空海とともに

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カズのウオーキング記録

京都/鹿ケ谷の俊寛僧都山荘跡

2008-07-17 23:55:37 | Weblog
 先週末、京都左京区の義弟のところに所要があって出かけた折、あの平家物語で有名な鹿ケ谷(ししがたに)の俊寛僧都山荘跡へ行ってみた。かねてから行ってみたいと思っていたが、義弟宅からはすぐ近くなので、妻と妹と私の3名で山中へと挑戦した。

 俊寛僧都山荘跡に立つ石碑
  「俊寛僧都忠誠之碑」と彫られている

 平家物語の鹿ケ谷事件とは、平家全盛の頃、後白河法皇を取り巻く反平家の不満分子が僧俊寛の鹿ケ谷山荘で密会して、平家打倒の謀議をめぐらしたという。陰謀は密告者が居て平清盛の知るところとなり、首謀者・僧俊寛らは即刻捕らえられて、3名が鬼界ケ島(鹿児島県)へ流刑となった(1177年)。僧俊寛は、結局一生許されずに鬼界ケ島で果てたが、その話は謡曲や小説などに取り上げられている。

 鹿ケ谷は、京都の東山にある谷の一つで、大文字山に近く、遠くは大津市の三井寺へ続くハイキング道となっている。
霊鑑寺という寺の横に「俊寛山荘地へ」と記された石標が立っていて、そこから川に沿って奥へ奥へとかなりな急坂が向かっていた。10分程登ったところに高級料亭があって、そこまでは車の通れる舗装道路だったが、そこから先は人一人がやっと通れるような細い山道になった。すごい急傾斜と、梅雨のためのぬかるみで、思うように歩けない。女性たちはだんだん遅れて、私だけが先行する形となってしまった。
 まだかまだか---と 30分近く登った所で、やっと目指す石碑が見つかった。高さ3mほどもある堂々たる石碑で「俊寛僧都忠誠之碑」と彫られている。忠誠---? と思ったが、後白河法皇に対する忠誠ということだろうか。

 あたりは多少平らな所だが、見晴らしがよいということはない。もみじの若葉が美しかったが、なぜこんな所に僧俊寛は山荘を建てたのだろうか。修行のためだろうか。
それにしても、法皇や側近の公家たちまでが、よくまあこんな不便な山奥へ、衣の袖を汚しながらおみ足を運んだものだ。陰謀画策は、やはりこんな所でないと駄目なのだろうか。そのとき歴史は大きく動いた、そんな大事件の現場であった。


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後白河法皇 1177年 鹿ケ谷事件
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