹿島に行った。長谷川カタに結婚を申し込むつもりだったのである。ところがカタはいなかった。夢二は彼女が結婚したことを知った。
 夢二はカタと歩いた松林にひとり佇んだ。カタと並んで沖を見つめた磯場に、ひとり佇んだ。夢二は失恋したのだった。
 夢二は病を得、信州富士見高原に転地療養した。その地で海鹿島の夕闇の松林の中に黄色い花を咲かせていた大待宵草と、その花が好きだと言った長谷川カタを偲んだ。

    待てど 暮らせど 来ぬ人を
    宵待草の やるせなさ
    今宵は月も 出ぬそうな

 明治四十五年の六月、その詩が「少女」に発表されてからほぼ二ヶ月後に、大逆事件の余燼の尾を長く引きながら、明治が終焉した。夢二は倦怠と耽美的な傾向を強めていった。人はそれを大正浪漫と称した。

 その後も夢二は次々と新しい恋人をつくった。他万喜とは別れと同居を繰り返して、さらに不二彦と草一という二人の子どもをもうけた。やがて他万喜は夢二から完全に離れていった。二人の間が破綻した後も、月刊「夢二エハガキ」の発行元は、他万喜の兄・岸他丑の「つるや書房」であった。
 長谷川カタは朴直、篤実な須川政太郎と結婚し、夫の任地である京都、彦根、愛知県の半田で平穏に暮らした。

                 
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掌説うためいろ 唱歌事始め

2015年09月28日 | エッセイ
            

 留学生を含めて百七名の岩倉遣欧使節団が横浜港を発ったのは、陰暦の明治四年十一月十二日である。明治政府の中枢がそっくり留守にしたようなもので、何とも思い切ったことをしたものである。その使節団が帰国したとき、陽暦の明治六年九月十三日になっていた。政府の留守居役が、暦制を変更していたのである。
 岡田芳郎の「暦ものがたり」によれば、明治五年十一月、政府が突然太陰暦から太陽暦へと改暦したのは、財政難のためであったらしい。三年ごとに閏年(一年が十三ヶ月ある)がやって来ると、その年は官吏に十三ヶ月分の給料を支払わねばならない。閏年の明治元年、三年は官吏の給料は年俸制であったが、それ以後月給制となっていた。ところが来る明治六年は閏年である。明治政府に十三ヶ月分の給料を支払う財政的余力はなかったのだ。政府は突然、明治五年の十二月三日をもって太陽暦の明治六年一月一日とした。十二月が二日しかないことから、「十二月分の給料は支払わなくてもよかろう」と、まんまと二ヶ月分の官吏の給料を浮かした。知恵者がいたのである。
 
 岩倉使節団一行は、実に精力的にあらゆる施設を視察して回った。船と馬車と列車のみの交通手段ながら、すさまじいばかりの強行軍である。大使、随員以下、誰一人過労で命を落とさずに済んだのは、実に奇蹟のようである。工場、鉱山、市場、農場、公園、商業地区、銀行施設や金融街はもちろん、繁華街・劇場街、病院、看護学校、福祉・助産施設、学校などの教育施設等、あらゆる施設を訪ねては、憲法や法令、制度・仕組みを聞き、質問し、記録している。「米欧回覧実記」という貴重な記録を残した大使随行の久米邦武に感謝しなければならない(後に久米は日本の近代的歴史学をうち立てたのだが、天皇制イデオロギーから自由だったため、東京帝大の教授から追放されてしまった)。
 彼らは教育施設を訪ね、その現場を見学した。教育方法や制度を訊ねた。彼らの関心や質問は、教育の全分野に及んだ。体育も、そして音楽教育も含まれ、さらに子どもたちに教えるべき「唱歌」の存在まで記録し、強い関心を示した。
 明治七、八年頃、文部省は音楽、唱歌教育の指導者として、アメリカの音楽教育家として名高いルーサー・W・メーソンの招聘を打診した。メーソンは色よい返事をしなかったが、日本と日本人への音楽教育には興味を抱くようになった。
 
 伊沢修二は嘉永四年、信濃の伊那谷に生まれた。父は高遠藩の貧しい下級武士であった。慶応三年に江戸に出、そのまま京に上って蘭学をかじった後、高遠藩の貢進生として大学南校で学んだ。つまり、後の東京帝大の理工科系に学んだのである。明治五年に文部省に入り、工部省を経て再び文部省に移って、明治七年に愛知師範学校の校長に赴任した。
 伊沢はこの師範学校で、文部省の指示もあって音楽・唱歌教育の実験授業を試みている。地元に伝わる古い童唄に、国学教師の野村秋足に今様の詞をつけさせ、集めた子どもたちに輪遊びをさせたのである。こうして音楽・唱歌教育の方法を模索し、文部省にも報告した。この時、野村が作詞したのが「胡蝶」であった。

    てふてふ てふてふ 菜の葉にとまれ
    なのはにあいたら 桜にとまれ
    さくらの花の さかゆる御代に
    とまれよあそべ あそべよとまれ
 
 翌年、伊沢は師範学校の実地調査を目的としたアメリカ留学を命じられた。彼はマサチューセッツ州ボストン郊外のブリッジウォーター師範学校に入った。
 その師範学校とは別に、伊沢はグラハム・ベルの下で「視話術」なるものを学んだ。伊沢は聾唖教育の研究にも熱心に取り組んでいるから、視話術とは手話のことなのだろう。その頃ベルは電話の研究もしており、それは殆ど完成に近づいていた。伊沢はベルの実験に付き合わされた。そしてついにグラハム・ベルは、世界で初めて電話をかけた人になり、世界で初めて電話を受けた人は、伊沢修二であった。
 さらに伊沢はハーバード大学にも通い、理化学と地質学を学んでいる。彼は実に多忙であり、精力的であった。
 伊沢は師範学校の音楽の授業が全く不得手で苦痛だった。欧米の音律についていけなかったのである。何しろ、子どもの時分に童唄を歌ったことはあるが、長じて詩吟くらいしか唸ったことはない。ブリッジウォーター師範学校のA・G・ボイデン校長から「君にはどうも西洋の音楽は無理なようだ。特別に音楽の履修を免除してあげよう」と言われた。それが彼には屈辱だったようである。自分は日本を代表して留学してきたのである。全てを履修せねば申し訳も立たぬ。伊沢はボイデンのせっかくの話を断り、猛烈に西洋音楽を学び始めた。
 
 その頃「音楽に興味はないか、あれば私から個人レッスンを受ける気はないか」とボストンの日本人留学生に声を掛ける男がいた。かのメーソンである。伊沢はメーソンから毎週末に個人レッスンを受けることにした。
 メーソンの個人レッスンは変わっていた。彼は伊沢に日本語を喋らせ、日本の古い文学や詩歌について聞き取りした。また伊沢に知っている限りの童唄を歌わせ、知っている限りの詩吟や謡曲を唸らせた。まるでメーソンがレッスンを受けているようであった。
 あるときメーソンが一つの楽譜を伊沢に渡し、
「これはアメリカの子どもたちも歌っている曲だ。元々スペイン民謡だが、日本人の伝統的音律に合うかも知れない。これに日本語の詞をつけてみたらどうだね」
 と言った。
 伊沢はすぐにピアノに向かい、そのスペイン民謡を弾いてみた。彼はかつて野村秋足に作らせた「胡蝶」という詞を思い出した。その曲に合わせて「胡蝶」を口ずさむと不思議にぴたりとはまった。かたわらで聴いていたメーソンは大きく頷いた。この方法で日本の唱歌が作れるかも知れないと伊沢は思った。
 
 明治十一年、訪米中だった文部省の上司・目賀田種太郎に音楽教育が子どもたちの情操に果たす役割や、外国との交際上果たす役割の重要性を訴え、連名で本省に具申書を提出した。伊沢はその年の五月、父病没の報に接して予定より一年早く帰国した。
 翌年の春、伊沢は東京師範学校の校長になったが、ほどなく文部省が新設した音楽取調掛(音楽取調所)の取調御用掛に任命された。この音楽取調掛は唱歌教科書編纂や音楽教師の育成を行い、後に東京音楽学校に発展する。
 さっそく伊沢が推薦した複数の人材が御用掛に任用された。先ず東京師範学校の稲垣千頴(ちかい)を筆頭に、大槻文彦、里見義(ただし)、加部厳夫(いずお)等である。彼らの多くは歌学や平安文学等の和文学や、国学の素養豊かな者たちであった。彼らは漢詩や漢学にも長じ、中国の故事にも通じていた。なぜ彼らか。子どもたちに歌わせる唱歌は、単に音楽の問題ではなく、日本国語の問題だからである。曲と曲意を理解する感性と、和文学や歌学の感性と、正しく優れた日本国語を駆使する能力が欲しい。国語・言葉には、優雅さと高い品格が欲しい。
 先ず「小学唱歌集」の編纂である。かつて野村秋足が作詞した「胡蝶」は歌詞が一番しかなかったが、稲垣千頴が二番の詞を書き、日本で最初の唱歌「蝶々」が生まれた。

    おきよ おきよ ねぐらのすずめ
    朝日のひかりの さしこぬさきに
    ねぐらをいでて こずえにとまり
    あそべよすずめ うたえよすずめ

 同様に、「民約論」の著者で教育思想家であり、作曲者でもあったジャン・ジャック・ルソーの「村の占い師」を原曲としたメロディーに、柴田清煕が一番、稲垣千頴が二番の詞を書き「見わたせば」ができた。

    見わたせば、あおやなぎ、
    花桜、こきまぜて、
    みやこには、みちもせに
    春の錦をぞ。
    さおひめの、おりなして、
    ふるあめに、そめにける。

    みわたせば、やまべには、
    おのえにも、ふもとにも、
    うすきこき、もみじ葉の
    あきの錦をぞ。
    たつたひめ、おりかけて、
    つゆ霜に、さらしける。

 これは後に歌詞が変わって「むすんでひらいて」となり、今も幼童たちに歌われ続けている。 
 明治十三年、伊沢はアメリカから師のメーソンを招き、共に日本の音楽教育の人材の育成と、唱歌教育に取り組むことになった。
「蝶々」や「見わたせば」は、東京女子師範学校付属幼稚園や東京師範学校付属小学校で、メーソン自らバイオリンを演奏して実際に教えてみた。子供たちは飽くことなく熱心に歌い続けたという。
 音楽取調掛では、メーソンが「これはどうだ」と提示した外国曲の旋律を御用掛が合議で検討して選曲し、一人が作詞を担当して、その曲に日本語の詞を当て込んだ。それを合議であれこれの検討を加え、最後は首席格の稲垣が補作、修正し、決定したようである。曲の修正や編曲は伊沢が主導し、これを決定したものと思われる。
 メーソンは日本的な雅なるもの、その叙情と詩情、風韻、品位、言葉の音律の正体を理解していたと思われる。彼が示した曲の多くは、それらに添い、五七調に合うものだったからである。その濫觴は万葉集や新古今等の詩や、平安文学にあると見たのであろう。
 明治十四年、「小学唱歌集初編」に初出の「蛍」(後に「蛍の光」と改題)はスコットランド民謡であった。端から卒業時の歌として作詞されたという。

    ほたるのひかり、まどのゆき
    書(ふみ)よむつき日。かさねつゝ。
    いつしか年も。すぎのとを。
    あけてぞけさは。わかれゆく。

    とまるもゆくも。かぎりとて。
    かたみにおもふちよろずの。
    こゝろのはしを。ひとことに。
    さきくとばかり。うたふなり。

 「蛍の光」の歌詞は四番まであったが、今はほとんど歌われていない。

    筑紫の極み、陸の奥、
    海山遠く、隔つとも、
    その真心は、隔てなく、
    一つに尽くせ、國の為。

    千島の奥も、沖縄の、
    八洲の内の、護りなり、
    至らん國に、勲しく、
    努めよ我が背、恙無く。

 作詞者は稲垣千頴説や異論もあって、公式には長く不詳とされてきた。中西光雄は伊沢が記した「唱歌略説」を発見した。そこには「此歌は稲垣千頴の作にして学生等が数年間勤学し蛍雪の功をつみ業成り事遂げて学校を去るに当り別れを同窓の友につげ…」とあるという。中西は歴史に埋もれた謎の稲垣千頴を発掘した。そしてどうやら稲垣は天才と言ってよいほどの、類い希な才能の持ち主だったのである。曲に後から詞をはめこむのは、昔も今も難しい。稲垣はそれを鮮やかにやってのけている。
 こうして「小学唱歌集」が編まれていったが、これらの曲も歌も文部省のお偉方にはさんざんな不評だった。東京女子師範で「小学唱歌集初編」の演奏会が開催された。そこに皇后が来臨し、たいへん喜ばれて学生や子どもらと共に歌を口ずさまれたらしい。「唱歌略説」はそのおりに記されたという。以後、文部省のお偉方の不評はようやく引っ込んだ。

 メーソンが示した外国曲には、当然ながら日本語の韻律やアクセントに合わぬ曲も多い。しかし稲垣は五七調に拘らず、また伊沢は曲自体を、全く出自すら分からぬほど変曲(編曲)したふしがある。何しろ伊沢は後の明治二十年、国産オルガンの一号機を製造した元紀州藩士・山葉寅楠が、これを伊沢のところに持ち込むと、その調律の不正確さを的確に指摘し、彼に西洋の音階や音楽理論、楽器について教授するほど、当代一流の音楽家になっていたのである。
 明治十七年に発行された「小学唱歌集第三編」に初出の「仰げば尊し」は、公式には作詞・作曲共に不詳とされているが、どうやらこれも作詞は稲垣千頴、作曲は伊沢修二であるらしい。原曲はどこかの国の古民謡か古い賛美歌に違いない。八分の六拍子でニ長調または変ホ長調である。この歌は伊沢の指示で、「蛍の光」とセットで歌われるように作詞されている。

    仰げば尊し、わが師の恩。
    教への庭にも、はや幾年(いくとせ)。
    おもへば、いと疾(と)し、この歳月(としつき)。
    今こそ別れめ、いざ、さらば。

    互ひに睦みし日頃の恩。
    別るる後にも、やよ、忘るな。
    身を立て。名をあげ、やよ、励めよ。
    今こそ別れめ、いざ、さらば。

    朝夕なれにし、まなびの窓。
    螢のともし火、積む白雪。
    忘るる間ぞなき ゆく歳月
    今こそ別れめ、いざ、さらば。

 明治十八年夏、音楽取調掛は、卒業を迎えた全科の一期生を送る演奏会を開催した。この時、「仰げば尊し」はお琴と胡弓で演奏された。この現代まで歌い継がれる「蛍の光」「仰げば尊し」の詩を残した稲垣千頴とは何者だったのか。
 中西光雄の研究によれば、稲垣千頴は奥州棚倉の中級武士の家に生まれた。本名を真次郎といった。その後、棚倉藩は武州川越に転封された。千頴は非常に優秀な人だったらしく、和漢の教養・学識高く、国学者として歌人として抜きんで、十代で藩校の教師を務め、藩主の命を受けて京都に遊学した。明治二年、国学者・平田鉄胤の気吹舎(いぶきのや)に入塾した千頴は、たちまち頭角を現して、入塾二年目に二十代の若さで塾長となった。しかし周りから妬みを買ったらしく、塾の規則に反して遊郭に出入りしたことを理由に、間もなく退塾させられたという。その後数年間、どうしていたかは不明だが、明治七年に東京師範学校に雇われている。師範学校では古典文学を教える傍ら、国文と国史の教科書を次々と出版した。
 明治十二年、東京師範学校の校長となった伊沢修二と出会い、音楽取調掛の御用掛に推挽された。千頴の音楽取調掛の地位は助教諭にすぎなかったが、曲選びや詩作の合議においてはリーダー格だったらしい。歌学や和文学、国学、漢詩や中国の故事にも通じていた稲垣千頴の素養の高さは、伊沢を驚かせたに違いない。彼なら優雅で品格のある国語・言葉の教育でもある唱歌の編纂に適しているのではないか。情操と感性の教育に適しているのではないか。
 稲垣千頴は明治十七年に助教諭から教諭になったが、突然辞職している。理由は不明である。彼は翌年夏の音楽取調掛一期生たちの卒業式に列席することなく、彼らの歌う「蛍の光」も「仰げば尊し」も聴くことはなかったのである。
 千頴は東京師範学校の同窓会には何度も出席し、卒業生等と教育方法や教育問題などの対話をしていたらしい。良い先生だったのだ。彼が亡くなったのは大正二年だが、それまで何をしていたのかも不明である。千頴は今も謎のまま谷中霊園に眠っている。
 
 稲垣千頴と同様に里見義もほとんど知られていない。彼には一枚の写真も残されていない。彼は「庭の千草」や「埴生の宿」の作詞者とされている。「埴生の宿」は原詩に忠実だったらしい。とすれば訳詞だろうか。
 里見は文政七年、今の福岡県豊津町の中級の武士の家に生まれた。故郷で育徳館の教師を務め、齢五十をとうに過ぎてから初めて上京して、カナダ人宣教師の家に身を寄せている。おそらく英語を学ぼうとしたのだろう。音楽取調御用掛に任用されるだけの、相当に高い教養を持った人だったに違いなく、また進取の気性に富んだ柔軟な精神の持ち主だったと思われる。亡くなったのは明治十九年のことである。
…日本の唱歌事始めは、これらの今は埋もれた才人たちによってなされたのだ。
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