速谷神社の西側にある山の山字は堂垣内であるが、かつて見晴し山(矢印ケ所)と言われていた。明治初期に現在の速谷神社境内に上平良村の小学校があって、見晴し山頂が運動場であったようである。見晴し山頂の運動場は当時父兄や村人などが鍬やモッコなどで開墾造成奉仕をしたようである。当ブログ主が子供の頃には山頂は広場であったが、現在は下画像のように山林化して見晴しも出来ないような状態である。
速谷神社の西側にある山の山字は堂垣内であるが、かつて見晴し山(矢印ケ所)と言われていた。明治初期に現在の速谷神社境内に上平良村の小学校があって、見晴し山頂が運動場であったようである。見晴し山頂の運動場は当時父兄や村人などが鍬やモッコなどで開墾造成奉仕をしたようである。当ブログ主が子供の頃には山頂は広場であったが、現在は下画像のように山林化して見晴しも出来ないような状態である。