闘病記(脳梗塞・脳動脈瘤)

今から11年前の31歳の時に、脳梗塞を発病し、それ以後、3回の脳梗塞と脳動脈瘤を併発。それでも1日も諦めなかった。

いよいよです!!

2013-02-03 17:01:30 | Weblog
またまたご無沙汰しておりました。

実は皆さんにご報告があります。

生前、主人は、病院関係者の方々に大変お世話になりました。

今度は自分自身が医療の現場に携わり来院される患者様の役に立ちたいと思い

昨年の4月から3か月間学校に通い医療事務の資格を取得しました。


明日から、整形外科の医院で、お仕事をする事になりました。

一つ、主人と私の夢が叶いました。

主人もきっと天国で応援してくれていると思います。

来て頂いた患者様が元気になって笑顔で帰って頂けたら 嬉しいです。


さぁ~頑張るぞ~ (^_^)








3年半ぶりのブログ更新です。

2012-08-23 11:11:26 | Weblog
随分とご無沙汰しておりました。

実は、ブログを更新できない理由がありました。

主人が、三年前の今日、天国へ旅立ちました。今日は3回目の命日です。

前日まで、いつもと変わらずに元気でいたのに、朝、私が起きた時には、呼吸をしていませんでした。

あの日から3年経ってようやくブログでお話しができるようになりました。

主人は、生前から、今までの自分が体験してきた闘病生活。

「同じ病気を持った方、家族の為に少しでも役に立つ事がしたい」と言っていました。

今、残された私のできる事。

それは、主人の意思を継いで実現する事。

このブログを元に、主人に変って私が闘病記の本の出版に向けて原稿を書いております。

闘病生活13年間を振り変える事で、主人への供養にもなればいいな!と思い書き始めました。

今は、本を出版する目的ができた事が、私の生きる活力になっています。

これからも、主人に代わって私が、皆様のお役に立ちたいと思いますので、

同じ病気を抱えた方、ご家族の方の不安な事や悩みなどありましたら、ご連絡ください。

では、今後とも宜しくお願いします。

                         妻 恵美子より  

妻の日記Ⅵ 自宅での生活

2009-02-22 15:17:09 | Weblog
今日は妻の日記Ⅵです。 

 2006年 平成18年 

 
 自宅に戻り、1週間が経ち、1ヶ月が経ち、リハビリ病院での訓練以外は、何もしない1日中ボーとした生活を送っておりました。
私との話も殆どしてくれず、「何故話してくれないの?」と聞いても、「煩いから」の一言で全くと言っていい程、話をしてくれないのにはほんと参りました。もう、こんな日が続くの見兼ねて、退院の時に、上山先生は、「なにせ、油断ならない人なので、気をつけてみて下さい」とおっしゃっていたので、退院後も、症状の変化があると、先生にメールで、ご報告しておりました。今のこの状態を見兼ねた先生は、主人に「まったくしゃべらないのは困りましたね!東京には頻繁に行きますので、どこかで会って気合を入れましょうね」と言って下さり、東京での学会の合間、お忙しいのにも関らず、1時間、時間を取って頂き、主人に“気合”を入れて頂き、主人の話を聞いて下さいました。上山先生には、退院後も何かとご配慮頂き、感謝しております。その後、少しずつですが、話もしてくれる様になり、家でのリハビリにも、やる気を見せ始め、人とのコミュニケーションを取る事で構音障害にも役立つと思い、心身障害センターでのOA機器の入所を希望し1次、2次試験を受験しましたが、何と結果は不合格でした。これには、私も納得がいかず、担当の方に落ちた理由を問いてみましたが、教えて貰えませんでした。このことを、リハ科の先生にお話した所、1次試験の結果を見て、高次脳機能障害」ではないのか?と、その時、私は初めて思いました。今までにどの先生からも、高次脳機能障害とは言われた事がなかったので、ショックでした。と同時に、今思えば、思い当たる節が多々ありました。
旭川から退院して、口もきいてくれないし何もやる気を示さない生活が続いた時、私は、何も知らず、ガミガミ怒ってばかりいました。しかし、それは、今思えば、その時からすでに高次脳機能障害だったんですね!「ほんと、解ってあげられなくて、ごめんね!」これからは、ちゃんと、高次脳って事が解ったから、安心してね!主人と毎日一緒に居ても、次から次へと色んな事が起こります。主人の事を何でも理解ていると、思っていましたが、中々難しいものですね!でも、一つ一つが勉強です。主人にこれから、何時、どんな事が起ころうと、今まで私達を支えて下さった方の為にも、二人で力を合わせ、頑張りたいと思います。


高次脳機能障害 慈恵医大リハビリ科     橋本圭司先生

2009-02-15 17:11:31 | Weblog
 皆さん~大変ご無沙汰しておりました。 すみません。
 では、前回の続き「高次脳機能障害」についての内容になっております     

 2006年  平成18年  11月    41歳

 僕は、都リハのリハビリ科の先生に高次脳機能障害を専門にやっている、先生がいるので、紹介しましょう。と言われ、「慈恵医大・リハビリ科・橋本先生」を紹介して頂きました。
まず、〔高次脳機能障害〕とは、交通事故や転落事故・スポーツ事故等によって脳に損傷を受け、或いは、脳血管障害後の後遺症として、記憶障害、注意障害、記憶障害、社会的行動障害などの認知障害を生じ、これに起因して、日常生活・社会生活への適応が困難となる障害とされています。
僕は、脳梗塞を何回もやっているので、脳血管障害後の後遺症として、高次脳機能障害になってしまいました。そして、橋本先生の外来に行く事になったのでした。
橋本先生は、若いのに、とてもしっかりとした考えを持っていて、とても信頼のおける先生です。そして、高次脳機能障害についての説明、症状等、教えて下さいました。先生は、「右側頭葉から頭頂葉に掛けて、脳梗塞がありますが、左側の脳は正常に活動しているので、左を使う様にしたら、良いと思います」。と言われました。 そして、色々質問され、先生は熱心に話を聞いて下さいました。先生とは、自然と僕の言っている事が通じるので、会話が進みます。
他の人とでは、中々言葉が通じない事が殆どなので、途中で、話す事に疲れてしまいます。先生との会話が僕の言語での大きなリハビリにもなりますし、自信にも繋がります。橋本先生との、外来は、月1回ですが、先生とお話するのが楽しみでした。 そして、今、こうやって、闘病生活の本を書く事を先生にお話したら、「僕の患者さんでも書かれた人は何人も、いますよ。とても良い事なので頑張って下さい」と笑顔でおっしゃってくれました。僕はまた、勇気が湧いてきました。
 そして、橋本先生に先日の外来で、「飯岡さん、もう少し、ステップアップしましょう。今は、家の人に甘えて何でもやってもらってるでしょ?これからは、自立しなくっちゃ!ね!」と先生に言われ、最もだと思った。
いい加減、自分で出来る事はやっているものの、やはり、家に居ると、つい、恵美子に甘えてしまう。僕が自立するのにいいチャンスだと思いました。そして、僕は、これから必ずもう一度、社会復帰を目指し、今、自分にできる事をまず、やってみる。何があっても、今までの病気との苦悩を思えば、やれるんだ。さあーこれからが、僕に出来る恩返しです。僕を支えてくれた皆さんのために僕は目標に向かって頑張ります。
これが、僕と橋本先生との出会いでした。

 新たに「高次脳機能障害」と言う障害が解った僕は、この障害を素直に受け止め、僕に出来る事、自立への道を誓うのでした 

 

心身障害者職能開発センターへの受験

2009-01-01 17:18:46 | Weblog
皆さん!明けましておめでとうございます 
昨年中は僕のブログを閲覧頂きありがとうございました 
本年も引き続きご覧ください。宜しくお願いしま~す 

では、引き続き、

 2006年   平成18年 9月     41歳

 永長先生とのリハビリ(矯正する入れ歯・軟口蓋挙上装置・PLP)は約月1回のペースで訓練して頂きました。永長先生は、他に僕の他愛も無い日常生活の話や不安や迷い等さまざまな事を聞いて下さいました。何故か永長先生とお話しすると心が休まります。僕にとって、心のリハビリになる時間でした。そして、心身障害者職能開発センターへの受験を決め、面談に行き、話を伺いました。職業訓練所の中では、様々な仕事をしていて、見学させて頂きました。そこには、OAを勉強させてくれるカリキュラムがあったので、そちらの、入所試験を受ける事にしたのでした。試験は、1次、2次試験、面接を受け、2ヶ月の時間を費やしました。結果は何とも「不合格」でした。まさか落ちるとは思わなかったので、正直かなりショックでした。不合格通知を見た、妻が、“納得がいかない”と言い担当者に電話で聞いて見たが、落ちた理由は教えて貰えなかったのです。
1次試験の結果を見て、視覚情報の取り込みや処理において、正確さとスピードの低下がみられました。と評価され、この結果を、リハビリ科の先生に見て頂いた所、僕は「高次脳機能障害」と言う事が解りました。
高次脳機能障害と言う言葉は聞いた事があり、入院中、友達が、脳挫傷で高次脳機能障害であったので、何となく症状は知っていたが、僕は違うだろう・・・と思っていた。が、今考えてみると、思い当たる節が多々あった様な気がする。今まで、誰にも言われた事がなかっただけに、治るのか?心配になった。
(また、新たな病気なのかな~?)
再び、不安が漲るのでした。

 次回は「高次脳機能障害」についてお話しします  

東京都リハビリテーション病院  歯科医永長周一郎先生との出会い

2008-12-27 17:49:28 | Weblog
  2006年  平成18年  6月   41歳

 ソーシャルワーカーの渡辺さんに職業訓練所を紹介して頂いたのと同時に、STの先生から、歯科口腔外科の永長(ながおさ)先生を紹介して頂きました。永長先生は、僕には『①構音障害』『②嚥下障害』があり、その原因のひとつに『③軟口蓋』の麻痺が挙げられるとのことでした。軟口蓋が垂れ下がったまま持ち上がらない為に、言葉が鼻から漏れてしまうし、食物が鼻に逆流しやすくなる。と言う事で、軟口蓋を持ち上げるように矯正する入れ歯(軟口蓋挙上装置・PLP)を作ってくださり、僕の声が少しでも出る様に思考錯誤してくださいました。
ここで、『②嚥下障害』について、少々ご説明させて頂きます。『嚥下障害』とは、疾病や老化などの原因により飲食物の咀嚼や飲み込みが困難になる障害をいいます。通常私達は、咀嚼した食物を舌を使って咽頭へ送り嚥下します。その時、軟口蓋が挙上することで、口腔と鼻腔が遮断されます。また、咽頭蓋で気管へ蓋をし、嚥下の瞬間だけ開く食道へと送り込みます。これらの複雑な運動に関わる神経や筋肉に何らかの障害が生じた場合嚥下障害となる訳です。以上が嚥下障害の説明です。解りましたか?要するに、僕は飲み込みが余り上手ではないのです。たまに食物を食べていると、くしゃみが止まらず、鼻からご飯が出る時があります。これにはほんと困ります。家でならいいんですが、外食先では大変な事になります。なので、僕はいつも外食する時は、ティッシュは欠かせません。ハハハ。つまり、嚥下障害には、ゆっくり味わえないというハンディが生じます。


それから、『③軟口蓋』については、図にて説明したかったのですが、貼り付けられなかったので、ごめんなさい 

舌の奥の軟膏蓋がうまく上がらない為に鼻から声が漏れてしまうのです。
こうして、僕と永長先生との新たなるリハビリが始まるのでした。


   

東京での生活

2008-12-23 16:51:45 | Weblog
      2006年  平成18年  4月

 東京に戻り、1週間が経ち、これからのリハビリをお願いしに、東京都リハビリテーション病院へ行きました。まずは、リハビリ科の先生に診て頂き、これからのプログラムを組んで頂きました。当初、行く予定だった、初台リハビリテーション病院は、4月から、リハビリの制度が代わり、地域の住民しか、受け入れて頂けない、と言われてしまったので、東京都リハビリテーション病院で、受け入れて頂いた事は感謝しております。
でも、この制度の為こちらが、「もっとお願いしたい。」と言っても、6ヶ月で終了させられてしまいます。現実は厳しい状態です。
後は、自分でリハビリをやるしか、ありません。 週に2日、ST・OT・PTをやって頂きました。僕は、言葉が構音障害なので、言葉をはっきり話す事ができません。 リハビリの中で、STが一番教えて頂きたいのに、3ヶ月を過ぎたある日、先生が、「もう、教える事はありませんので、今日で、おしまいです。」と言うので、僕はびっくりして、(何でやってくれないの?見捨てられたのかな?)と思い、先生に伺うと、先生は、「ちゃんと話せるよ!後は、自分がもっと、人と話さないと、駄目だよ!その為に、障害センター(人とコミュニケーションが取れる場所)がある。」と言うので、ソーシャルワーカーの渡辺さんにお話を伺い、東京都がやっている、職業訓練所を紹介して頂きました。
 

 

妻の日記Ⅴ  回復へのステップ

2008-12-22 07:06:02 | Weblog

   2006年  平成18年  1~3月

 暮れも迫り、慌しく日赤を退院し、リハビリ病院へと転院したのが、12/28でした。病院はとても綺麗で、リハビリ病院だけあって、病室も広くて、明るかったです。 始めは、2Fの整形外科病棟で色々な検査を受け、年が明け、病院が始まり4Fのリハビリ病棟に移動し、リハビリが始まりました。
ST・PT・OT全てやって頂けるのと、今までに、やった事の無いリハビリをやって下さるので、これを見た私は「もう宏ちゃん一人でも大丈夫!」と思い、何日かして様子を見て、東京に帰る事にしました。後は、主人が、「自分の力で、頑張るから、東京に帰っていいよ。」と言ってくれた事が何よりも嬉かったです。
私も会社を、長い間休暇を取っていたので、帰る良いきっかけになりました。
そして、1/7東京へ帰宅したのでした。
何とか主人も、一人で頑張っているようで、それからは、私も様子を見に、1ヶ月に一度のペースで旭川に行きました。行くたんびに元気になり、大分、体力も回復してきたので、2月に外出許可を頂き、上山先生に診て頂き、退院の許可と東京での病院を捜して頂く事になりました。 そして、3/28念願の退院となりました。「宏ちゃん随分長い入院生活だったけど、良く頑張ったね!退院おめでとう」旭川で、先生方を始め、色々な方に出会い、皆に助けられたから、今があるんだと思うよ。 これからは、宏ちゃんが、皆の為に何かできたらいいね!」何かの形で恩返しができると思うよ。
旭川でのこの4ヶ月半での出来事は、私の中で生涯忘れる事ができない体験となりました。上山先生を始め、病院の先生方、入院を通じて知り逢った、患者さん(ご家族の方)、私は本当に心の暖かい親切な人に巡り逢ったからこそ、この試練を乗り越えられたんだと思います。人との出会いをこんなにも大切にと思った事はありませんでした。人は一人では生きていけないものです。
だからこそ、思いやる気持ちが必要なのです。私は、これから、また主人に何が起きても一緒に闘うつもりです。
病気になる事が、必ずしも悪い事ばかりではありません。病気になったからこそ、解ったことも沢山ありました。楽しい事、辛い事、生きてさえいれば今は幸せです。この病気を通じて、私は沢山の事を学びました。そして、また、新たな問題が起きるとは、その時は、思いも寄らなかったのでした。

  
  続きはまた明日掲載します    


待ちに待った退院

2008-12-18 08:40:35 | Weblog
  2006年  平成18年  3月    41歳


 前日に恵美子が、荷物の整理をしていたが、やはり、当日になると、退院の手続きとやらで、バタバタしていた。そしてようやく手続きも終わり、お世話になった、皆さんに挨拶をし、皆さんから、今度来る時は、暖かい夏においでね。と、笑顔で見送られ、病院を後にお別れをしたのでした。
皆さん!!ありがとうございました。


4ヶ月半の旭川での入院生活。色んな事があったけど、旭川での経験は、僕にとって掛買いのないものになりました。
これから、東京に戻ってのリハビリ!!ガンバルぞ~





  

 

旭川リハビリテーション病院への転院

2008-12-16 07:19:38 | Weblog
   2005年  平成17年12月 ②      40歳

 朝食後、前日に用意し終った荷物を慌しく運び込み、車椅子を押してもらってタクシーまで付き添って貰って旭川赤十字病院を出発しました。窓の外は真っ白な一面銀世界に変っており違和感がありました。
付き添って貰った病棟一の美人看護師さんに「じゃあ。あったかくして風邪をひかない様にしてくださいね。また何時でも遊びに来てくださいね。」といわれ「有難う。」の言葉を言えぬまま走り去っていきました。しかし、術前は余り雪は降っておらず、(すげえ田舎だなぁ。)と思っていた街並がすっかり雪景色に変っていたのには正直驚きました。(こんな寒い所でリハビリに励むのは辛いなぁ。)と思いながら30分程走りリハビリテーション病院に到着しました。運転手さんに推してもらい受付脇に車椅子を止めて貰い、恵美子が受付を済ますと同時に2階の病室に行きベッド上で待っていると、内科の辻先生が来てくれました。「いやー。よくこんな旭川の外れまできてくれました。よろしく。僕は上山先生とは飲み友達なんですよ。沢山縛られる規則があって慣れるまで大変だと思いますけど頑張って下さい。」といわれ握手された。この時まで医師と握手した事がなかっただけに非常に驚いた。「しかし、気さくな先生だな?」と恵美子に言ったが、恵美子も驚いていた。最初の病室は6人部屋で在室は4人。他の人は正月という事で実家に帰宅中であった。ガラーンとした病室であったが壁は真っ白で綺麗なつくりだった。暖房は一年中付けっ放しだそうで快適一日中半袖。TシャツでOKで。病室内はリハビリをするのに快適な条件。申し分なかった。
看護師さんも美人揃いで人当たりの良い人ばかりで良かった。入院してから正月三が日はとにかく、テレビに集中の毎日で、初めにきつかったのがやはり食事。
運動をしていないから、腹が減らない訳で・・・そこで「食べなさい。食べなさい。」と言われても、食える訳でもなく、今思い出してもあの頃が一番憂鬱だった。食事面では、大晦日の年越しそばも食べられず、その代わり正月の御節料理は立派であった。味と見栄えの両面で。喫煙もこの頃になるとすっかり忘れていて。(こんなもんか・・・。)と言う感じのものだった。
1月初め、私のリハビリの先生が決まった。足の運動療法(PT)稲田先生、腕の運動療法(OT)本澤先生、声の運動療法(ST)幅寺先生の3人に決まった。初め、稲田先生が朝一人でベッドまで来て手足の確認を行い「明日の朝から頑張りましょう。」との言葉を掛けてくれた。微笑みの、りりしいスカッとした人と言うイメージであった。
朝からの運動が始まってからは食も戻って来てとにかく3度の飯の時間が楽しみになった。授業は、1科目1時間、STのみ40分であった。稲田、本澤両先生ともマッサージ、トレーニング内容共に密度が濃く毎日が充実
した日々であった。STの幅寺先生には、とにかく愚痴を聞いて貰った。という面でお世話になった。1月も末になり暇さえあれば廊下の窓から旭川医大のキャンパスを眺める事が日々の日課の様になっていった。「遠くの景色を眺める事も一つのストレス解消です。」旭川赤十字病院で私の手術チームの一員の先生に言われた言葉だ。(良い事言うなあ・・・。)と今でも思い返す。
自分の誕生日も過ぎ、残り滞在日数も後一ヶ月となり、これといった新たな目標もなく悶々と一日一日を過ごしていった。3月に入ると僅かながら走る事も出来る様になった。これが嬉しくて嬉しくて一人散歩も1階まで自由になり行動範囲が広がった。一番初めに同部屋だった工務店の社長と廊下ですれ違った時「おぉ!歩けるようになったのか?よかった なぁ!」と声を懸けられ嬉しかった事を覚えている。
もう退院まで一ヶ月を過ぎた頃の事である主任である新入りの看護婦さんが私のところにやって来て「後でどれ位歩けるようになったか見せてくれる?一緒に一階の売店に行きましょう。」と声を掛けてくれた。その頃冷蔵庫にストックしてある納豆が残り少なくなったので「一人で外出して買いに行ってもいいですか?」と聞くと「一人で外に行くことは危ないから駄目です。」と言われ続け、(それじゃあ、俺みたいな東京から一人で来て入院している人間はどうすればいいの?)と思っていました。妻が、1ヶ月に1度、来ては、その時にまとめて買い物をしましたが、やはり、それだけでは足らず、同室の菅原さんの奥さんが親切にして下さり色々と、買い物して下さりほんと助かりました。ありがとうございました。
そして、3月に入り、いよいよ退院の日が 決まりました。3月28日です。
やっと、東京に帰れるんだ、と思うと、嬉しくてたまりませんでした。旭川での、4ヶ月半、様々な出来事。辛い事もあったけど、僕にとって、この、入院生活を通じて出会った人達は、僕にとっての宝物になりました。今まで頑張ってきて本当に良かった、と心の底から思いました。そして、ついに、退院の日を迎えるのでした。


いよいよ次回は退院です  旭川に別れを告げます 


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妻の日記Ⅳ 決断

2008-12-15 07:28:45 | Weblog
  2005年   平成17年 12月

 約1ヶ月半ぶりの自宅は冷え切っていました。家でポツン、と一人でいると、色んな事を考えました。1週間滞在をし、再び旭川に戻る気持ちは複雑でした。
 これから、どう接していいのか?(このまま宏ちゃんは私を必要としてくれるのか?)重い気持ちを持ち病院へと迎いました。
母はすでに、もう東京へ戻っていたので、主人は2~3日、一人でした。一人になった主人は、入院仲間の内山さんにご飯を食べさせて貰ったり、色々面倒を見てもらったんだよ!他にも、看護師の矢田さんは、私が居ない時、主人の話しを深夜にも関らず聞いて下さったり、私の心配までしてくれて、ほんと感謝しております。ありがとうございました。そして、もう個室から大部屋へ移っているものと思ったら、まだ個室に居たので、余り良くなってないのかな?と心配でした。 
(宏ちゃん、私の事、恨んでない?私はこのまま居ていいの?)返事を聞く事が恐かったんです。でも、宏ちゃんの返事は、「ずっと俺の側にいて」でした。私は、その言葉を聞いて、(どんな事があっても逃げずに私の出来る事は何でもやって見よう)と思いました。
それから、このまま日赤病院にいても、状態は変らないと、思い、年度末ではあったが、瀧澤先生にお願いし、リハビリ専門病院への転院をお願いしました。
先生のお蔭で、2日後に転院できる事になり、ほんと助かりました。
転院先のリハビリ病院は、日赤の時のお友達も何人か居たので、私自身も助かりました。瀧澤先生。ご無理なお願いありがとうございました。感謝致します。


色々ありましたが、私はまた、二人で闘って行こうと、決心しました    


そして、リハビリ病院への転院です  

  


   


病室での出来事

2008-12-12 06:51:22 | Weblog
 2005年   平成17年  12月 ①      40歳

 北海道の冬は東京育ちの私にとって想像以上に厳しいものがあった。とにかく寒い。冷たい。病院の暖房は付けっ放し。Tシャツ1枚で動ける快適さ。しかし、外は一面の雪。こちらの人は辛抱強い人が多いという事にも頷ける。術後、命を助けてもらい、なかなか思い通りの回復がいかず、食事も余り取る事ができなかった為、13キロも痩せてしまった。
起き上がれる様になって2日後リハビリ課の北村先生がやってきて私の身体を色々と確認し、「では明日からリハビリを頑張りましょう。」と言ってくれた。今思うと常に発病後早くからリハビリを開始してきたお陰で今の自分の姿があるというのだと信じている。死ぬ事を黙って待つことよりは身体の機能回復のためのリハビリなんて何の得にもならない。苦しい、辛いなんて事は一切ない。毎日同じ作業の繰り返しだから当然、飽きるが自分の為と思ってやれば何の苦労もない。
術後こういう事もあった。旭川赤十字病院の脳外科病棟には男子の看護師がもう一人計二名いて。もう一人の彼とのやり取りで彼に上手く諭された。何日か点滴のみで食事は一切入れない状態で急に目を覚まし、さあ今日から食事ですと言われたが、当の本人は発熱の直後で食欲も全く無く胃も小さくなっていて全く食欲がない状態でそこで無理に食べろ食べろと言われ言う方の考え気持ちも解らないでもないがどうしても食べられない時っていうのもあって皆さんに必要以上に心配を懸けてしまった事を此処でお詫びしたいと思います。「本当にあの時はご迷惑ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。そして、色々と気を使っていただき有難うございました。看護師の皆さんの顔ははっきりと覚えているのですが名前が思い出せないのです。ごめんなさい。本当にごめんなさい。ある晩の事でした。夕食後、彼が一人で部屋に様子を見に来てくれました。彼は私の顔を見ると「飯岡さん。食欲出てこないの?」「まだ、駄目なんだ。何で無理して食べないといけないの?」と聞くと彼の口から出た言葉にハットさせられました。「食事を取ることは入院患者さんにとって義務なんです。だから無理してでも詰め込んででも食べて貰って早く元気になってもらわないといけないから。言う方も辛いんですよ。飯岡さん。」その言葉を聞いて考え方が変わりました。あくる日の朝から少しずつ食べるようにしました。無理してでも食べるようにしました。自分の為に。そして11月の末になり手術前にいた大部屋に移る事になりました。しかし、そこに入院していたのは西尾一さんと言う初老の男性一人だけでした。部屋を移動したその日の晩から西尾さんとは話をするようになりました。彼は私の構音障害を妻から聞いて理解してくれて、自分が聞き取れない言葉は携帯電話に打ち込むように指示してくれました。その事から何でも打ち解けるなぁと言う安心感が生まれ直に仲良くなりました。しかし、旭川に来て40歳を過ぎて新たな友人が出来たと言う事がうれしかったのです。しかも、相手は74歳の男性です。私の父と同じ年令の方です。色々な事を聞き訊ねあいました。
そして、この西尾さんの入院時代の友人である原田さんという方とも友人となり、外出した時にカラオケに連れて行ってもらったり食べ放題焼肉に連れて行ってもらったりお世話になりっぱなしでした。原田さんはレスリング元日本代表で日の丸を背負っていた方でとても筋肉質で体格が明るく酒好きな小父さんという感じの方です。僕の周りにいる人は本当に親切な方ばかりです。ありがとうございました。


   旭川での初めての土地で、こんなにも色んな方に親切にして頂いて、僕はほんとうに幸せ者だな~と思いました。 
そして、感謝致します。ありがとうございました 


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病院でのハプニング

2008-12-11 06:57:11 | Weblog
  2005年  平成17年  11月  ③       40歳


 話は少し遡るが、術後、完全に目が覚め起き上がれるようになるまで三日間、38度の発熱と脳梗塞による左片麻痺でうんうんと苦しみながらベッド上でもがき苦しみながら毎日座薬を入れては熱を下げ座薬とすっかり友達になった頃の事、こんな事件がありました。深夜になって熱が下がらず眠れない為看護士を呼び、「熱が下がらないから座薬を入れてください。」と男性看護士に頼むと「煩いと他のお客様の迷惑になりますので早く寝てください。」との返事。切れてしまった私は「煩いとは何だ?おれは入院患者だ!」「熱があって眠れないから座薬を一つ入れてくれと頼んでいるのに座薬一個入れてもらえない様な病院抜け出すぞ!」完全にプッツンしてしまいました。多分彼は、何かの理由があって当直医に尋ねに言ってなかったのでしょう?
その事で、翌日、婦長・看護師(本人)・俺・恵美子・看護師の4人で話合いをする事になった。話し合いは、50/50だった。
男性看護師は、俺のオレンジのジャケットがライトに当たって眩しいので、他の患者さんの迷惑になる“と言う事を言ったらしい。
俺はそんな事は知らなかった。
その事に関しては申し訳なかったと、思う。
ただし、熱があって辛いのに、何もしてくれなかったのは、許せない。と俺は言いたい!まあ、和解したから、いいんだけどね!
入院生活が長いと、色んな事あるよね!


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妻の日記Ⅲ  4回目の脳梗塞

2008-12-10 07:28:08 | Weblog
 今日は昨日の続きです。術後に予期せぬ事が起こって
しまいました。    

   2005年    平成17年 11月~12月 ② 

 それから、術後、3日目にやっと、意識がはっきりしてきました。麻酔ってこんなに長く効いてるものなのかな?と、不安に思いましたが、序々に起きられる様にもなり、個室から大部屋へと移り、リハビリも始まりました。後は元気になって、退院するだけ、と思っていました。が、殆ど毎日、38℃の熱を出し、熱を下げるのに、解熱剤を入れてのリハビリ、そして、術後、一次的に左目が開いていないので、片目での歩行。同室で後から手術をしたお友達は次々と元気になって退院していく姿を見て、自分は思い通りにいかない歯がゆさを感じていたのかも知れません。そして溜まりに溜まったストレスが爆発して、「消化管出血」を起してしまいました。
もうあの時は上山先生、瀧澤先生とお話をした直後で、顔が黄疸で、目が白眼で、何かぼそぼそと、恐い顔で叫んでいました。私は慌てて看護師さんに先生に来て貰う様頼み、診て頂くと、痙攣を起こした見たいでした。もうほんとにびっくりしました。 そして、一先ず処置をして頂き落着いたので、帰りました。
そして翌日、瀧澤先生にお話を聞いた所、最悪な結果になってしまったのでした。
術後にはならず、今回の消化管出血で、「脳梗塞」になってしまったのでした。
これには余りのショックで本人には話せませんでした。これ以上のストレスを溜めると、拙いと言う先生の配慮でした。それから、どこから出血したのか?一つ一つ調べ、小腸だけは調べられず、他(胃・大腸・・)は調べましたが、結局どこから出血したのか解りませんでした。但し、ヘモグロビンの数値が基準値の約半分迄下がってしまったので、緊急に輸血をし、少し様子を見る事になりました。
輸血何て!手術以外の時に使うなんて驚きました。「輸血が効かなかったら、最悪の事態死に到るかもしれません」と消化器の先生に言われた時は、目の前が真っくらになりました。主人の変わり果てた姿を見て、私は自分を責めました。私が付いているのに、こんな事になってしまって、私が宏ちゃんを追い詰めてしまったんだ。嫌がるリハビリを無理矢理やらせてしまったから・・・どうしてこんな事になる前に異変に気付いてあげられなかったんだろう。取り返しのつかない事を私はしてしまったんだ。宏ちゃん本当にごめんね!幾ら誤っても、もう遅いよね!私の責任何だから、私の手で絶対元気な身体にして見せるからね!とこの時、主人に約束したのでした。また、一からのスタートになってしまい、ナースステイションの前の個室に移動。こんな状態になってしまったので、東京から母が駆けつけてくれました。精神的にもう限界だった私は母が来てくれて、正直ほっとしました。
ただ、ショックだったのが、私とはその後殆ど口を聞いてもくれなかったのに、母の顔を見ると、満面の笑みで、ニコニコしながら、話している。その姿を見て、私はその場に居る事が辛くなり、席を外し、親子水入らずにしてあげました。やっぱり、血の繋がった家族には勝てないのかな~所詮、嫁は他人何だな~と思いました。一番苦しんでる時に助けて貰いたいのは母親何だな~。と思いました。これが正直な気持ちです。私は一体今まで何をやってたんだろう?私自身、もう解らなくなり、あの場面を見て、「私は宏ちゃんに取って必要なのかな?」思い考えさせられました。そして、この場に私が居ても仕方ない、と思い、母に任せ、少しこれからの事も考えたかったので、一時東京へ戻る事にしました。

術後、左目が見えず、毎日38℃の高熱。解熱剤で熱を下げてのリハビリ!
もう、ストレスが溜り放題だったんですね  
そのストレスが原因で、消化管出血を起こしてしまい、再び脳梗塞になっしまいました。私が毎日付いているのに、こんな事になってしまって・・・
ほんとうに自分を責めました。宏ちゃんごめんね
そして私一人ではどうしたらいいのか?解らなくなり、母に来て貰う事にしました。主人はきっと私を恨んでいる!!と私は思いました。母が来て、主人がうれしそうな顔をする姿を見た時、私はもう、「私の居場所はないな」と思いました}”親子の絆は凄いですね” 私は、自分自身を見つめ直す為、じっくり考えたかったので、東京に戻ったのでした 

 明日は病院での出来事です。引き続き

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妻の日記Ⅲ 上山先生との出会い

2008-12-09 07:07:22 | Weblog
 2005年    平成17年11月~12月  ①

 上山先生にお会いした時、失礼ですけど、(組の親分、勝新見たい!)が第一印象でした。でもお話をしていると、第一印象とは全く違う気さくでとても面白い先生で、それでいて、腕があって自分に自信があるから、あんな事言えるんだな!と思いました。今まで色々な病院で診て貰い、Drにお会いしてきましたが、あんな先生は初めてでした。ほんとビックリしました。と同時に、何で旭川なの?東京にはあんな先生何処にもいないよ!だって、「助かりたいなら、私の手術を受けなさい」ですよ!医師がここまで言いきれる何て。凄い事ですよ!へたすれば、訴訟問題になりかねないですからね!私は、この言葉を聞いた時、上山先生だったら、絶対、主人を助けてくれる。と確信しました。
今まで待った甲斐がありました。破裂する前に先生に出会えて本当に良かったね。
上山先生に全てお任せしたいと思いました。そして、旭川へ旅立つ日が来ました。
主人は、初めての北海道です。
折角、北海道へ来るのに、それも手術でなんて、ちょっと可哀想でした。
それも、冬の北海道ほんとだったら観光で美味しいものとか食べられるのにね~今度来る時は、色んな所観光して、美味しいもの食べに行こうね!と約束して、病院へと向かいました。手術日までは1週間以上あったので、本人も暇をもて余していました。でも、同じ病室の方とお友達になり、話相手ができたようでしたので、結構時間の経つのが早かったと、思います。同室のおじいちゃん、“西尾一さん”には本当にお世話になりました。
他にも、私達が東京から来た。と言うと、回りの方が“わざわざ東京から?それは大変だね~”と皆さん声を揃えて言います。
そのたびに、皆さんがとても親切にしてくれて、主人も私も旭川には全く知り合いが居なかったので、精神的にも本当に助かりました。皆様には改めて感謝致します。ありがとうございました。 そして、11月24日。手術日です。 
朝、8時に母と病院へ迎いました。
主人は、前夜は、ばっちり寝られた。と笑顔で言っていたので安心しました。
しかし、いきなり泣き出すので、どうしたの?と聞くと、“西尾さんと昨日色々話して手術の不安を聞いて貰って、うれしくて、その時の事を思い出しちゃっ・・・“ 号泣しちゃったの!ですって。
主人は本当にうれしかったんだと思います。
そして、気持ちを落着かせ、ピースで手術室へと向かって行きました。
看護師さんから、手術は24時間掛かるかも?知れない。と言われていたので、長跳馬になる事を覚悟していました。そして、21時過ぎに「今、手術が終りましたので、MRIを撮って戻ってきます」と連絡があり、ほっとしたのと同時に、予定より早く終ったので、少し不安を感じました。“もしかしたら、何かあったのかも?でも上山先生を100%信じていたので、大丈夫!大丈夫”と心に言い聞かせました。そして、宏ちゃんが4~5人の若い先生と一緒に戻って来ました。頭には管があり、口からは、酸素マスクが出ていました。生々しい姿ではありましたが、「良く頑張ったね!」と何度も褒めてあげました。それから、上山先生と瀧澤先生が戻られ、お話を伺いました。
上山先生の表情は険しく、何を言われるのかとても不安でしたが、先生は、「手術は100%成功しました。後遺症も無く、脳梗塞にもなっておりません。」その言葉を聞いた時、「よかった~本当によかった~上山先生には命を助けて頂きました。ありがとうございました。」母と安心しました。
ただ、開けて見たら、40代の血管とは思えないですね!今までに何回も脳梗塞を起し、動脈瘤になった原因が解れば、僕はノーベル賞もんですよ!血管がかなり弱っているので、これからも注意は必要になる、と思います。と上山先生はおっしゃられました。
これから、色んな面で気をつけなくてはいけないな~と思いましたが、結果、手術は大成功。恐れていた、脳梗塞にもならなかったので、ほんとによかったです。
上山先生!!他主人の手術に関わって下さった先生方、看護士さん。本当にありがとうございました。

  手術は大成功しました。 
  しかし、術後に予期せぬ事が起こるのです 

  この続きは、またあした