新宿調査隊

新宿について関係する内容を徹底的に調べ上げます。

消滅した町名その1

2011年02月28日 16時04分51秒 | 調査報告
新宿区の発足以降に消滅した町名は21ある。大部分が住居表示実施に伴う町名変更による。

市谷河田町
現在の河田町のほぼ全域(ただし、河田町コンフォガーデンの南側の2棟(C棟・D棟)とその周辺、原町三丁目に隣接する東京女子医科大学看護学部の校舎は除く)。当時、若松町(北)・市谷仲之町(東)・市谷台町(南・のち一部が若松町)・余丁町(西)に隣接。1986年2月24日、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。かつて市谷河田町は、フジテレビ(1997年、港区台場二丁目に移転)や新宿簡易裁判所(1993年廃止、東京簡易裁判所に機能統合)の所在地として知られていた。

市谷冨久町
現在の富久町のほぼ全域(ただし、東京都立小石川工業高等学校敷地の南東に接するごくわずかな一画と、富久町保育園の北東に接するごくわずかな一画は除く)と、余丁町のごく一部(余丁町児童遊園の西に隣接する一画)。当時、東大久保一丁目 - 番衆町(西)・花園町 - 四谷四丁目 - 愛住町(南)・市谷台町(東・のちに一部が住吉町)・余丁町(北)に隣接。1983年8月1日の住居表示実施により富久町が誕生し、これにより市谷冨久町のほぼ全域が消滅。残りのごくわずかな区画のうち、善慶寺や東洋美術学校の南側付近の一画は住吉町に、余丁町児童遊園の西に隣接する一画は余丁町として、それぞれ1986年11月4日に住居表示が実施され市谷冨久町は消滅。ただし、小石川工業高等学校敷地の東に接する道路部分(現市谷台町)はその後も2002年4月1日まで市谷冨久町として存続(なお、市谷冨久町の「冨」は「ワかんむり」、富久町の「富」は「ウかんむり」)。

柏木
現在の北新宿一 - 四丁目の全域と、西新宿六 - 八丁目のほぼ全域(ただし、西新宿六丁目のうち、公園通りより西側すべて・北通り沿線・新宿警察署付近一帯を除く。また、西新宿七丁目のうち、小滝橋通りより東側をすべて除き、大江戸線新宿西口駅のD5出口付近は含む)。このエリアのうち、西新宿六 - 八丁目のほぼ全域が柏木一丁目、北新宿二丁目のほぼ全域が柏木二丁目、北新宿一丁目のほぼ全域が柏木三丁目、北新宿三丁目のほぼ全域が柏木四丁目、北新宿四丁目のほぼ全域が柏木五丁目だった。当時、淀橋(南西)・角筈二丁目(南)・角筈一丁目(南東)・百人町一 - 三丁目(東)・戸塚町四丁目(東 - 北東)・中野区(西)に隣接。住居表示実施により、1970年4月に西新宿六丁目が、1971年1月に西新宿七 - 八丁目と北新宿一 - 四丁目が誕生し、柏木は消滅。今日、新宿区役所柏木特別出張所などにその名を留めている。このほか、児童数減少により新宿区立淀橋第一小学校と第七小学校が統廃合されて1997年に誕生した新小学校の名前は柏木小学校と命名された。なお、一部の資料には、柏木五丁目の一部が現在の高田馬場三丁目の一部であるとの記載がある。これは柏木五丁目の最北端である小滝橋交差点の道路部分(現高田馬場三丁目)がかつて柏木五丁目に含まれていたことによる。したがって、柏木という町名が消滅したのは、厳密には高田馬場三丁目が誕生した1975年6月である。

霞岳町
現在の霞ヶ丘町のほぼ全域(神宮外苑休憩所の一画は除く)。霞岳町も霞ヶ丘町も読み方は「かすみがおかまち」。2003年9月の住居表示実施に伴う町名変更により、霞岳町のほぼ全域が霞ヶ丘町となった。ただし、JR信濃町駅前の交番一帯のごくわずかな部分だけは住居表示実施の対象外となったため(暫定的に)霞岳町のまま残っている。

三光町
現在の歌舞伎町一丁目と新宿五丁目のそれぞれ一部。おおむね、歌舞伎町一丁目の町域のうち新宿遊歩道公園より東側と、新宿五丁目の町域のうちモスバーガー新宿五丁目店(靖国通り沿い)よりも西側エリアが当時の三光町の町域。(伊勢丹別館やOIMEN新宿を含む。ただし、新宿六丁目交差点付近の一画は除く。)当時、番衆町(東)・角筈一丁目の飛地と東大久保一丁目(北)・歌舞伎町一丁目(西)・新宿二丁目と三丁目(南)に接していた。1978年7月、住居表示実施に伴い消滅。三光町は古くは四谷三光町という町名であり、付近の交差点の名称や路面電車のターミナルの停留所名ともなっていたことから、小説の舞台として登場するなど長らく親しまれていた。

十二社(じゅうにそう)
現在の西新宿二丁目・四丁目の一部。おおむね、方南通り・公園通り・南通り・渋谷区本町三丁目に囲まれたエリア(ただし、新宿中央公園の東半分、方南通り沿線、新宿区立西新宿小学校 - 角筈区民センター周辺の一画を、それぞれ除く)。当時、角筈三丁目(東 - 南)・淀橋(北)・渋谷区(西)に隣接。1970年4月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。今日、十二社通り(公園通りの西、山手通りの東に並行して敷設)や新宿十二社温泉などにその名を留めている。

諏訪町
現在の高田馬場一丁目のほぼ全域(ただし、新宿区立戸塚第二小学校や新宿区役所戸塚特別出張所など早稲田通り沿線部分すべてと、西武線・JR線の鉄道敷設部分を除く)と、西早稲田二丁目の西側(三井住友建設早稲田寮敷地西端よりも西、印度大使官邸敷地南端よりも南)、戸山三丁目の一部(2005年3月廃校の新宿区立戸塚第一中学校敷地と学習院女子大学敷地と諏訪通りの3者に囲まれたごくわずかな領域)がかつての諏訪町域。当時、西大久保四丁目(南)・戸山町(南)・戸塚町二丁目(東 - 北)・戸塚町三丁目(北 - 西)に隣接。今日、新宿区の公園の名称(諏訪公園・諏訪の森児童公園)・南に接する道路の一般名称(諏訪通り)・諏訪通りと明治通りの交差点の名称(諏訪町)などにその名を留めている。住居表示実施により、1975年6月に町域の大部分が高田馬場一丁目と西早稲田二丁目に変更、残余のごく狭小な区域は1981年6月に戸山三丁目21番街区となり、諏訪町は消滅。

高田町
現在の西早稲田二丁目(早稲田通り・諏訪通り・明治通りで囲まれたエリア)の町域の最東端、穴八幡神社とその周辺一画(サイゼリヤや馬場下町交番などを含み、小林建設・日本キリスト教教会・エネオスは含まない)がかつての高田町域。当時、戸塚町一丁目(東 - 北)・戸山町(西 - 南)・馬場下町(南西)に隣接。1975年6月、住居表示実施に伴い消滅。

区内の地域について

2011年02月27日 10時29分48秒 | 調査報告
東京府の区部郡部時代の行政区域新宿区内を地域分け(区域分け)する方法はいくつか存在するが、合併により誕生した経緯から過去の行政区域を基準としたものが比較的多くみられる。市街地化によりこの基準が細分化されたり、交通網の発達とともに駅周辺が1つの地域として新たに認知されるようになるなど、この基準は月日の経過とともに変動が見られるため、普遍的な地域分けが確立しているわけではない。代表的なものとして、新宿区の前身である東京市行政区時代の区域を基準にした3地区分類(各地区を四谷地区・牛込地区・淀橋地区などと表現する)がある。ただし、旧淀橋区域は範囲が広いことや、淀橋区が存在したのはわずか15年間であり1地域としての実態に乏しいこと、新宿(旧内藤新宿町域)を四谷に分類するのは今日の実態とかけ離れていることなどから、四谷・淀橋地区を前身1区5町域に細分化した7地区分類を基準に地域分けすることが多い。この基準に住居表示による町名町域変更の影響が加わり、各地区の名称や範囲は変化。戸塚地区は高田馬場・早稲田、旧淀橋町域(角筈・淀橋・柏木)は西新宿・北新宿という名称が定着した。また、相対的に範囲の広い旧牛込区域(牛込地区)において、南部(市谷を冠する町名が集まる地区)は市谷地区、北西部(早稲田大学周辺)は早稲田と呼ばれているが(いずれも牛込区の前身の市谷村域・早稲田村域に由来)、このほか地下鉄東西線沿線地区を早稲田・神楽坂と表現する機会も多くなっている。

新宿区内の地域名として使われる機会があるもののうち、主なものを以下に挙げる。
市谷
牛込
大久保
落合
神楽坂
柏木
北新宿
新宿
諏訪
高田馬場
角筈
戸塚
戸山
中井
西新宿
四谷
淀橋
早稲田

行政区域
区は、1950年以来10か所の特別出張所と区役所本庁地区の計11か所に対応する行政区域を設けている。名称は以下の通り。

四谷地区
箪笥町地区
榎町地区
若松地区
大久保地区
戸塚地区
落合第一地区
落合第二地区
柏木地区
西新宿地区
区役所地区

住居表示と町名保存
新宿区内における
住居表示実施前後の町名町域対照地図周辺自治体と同様、新宿区も1965年に住居表示の実施に着手。区内の西側から徐々に町域統合と住居表示を進めた。この結果、1970年代には戦後の若者文化の発信地とも言われていた新宿駅周辺の町名(柏木・角筈・淀橋など)が軒並み「新宿」「西新宿」「北新宿」で統一され、古い町名を頼りに昔の記憶を辿ることもままならなくなった。これを昔の情緒・伝統・文化の破壊と受け止めた文化人や旧牛込区・四谷区域の住民が中心となり、古い町名を残す運動が盛り上がりをみせた。新宿区は当初、町域を統合した上で東新宿・東早稲田といった方角町名を採用して区内の住居表示完全実施を目指していたが、1980年代には町名保存の声に配慮し、未実施地区に関しては古い町名町域を出来る限り維持した上で住居表示を実施していく方針に転換することを区長が表明した。これにより町名は存続することで決着をみたが、住居表示自体はその後もあまり進んでおらず、旧牛込区・四谷区域は、千代田区(神田を冠する町・番町・麹町)と同様、住居表示未実施地区を多く残して現在に至っている。住居表示実施率は2009年現在約75パーセントであり、新宿区政の今後の課題のひとつとなっている。なお、2002年に市谷台町を、2003年には霞ヶ丘町の住居表示を実施したことにより、実施率が千代田区を上回った。区内の町名 [編集]新宿区の特徴のひとつに、町名の数が多いことが挙げられる。新宿区に隣接する付近の自治体が(千代田区を除いて)おおむね20 - 30程度にまで町名を減らしたのに対し、新宿区には現在94(霞岳町と霞ヶ丘町を別個の町名とするならば95)の町名が存在する(この数字は東京都の特別区のうち最多)。江戸時代の武家屋敷や門前町屋に由来する町名が旧牛込区・四谷区域を中心に多くみられる(2009年7月末時点における住居表示未実施の町名は太字で示した。なお、白銀町と市谷台町には未実施の箇所がごくわずかながら存在する)。
愛住町
赤城下町
赤城元町
揚場町
荒木町
市谷加賀町一丁目 - 二丁目
市谷甲良町
市谷砂土原町一丁目 - 三丁目
市谷左内町
市谷台町
市谷鷹匠町
市谷田町一丁目 - 三丁目
市谷長延寺町
市谷仲之町
市谷八幡町
市谷船河原町
市谷本村町
市谷薬王寺町
市谷柳町
市谷山伏町
岩戸町
榎町
大久保一丁目 - 三丁目
改代町
神楽河岸
神楽坂一丁目 - 六丁目
霞岳町(霞ヶ丘町成立後の残余)
霞ヶ丘町
片町
歌舞伎町一丁目 - 二丁目
上落合一丁目 - 三丁目
河田町
喜久井町
北新宿一丁目 - 四丁目
北町
北山伏町
細工町
坂町
左門町
三栄町
信濃町
下落合一丁目 - 四丁目
下宮比町
白銀町
新小川町
新宿一丁目 - 七丁目
(新宿二丁目も参照)
水道町
須賀町
住吉町
大京町
高田馬場一丁目 - 四丁目
箪笥町
築地町
津久戸町
筑土八幡町
天神町
戸塚町一丁目
富久町
戸山一丁目 - 三丁目
内藤町
中井一丁目 - 二丁目
中落合一丁目 - 四丁目
中里町
中町
納戸町
西落合一丁目 - 四丁目
西五軒町
西新宿一丁目 - 八丁目
二十騎町
西早稲田一丁目 - 三丁目
馬場下町
払方町
*原町一丁目 - 三丁目
東榎町
東五軒町
百人町一丁目 - 四丁目
袋町
舟町
弁天町
本塩町
南榎町
南町
南元町
南山伏町
山吹町
矢来町
横寺町
余丁町
四谷一丁目 - 四丁目
若葉一丁目 - 三丁目
若松町
若宮町
早稲田鶴巻町
早稲田町
早稲田南町

「内藤新宿」は古い文献にも出てくるため歴史を感じさせる。

2011年02月26日 08時19分24秒 | 調査報告
新宿御苑(四谷区)や新宿駅(淀橋区)などの言葉が全国的に有名である。区内のほかの地名より「普遍的である」との理由で新区名に採用された。この新区名決定は困難をきわめた。そもそもこの合併自体が区側の発議によるものではなかったため反対の声が根強く(淀橋区は中野区や渋谷区と、牛込区・四谷区は文京区や千代田区との合併を模索するような動きさえあった)、これらの声に最大限配慮し対等な合併であることを強調するためそれぞれの区名を新区名に採用しないことが合併の条件として付け加えられた(『四谷怪談』など四谷という地名は比較的知名度があるとして当初は「四谷区」が新区名に採用される見込みだったが、これにより不採用となった)。歴史的経緯がまったく異なる地区同士の合併であったため地域の総称やシンボルが存在せず、また3区の合併であるため大田区のような合成区名をつけることも難しかった。(この時期に合併して誕生した区は、港区以外はどこも2区合併。また、港区の場合、前身の3区はすべて東京府発足当初から区部だったのに対し、新宿区の場合は四谷区や牛込区といった区部と内藤新宿町や淀橋区といった元郡部にまたがっているため事情を複雑にしていた。)最終的に新区名は新宿区とすることが決まったが、牛込区はこの名前に当初難色を示した。新宿御苑も新宿駅周辺も牛込区には何ら関係がなく、新宿という「郊外の地区」の名前では牛込地区を連想することができなくなるとの理由からである。(新宿区発足時には他にも新しく9の区名が東京都内に誕生したが、区内の1地区の名称を新区名に採用したのは新宿区だけだった。多くはシンボルなどに基づく瑞祥区名を採用している。)これがのちに、牛込地区を中心に旧町名を残す運動が盛り上がる要因のひとつとなった。

新区名の候補として、他に
「戸山区」 - 戸山は牛込区内の地名。戸山公園がある。地理的に3区のほぼ中央に位置することから候補になった。当時東京新聞が実施した調査(新区名の人気投票)では、得票数一位だった候補名。全国的な知名度から新宿区のほうが「普遍的である」と判断され、採用ならず。
「武蔵野区」 - 武蔵野は武蔵野国・武蔵野台地に由来する広域地名。周辺他区の新区名候補でもあったため、選考から外されたものと思われる。
「山手区」 - 山手は武蔵野台地に由来する広域地名。周辺他区の新区名候補でもあったため、選考から外されたものと思われる。
「早稲田区」 - 早稲田は牛込区内の地名。牛込は明治期の文学者所縁の地が多く、早稲田もそのひとつ。早稲田大学がある。新宿区のほうが「普遍的である」と判断され、採用ならず。
「市谷区」 - 市谷は牛込区内の地名。JRの駅名(市ケ谷駅)にもなっている。この地区の広大な敷地が陸軍士官学校(現在、陸上自衛隊の駐屯地・防衛庁本庁舎所在地)となっているため、そのイメージに固定されてしまうと懸念され選考からはずされた。
「富士見区」 - 瑞祥地名。
「花園区」 - 花園は四谷区内の地名。花園神社や花園小学校などにその名前が残っている。京都市や東大阪市などに全国的に有名な花園という地名が存在するため選考から外されたものと思われる。
「柏木区」 - 柏木は淀橋区内の地名。
などがあがっていた。

過去の出来事
浄瑠璃坂の仇討
1672年(寛文12年)2月3日、現新宿区市谷砂土原町の浄瑠璃坂にあった戸田七之助の屋敷に、奥平源八の一党が父の仇討のために討ち入る。仇の奥平隼人の探索に失敗して引き上げる途中、追ってきた隼人を近くの牛込御門前にて殺害。約20人死亡。
高田馬場の決闘
1694年3月6日(元禄7年2月11日)、高田馬場(現新宿区西早稲田)にて伊予国西条藩松平頼純の家臣が決闘。約5人死亡。後に元禄赤穂事件に参加した堀部武庸が助太刀して名を挙げた。
寿産院事件
1944年4月から1948年1月にかけて東京都新宿区市谷柳町の寿産院院長とその夫が85人から169人(正確な数は不明)の嬰児を凍死、餓死、窒息死などさまざまな死因で殺害した。同院では嬰児に対する虐待が常態となっており、新聞広告などによって200人以上の乳幼児を集め、養育費を受けとりながら食事をろくに与えずに100人以上を死亡させた。
米軍燃料輸送列車事故
1967年8月8日新宿駅構内で、渡り線を通過中の中央線立川行き貨物列車(米軍基地への燃料輸送列車)の側面に、中央線上りの浜川崎行き貨物列車が停止信号を盲進し衝突。脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上した。死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。
新宿騒乱事件
1968年10月21日の国際反戦デーの深夜、新宿駅を中心に集結した大規模な全学連の学生運動に対し騒乱罪が適用され、翌朝に催涙弾で制圧された。
新宿西口広場反戦フォークゲリラ事件
1969年より開催されていた反戦フォーク集会(最大で4万人が集結したともいわれている)が通行の邪魔になるとして、機動隊と衝突。騒乱となった。以降、“広場”ではなく道路交通法上の「道路」と指定換えがされ、集会は禁止となった。
三島事件(楯の会事件)
1970年8月19日、作家の三島由紀夫が新宿区市谷本村町の市ヶ谷駐屯地にあった陸上自衛隊東部方面総監部の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に占拠し、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に「楯の会」メンバー1人と共に割腹自殺をした。
新宿西口バス放火事件
1980年8月19日、新宿駅西口バスターミナルの路線バスに男が放火、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。
新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件
1981年3月 - 6月に新宿区歌舞伎町のラブホテルで3人の女性が相次いで何者かに殺害された事件。結局事件はいずれも未解決のまま公訴時効が成立した(うち被害者1人の身元は現在も不明のまま)が、プライバシー重視を売りにしたラブホテルの防犯対策が真剣に考えられるようになった契機にもなった。
新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件
1982年6月、家出中の女子中学生2人が新宿区歌舞伎町のディスコで若い男に誘われ、千葉市花見川区内で殺傷された事件。被害者の証言を基に作成された容疑者の似顔絵が公表されたが、結局事件は未解決のまま公訴時効が成立した。
戸山人骨問題
1989年7月、国立感染症研究所(戸山一丁目、当時品川区から新宿区に移転中)の移転予定地の工事現場から、人為的損傷痕のある不自然な人骨が35体発見された。この地はかつて陸軍軍医学校の敷地だったため、戦前の陸軍による人体標本説や人体実験説などの憶測も呼んだ。人骨は鑑定後新宿区により焼却埋葬される予定だったが、鑑定結果は陸軍の関与を示しているとして真相究明を求める運動が起こり、人骨の焼却差止め訴訟に発展した。
歌舞伎町ビル火災
2001年9月1日、歌舞伎町の風俗店などが入居するビルから出火、死者44人を出す大惨事となった。消防査察の強化をはじめ、歌舞伎町浄化政策を促すこととなった。
新宿歴史博物館盗難事件
2002年、新宿区立新宿歴史博物館(三栄町)の所蔵品の一部(林芙美子の書簡7点)が競売入札にかけられていることが発覚(新宿区の公式プレスリリースでは、競売入札にかけられていることを新宿区の職員が把握したのは6月20日であるとしている)。新宿区はこれを27万円で買い戻すとともに、盗難届を出して内部調査を開始した。8月23日、新宿区役所環境保全課の職員(犯行時には新宿歴史博物館学芸課に勤務)がこれら所蔵品の横領と転売の容疑で逮捕され、自宅と新宿区役所が家宅捜索されるに至った。この時期には「夏目漱石の『道草』草稿など20点の所在も不明である」「新宿歴史博物館は所蔵資料を定期的にチェックしておらず、前回の点検は7年前であった」との報道もなされ、博物館の管理体制の甘さを露呈した。
現職区長の住民税滞納問題
2002年10月、新宿区長の小野田隆が住民税等の納税を滞納していることが発覚。当時新宿区は財政非常事態宣言を出し福祉行政の見直しを進めていただけに、区民から大きな批判を浴びた。数日後、滞納額は所得税と相続税11億7600万円、都民税と区民税3700万円の総額12億1300万円と報道され、小野田は区長を引責辞任。また、新宿区の職員が直接小野田に督促していなかったことや、小野田の滞納が今回はじめてではなかった事実も明らかになり、住民税滞納者への臨戸徴収(自宅訪問徴収)を一時見合わせるなど、区政も混乱した。

1947年3月15日に発足。

2011年02月25日 21時40分21秒 | 調査報告
新宿区は、東京市四谷区・牛込区、豊多摩郡内藤新宿町・淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町(5町はいずれも東京市に編入され、内藤新宿町は四谷区域、他の4町は淀橋区となる)を前身とする自治体で、1947年3月15日に発足した。
1878年11月2日:郡区町村編制法が施行され、東京府は次の15区6郡に区画分けされる。
麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝(東京都港区)・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区・荏原郡・南豊島郡・北豊島郡・東多摩郡・南足立郡・南葛飾郡
1889年5月1日:東京府内に市制・町村制が施行される。
東京市発足。以降、四谷区・牛込区など15区はこの東京市に属する。
南豊島郡内に町村(内藤新宿町・淀橋町・大久保村・戸塚村・落合村・他)が発足。
南豊島郡千駄ヶ谷村の一部を四谷区に編入。
南豊島郡牛込早稲田村を牛込区に編入。
南豊島郡下落合村の一部を北豊島郡長崎村に編入。
1891年3月18日:南豊島郡内藤新宿町の一部(大字内藤新宿一丁目・大字内藤新宿北町の各一部)が東京市に編入され、以降四谷区域の一部となる。
1896年4月1日:南豊島郡と東多摩郡が合併し豊多摩郡となる。
1898年12月1日:淀橋浄水工場(淀橋浄水場)通水。神田・日本橋地区に給水開始。
1912年12月1日:豊多摩郡大久保村が町制施行。大久保町発足。
1914年1月1日:豊多摩郡戸塚村が町制施行。戸塚町発足。
1920年4月1日:豊多摩郡内藤新宿町の全域が東京市に編入され、以降四谷区域の一部となる。
1924年2月1日:豊多摩郡落合村が町制施行。落合町発足。
1932年10月1日:豊多摩郡淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町が東京市に編入。4町の町域をもって東京市淀橋区発足。(この日、東京市には周辺82町村が編入され、淀橋区など20区が新たに発足。東京市域が大幅に拡大したため、以降「大東京市」などと表現されることもある。)
1943年7月1日:東京都制施行により、東京府と東京市は廃止され東京都が発足。以降、四谷区・牛込区・淀橋区は東京都の行政区となる。
1946年:東京都区域整理委員会(東京都の諮問機関)設置。四谷区・牛込区・淀橋区をはじめとする東京都35区の数を減らすことを目的とした区域再編問題が議論される。最終的には、以下のうち22区移行案を答申。
12区移行案 - 四谷区・牛込区・小石川区(現在の文京区の西側)・淀橋区・豊島区の5区をひとつにする案
22区移行案(25区移行案の修正) - 四谷区・牛込区・淀橋区の3区をひとつにする案(現行の23区とほぼ同じ。練馬区はのちに板橋区から分離するため、この段階での区数は22。)
25区移行案 - 四谷区・牛込区・淀橋区の3区をひとつにする案(のちの新宿区域に関しては22区移行案と同じ。違いは、赤坂区と渋谷区の合併、練馬区や玉川区の新設、足立区や江戸川区の区域変更などが盛り込まれていた。)
1947年:
3月15日:東京都制第141条により四谷区・牛込区・淀橋区を廃止(合併)し、3区の区域をもって東京都新宿区発足。(東京都の行政区として発足。)区長は東京都長官が任命(3月15日 - 4月12日元成純夫、4月13日 - 5月2日岡田昇三。元成はその後1955年まで新宿区初代助役として岡田を支える)。新宿区役所は旧牛込区役所(箪笥町、現牛込箪笥区民センター建設地)に置かれる。
5月3日:地方自治法施行により、新宿区は特別区となる。公選により岡田昇三が区長に就任。(岡田の区長在任期間は5期20年。1952年の地方自治法改正により、3期目以降は公選ではなく、区議会が都知事の同意を得て選任。なお、岡田は1945年淀橋区長に任命された経験がある。)
1949年3月15日:区歌「大新宿区の歌」制定。
1950年1月1日:区役所を歌舞伎町に移転。(1度目の移転。)
1965年3月31日:淀橋浄水場(角筈三丁目、現座の西新宿二丁目)廃止。浄水場機能は東村山浄水場(東村山市)に移転。以後、跡地は新宿副都心地区として整備計画が本格化する。
1966年11月21日:区役所新庁舎(現本庁舎、歌舞伎町一丁目)完成し、旧庁舎から移転。業務開始。(2度目の移転、現在に至る。)
1967年:
3月15日:区の紋章を制定。
10月6日:任期満了により岡田昇三が区長を引退。
後任の区長には助役の伊藤俊行が内定しており、都知事の同意も得ていた。ところが、伊藤が二重に住民登録をしていることが区議会で問題視されたため区長就任には至らなかった。その後も新たな候補者の選任が難航し、ほぼ1年間にわたり区長が不在となる。
12月17日:助役(伊藤俊行)と収入役が任期満了を迎える。区長が不在のため新たな助役・収入役の任命を行うことができず、翌年の山本区長就任まで空席となる。この助役空席期間における区長職務は、新宿区役所総務部長の内田義雄が代理執行。
1968年10月4日:新宿区教育委員長の山本克忠が区長に就任。(山本の区長在任期間は6期23年。1975年の地方自治法改正により、3期目以降は公選による。1991年の区長選挙に立候補するも僅差で落選、引退。)
1972年9月19日:区の花を「つつじ」に、区の木を「けやき」に制定。
1975年4月1日:新宿中央公園が東京都から新宿区に移管される。

新宿区役所・本庁舎前1977年:区役所分庁舎が歌舞伎町(現歌舞伎町一丁目・現第一分庁舎建設地)に完成、業務開始。
1986年:平和都市宣言。
1989年9月18日:区役所第二分庁舎(歌舞伎町一丁目・現本庁舎から30メートル北に位置する建物を賃借)完成、業務開始。(すでに第一分庁舎の建設計画が決まっていたため、第二分庁舎と名付けられた。)これに伴い、分庁舎は改築工事のため閉鎖。
1991年:
4月1日:東京都庁第一本庁舎・第二本庁舎・都議会議事堂(西新宿二丁目)が完成し、旧都庁舎(千代田区丸の内三丁目・現東京国際フォーラム建設地)から移転完了、業務開始。
4月27日:東京都議会議員の経歴をもつ小野田隆が区長に就任。(小野田の区長在任期間は3期11年。2002年に自身の住民税滞納問題が発覚し任期途中に辞職。)
旧分庁舎跡地に区役所第一分庁舎(歌舞伎町一丁目・現第一分庁舎)完成、業務開始。
1994年:環境都市宣言。
1995年10月:財政非常事態を宣言。
1997年4月28日:区役所四谷庁舎(内藤町・四谷区民センター内)完成、業務開始。これに伴い、第二分庁舎は廃止。
2000年:防衛庁本庁舎が港区赤坂九丁目(いわゆる六本木庁舎跡、現在東京ミッドタウン)から新宿区市谷本村町(陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)に移転完了。
2002年:
10月9日:小野田区長が辞職。(後任区長の就任までの期間、新宿区助役の高橋和雄が区長職務を代理。)
11月24日:東京都幹部職員の経歴をもつ中山弘子が区長に就任。(現職、2期目。任期満了日2010年11月11日。女性区長の誕生は東京23区初。)
2003年:
4月7日:区の「未来特使」に「鉄腕アトム」を任命。
4月25日:2001 - 2002年度の実質単年度収支が黒字となったため財政非常事態宣言を「とりやめる」と発表。
2004年2月9日:区役所第二分庁舎(新宿五丁目・現第二分庁舎)完成、業務開始。これに伴い四谷庁舎は廃止。
2005年8月:ポイ捨て・路上喫煙禁止を定める「新宿区空き缶等の散乱及び路上喫煙による被害の防止に関する条例」を施行。
区名由来 [編集]新宿とは、もともとは豊多摩郡内藤新宿町のことである。1920年、東京市四谷区に合併編入された際に新宿一 - 三丁目(現在の新宿一 - 三丁目全体の区画とほぼ同じ)となり、新宿駅の発展とともに世界有数の繁華街・商業地区へと変貌を遂げた。

新宿の女って何?

2011年02月24日 20時51分07秒 | 調査報告
「新宿の女」は、1969年9月に藤圭子がリリースしたシングル。発売元は日本ビクター。オリコンチャートでの最高位は9位にとどまったが、ロングヒットとなった。作詞は石坂まさをとみずの稔の共作、作曲が石坂まさをによる、藤圭子のデビュー・シングル。当時のキャッチフレーズは「演歌の星を背負った宿命の少女!!」であった。東京・新宿の盛り場を舞台とした、ご当地ソングのひとつ。ハスキーボイスはもとより、「バカだな、だまされちゃって」という自虐的な歌詞も大きなインパクトを与えた。発売は1969年9月だったが、1970年1月になってオリコン・チャートのベストテンに初登場。1970年の年間ヒットチャートでは27位にランクインしている。なお、この年の藤圭子は2枚目のシングル「女のブルース」から5枚目「女は恋に生きてゆく」まで計4枚のシングルで、42週間連続のベストテン入りを記録している。「新宿の女」が収録され、タイトルにもなったファースト・アルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』は、オリコン・アルバムチャートの1位を独走した(20週連続1位)。詳細はアルバムの項目を参照のこと。なお、オリコンがアルバムチャートを集計し、発表し始めたのは1970年からであった。新宿区・西向天神社には、「新宿の女」の歌碑が存在する。この西向天神社は、デビュー時に「新宿の女」発売キャンペーンの出陣式を行った場所とされる。デビュー1枚目でヒットに至り、突如として歌謡界に君臨したためか、1996年夏にNHK『第28回思い出のメロディー』へ出演した際には、司会者の宮本隆治からイントロで「(当時)歌謡界に彗星のごとくあらわれ…」と紹介された。歌手・中島みゆき著『ジャパニーズ・スマイル』(新潮社刊)の中で、本楽曲の歌詞の解釈について言及しているエッセイがある。

新宿の狼
『新宿の狼』とはスパイクが2009年2月12日に発売したプレイステーション2用アドベンチャーゲーム。元々はカプコンが開発しており2006年11月にタイトルが発表され、画面写真やイメージイラストなどもかなりの数が公開されていたが、2007年6月8日に開発の中止が発表された。担当プロデューサーは和関伸治。開発中止後、スパイクがリニューアルして発売された。開発中止の理由については「皆様のご期待に沿えるクオリティに達する見込みが立たなかった為」となっている。実在の街である新宿を舞台に「新宿の狼」の異名を持つ一匹狼の刑事・三上英二が様々な事件を解決する痛快アクションアドベンチャーゲーム。システムは喧嘩番長と酷似している(パッケージにも喧嘩番長の刑事版との記載がある)。警察なので始末書メーターがある。これは、不祥事を起こしたりすると加算される。 (たとえば、一般市民にむやみに職務質問したり、暴力を振るうという迷惑をかけること。) 刑事なので拳銃を所持している。拳銃はいつでも使用できるが、 一般市民に撃つと始末書が大幅に加算される。 また、喧嘩番長2と違って自動車やバイクが始めから乗れる。(ただし、自家用車にするには多額の資金が必要。) 市民から奪うことができるがもちろん犯罪なため始末書が加算される。 始末書が100枚に達すると容疑者になってしまい、警察が駆けつけてくる。 警察に反抗すると警察は銃火器やロケットランチャーを使用してくる。

関連項目
新宿鮫シリーズ - 新宿を舞台としたはぐれ者の刑事が主人公のハードボイルド小説シリーズ。大沢在昌著。タイトルも含め、本作のモデルとなったと思われる。
龍が如く - 本作発表以前にセガより発売されたヤクザを主人公としたアクションアドベンチャーゲーム。現代日本を舞台に自由度の高い内容という点が共通する。

新宿区
新宿区は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。東京都に23存在する特別区の一つであり、23区の中央やや西側に位置する。1991年(平成3年)より東京都庁は同区に位置する。ただし、地図上での都庁所在地の表記は、慣例的に「東京」となっている。本来、山の手とは新宿区内を中心とした高台(武蔵野台地)を指す。かつての35区が22区(のち23区)に移行した1947年(昭和22年)に発足した区であり、行政機構としての歴史は比較的浅い。また、3つの区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在する。古くは甲州街道の通り道として栄えた新宿地区は日本一の大繁華街が形成されており、新宿駅は鉄道各路線のターミナルのため昼夜の人口増減が特に著しい。かつては都心のベッドタウンとして人口が急激に増えた北部の落合地区は住宅地となっている。旧牛込区である東部は戦災被害が比較的軽かったため戦後の再開発とは無縁で、古くからの住民によるコミュニティが続く。(四谷地区とともに、江戸時代の武家屋敷に由来する町名も多数残っている。)また、南部は新宿御苑や明治神宮外苑があり、緑が豊富である。このほか、早稲田大学や東京理科大学など大学・学校も多い。慶應義塾大学病院や東京医科大学病院、東京女子医科大学病院などの大学病院、国立国際医療研究センター戸山病院などの大病院も集積している。また、新宿区は都内で最も外国人登録者が多い区である。(外国人のなかでもとりわけ、韓国人と中国人が多数居住している。特に大久保、大久保駅、新大久保駅周辺から職安通りにはコリアタウンをはじめとする、外国人コミュニティが形成されている。)新宿区の発展に伴い、東京都庁や防衛省などの官公庁も移転してきた。このように、商業地と住宅地、歴史ある地名と再開発地域、多国籍といった、まさに大都市の光景を縮図にした性格を新宿区はもっている。1970年辺りまでは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば、新宿だった。しかし、1973年に渋谷でPARCOの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区全体へ」と移り変わっていく。

新宿区は東京都区部の中央やや西側に位置する。
新宿区の地勢・境界・隣接自治体新宿区の地勢を巨視的に観察すると、武蔵野台地(下末吉面・武蔵野面)と江戸低地との境界部分に位置していることがわかる。下末吉面(淀橋台)と武蔵野面(本郷台の一部と豊島台)とが折り重なるようにして高台(山手)を作っており、この折り重なりにより生まれた起伏が区内標高最高地点の箱根山(44.6メートル、戸山一丁目)として今日みとめられる。標高30メートル程度の淀橋台(新宿・西新宿地区など)と20メートル程度の豊島台(落合・大久保地区など)はおおむね連続した平坦な高台を形成しており、鉄道(現在のJR線)が敷設された近代以降急速に人口増加が進んだ。これら高台に、標高10メートル未満の江戸低地が入り組んでいる。神田川・妙正寺川はこの低地部分に沿って流れており、かつては諏訪・戸塚地区をはじめとする広範な湿地帯を形成していた。近世には人為的に作られた水流(江戸城外濠・玉川上水)が付近に加わり、今日の新宿区の西と北東 - 南東の境界はこれら水流を基準に定められている。このほか、区内の外苑東通りや靖国通りも低地に沿って建設されている。こうした高台と低地とを往来するための坂道が区内にも多く見られ、古来より風情と文化を育んだ。

内藤新宿町について

2011年02月23日 13時46分59秒 | 調査報告
内藤新宿町は、東京府豊多摩郡にかつて存在した町の一つである。南豊島郡役所の所在地でもあった。内藤新宿町の範囲は、現在の新宿一丁目・新宿二丁目・新宿四丁目・新宿五丁目・内藤町のほぼ全域と、新宿三丁目・四谷四丁目の各一部(および、西新宿一丁目と歌舞伎町一丁目のごく一部)。

歴史
1889年(明治22年)5月1日 - 町村制施行により、内藤新宿一丁目、内藤新宿二丁目、内藤新宿三丁目、内藤新宿北町、内藤新宿番衆町、内藤新宿北裏町、内藤新宿南町および内藤新宿添地町が合併し、南豊島郡内藤新宿町が発足。
1891年(明治24年)3月18日 - 大字内藤新宿一丁目の一部(現在の内藤町)と大字内藤新宿北町の一部(現在の四谷四丁目の一部)を東京市四谷区に編入。
1896年(明治29年)4月1日 - 南豊島郡および東多摩郡が合併し豊多摩郡となる。豊多摩郡役所は淀橋町に設置。
1903年(明治36年)12月29日 - 東京市街鉄道(後の東京市電新宿線)が開通。
1920年(大正9年)4月1日 - 東京市四谷区に編入され消滅。

地域
大字内藤新宿一丁目
大字内藤新宿二丁目
字二丁目裏
大字内藤新宿三丁目
字三丁目裏
大字内藤新宿添地町
大字内藤新宿北町
大字内藤新宿南町
大字内藤新宿北裏町
大字内藤新宿番衆町

鉄道路線
東京市電
新宿線 - 新宿一丁目 - 新宿二丁目 - 新宿三丁目 -(新宿電車営業所)-

新宿スワン
『新宿スワン〜歌舞伎町スカウトサバイバル〜』(しんじゅくスワン〜かぶきちょうスカウトサバイバル〜)は、和久井健による日本の漫画作品。講談社刊『週刊ヤングマガジン』にて、2005年20号より連載中。テレビ朝日系列で2007年8月18日からドラマ化もされた。作者の和久井健は現在でも実在するスカウト会社アンサーの元社員(和久井が在籍していたときはエージェントという会社名)であり、『新宿スワン』は実際に作者本人が体験した出来事にフィクションを交えて描かれている。また作中で描かれている「センシビリティ」なるオーダースーツブランドは、アンサーの社長が経営している実在の会社である。2000年初頭の東京都新宿区歌舞伎町を主な舞台とし、スカウトマンを主人公に、その成長と歌舞伎町裏社会を描いた作品。主人公の白鳥龍彦(タツヒコ)が歌舞伎町を拠点とするスカウト会社「バースト」に入社したところから話がスタートし、「バースト」の渋谷進出、闇金融を営む同僚との抗争、「バースト」の横浜進出、そしてとある事情で借金を背負ったタツヒコがスカウトマンからホストに転身し歌舞伎町のホストクラブで働く「ホスト編」、タツヒコがライバル会社の「ミネルバ」に潜入する「スパイ編」、タツヒコがスカウト会社「バーストネオ」を立ち上げる「すすきの監獄編」、「ミネルバ」の創立メンバーが出会う過去を描いた「歌舞伎町レクイエム編」を経て、現在はタツヒコが森長千里と馬頭冬偉と共に新宿に戻った後を描く「バースト奪還編」が進行中である。

新宿鮫シリーズ
『新宿鮫シリーズ』(しんじゅくざめシリーズ)は、大沢在昌のハードボイルド小説シリーズ。映画、テレビドラマ、漫画化もされている。新宿署の鮫島警部を主人公とする警察小説のシリーズ。現実の警察の捜査はチームで行われるという制約を壊すために、キャリア警察官が警察内部の抗争に巻き込まれて、はぐれ状態になっているという設定である。下記の作品があるが、1作ごとに違った試みがされている。小説世界の時系列では、『灰夜』は、『氷舞』と『風化水脈』の間に位置する。通し番号の順番が発表順と異なるのはこのためである。

シリーズ作品
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新宿鮫
1990年 光文社カッパ・ノベルス / 1997年 光文社文庫
吉川英治文学新人賞、平成3年度日本推理作家協会賞受賞作
真田広之主演で映画化された。
毒猿 新宿鮫II
1991年 光文社カッパノベルス / 1998年 光文社文庫
うちやましゅうぞうにより漫画化、舘ひろし主演でテレビドラマ化 (NHK) された。
屍蘭 新宿鮫III
1993年 光文社カッパノベルス / 1999年 光文社文庫
舘ひろし主演でテレビドラマ化(NHK)された。
無間人形 新宿鮫IV
1993年 読売新聞社 / 1994年 光文社カッパノベルス / 2000年 光文社文庫
直木賞受賞作
舘ひろし主演でテレビドラマ化(NHK)された。
炎蛹 新宿鮫V
1995年 光文社カッパノベルス / 2001年 光文社文庫
氷舞 新宿鮫VI
1997年 光文社カッパノベルス / 2002年 光文社文庫
阿部寛主演でラジオドラマ化(NHK-FM)、舘ひろし主演でテレビドラマ化(NHK)された。
風化水脈 新宿鮫VIII
2000年 毎日新聞社 / 2002年 光文社カッパノベルス / 2006年 光文社文庫
灰夜 新宿鮫VII
2001年 光文社カッパノベルス / 2004年 光文社文庫
雷鳴(短編)
新潮文庫「鼓動 警察小説競作」所収、2005年
狼花 新宿鮫IX
2006年 光文社 / 2008年 光文社カッパノベルス
再会(短編)
オール讀物2006年8月号掲載
幼な馴染み(短編)
集英社「小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所」所収、2007年
亡霊(短編)
オール讀物2009年8月号掲載
絆回廊 新宿鮫X
2010年2月19日よりほぼ日刊イトイ新聞にて連載中

新宿ゴールデン街について

2011年02月22日 15時42分56秒 | 調査報告
新宿ゴールデン街は、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にある飲食店街。花園神社と隣接し、第二次世界大戦後に建てられた木造長屋建ての店舗が狭い路地をはさんでマッチ箱のように並んでいる。作家、ジャーナリストが多く集まる街としても知られる。もともとは新宿駅東口にあった闇市(和田組マーケット)が起こりである。1950年ごろ東京都が駅前の闇市を撤去した際の替地として当時都電沿いの土地であった場所に移転してきた(都電の跡が現在、四季の道という遊歩道)。当時は繁華街から離れた場所であり、ほとんどの店が飲食店の名目で赤線まがいの営業をしていた。風俗営業法の許可を取らないもぐり営業のため、俗称で青線と呼ばれた。歌舞伎町付近にはこれ以外にも青線が集まっており、都内でも有数の売春街であった。売春防止法施行(1958年)の後は飲み屋が密集する「ゴールデン街」と名を変えた。この街の店は、文壇バー、オカマバー、ボッタクリバーの3つに分類できるとも言われた。店内は3坪または4.5坪と狭く、カウンターに数人並ぶと満席になる。文壇バーには、作家やジャーナリスト、編集者らが集まり、(全共闘世代などが)熱い議論や喧嘩を繰り広げる場所でもあり、佐木隆三や中上健次などが常連として知られた。バーが営業を始める時刻以降に行けば、誰かしら著名ライターに逢える地域でもある。バブル経済の最盛期には地上げ屋に狙われ、放火事件などもあったが、この街に愛着を持つ者も多く、現在でも1950年代の雰囲気を残す場所として続いている。

商店会
通りによって、ゴールデン街、花園一番街、花園三番街、花園五番街、花園八番街、まねき通りと呼ばれている[1]。南側のゴールデン街(花園街商業組合)と北側の三光商店街は別の商店会を組織しているが、前者が全国的に有名になり、現在は一帯の飲食店全体をゴールデン街と称している。

再開発
地域の再開発を進めるため、2006年5月、新宿ゴールデン街の一部(南側)と靖国通り沿いの地権者らによる「歌舞伎町一丁目東地区街づくり協議会」が設立された。

新宿マインズタワー
新宿マインズタワーは、東京都渋谷区代々木二丁目にある超高層ビルである。もともと隣接する旧中央鉄道病院(JR東日本東京病院)の職員寮の跡地であり、タカシマヤタイムズスクエアなど旧国鉄施設の一等地を再開発した国鉄清算事業団(現:鉄道建設・運輸施設整備支援機構)子会社のレールシティ東開発によって竣工した。ビル内には多くの企業がテナントとして入っており、下層部には飲食店街もある。また、地下は都営大江戸線新宿駅と直結しており、当駅から濡れずに行く事も出来る(所在地は代々木でも代々木駅ではないので注意)。
高さ:161m(地上34階、地下3階)
敷地面積 11,501m²
建築面積 3,805m²
竣工 1995年9月
所有:大和証券オフィス投資法人
黒色で統一されたビル。

新宿文化クイントビル
新宿文化クイントビルは、東京都渋谷区代々木の甲州街道沿いにある超高層ビル。「クイント」とは「5」を意味しており、施主が文化学園を主体とした5事業者であったため名付けられたもの。住友不動産が運営している。通称はクイントビル。文化服装学院の隣に位置し、正面玄関には銅色の地球儀のオブジェがある。上層の外壁には主要テナントの一つであるファイザーのロゴマークが掲げられている。

概要
所在地 渋谷区代々木3-22-7
高さ 111.6m
敷地面積 34,818m²(10,532坪)
延床面積 87,911m²(26,593坪)
貸室面積 54,238m²(16,407坪)
基準階貸室面積 2,493m²(754坪)
階数 地上23階、地下3階
駐車台数 196台
竣工 2003年1月

アクセス方法など
正面玄関前、地球儀のオブジェ新宿駅(新都心出口6)より徒歩4分(京王線・新宿線・大江戸線)
新宿駅(南口)より徒歩9分(JR線・小田急線・京王線)
都庁前駅(A2出口)」より徒歩7分(大江戸線)

主なテナント・スポットなど
ファイザー日本法人本社
スクウェア・エニックス・ホールディングス本社
スクウェア・エニックス本社
タイトー本社
ジー・モード
グローバル ナレッジ ネットワーク
文化学園服飾博物館
PIZZA SALVATORE CUOMO
ヴィ・ド・フランス
エクセルシオール カフェ
新宿文化クイントビル歯科クリニック
ベルシステム24スタボ東京

色々なイベント

2011年02月21日 13時36分20秒 | 調査報告
桜を見る会
毎年4月上旬に内閣総理大臣主催で開催される。政財界や文化・芸能、スポーツ界など各界の著名人が1万人前後招待され、一般利用者は入園できない(当該日は、一般開園時間が遅れる)。戦前は皇室主催の観桜会として開催され、始まりはそれまでの会場であった浜離宮から変更された1918年(大正6年)に遡る。

菊を観る会(菊花壇展)
毎年11月1日から15日まで、御苑内の日本庭園にて環境大臣主催で開催される。期間中は特別開館期間となり休園日もなく入園が可能。130年以上続く菊花壇展のルーツとなったのは1878年(明治11年)、皇室関係者向けの「菊花拝観」を宮内庁が主催して赤坂の仮皇居で開催。1904年(明治37年)より新宿御苑でも菊の栽培、1929年(昭和4年)から観菊会が行われた[1]。同展示会の特色ある展示物のひとつである菊花壇「大作り花壇」とは、1884年(明治17年)より作られており[1]1株の菊を数百輪集めて、半円形の形状に仕上げて咲かせた技法の名称。他に回遊式の日本庭園の景観・順路に沿ってさまざまなテーマに合わせて上家(うわや)の建物内に趣向を凝らした花壇が展示されている。

森の薪能
毎年10月の夜に新宿区観光協会と財団法人国民公園協会新宿御苑の共催で開催される。伝統芸能の普及などを目的とし、これまでに観世・金春・宝生・喜多と各流派の能が行われている。始まりは1985年(昭和60年)だが、御苑内に舞台を設置するため雨天の場合中止となり、通算すると実際の開催は2年に1度をやや上回る程度である。

周辺駅○丸ノ内線 - 新宿御苑前駅(新宿門・大木戸門)
○都営新宿線 - 新宿三丁目駅(新宿門)
JR・京王・小田急線 - 新宿駅南口(新宿門)
西武新宿線 - 西武新宿駅(新宿門)
中央・総武線 - 千駄ケ谷駅(千駄ケ谷門)
○副都心線 - 北参道駅(千駄ケ谷門)
○都営大江戸線 - 国立競技場駅(千駄ケ谷門)
データ入園時間 - 9:00 - 16:00(閉園は16:30)
(茶室は 10:00 - 16:00)

休園日 - 毎週月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日)と年末年始(12/29~1/3)
(3月25日から4月24日と11月1日から15日については、月曜日も開園)
入園料 - 大人(高校生以上)200円 小中学生50円 幼児無料
各種割引などあり(いずれも2010年4月現在)

新宿中央公園
新宿中央公園(しんじゅくちゅうおうこうえん)は、東京都新宿区西新宿二丁目にある新宿区立の都市計画公園である。面積は8万8065m²。新宿区内の緑地のうち新宿御苑・明治神宮外苑・戸山公園に次ぐ面積で、新宿区立公園の中では最も広い。西新宿の新宿高層ビル群の一角にあり、付近の貴重な緑地として、当地界隈に勤めるビジネスマンなどにも馴染みの公園である。また、開園当初よりドラマの撮影などが頻繁に行われており、撮影現場を見かけることも多い(有名なところでは「キイハンター」や「太陽にほえろ」)。新宿ナイアガラの滝と前の広場は、公園のシンボル的な存在でドラマや特撮アニメの撮影でも登場する。元々当地は、現在隣接する熊野神社の敷地の一部であり、戦前には小西六写真工業(現:コニカミノルタ)の工場敷地などになっていた。それに、戦後新宿副都心計画の一環として、淀橋浄水場の跡地と併せて、西新宿に勤めるサラリーマンなどへの憩いの場として公園として整備されることになった。公園の北端には新宿区立環境学習情報センターと新宿区立区民ギャラリーの複合施設エコギャラリー新宿が設けられた。サラリーマン向け以外にも、付近在住の子どもたち向けの遊具があったりと(西新宿でも公園界隈では住宅街が残る)、公園として充実した機能も備わっているが、公園の一部ではホームレスがダンボールハウスや青ビニールシートテントなどで集団で暮らしているなど、望ましくない部分があるのも事実である。また近年、若年層女児への性犯罪もおこった(ホームレスによる事件では無い事が確認されている)。
1902年 - 小西本店(後の小西六写真工業、現:コニカミノルタ)の写真用感光材製造部門である六桜社の工場が竣工。 
1963年 - 新宿副都心計画の一環として、工場移転。公園に。 
1968年4月1日 - 東京都立の公園として開園。
1975年4月1日 - 新宿区に移管。

新宿高野ってどんなところ

2011年02月20日 13時32分42秒 | 調査報告
新宿高野は、東京都新宿区新宿三丁目の新宿東口に本店を置く、1885年(明治18年)創業の老舗のフルーツパーラー。戦前は男女の見合いによく利用された。果物の販売、及び、レストラン、パーラー事業を関東・関西地区で2007年現在32店舗を展開、直営工場を1箇所所有している。創業時は果物の販売を副業で取り扱っていたが、1900年から果実類を本業とした果実問屋の高野商店を経営。高級フルーツのひとつ、マスクメロンを1920年から販売を開始。1969年には株式会社へ移行し新宿高野を設立。良質の木材として知られる桐箱に梱包されているマスクメロンは現在に至るまで、同社のTAKANOブランドを代表するフルーツとして販売している。1983年-2005年には、新進の芸術家のための貸し画廊「ギャラリー新宿高野」を経営していた。高野の旗艦店舗・新宿高野本店ではレディスバイキングを時間限定で実施(90分)している。季節の旬のフルーツやケーキを提供して好評を得ている。男性1人でのバイキング入店はできず、女性同伴でレディスバイキングが利用可能である。

主な取り扱い商品
フルーツ。本店や一部店舗で販売している。
洋菓子。旬の季節をふんだんに使用したケーキを販売。本店および一部店舗では誕生日などにイラストを描いた特注ケーキの予約も受けている。
生ジャム。フルーツの特色を活かしたジャムを数多く取り揃える。紅茶などのフレーバーに使うのもいい。
各種ギフト。ゼリーや焼き菓子など。
ワイン。本店のみ取り扱いのある酒類。フルーツやデリカに合わせたワインなどの販売を行っている。
デリカ。サラダやパスタなど、本店では数多く取り揃える。一部店舗のみ、フルーツサラダの販売も行っている。
ジュース。本店および一部店舗では、その場でフルーツをミックスしてジュースを販売している。

過去のエピソード
新宿高野アクセントパーラーにおいて婦人衣料品も販売していたが、現在は廃業している。紀伊國屋書店で本を買い、中村屋でカレーを食べ、高野でデザートをとるというパターンが、新宿の一つの遊び方であった。日本の生産農家には「銀座三越、新宿高野」で取り扱われれば一流とする評価があった。三越は専門店でないが三越の商品はすべて高いとする意識が年齢層によってある。

新宿御苑
新宿御苑は、東京都新宿区と渋谷区に跨る環境省所管の庭園である。もともとは江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなったが、第二次世界大戦後は一般に公開され、現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている。2006年(平成18年)に、「新宿御苑」の名を冠してから100周年を迎えた。開園100周年事業の一環として、絶滅が危惧されている植物の保護センターを設置することが計画されている。例年4月上旬には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催される。大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある。隣接する東京都立新宿高等学校の敷地は、1921年(大正10年)にこの新宿御苑の土地の一部が東京府へ下賜されたものである。

歴史
1872年 - 農業振興を目的とした内藤新宿試験場となる。
1879年5月 - 皇室の御料地、農園の新宿植物御苑となる。
1906年5月 - 新宿御苑が開園する。
1917年4月 - 初の観桜会の開催(戦後は「桜を見る会」)
1927年2月 - 大正天皇の大喪の礼が行われる。
1929年11月 - 初の観菊会の開催(戦後は「菊を観る会」)
1945年5月 - 空襲を受け施設がほぼ全焼する(旧御休所と旧御凉亭は現存)
1949年5月 - 国民公園となり一般に利用が開放される。
1989年2月 - 昭和天皇の大喪の礼が行われる。
2006年4月 - 植物園自然保護国際機構(BGCI)による「植物園の保全活動に対する国際アジェンダ」に登録。

見所
御苑内は約58ヘクタールのスペースに「日本庭園」、「イギリス風景式庭園」、「フランス式整形庭園」を組み合わせており、樹木の数は1万本を超える。桜は約1300本あり、春には花見の名所として大勢の観光客で賑わう。日本さくら名所100選に選定されている。「玉藻池」を中心とする回遊式日本庭園は、内藤家下屋敷の庭園『玉川園』の遺構であり、安永元年(1772年)に完成した。多くの温室植物を集めた大型温室は1958年(昭和33年)に完成し、当時としては東洋一の規模であった。2007年5月13日、建て替えのため閉館した。閉館期間は2011年(平成23年)までの予定。現在は施設内部の見学はできないが、一部の植物は御苑内のエコハウスにて展示中である。来園者が森に親しむための「母と子の森」も作られている。文化財御苑内の施設は1945年(昭和20年)5月の空襲で大きな被害を受けたが、戦災を逃れた建造物も残る。旧洋館御休所 天皇や皇族の休憩所として1896年(明治29年)に建てられた洋風木造建築で、国の重要文化財に指定されている。旧御涼亭(台湾閣) 皇太子(後の昭和天皇)の御成婚記念として1927年(昭和2年)に建てられた中国風木造建築で、東京都選定歴史的建造物に指定されている。御苑の守衛などが使用していた旧新宿門衛所、旧大木戸門衛所など昭和初期の建造物も見ることができる。

新宿ピカデリーを調べました。

2011年02月19日 13時20分17秒 | 調査報告
新宿ピカデリーは東京都新宿区新宿3丁目の靖国通り沿いにある大型シネコン。旧「新宿ピカデリー」があった『新宿松竹会館』は1958年10月28日に、「新宿松竹映画劇場」「新宿名画座」「新宿スター座」「新宿松竹文化演芸場」の4館で開業。1962年8月13日から9月28日にかけて大改修を行い、「新宿ピカデリー」「新宿松竹」(地下劇場)の2スクリーンになった。1987年7月、建物内にあった麻雀荘を改修して1館増やし、更に1992年8月に「新宿松竹」を2分割して計4つのスクリーンで構成され、常にヒット予想の高い洋画と邦画を多く上映していた。しかし建物の老朽化などを理由に2006年5月14日で閉館となった。再開発事業は松竹が行い、2008年7月14日の「カンフー・パンダ」のジャパンプレミアでこけら落としを行い、7月19日に正式にオープンした。リニューアル後は主に丸の内ピカデリー系列の作品、及び東宝系の作品を上映するほか、「大決戦!超ウルトラ8兄弟」「ゲット スマート」「マダガスカル2」以降のドリームワークス系のアニメ作品、「ベスト・キッド」、「セブンティーン・アゲイン」「ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国」「白夜行」など、チェーンマスターになることが多くなってきている(銀座方面のメイン館の一つである東劇がシネマ歌舞伎を独占上映していること等も関係している)。

新宿末廣亭
新宿末廣亭は、東京都新宿区新宿三丁目にある寄席である。都内に4軒ある落語定席の一つで、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸が多数執り行われている老舗。末廣亭は、常用漢字である末広亭と表記されることも多い。浪曲師の末広亭清風の手によって明治30年(1897年)創業。第二次世界大戦により焼失したが、初代席亭で、当時建築関連の仕事を行っていた北村銀太郎が昭和21年(1946年)に再建。昭和58年(1983年)からの二代目席亭は北村の娘で、再建当時からテケツ(切符売場係)を務めていた杉田恭子(大正8年(1919年)生れ)。寄席の客離れが進むなかでの女席亭としての奮闘ぶりが平成10年(1998年)1月21日放送のテレビ東京のドキュメンタリー番組「新宿末広亭に生きて・女席亭の50年」、同年12月6日放送のNHK「首都圏’98 不況にふんばる女席亭~新宿 寄席の師走~」において取り上げられたことがある。平成11年(1999年)3月30日没。落語協会の発表によると、遺言は「葬式は簡素に。お店は休まないでください……商売が大事、お客様が大切」であったという。 北村幾夫が3代目を継ぐ。なお、短期間であるが、北村銀太郎の息子が席亭を勤めた時期があり、これを入れて、現席亭を4代目とする数え方がある。東京の定席としては唯一木造の建物。寄席の伝統を残した、趣のある造りである。客席は一階、二階があり、全館で計313席あり、一階中央に椅子席、上手下手の両方に桟敷席が設けられている。二階席は雛段である。楽屋は一階上手側。現在は3代目北村幾夫。北村の企画で、常に面白い試みがなされている。圓楽・談志・桂小金治・鶴瓶・談春など、東京の定席に無縁であった意外な落語家を登場させている。北村は、過去のネタ帳をすべて保存してある。2008年2月14日ジュンク堂書店池袋本店でのトークショーで、北村がそれらを持ち込み、客に披露した。また、読売新聞長井好弘が近著にて紹介した(後述)。

深夜寄席
落語芸術協会・落語協会の二つ目に会場を貸し出し、落語家自身の自主興行の形で運営されている。毎土曜日にほぼ必ず開催される(夜9:30-11:30前後)。入場料500円。夜の部から通しで見ることはできない。一回のイベントで二つ目の落語家が4人上がる。期待の若手がたっぷり聞け(20~30分前後)、若い人に好評である。

四派で深夜
四派=落語芸術協会・落語協会・円楽一門会・落語立川流の二つ目計4名が、前述深夜寄席のフォーマット(夜9:30-11:30前後)・料金(500円)で落語を聴かせるというものである。

料金
一般 2,700円
学生 2,200円(中学生以上)
友の会会員(優待会員) 2,200円
シニア 2,500円(65歳以上)
小学生 1,800円
その他、貸切、団体割引などあり(いずれも、2005年6月現在)。年会費1万円で「末廣亭友の会」の会員になることができ、各種優待制度が設けられている。


新宿武蔵野館
新宿武蔵野館は、東京都新宿区の映画館。新宿武蔵野館1・2・3の3館がある。武蔵野興業が経営。住所は、新宿三丁目27番地10号 武蔵野ビル3階。かつては同ビル7階が新宿武蔵野館で、3階はミニシアターのシネマ・カリテ1・2・3だった。かつて大型映画館であったが、2007~8年に新しく新宿バルト9(新宿三丁目イーストビル内)、新宿ピカデリーが出店したことから、新宿武蔵野館の集客力が多少落ちている。
1920年5月、新宿に映画館「武蔵野館」が開館。
1928年12月、武蔵野館が新宿三丁目に移転。
1968年12月、武蔵野ビルを改装し、7階に「新宿武蔵野館」(334席)がオープン。
1994年10月4日、武蔵野ビル3階にミニシアター「シネマ・カリテ1・2・3」(各84席)がオープン。
2000年4月、「シネマ・カリテ3」が拡張工事により133席になり、「シネマ・カリテ1」に変更(同時にそれまでの「1」が「3」に改称)。同時に3階ロビーなども改装。
2002年1月1日、7階の「新宿武蔵野館」を「新宿武蔵野館1」に、3階の「シネマ・カリテ1・2・3」を「新宿武蔵野館2・3・4」に改称。同時に3階ロビーなども改装。
2003年9月30日、7階の「新宿武蔵野館1」が閉館。それに伴い、3階の「新宿武蔵野館2・3・4」を「新宿武蔵野館1・2・3」に改称。

各館の特徴
武蔵野館1はTOHOシネマズみゆき座系の作品を、武蔵野館2・3はTOHOシネマズシャンテを始めとしたミニシアター向きの作品を主に上映している。