平仏集!・・・動き出した仏教者たち

平和について学び、考え、願い、動く仏教者たちが、悩み思うところを発言していきます。

コラム憲法#1 「国民主権」の実感のなさ

2006-06-16 20:13:44 | 憲法
  日本国憲法の前文には「主権が国民に存することを宣言し」と明言されている。これは国民が議論によって国のあり方を決めることができるということであり、また国民が決めた政治と違うことを国が行った場合はそれを国民が変えることもできるということだ。広辞苑によると、「主権」とは「国家の政治のあり方を最終的に決める権利」とあるので、「国民主権」というのは国民が政治の最終決定権を持っているということになる。しかし、私は40年近く生きてきて、私自身が主権を持っている国民の一人だという実感を持ったことがない。
 間接民主制の社会においては、「選挙」によって議員を選び、その議員を通じて政治に参加できる。選挙に関して言えば、私自身も良さそうだと思う人を選んで一票を投じているけれど、しかしその一票が国を動かすなんてとても思っていない。私が人を支持することも、とりあえず「他よりはマシ」そうであるとか、●●さんに当選してもらいたくないから対抗馬を応援しようとか、どちらかというと消極的な支持であり、その人が私の意志を政治に反映させてくれるんだとは考えていない。ましてや、現在の政治を変えて貰えるなんて、思ってもいなかった。
 矛盾する行為である。選挙の意義を実感することなく、選挙に参加している。だったらどうして投票に行くのだろうか。私自身が選挙を軽んじていたともいえるだろう。はなから期待を持たずに国民主権を行使していたともいえる。
 例えば、私が選んだ議員に何か政策に反映させてもらいたいことを訴えたとするだろう。この人が、私の意志を尊重してくれるのだろうか。もちろん、「あなたの気持ちはよくわかります。しかし、あなたの訴えは『公共の福祉』に反しますからお引き受けするわけにはいかないのですよ」と断られることがあることも理解できる。しかし、公共の福祉に反しないことだったら聞いてもらえるのか。そもそも公共の福祉とはなんだろう。
 何度か、イラクへの空爆荷担への反対で議員の方にお会いしたことがあった。きっと国民の中でも何人もの人が国会議員に会っていると思う。小泉首相へ手紙を送った人もいるだろう。しかし、聞いてもらえたことはなかった。いや、聞いてはもらえたが、政策に反映されることはなかっというべきか。訴えたことが、どういう文脈で「公共の福祉」に反するのかもわからないまま。
 だからといって、このままにしていては、せっかく憲法が保障してくれている「国民主権」を行使せずに、うだうだと文句だけ言って過ごすことになる。少なくとも、選挙の意義を意識し、議員との対話を諦めることなく深めていくことも重要かもしれない。議員が私たちの意志を私たちに代わって政策に反映させてくれる存在であるべきことを、しかし現在のの間接民主制が機能していないかもしれないことを明らかにしていくことも必要ではないだろうか。そうでもしなければ、国民が政治の決定権を持っているという意識と、そして責任感をも抱くことが難しくなっている気がする。(枝木美香)

1 コメント

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静岡の禁煙条例 (渡部鋭幸)
2006-07-13 01:40:58
ホントにウンザリです。が、昨日こんなニュースがありました。



静岡市?県?の議会で路上喫煙の禁止条例が可決されました。とまぁ、ここまでは普通のニュースですが、



その条例案提出のきっかけになったのは、誰かのタバコの煙を吸ってしまう「受動喫煙」になやむ喘息の中学生が、署名を集めたのがきっかけだったそうです。



選挙権もない人の声が社会を変え得るんですね。若さゆえのチャレンジかも知れませんが、何だか元気付けられました。



平和運動とは勝手が違うかも知れませんが、打ったら響いてくれる所もきっとある、という希望を見失ってはいけないと思うのです。最初から諦めたら何も変わる訳がないので。